戦後のアマチュア無線史(28):ハム女子大卒業生達の開局

 そんな受信機、送信機の組立ラインで毎日「正しい」組立方法・ユニット操作に熟達した方から、ラヂオの中を見るのも始めて、増して、アルミシャーシーにハンドドリルで穴を開けるなどは考えもしなかったお嬢様タイプまで、ラジオ工作実技を教え、その作業を各個に指導するのは大変で、ほぼ同じレベルの3-4人にローカル的に集まって貰って、指導する方も2−3人で組んで出向き、一挙に仕上げながら巡回するグループ分散方式で進めた。 西武クラブのメンバーの他に、その友人などが、進んで、アゴアシ自腹、手弁当でセッセコお手伝いいただいた。 殆どの方が、当時のアマチュア無線局の定番:受信機は短波用高周波一段中間周波二段,BFO付低周波2段のいわゆる高1中2で9球-10球受信機と、送信機は、水晶制御発振6AG7(or GT)-終段出力UY-807を低周波出力管6L6(or GT)でハイシング変調する電源まで入れて、3段ラックになる様なモノでした。 水晶が3.5メガで終段出力が7メガの時はおとなしい送信部も、水晶周波数と終段が同じ周波数になると、急に暴れ自己発振に見舞われ、807の袴だけではどうにも止まらず、プレートから中和コンデンサーを介してグリッド回路に負帰還を掛けて予防しました。 金石舎の新品水晶が当時指定周波数では1個\2000。 (サラリーマンの平均月収¥15Kの時代)水晶割でもしたら涙がチョチョ切れる時代。 現場臨機応変対策。 こうして、彼女たちがそれぞれに涙と汗の結晶として仕上げた受信機送信機に火が入り、直ぐにマジに音が出るモノ70%配線チェックの思い違いや早とちりを手直しして、片っ端から調整法を指導し受信機3.5-7メガでアマチュア無線が受信出来彼女たちの眼が一様に輝きだした日の事は忘れられない。 送信機は電気スタンドに40Wほどの電球をさして、出力を繋いでダミーロードとして最終調整し、変調度など又音声のモニター用に、7メガ用の鉱石ラジオを作らせて活用させました。

 話は前後しますが、開校から半年足らずの国家試験はホンの数名の合格者でしたが、此の実地指導にかかる前の2月期の国家試験で大量54名かの合格者が出、四月初めだったか万歳しましたね。 最終調整前に、殆どの人が、無線局申請書、工事事項書等を書き上げていて、先ず従事者免許の申請、従事者免許番号を問い合わせて判った途端に、無線局従事者選任届に番号を記入し他の必要書類と共に、無線局申請しました。

 これらの方々で覚えているコールサインはJA1DAL(CQ誌のカラー表紙)辺りからJA1DLA(半田付けの達人)辺りまでに50局前後のコールサインが見られました。 東京の真ん中で、オリンピック競技場や選手村、オリンピック道路の建設のさなかで引っ越しが決まらず申請に苦労された方々が多かったのです。 此の引っ越し大変な方ではJA1ENEで免許を取られた方を覚えています。

 彼女らの最大の難関は、アンテナの建設でした。 今のような重機があるわけではなくドカタ作業で、立てる時代でしたから。 それも、竹屋から竹竿を買って担いで運んできて、スコップで穴掘って杭打ちして、竹竿を立てて、、、大体男兄弟とその友達に頼んで建てられたようでしたが、ご自身ももんぺに手拭いホッカブリでドカタ仕事を手伝われた方もかなりおありのようで、後年スナップ写真を見せていただいて昔話をお聞かせいただいたことも今は懐かしい思い出。

