パピィのフランス話:地雷/不発弾除去

 アフガニスタンの戦火がほぼ終息しつつあります。 結構なことですが、最近の傾向として戦争の後は更に住民にとっての困難は、戦争した両軍が思いも掛けぬところに無節操無責任にも残して去った、地雷などの爆発物が、住民人口密度の何十倍も残されて、うっかり道も歩けない、農地も耕せない状態に曝されることです。 アフガニスタンの場合、ソ連軍が侵攻して地雷原を敷設、更に反政府軍が敷設退却、その後、タリバン軍と北部同盟軍がそれぞれ敷設、もう地雷のないところは考えられない状態だと言われます。 中には、金属探知器の反応も鈍い型の対人地雷も敷設されたらしいと言うことで、NGOの地雷除去ボランテイア達からもお手上げだとの声も出ているようです。 困ったことです。

 爆発物の埋設を発見した報を受けて、軍隊の爆発物処理班が、国内出動するケースが結構多く、しかも、処理中に隊員が死傷することが結構あるので有名なのがフランス本土だと言ったら、信じていただけましょうか?マサカー!でしょう。 ところが真坂に、これは事実なのです。 フランス本土全体に、未だ、130万TNTトン相当の爆発物が、埋まっていると推定されています。 名曲「1812年」で年号時代が解る、ナポレオンの帝国主義戦争の舞台となったドイツやルクセンブルグとの国境付近は特に、初期の地雷の実験場であったし、下って、西部戦線異常なし、などで有名な、第1次欧州大戦の地雷原ジーグフリード・マジノ線には当時の地雷が大量埋設の半分、撤去できずに残っているようです。 そのほか、破裂弾になった初期の大砲の弾、焙烙玉と日本で言われる三河花火式の砲弾が、結構国内の畑の中に眠っていて、電磁検知式の最新式の金属探知器では全く検知できず、揺り動かした途端に、100年の眠りから覚めて、ドッカーンとやったこともあるのです。 始末の悪いことに当時は行き当たりばったりに、アイデアを凝らして信管を造り、作って使って実験してそのまま不発で埋め殺しにしているので、現代の優秀装備の爆発物処理班と言えども教科書にない見たこともない信管にお目に掛かって、早合点して、当てずっぽうで手を出して、いいところでドッカーンと言うことがままあると言う。 これが悩み。

 アフガニスタンとどっこいどっこい。1995−1999年の5年間に、フランス本国全土での爆発物処理班の延べ出動回数は、何と1820回余り。 処理中爆発11回、死者はないが20数名が負傷総数と言う。 これで未だ、推定爆発物埋没量TNT換算130萬トンはいささかも減っていないと言われる。 フランスも成人に達すれば義務兵役制で、海軍3年、陸軍2年2ヶ月、兵役訓練されるが、その期間中に必ず、一度以上、爆発物処理訓練に従事するという。 この国では事程左様に、地雷や不発弾が出てくるのは、日常茶飯事とまでは行かないまでも決して珍しいことではない、その対処方法には通暁して置かねばならないレベルの重要度なのです。

