戦後のアマチュア無線史(25):女性のアマチュア無線界への登場

 戦前、日本にはアマチュア無線という概念は存在しなかった。 世の中すべては、「お上の」取り仕切ることであり、庶民は諸式において、何事によらず、取り仕切られる側であった。 世界でアマチュア無線が存在しても、大日本帝国においては、そのままが取り入れられることがなかった。 官制のモノの他は10把1絡げで、昭和初年頃から私設無線電信電話実験局取締法下に置かれた。 法が先にあって無線局が出来るのでなくて野放しの未踏分野に先に出来て存在した無線局を後から法を作って取締まる、従って、取締法から始まっている。 むろん、法律もドンドン改正されたし、局も10数年で、270局ほどに増加した。 アマチュア従事者の免許は独立したモノでなく、局の落成検査の際、通信実技試験と運用資金源の聴取は厳しく行われたようです。  此の時代、極普通の個人私設無線電信電話実験局の免許を取られた女性は、杉田兄妹の妹千代乃さんだけでした。 戦後も婚姓鈴木さん小田原方面にご健在の様でした。

 戦前お兄さんが免許申請され、落成検査前に病状急変して亡くなられ、免許が勿体ないと、近所、友人寄りより妹さんを励まし指導訓練して、初のYL局を育てたという美談付き。 結婚相手の鈴木さんが、その手の方かどうかは、聴いていない。 1940年は、日本にとって特別の年であった。東京オリンピックこそは国際情勢急を告げ日本は中国侵略から手を引かないので、キャンセルされて火は消えたが、神武天皇建国皇紀2600年と言う騒ぎに、国中おかしくも狂っていた。 この中で、「軍国日本」の大芝居、富士の裾野の陸軍全軍参加の紅白に分かれての大演習が行われ、大元帥天皇陛下が天覧されるという馬鹿行事が行われた。 天皇の御座所近くに通信本部をしつらえ、報国無線隊(戦時統率されたアマチュア局)が無線報告をやりとりするのを天皇陛下に見ていただこうと、それには、婦人も戦争参加しているスタイルが良かろうと、軍部の口利きが入り、此の年の逓信省電報局の婦人技手の全国大会優勝者がトンツーを叩くことになり、大会優勝者の尾台妙子さんが、天覧CW送受の栄えある大任を果たした。 戦前女性ハムは2人と数える方は尾台さんを数えるが、局数としては、杉田千代乃さんを数えるのみと言うのがむしろ正解。 電報局の電信技手として電報送受のトンツウー電鍵の叩ける女性は全国にゴマンと居たわけですから。 むしろ戦前此の職種は紡績女工より高度な女性職種として女性のあこがれの職業だったわけですから。

 1941年12月8日無線封鎖。 1945年8月15日敗戦。 200万人以上の男性が死に、しかし外地から、又そのくらいの引揚者が、兵隊の職をなくして引き上げてきた。 国内でも除隊はじめ失業者が溢れた。 戦時中女性職業だった電報局技手は又男性に奪い返され始めた。 トンツー知っている女性は、今の世に比べると、当時の方が遥かに多かったのです。 但し無線でなく、電報、有線でした。 朝日新聞の社会部小林記者が、日本にアマチュア無線が出来て、1年半ほど経った1954年1月、朝日新聞夕刊にCQ,CQと言う特集囲み記事を2週間10日分連載した時は未だJA1FM 富平無線研究所のお嬢さん、富平静代さんが局免許を取っていたに過ぎなかった。 小林記者は、此の特集記事では、JA1FMが、ハワイの2世KH6IJ野瀬堅志さんとのQSOの話を引用して、世界中に女性のハムが沢山活躍しているから、日本にも女性ハムが沢山誕生するといいですねと言った話を載せていました。 その後、確かにぼちぼち、各地に女性ハムが免許を取り始めたようでした。

 関東エリアではJA1FMの次は、1954年に3文字に入ってから、JA1AEQ(たしかJA1PKの奥さん)更に1955年2文字に戻ってJA1YL(JA1COの奥さん)が、東海エリアでは、JA2YL山本さんが腕に覚えの素晴らしいCWで。 近畿、中国、四国は記憶にない。 九州では、2文字時代に、JA6KHとJA6PRの2局の独身女性が免許、と思ったのにアッと言う間に、それぞれ九州男児が奥さんにしてしまった。 東北も記憶にない。 北海道は偶然かJA8FM。 北陸では、少し後になるが、無線は何番めかの趣味で、ホントの趣味は太陽面の観測という女性局が2文字コールJA9NBで出現。 信越方面では、ラジオ・電器商会社の女性社長JA0ECと女性達が、免許を取得されては来た。