 当時は、同軸ケーブルは輸入資材で、中古品でも今の新品の倍くらいの価格。 給料が今の30分の1くらいですから50倍くらいの高嶺の花。 竹竿1本で、インバーテッドVなんて出来っこない時代。 洗濯竿として、竹竿は未だ日常必需品だったし、古金屋へ行けば、家屋解体時の屋内配線の2mm程の被覆銅線が、裸線の半値以下で入手出来、昭和初期の被覆線だからナイフ1本で簡単に剥くことが出来てたき火に放り込んでなま暖かい打ちに、引っ張れるだけ引っ張ってまっすぐ伸ばし、そのままアンテナに張っておけば、最初2ー3回弛みを伸ばせば、後は時効硬化で、ほぼ伸びなくなったモノです。 鉄と銅は焼入れ焼鈍しが逆。 鉄は急冷によって焼きが入るので、金物は皆同じだろうと、たき火して銅線を焼いて、被覆を取り焼きを入れようとバケツで水を掛けた馬鹿が居る。 銅線は焼きが入るどころかくにゃくにゃになって正体が無くなり取り扱いにさえ困るほど。 呉々もご用心。 特に、電車のトロリー等硬銅線は、熱処理を誤れば、箸にも棒にも掛からない。 針金竹竿アンテナ自作経験者は、好むと好まざるとに関わらず身を持って体験させられたわけです。 此の弛み除去のためにも、アンテナの電気長調節のためにも竹竿の先にはロープをつけた滑車をつけてそのロープにエレメントを繋ぐことを励行したモノです。

 当時の、第2級アマチュアの従事範囲は、3.5/7メガと50メガ以上でしたから一本のアンテナで3.5と7に同調させるには、エレメント長42mにその中央に21mの梯子フィーダーを繋いで給電するダブレット・アンテナが好適でした。 勿論、7メガだけでも其のそれぞれ1/2長さで、梯子フィーダーで作れば、ダブレットと称しました。 42m長では真ん中が自重でずんだれてしまうので、当然真ん中にも支柱を入れて3本マストでした。

 このアンテナ建てる作業を、JA7DE、JA1KC、JA1AFU、その他のメンバーとあちこち巡回して行いました。 落成届け、試験電波発射届けを提出してありましたから、アンテナ張ると同時に、設備の最終チェックを行い試験電波を発射して貰いました。 家のトイレを使わせていただき、shackに上がらせていただくわけですが、某局では家の中廊下と言わず部屋と言わず、お嫁入り道具、家具が並んでいたのに吃驚残念しました。

 チャック「何、お嫁に行ってしまうんかい?無線局はどうする?」
 YL局「自作それも殆ど手伝って貰ったモノでしょ、お嫁入り道具に相応しく
    ないから、持っていかない。私が又無線したくなればハズが買ってくれる
    約束にしてあるの。アメリカの送信機50萬、受信機50萬合計100萬も
    持っていけばいいでしょう?」
 一同「◆△▽→※↓←△◎▽☆*∪§∞?!?」ぎゃふん。
   「 -------- !」
 YL局「エー?アタクシ何か気になること言ったかしら?」
 一同「ごちそうサマー!」、、、、、(ポ・ケ・ー!)

 

戦後のアマチュア無線史(29):ハム女子大クラブ局JA1YABなど

 殆どのハム女子大の卒業生が、従事者免許と、局免許を取りコールブックにJA1D※※-JA1E※※までにバラバラと54局のコールサインが掲載されたこの年、日本の電波・放送界に官僚政治が復活する一大法改正が行われ施行された。 ここに日本のアマチュア無線局は終わりを告げ、法的には、単なるアマチュア局となった。 この稿のタイトルを、アマチュア無線史/それも戦後の、とすると、まさにここで稿を終わらねばならないです。 無線局としての1カテゴリーを離れて、法的な規則の束縛から離れたのはいいのですが、なんだか訳の分からない事が、いっぱい起こってきたように思います。 どうでもいいことかも知れませんが、無線局運用規則にはない「ハローCQ」と言う「国籍不明の接頭語」を付けたCQが横行し始めたのに象徴されるでしょう。 実際に使っている人に聞いてみるといい。 「ha\rou」は英語でしょうが?と開き直る。 何が英語なモノか、英語圏ではHelloでアクセントは[he/lou]で発音アクセントとも似ても似つかない。 まさに国籍不明。 誰の造語かは知らないが、日本語と思わねば、TOEICでも英検でも通るまい。 スペイン語はオーラ、フランス語はアロ、中国語は「ue/i」で[ha\rou]は日本以外のどこにも見あたらない。 これがこのころから始まって、「アマチュア局」時代の象徴となっている。 閑話休題。