 フランスは第二次世界大戦でペタン将軍政府時代に、ヒトラー・ナチの軍門に降って本土は一旦ドイツに占領されましたが、当時イギリスに新兵大隊を率いて教育訓練して居たシャルル・ゴール中将が、ナポレオン同様赤いズボン吊りに赤い上着で、BBC 放送を使って、少なくとも本土以外のフランス軍の非降伏を宣言、本土国民の対ナチ・レジスタンス運動を提言呼びかけた。 やがて始まる、連合軍のノルマンデイ作戦には、英米にとっては、国際法上の信義の問題で赤い上着にズボン吊りはお邪魔虫と、蚊帳の外に置かれたが、直ぐにウチトコも参戦!と新兵さんの初陣とばかりに本土に逆上陸野戦に加わったが、新兵さんは地雷の訓練が未了で、何で、大砲の弾も飛んで来ないのに地面が急に爆発するのか判らずポカンとしていたそうな。 「新兵はエコール・ド・ミヌ(グランゼコールの一つ・鉱山学校)(洒落が判るためにはもう一つは地雷の学校)を卒業しているとは限らない」と言う洒落が戦後まで流行ったそうな。 この新兵軍団にはフランスの貴族階級の三男坊以下が沢山入っていた為ゴール将軍は、穀潰し貴族を潰して自分は貴族の称号を買い付けて、ド・ゴール将軍になったと貴族家族に陰口をたたかれたらしい。 これも地雷の功罪の一つ。 因みに、アメリカ製ハリウッド映画の一つに、オランダ解放戦線に赤い上着に赤いズボン吊りで、ゴール将軍が現れてドイツ軍がフランスから回収した金飾品金貨などを金塊にして田舎町の銀行に置いていた金塊を取り返そうと迫ったが、赤い上着とズボン吊りが目立ったため村民の大群に囲まれて、万歳万歳大歓迎されているうちに、アメリカの特殊部隊が、さっさと金塊を戴いてトラックで持ち去る、愉快な活劇戦争映画があった。 フランスでもTVで放映したのをたまたまtabacで見た。 タバに居たのはみんな労働者クラスだったが、口を揃えて「だからアメリカは好きくない!」と言っていた。 その後当時従軍していた男がぽっつり「新兵が随分地雷で死んでね」と上述の話をしてくれたのでした。

 

パピイの昭和話:ゾルゲ事件の頃のラジオ

 日本に関わる最大のスパイ事件は、このソ連のスパイ、リヒヤルト・ゾルゲと彼の指揮下で半ば公然と、動作していた日本人を含む一団だったでしょう。 スパイ活動についてはそれなりにいっぱい書き物があります。 ここでは一切省力して、スパイにとっては命よりも重要な本国司令の受信・報告の送信に使う無線機のことに限りましょう。 昭和17年に一部が検挙され、拷問の末、ゲロッたために、無線士マックス・クラウゼンの行動が監視され、横浜を始め4カ所のアジトがマークされ、あばかれました。 しかし、当時詳しい報道はされず、色々報道されたのは戦後です。 一部の生き残りについては戦後裁判が行われました。 もう一つだけ、モスクワには2回行っただけですが、モスクワ市内にゾルゲ街があることを知りました。 フランスに住んで四年目に行かされたとき、ある通りに迷い込み、なんて通りだ?とロシヤ文字を見上げているとき、一人の老婦人が通りかかり「ヤポンスキーか?」と聞いた後綺麗なフランス語で「日本人なら知っているね、有名なゾルゲだよ。この国では英雄の一人よ、日本で処刑されたがね」と。