 それでも、何度目かおしゃべりチャックと彼のブレイン達と高田馬場ホテルでの夜明かしの話題が、若い女性局を増やすには?という話になった。 小林記者は夜明かし参加はないが、帰りがけに、チャックがおしゃべり止せば女性は増えるよ確実に、と捨てぜりふを残した。 この時はJA1BBOが居た。 exJA1IO、ハム再開頃まで、各ラジオ雑誌のSWL-DX欄の常連で、殊に「暁の超特級」受信と異名をとっていた小林知司 氏。 家業の製パン業のせいで、「早起きなら世界で第1パン!」としゃれたつもりだが、知ってるモノは「ナニ1日に2回寝て朝早く1回ダケ起きるのさ」とスゲない。 ブランドは第一でなく日進堂パン店だった。

 ここで、後に言われる「ブレンストーミング」のようにして、ハムになるYL教室を、やれないだろうかという事が、議論された。 直ぐにやれそうな具体案は出来なかったが、西武クラブの懸案事項に提案しよう、アロハ・ハワイの耳に入れておこうと言うことになっていた。

 

戦後のアマチュア無線史(26):西武クラブの青ヶ島ペデイ

 西武クラブは、JA1A**の3文字の初めの頃の局が、西武池袋線沿線に割と多く出来て、 池袋の西武百貨店の屋上に3355集まって、自然発生的に情報交換しているうちに、豊島園や、JA1AHの設置場所ユネスコ村のある西武遊園地等で知り合ったハムがドンドンリンクして出来ていったクラブだったようです。 当時の学生、若者が多く、精力的に真面目に何かをしようと動く人が居て盛り上がり、結構プロジェクテイブな行事を企画実行するクラブで、西武コングロマリット本部に働きかけて、資金を引き出すこともあった。 当時有名なプロジェクトとしては青ヶ島訪問、ハム運用を行った日本で本格的なグループペデイションのハシリがある。 当時電気そのものさえなかった 南海の絶海の孤島へ、僻地教育の教師として姉が赴任することになったハム上野君の両親が電気がない生活、医者も郵便局も電報局もない島での生活を心配、とにかく付いていって見てきてくれと言い出したのが事の起こり。 娘を送り出す親の身になれば当然のこと。 これに上野君も属する西武クラブの面々が黙っているはずがない。 アッと言う間にプロジェクトを組んで、発発から、バッテリ等も調達携帯無線機も組み上げて、小遣いを出し合って、旅費を調達。 何人かが次の船便まで島生活を送ることが出来る程度の資金を集めた。 青ヶ島からの電波が萬に一つ本土に届かない場合のフォロウ基地として、寄港地伊東と八丈島に無線機と隊員を一人ずつ残して青ヶ島に着いた。 初めは何しに?又金儲けに来たかと冷たかった島民も、島に電気が灯りラジオが鳴り、アマチュアが何か言うと返事が返ってくる箱に段々興味を示し、誰に頼まれたわけでもなく学校の遠足に返事をする箱を持って付いてきたのにブッたまげた。 船が来る前の日に運動会があり、アマチュアは、返事の来る箱を壊して拡声器を作り、運動会の進行に、マイク・スピーカーを使い校長先生の挨拶も本土並に、雷の声ほどに島中に響きわたった。 その晩は、油の続く限り発発を回して電灯をつけ、島民は皆集まって夜遅くまで電気のある生活の夢を語り合ったという。

 小林記者は、此の青ヶ島渡航記を夕刊に囲み連載3回で紹介した。 東京都知事が眼にして、電気がないために電話もなく、島民が都民でありながら選挙権も行使出来ていないことに気づいた。 このために臨時予算が組まれ、又此の記事によって全国から集まった浄財も足して、島に発電機と無線電話が設置されることになった。 もちろん島に選挙権がやってきた。 先年個人で、青ヶ島ペデイションをされたJH1HUK大島譲氏は、島の人たちが、そのときの西武クラブの面々の名前を全部記憶していて、あの人達には足を向けて寝られない貴重な文化というモノを戴いた、お陰で後から都政も付いてきた、よろしく伝えてほしいと言われ、島の人々から託された伝言をQSPする為に、その方々の現住所を調べ、全部回られ青ヶ島の人々が受けた感銘の大きさにとても驚いておられる。