 法改正で、無線局の範疇から抜け出し「アマチュア局」となって早速出来たことが、局申請に無線従事者選任届が要らなくなったのは当然が更に一歩踏み込んで、クラブ局が許可されることになったことだった。

 秋口に既にチャックは、おそらく年末に許可になると読んでいて、電監局に通って、通達前に手続きを聞き出しハム女子大クラブの社団局の申請書を一番乗りで、提出していた。 しかし、12月25日、社団局許可の通達がでて、翌年1月に届いた予備免許状にはJA1YAAのコールと違って2番目の、JA1YABがタイプされていた。 電波監理局関係のお役人のOBのクラブが出来、免許部免許課に圧力を掛けて、後から申請にも関わらず強引にJA1YAAをもいでいったのである。 お役人社会には宗男ハウスでなくて、宗男コールみたいなのもゴクゴク普通にあるのであります。 「官は強く民は弱し」を地でいった事件でした。 以後ここからJARLなどに、天下りが始まる。天にあるお星様は、雨の降る穴だよ、とはよく言ったモノです。 受け皿に長く居座った人は当時のJARL事務局長。 改革が出来るはずはない。 始めた張本人なのだから。 昭和34年12月25日は其の記念日。

 アマチュア無線史的に、女性局だけでなく、アマチュア無線技士を金を取らずに育てようとしたいわゆる教育的行事は他にもあった。 旧法の時代には、、である。 民放ラジオ時代から、DXニュースの時間が週に一度ある局があり希に国家試験のスケジュールを流したりしていた。 これが、黒白TVながら、民放TVが始まってまもなく、DX-ニュースが、ハムニュースを増し、ついでに、ハム教室が出来ました。 アイドルの可愛い子ちゃんにはハム少年須藤君の妹典子ちゃんが抜擢され、この教室番組で勉強して国家試験に合格し旧法時代に、たしかJA1CYAだったかで、免許を取りました。 コールサインからして、ハム女子大より紙一重早い動きでした。

 昭和34年の法改正によって無線局のたがが外れた後は金取ってなんぼの、通信講座が横行を始め、試験にパスするだけの知識、詰まり教育講座でないいわゆる受験講座が始まりアマチュア無線局は、新法通りアマチュア局に。 そして7メガのバンド外に、リージョン3地域には許されない、JA天AAなどのアンカババンドが出現、region2地域のアマチュア通信に混信し、FCCから、JARLに取り締まるよう再三の勧告書警告書が来ることになる。 これがアマチュア無線に対するアメリカの連邦通信委員会方式と、日本の官吏による法監理「取締」体制との考え方の大きな違い。 異文化ほどの違いとなってしまう。

 

戦後のアマチュア無線史(30終):身障者もハムをenjoy

 「もし世界の若者が手をつなげたら、、、」と言う意味の原題のフランス映画が、東和映画社によって、日本に輸入されようとしていた。 おしゃべりチャックは、どこにでも友人を持っていた。 この情報も其のアンテナに掛かってアマチュア無線の話らしいぞ!と聞いた途端もう彼は行動に移す。 電話番号を調べて、東和映画に電話し「輸入したモノかどうか検討中」と聞くやいなや、我々にも檄を飛ばし「おい毎日東和映画に誰彼なしに電話させろ、なにいってんだい、九州やあぎだや、シャマガタからや、北海道から電話で、いつ見せていただけますか?って電話掛かってミロや、彼らたまげて、絶対輸入するぜ、させなきゃならんのだ!」当時の電話は、長距離となると交換手が、交換手に繋いで電話を取ると、どこどこから電話です。 誰々さんですか?ではおつなぎします」とどこから掛かっているかを報せたモノです。 ですから掛かった東和映画社は相当感激したはずです。 チャックのこの作戦に掛かって東和映画は旬日を経ずして、この映画の輸入を決定する。 チャックは又電話する「私は頭も悪いけど、うちの兄貴はハムだし、会社の地位も高い外国通だが、其のフランス映画の題名の直訳はまずい、いい題名思いついたと言ってるから面倒でも西武ユネスコ村の小宮村長宛電話したらいい」。 こうして、日本題名「空と海の間に」が決まり、大々的にキャンペーンが始まった。 程なく封切られて、どこの映画館も結構大入りだった。 ハムが家族にハムの社会性を知ってもらえば、それだけ自分がハムをしやすくなる様宣伝にこれ努めたからで7メガでは、この映画の話の出ていない瞬間はなかったと言われる。