 ゾルゲ自身は無線機などは全くの素人と裁判でも主張していますが、すべてをクラウゼンに任せて日本に来たようです。 クラウゼンは、無線機の部品や、無線機自身を持ち込むと、初めから怪しまれると考え、出掛けてくる前に、日本の無線雑誌を取り寄せて、広告欄を翻訳して貰い、部品やラジオの入手はかなり難しいが何とか自作可能と考えて手ぶらで来日しています。 断っておきますが、戦争前も戦時中も秋葉原や神田などラジオ街があるわけはなく、特に日中事変が拡大するに連れて、ラジオ部品は払底の極に達します。 クラウゼンは裁判で、あくまでラジオ屋で買ったと主張しています。 当時裁判官も、大学教授が兼ねた技術鑑定人も、嘘だろう、と疑問を投げかけていますが、冗談じゃない、私ら工作少年に言わせれば、ラジオ屋や古道具屋は立派な部品の供給源でした。 当然新品などでは作りません、真空管とケミコンを除けば、使って実績のある部品の方が当時は、怪しげな新品より余程価値がありました。 部品取りです。 それでも、ゾルゲが上海へ行ったとき送信用の真空管と電鍵を買ってきて貰っています。 後は全部国内のラジオ屋で、自分もしくは日本人メンバーが漁り歩いて、買い求めています。 アジトは4カ所、もし送信電波を方向探知されても攪乱できるから、実際、何度かは、探知されていますが、鎌倉に同定された次は奈良または大阪など又次は新潟と、探知官は振り回されています。 一度に二カ所からは探知できず、十分な三角法の基線をとる間に発射点を変えられてしまっていたわけで、特高側の探知技術の拙劣でしょう。 クラウゼンは裁判で、受信機も送信機も4回作り直したと言っていますが、本国からの司令はナホトカの近くからかなり強い放送電波に挟んで送られていたので、局型123型を再生同調コイルを取り去って、コイルはプラグイン式で短波用にしたオートダイン再生式で十分受信可能だったようです。 アンテナ線と電源はアジトの4カ所にそれぞれ隠して置き、3球式局型受信機改造と送信機の2級式を入れた中型トランクを持って移動するつもりだったが、日本人は当時殆どが、行李、ずだ袋、信玄袋、何と言っても風呂敷包みなので、直ぐに信玄袋、後には風呂敷に包んで持ち歩いていたので尾行側も今日も風呂敷包み、無線機なしと報告していたそうだ。 潜入見とは恐ろしい。 初めは支給された水晶で連絡を取っていたが後には方探や傍受を恐れて、オートダインを発信させて送信機に繋ぎ込んで周波数を変えていたという。まあ周波数安定性の悪いVFO代わりと言うところでしょう。

 戦前、日本にも、法的な名前は異なるが、外国のアマチュア無線局と交信して構わない私設無線電信電話局は官許されていたが、昭和16年12月8日英米蘭仏を相手に開戦と同時に、官憲によって、送信機は没収受信機は短波のコイルはむしり取られ、封印された。 官許短波放送受信聴取者も同じ封鎖でした。 戦後、アマチュアバンドは、米駐留軍の軍人アマチュア局が、日本のコールを使って、交信を楽しんでいた、これを聞くに付け、昔のアマチュアを知っている人達は、ムズムズしていました。 神田駅から須田町、須田町から小川町に掛けての路上露天にラジオの新旧部品の露天商が初めは三三五五後にはズラリと都電通りの片側両側に連なり、全国へのラジオ受信機復旧普及の基地となりましたが、気の早いムズムズ連は、短波で電波の発射を試みました。 許可なしの怪電波です。 警察側には未だ特高警察の生き残りがいっぱいいましたし、米軍も、スパイ電波は出ないかウノメタカの目電波監視隊を全国に散らばらせて監視して日本側にも通報してきましたから、直ぐに警察が踏み込んできて、折角作った送受信機は没収しっかり油を絞られました。 警察もこのゾルゲ事件で、風呂敷に包める程の、ラジオ屋で漁った部品で自作したラジオや送信機でも、立派にスパイ活動可能と言うことを学んでしまっていたのですから、ラジオ程度の自作機で気軽に遊んでも思わぬお目玉とお説教を喰らって吃驚という事態だったのです。 その裏の事情をちょっぴりだけ解説しておきます。 尚、裁判記録を本意解説したモノの大半にはこれらの受信機や送信機などの証拠写真も収録されています。 尚も興味ある方は私に質問しないでそれらを御覧になって下さい。一目瞭然でしょう。

 

頭の体操:君は単一乾電池で3Vが出せるか?