 おしゃべりチャックは、此のペデイでは、サポート隊だった。結核の外科治療で片肺ともう一つも1/3を切除している彼は水に浮かないのだ。 しぼんだ水枕なのだ。 かなり悔しがっていたが気を取り直して、本格的にYLハム教室の実現のために策を練る。 いざというときには小林記者に記事を書いて貰うと頼んだらしい、岡山玉野の私の勤務先の会社に、小林記者から長距離電話が掛かり、朝日新聞社会部というモノだから、夜は電話交換は守衛が取るので、会社中社宅も寮も大騒ぎ、三交代係員の私は現場で2番方勤務中。 後から電話するカラと番号を控えさせて、後から電話してみると「何か新聞に書いて応援してやりたいが、いい知恵はないか?」 仕方なく、近々女性のためのハム教室が開かれそうだという記事の下請けをやった。

 今もある朝日新聞社会面の隅の青鉛筆欄である。 日本全国から250通を越える葉書の反響が朝日新聞にあったと聞いた。 うち関東地区で150通ほど。 チャックは慌てたらしい。 手に負えないかも知れないと、アロハ・ハワイ兄に泣きついた。 丁度そのころから、私は3交代の他に工程研究のテーマを受けて、メチャ忙しくなって、無線どころでなくなり、出張も東京でなく岡山大学の地学教室に出かける態勢に変わって、寮に食事と着替えに帰る他は殆どを会社で過ごしていたので、女子大計画は知らぬまま半年ほど経っていた。

 ある日、4キロほど離れた玉野のSWLJA4-1051の中学生が、工場の門に自転車で駆けつけてきて、私に面会を求めて居るというので、構内電話で話をした。 毎朝JA1KCのお早う点呼で、JA4HLの声が全くないことを心配して、さっきも7メガで、JA6AS坊さんハムに 頼んでお経上げて貰うかどうか相談してましたよ、と言う話。 この日ばかりは定時で 帰って7メガに。 JA1KCは出てこなかったが、JA1AFUだったと思うが、ハム女子大を始めることになりました。 Japan Amateur for Happy Love (=JA4HL)には、校外幹事、実技演習アンテナ建設指導係を命ずるという辞令を作っていましたよ。 よろしくお願いします、と。 エエッツ ! 世にも名高き欠席裁判。

 

戦後アマチュア無線史(27):ハム女子大の開講

 当時は未だJARLは単なる任意団体で、事務局も文京区西丸町在のCQ出版社に間借りしている有様で、講習会が出来る状態でなく、JA1AH小宮兄が打診されたようですが、連盟としては将来計画にはあるが、特にYL対象だからとて、急に主催するわけには行かないと言う返事で、西武クラブが、池袋の西武百貨店の催し物スペースの一室を無償貸与を受けて、クラブ外からも講師を迎えて、開催することになり、例によって小林記者が、朝日新聞に囲み記事で紹介した。 此の記事には、西武クラブ宛に申し込むように 宛先が掲載されたにも関わらずクチコミが激しかったらしく、朝日新聞と西武百貨店宛に申し込みや問い合わせが各50件を越えたという。 先着60名で一応締め切ったつもりの西武クラブは、飛び上がって驚くことになる。 「当日受付はどちらでしょう?」と言う申し込みの列が開店前のデパートの正面玄関に出来たとのデパートの守衛室からの電話。 クラブの数人が列に謝絶に行って見れば、電話で締め切られたのはホンの数人だがほかに、立ち見席で聴講可能だろうからそれでいいからと言うYLなんと20数人、中には伊豆から朝6時に出てきたという人、大月の在から4時に出てきたという人、丁重にお断り してお引き取りをと言っても帰らず、とうとう開場した教室にまで押し掛けてきて、教室の後ろと窓を開け放った廊下に立ち見席を作って、85名ほどの生徒で授業を始めたという。 結局翌年の春まで掛かるのですが、82名が目出度く卒業していますから、途中落伍者は僅々3名。その熱意の程に感心させられました。

 私自身は、参加できませんでしたから、講師、教材などはどなたがどんなモノをか具体的には判っていません。 が、当時西武クラブに居て、当時は大学生でハム女子大講師をやって自信をつけ、その後大学院に残り、大学の先生になった人が、複数居ます。 相当真剣に教え、且つ生徒も判るまで学んだ様でした。 当時ハムをやろう、開局しようとすれば、日本では、送信機、受信機、アンテナを自作しなければならず(サラリーマンの平均月収1萬5千円の時代では、米国製送信機、受信機は輸入してそれぞれ中古で30万円づつとして、丸4年間飲まず食わずの価格だったのです)結局ハム女子大でも、自分で国家試験に合格できる知識だけでは駄目で、自分で受信機、送信機、電源、アンテナを作り、且つ調整できる、技能と実技を身につけることに主眼をおいたのでした。