 この話の中でいくつかの感動的なところが描かれるが、その一つが、盲目のハムが、血清受取搬送リレーの役目を受けて、不慣れな空港で、もうフライトのないことを知らされて盲目の不便さからバスを乗り違えたりしながらも乗り継いで漸く別の空港に何とかたどり着いて、次の空港に血清を送る役目を果たす、エッ!外国には全盲のハムがいる!--このことを知らされる瞬間でした。 日本で、身障者がハムの免許が取れるだろうか?この映画は、思いがけずこんな問題を投げかけたのでした。

 映画が未だ全国を回り終えない頃、山口県大島郡、即ち周防大島に住み針灸マッサージ業を営む全盲の砂本勉さんが、見事点字翻訳国家試験を突破、手続きを終えて、JA4VBのコールで、落成検査にも合格本免許され、ハムの仲間に入られました。 勿論、ローカルのハムが、問題集を読んで聞かせ、送受信機の自作に当たっては、部品の常数を読んで手伝うなど、又、調整法の相談に乗り、メーターの代わりにパイロット電球を使って、鼻の下に当てて暖かさで電流を知る等の方法を開発するなど、涙ぐましい努力と協力によって、実現したのでした。

 これらのことがあって外国には盲人も電信打って聞いている分には、健常者と区別できないほど多くのハムがいることも知られ日本では国家試験方式が大きなバリヤーだと指摘され、郵政省側が大きく改善に踏み出すことになった。 以後身障者側が、身障状態を書き示して、受験申請すると、省側が、其の状態に応じて適して回答しやすい方法で試験することで、身障者ハムの申請の道が開かれたのでした。

 1959年の法の大改正以降始めての重度肢体不自由身障者第1号申請としてSWLJA1-1055(だったと思うが?)横浜市中区打越の三好譲氏が、国家試験もクリヤー、10球受信機も殆ど自作、送信機も自作し、アンテナだけは近所の友人、授産所の職員さんなどのご協力で、建てていただいて、落成検査に見事合格、JA1GVF のコールで本免許、ハムの仲間入りしました。 この方の合格記製作記は当時のCQハムラジオ誌、たしか昭和38年6月号に、何枚モノ写真入りで詳しく報道されています。 指が何とか使えるのは左足の親指だけ、両手とも萎えて、力のはいるのは、肩から2の腕上部のみ、三好さんは、部品を左足と口を使って部品を挟み、家族に自転車のチューブで二の腕上部にしっかり縛り付けて貰った半田鏝で、送信機も受信機も組み立てたのでした。

 上記CQ誌のインタビューに対して、三好さんはJA6BNBで今は九州にいる氷室さんに感謝、と言っているのですが、彼とは10年以上前1950年頃から無線雑誌「無線と実験」の愛読者室の投稿常連として知り合い、誌上のみならず直接私信も交わすSWL友人でした。 彼が、重度肢体不自由身障者と知ったのは数年以上後、東京オリンピックのための東京大改造都市計画に便乗して、中の駅北口が大幅改造され、中野区打越町付近はスラム街を取り壊し、当時としては超近代的なブロードウエイ商店街と高層住宅に生まれ変わり、且つ、彼のような身障者の暮らしの糧を得ていた、中野授産所は立ち退いて、ここに中野サンプラザなる文化の殿堂を造る、と言う計画の出現で彼は、住むべき家と共に、車椅子で数分の所の仕事場を同時に失わなければならなかったのでした。 彼はそれまでは決して弱音を吐かないまして身障者である素振りも見せない人でしたが、このショックにはさすがに耐えかねて遂に、この中野区が彼にどれほどのショックを与えたかを私に 洗いざらいぶちまけた、そのためには彼は彼が重度身障者であることを告白せざるを得なかったのでした。 私は岡山県の玉野市から、手紙で彼を励ましつつ、電波で、以前の「無線と実験」愛読者室の投稿常連仲間を中心に、彼への助力協力を呼びかけました。 「エッ彼は身障者だったの?まさか!」これが常連仲間の応答 第一声でした。