 テレヴィで、工業専門校の生徒達による「ロボコン」が放映されていますね、さまざまのアイデアで、問題要求項目にあったロボット振りが製作されています。 見ていてとても楽しいのですが、参加している学生達にとっては、生き甲斐です。 その眼がそれを物語ります。 負けて、一瞬悔し泣きしますが、必ず勝者をたたえ、次は負けないぞと力強く次を誓う姿の方が、ただ飛び跳ね喜ぶ勝者よりも何故か頼もしく感じます。 此のリヴェンジを誓う人たちこそ更なる頭の体操に挑むのではないかと。

 此のNHKの「ロボコン」企画は、初め東工大の生徒と、アメリカ・マサチュウセッツ工科大学(MIT)の学生の対抗でやろうとのアイデアだったようですが、MIT側の許可システムがややこしく、スローで、許可に3年も掛かったようです。

 NHKはとても待てず、且つ大学や工業高校となるとその数幾百とても1日で決戦が終わらないことを考慮して、当初企画を持ち込んで快諾いただいた東工大の先生の助言に従い、当時全国50校ほどだった、工専校に絞って、此の東工大の先生に問題を出して貰う形でスタートしたのでした。

 此の企画は、いくつかの工専校の生徒の目の輝きを変えました。 よーしやってみせてやローじゃないか、授業の試験では良くないが俺には一寸した別の才能があるんだぜ、今に見ていろ僕だって、、派が結構何処の学校にもいたんですね。

 第1回の出題は、新品の乾電池1個で体重60キロの人を道路で60m運べるか?5万円以下の材料で装置を考案せよ。 新品乾電池はスタート直前に渡す。 但し電機部品を使用する場合、その装置内の全ての蓄電器、蓄電池は完全放電状態であることをスタート直前の10分間審査する。 と言うモノ。

 各校生徒の単純な疑問は、問題は可能か?と言うことだったようです。 出題者にも実は判らないのだと答えると、皆却って盛り上がったというのです。

 然し第1回の最終決戦に作品を持ってきたのは4チームだったよし。 アイデアはそれぞれユニークだが、いずれも古自転車の車輪を応用、重いタイヤチューブは外してリムの軽さでスタートトルクを克服に努めたよう。 4チームとも、車の走り出しのトルクが乾電池でマブチモーターを回すだけでは到底克服できないことを実感。 どうやって、60キロプラス自重をスタートさせるかに集中したようです。

 1.人の体重の位置のエネルギーの利用。伸身で水平に近く寝ている人をモーターでゆっくり支持枠を立てて行き垂直直前で一気に倒す、此のエネルギーでギヤを回し車を回しあとは惰性に頼る。 モノ。 -- 60mを一気に駆け抜け成功。 但し巻き上げ時間はたっぷり掛かった。

 2.3.省略。いずれも成功。

 4.非常に感動的で、泣き出した女生徒もいた程という。 DC−DCコンバーターと、3.3ファラッド(μFではなく)のスーパー・コンデンサーを30個パラにして99ファラッドのコンデンサーにして12Vを15-6分掛けて充電し、ギヤシフトメカの付いたモーターに繋 ぎ替えてリムを回す、初め調子よく走行したが、充電量は、56─7mが限界か止まった。 あと3m一寸。 、、、チームリーダーも運転者も渋い顔、未だしかし時 間内。 どうしようどうする?観衆の嘲笑も始まった。 審査員のあと10分で競技終了としますのアナウンス。 するとそれをまっていたかの様に、観衆の 嘲笑がどよめきに変わった。 なんと微速ながら動き出したのである。 超ローギヤで動いて10分では3mに足りなかった。 然し、制限時間は過ぎたがなんと完走したのだ。 コンデンサーは放電したあと又時間が経てば電荷が溜まることがあるのだった。 その動き方は、いかにも必死という感じで、観衆の感動を誘ったのでした。

 このことがあってかあらずか、此のコンテストの第2回目の問題は、新品単一乾電池2個という事になりました。 第一回出場者は勿論、他の学校も今度こそと頭の体操、役割分担を決めたチーム編成で挑戦したのでした。