 私が参加したのは、翌年春先から始まった製作実技指導、手直し、調整法の実地指導とアンテナ建設指導と言う名のドカタ手伝い。 毎週週末業務で東京出張という訳には行かない平サラリーマンの身。 自腹も切り、片道出張も願い出、出張業務も作り、随分頑張った。時々立ち寄るCQ出版の小澤編集長が「ハッピーラブ(HL)もヨウやるわい」皮肉っぽい薄笑いで「編集後記に4HLはYL好き書いといたぞ!」デス と。

 どうしても書き残したいことがいくつか。 まづ当時の世相の背景。 田舎から東京にポット出たら東京が又、戦後のバラック建て復興時並に、そこいら中メッチャ土埃っぽくなっていた。 5年後の東京オリン ピックに向かって、戦前東京大改造の都市計画の根本、そこら中の大引っ越しに着手されていたのでした。 折角戦災を免れた家並みも、なけなしの庶民の涙と汗の結晶の焼け跡のバラック住宅も、お国のための経済復興の足がかりの東京オリンピックで、世界の国に新しい東京を見て貰わねば、、と新しい線引きに引っかかった人は有無を言わさず替え地に引っ越さされ、引っ越した数日後には取り壊され、道路になってしまうか、 別の人の替え地のために分筆されてしまう有様でした。 ブルドーザーやダンプトラックも沢山はない時代、人力人足土方最後の大都市計画がたっぷり5年以上続いたのでした。

 一方家電工業界。東京にも未だまちなかに、大手電機会社の大工場が稼働していた。例えば、港区三田四国町にはNEC日本電気の四国町工場があって、当時最新式の、タクト・コンベアーラインによるTVセット(黒白、真空管の時代)の組立工場があって、多くの女子組立員達が、半田鏝を振り回して、コンベヤーラインに振回されて立ち働いていた。 この人達の半田付け、半田上げの手際の良さ、仕上がりの見事さは、半端じゃなかった。

 実は、ハム女子大の生徒の中にもその種、半田付けラインの熟練技能者が複数居られたのです。 他のことでは先生顔して教え、且つやって見せていた先生側も、事配線、殊に半田付けの実技に至っては、マッツァオ!口をポッカーンと開けて暫く放心。 「済みません、あなたの半田鏝でなく私の鏝、半田、ペーストで、やって見せていただけませんか」「いいですよ、別に種も仕掛けもありませんから」で、鏝の先端と溶けた半田に一瞬鋭い彼女の視線が走った次の瞬間、もう見事な仕上がり。 誰の鏝でも半田でも、たまに先端を鏝先磨きのステン毛でチョチョと擦るだけで、誰の鏝でも使いこなしてしまう。 指導員の余得で昼弁当の時間にその一人とインタービューする機会を得た。

 Tさんは幼い頃から、おままごとやお人形さんごっこより、なぜか木登り、虫いじり、縄跳び、などの方が好きで、小学校に入る頃から、蓄音機やラジオの中にはどんなコビトが入っているのか、学校で勉強したかったのだそうです。 学校帰りに偶然ラジオ屋さんがラジオを裸にしているのを見てコビトが入っていなくて、一寸がっかりだったけど、変に反射する真空管のガラスの艶光に魅せられて、暗くなるまで、ラジオ屋さんで遊ぶようになったのだそうです。 就職で、電気会社のテレビ工場で、働くことが決まったとき、もう心は有頂天で電波と同じエーテル空間に飛んでいる思いだったとか。 実際には同じ事を朝から夕方まで、時によるまで繰り返す、タカが世に言う女工ですが、7年も半田ズケ一途にやれば軽く延べ1千万萬カ所くらいの半田付けの経験の蓄積にはなっているでしょうから、温度が色つやで見えるって言うのかなあ、見えた途端に手が行くのですよね、殆ど無意識ですよ。 それともう1年ほどは、ラインの班長というと聞こえはいいのですが、遊撃要員で、トラブッタ人、休憩時間外にトイレに行く人、小休止の人の代わりに入る役で、弘法筆を選ばずで、その人のハンダごてを引き継いでその人の代わりを直ぐ出来なければなりません、その人がラインに戻って直ぐ又その人に引き継ぐとき、あっ、班長も大してうまくないわと思われたく無いじゃありませんか。 必死ですよ、ラインのリズムに乗らないと行けません、これが小さいときからうまかった縄跳びのあの縄を跳ぶ瞬間以外に一回空踏みするあの要領なのですよ。 毎日緊張の連続では身も心もくたくたですから、好きな真空管使って何か作って自分の力が試せるのならと思って、応募したのですが、知らない人と話をするというのは、余り気が進まないし、トンツウは難しそうだし、、、。 何事も、世の中一筋縄では、、。 でも国家試験は受けて局の申請まではやって見るつもりで居ます。、、、(続く)


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