 常連仲間も、1952年ハム解禁以降皆免許を取得していました。 JA1CH/JA8BL: JA3CB: JA3FV: JA4HS: JA7BB; JA7BE:の諸氏他です。 とにかく最終的には、中野授産所がなくなるので、中野に固執してもしょうがない。 授産所職員のご努力で、関東の授産所総当たりしていただき、住まいと仕事の近さを勘案して移転先を探していただいた結果、中野区打越を捨てて、横浜市中区打越に引っ越すことになりました。 地名が結んだ奇縁でしょう。 引越の前後には善意の協力者が幾人も現れて彼は感激しっぱなしだったようでした。 電波が及ぼした波及効果だったようです。 この事件があってからJA4HLも遠いし忙しそうだから、俺達で三好君をハムにしようと上記メンバーが、それぞれ手分けして、全国に檄を飛ばして、遊休部品のカンパを行ったようでした。 三好君の手元には、受信機2台は出来るほど、送信機は3台出来そうな部品の山が全国各地から届けられた由でした。 彼はSWL時代にバラックながら10球の受信機を組み立てて実用していたわけですが、今度はマジな部品が揃った事もあって、ちゃんと通信型受信機スタイルに組みたいと、届いた部品リスト付きで、私に手紙を寄越しました。 常連先輩連中に頼もうとしたら、それはHLが適任だろうと、すかされてしまい、両手両足不自由を想定して、シミュレーションまがいのことをやりながら組立操作マニュアルを作ることになりました。 結果論ですが健常者が、思いつきで自分も両手両足が利かない振りで、シミュレーションでマニュアルを作っても、どうもどこかに身障者ではどうしても越えられない敷居が出て来てしまうようです。 随分やり直し書き直して完全を期したつもりでしたが、健常者が作るマニュアルにはどこかに問題があったようでした。 それから数年たって私は九州へ転勤JA6BNB更に2年有半後、突然、書店店頭立ち読みのCQ誌に、彼がJA1GVFで開局したことを知ったのでした。

 三好氏のCQ誌の製作記には、氷室さんのマニュアルは大いに役に立ったと書いてあるモノの、この記事を書店店頭で見つけ立ち読み始めて、見る見る自分の顔が熱くなって今にも爆発しそうになるほど赤面せざるを得ませんでした。 複数の写真に私が想定して書いたマニュアルと全く違う、彼なりの工夫の方法でやっている彼のノウハウがはっきりと写っているのです。 彼は私の健常者としての慢心に文句一つ言うでなく立派に工夫に成功して、私の方法では乗り越えられなかった困難に打ち勝っているのでした。 横浜で新たに親しくなった授産所仲間にもラジオの作り方を教えたり、新しく親しくなった授産所の職員仲間にアンテナを建てて貰ったり、彼はハム開局によって、心からなる友人のいる全く新しい世界を切り開くことを得たようでした。

 それだけでなく彼は一言も発する訳でもなしに私の慢心という天狗の鼻を黙ってもぎ取って、身障者には親身につきあうべき事を教えていただきました。 このことは、会社生活でも、作業標準や作業分解などを作る時の作業分解分析要素を考える際の重要なヒントとなり、且つ、危機管理のマニュアル作成上も大いに役立つこととなりました。 それもこれもみんな、アマチュア無線をやっていたからこそ出会った人たちから教わった沢山の出来事の中のいくつかの出来事でした。

 幸いなことに、三好さんのこの努力による偉業に刺激されて、その後、多くの筋ジス症などの重度障害者の方々が、アマチュア無線を通じて多くの友達を得られてハムライフをエンジョイされるようになったことは同慶の至りです。

((ご愛読深謝します。(終)))


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