 第一回では、DC-DCコンバーターとスーパーコンデンサーという文明の利器が登場、本当に五万円以下で出来たのか?と言う意見が相次ぎました。 所が、第2回では、そんな意見を吹っ飛ばす、審査員も委員長もアッと驚く、ノーベル賞的工夫が出てきたのでした。乾電池2個で、6Vを取り出したチームが現れたのでした。 乾電池は、2個セットのモノが、横長の机の上に出場者分の数だけ並べられ、ヨーイドンで、それぞれ受け取るのですが、これを受け取りに来た中に手になにやら持っていた組がありました。

 そうです。 一人がV字型に切り込みの付いた材木。 もう一人が金切鋸。 ヨーイドンで乾電池を受け取るやいなや、V字型のジグに挟んでもう一人が、鋸で、胴切りに次々切り落としたのです。 それを4個手製の電池ケースにはめ込むと審査員にニヤッと笑って自分のチームの所に駆けていったというのです。 審査員は声も出ないほどに驚いたと言っていました。

 最近は、英語圏の諸国に倣ってしまって、日本の小学校ではコロンブスの卵と言うことを教えなくなったそうですが、コロンブスの卵より実用向きに、此の工専生の乾電池の輪切りを教える方がいいかも知れませんね。 既成の概念を打破する楽しさ。 審査員にニヤッと笑った彼等は、既にそれまでに何度も輪切り電池が立派に役立つことを実験し尽くしてのことだったのでしょう。 日本の学校教育に救いがもしあるとすれば、ロボコンに参加できるような実験教育を今直ぐ復活することではないでしょうか。

 

爺怪説:入梅・豆の木・馬肥ゆる(三題話)

 梅雨は鬱陶しいけどお百姓さんが困って、又「貧乏人はタイ米を食え」と「ポチの言いなり」になるのも癪ですから鬱陶しくても黴が生えても♪シトシトピッチャン・シトピッチャン・・・」には、「じっと我慢の子であった」が似合います、たとえ狼でなくても・・・・まして「子連れの大神」ならなおのこと。 年によって、降り方は幾つかの降り方に大別されますが兎に角、この時期の小計雨量は、年間雨量の半分は悠に超える地方が多いのです。 戦後だけでも、小貝川決壊、筑後川・白川大水害、近年では 諫早、長崎の大水害が、梅雨時の集中豪雨によって引き起こされています。 日本の年間雨量は、畳1枚の上に大体1トン半から2トンですから、梅雨時がその半分超だと畳1枚の上に約1「リューベ」の水が梅雨の間に降るのです。 先ずはお笑いを一席。

 昔、或る精錬所に勤務中の或る日、ドイツ人のお客さんがあり見学の後、現場事務所の部長席付近で精錬部長他とデイスカッション中、いきなり部長が大声で、「おーい氷室、立方メートルはドイツ語でリューベやろ?このドイツ人わからへんのやが・・・?」に居合わせた者ドット哄笑。 慌てた部長、更に大声で「なあ氷室、立方センチがドイツ語ではチェーチェーで、立方メートルがリューベでええんやろ?」吃驚扱いた私、「そらアキマヘンがな、リューベは日本語ですよってに無理だっしゃろ?部長!」・・・と。 「満座の中で、部長に恥を掻かせた」ことになって、降等されて九州へ飛ばされる破目に。 (JA4HL→JA6BNBの顛末) 呉々も皆様、リューベがドイツ語だと思いこむような上司にならないで戴きますように!・・・でないと下っ端は首が幾つあっても足りませんから。

 閑話休題。 所で、日本全国全体畳1畳あたり1リューベの水が降る梅雨のこの莫大な量の水、何処から来るのでしょう?そりゃー海からだ。 勿論。 決まってますが、何処の海から?日本の直ぐ南の海?それが違うんだナー。 この時期、オホーツク海の氷が溶けて流氷となってカムチャツカ高気圧という冷えて乾いた気団を形成させつつ北海道の第1コーナーを回って親潮という寒流となって銚子沖に達し、寒暖比重の差で黒潮の下をくぐり抜け回りり込んで小笠原に達し有名な小笠原高圧部をドンドン冷やして小笠原から沖縄台湾までは、乾いた密度の高いつまり比較的冷たい空気にしてしまうわけでここからこの大量の湿気は発生しようがないのです、矢っ張り湿気の大量発生ゾーンは、湿気の極と言われる地球最大のボイラー赤道帯ベンガル湾なのです。 ここは大量の雪や流氷も入って来ず、太陽さえ頭の上に帰って来れば、もう冷えることなく低気圧となりドンドン蒸気を噴くことになり、インドのアッサム地方や、バングラデイッシュの海抜0mの平地を水浸しにするだけでは飽きたらず遂に上昇気流に乗って大量の湿気水分をヒマラヤ山脈や雲南山脈の屏風を越えて中国大陸の奥に水を供給し始めます。 初めは砂漠のお湿り程度ですが、ベンガル湾のボイラーが本格活動始めると、ヒマラヤ越えした直後はフェーン現象で、雨どころでなくてもグッと奥地での暖かい降雨となりここに不連続線を形成します。 これが、天気は西から東へ移動し、東シナ海を越え日本付近にやってきます。 これがベンガル湾中国大陸と日本近海を一つに巻き込む水の変転輪廻現象、梅雨前線の発祥と梅雨現象なのです。

 中国の4文字熟語は多いのですが、その一つに変則4字熟語があります。 一般に4字・熟語というように2+2に割れば、意味は理解しやすいのが4字熟語ですが、一衣帯水という4字熟語は、2+2に分解すると、ある衣が水に濡れた、くらいの熟語としては押しの利かないつぶしの利かない意味になって何のこと、一生考えても本意を理解するに至りません。 例えば、「梅雨現象は、天竺の南海に沸き立つ水がシマラヤの天険を越えて中国に達し、中国全土更には満蒙の辺境荒野にも慈雨を運び、天恵は青豆を育み緑草は名馬を肥やし、長江を初め5川を湛えて我が国に無上の繁栄を約す、この一衣帯の水の輪廻、中華民国5000年の歴史を支え今茲にあり、、、」と中華民国頌と言う昔の国歌並の解説にも出てきていました。 自然の力は偉大、その中でも、このベンガルボイラーエンジンが、この国の5000年の文化と生命を育み培ってきた源で、河の水源となるのみならず、遍く荒野を潤して、豆類の雑草を辺境にも繁茂させて放牧馬を肥やし秋にはしっかり「天高く馬肥ゆる秋」にし続けてきた、整斉たる水の輪廻は、整然たる一衣帯の様を成して居る、というわけです。「一衣帯」「水」と3+1に分けて読んで下さい。

 因みに、ジャックと豆の木 などに象徴される、天に昇るほどの成長力と繁殖力を誇る、この豆科の植物は進化の歴史的には随分と後発で、中国東北部黒竜江省の黒竜江か松花江沿岸付近で発生、瞬く間に進化蔓延世界に広がったモノとされる。 原産地付近にはもっとも分化品種多く、雑草化しているが、馬と鳩などが特に好物とする。 動物の成長に不可欠の良質蛋白質を、植物内合成できるが、これは空中窒素が雷雲の有声放電によって亜硝酸に酸化され雨に溶けて降ってくるのを豆類はその根に持つ根瘤バクテリヤによって、肥料として固定して吸収生育しこの窒素を使って、蛋白合成している非常に特徴的な植物です。

 日本で、JRAおたくなど馬キチに「馬は秋に肥えるカイ?」と聞いても無駄でしょう。 中国では、それなりの理由があったのです。 全く同様に、日本で、梅の実の生る頃に降り続くから梅雨と言ってもぴんとこないでしょう。 中華民国頌と並んで、愛された国花は梅花。 中華民族と文化5000年を育んできた母乳とも云うべき慈雨に、梅花ならぬ梅雨と名付けて、何の憚ることがありましょうや。 お歴々。

 


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