はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(1)(前置の段)

 はみ出し者、その時代の社会の枠という、一升枡に入れて、その器量を推し量ろうにも枠からはみ出しこぼれて、どうにも測りきれない人物。 生まれ出るべき時代を誤らなければ、又別の社会に役立ったかも知れない才能を秘めていたとも見られる奇才など。

 たとえば、新田次郎著「アラスカ物語」に紹介された、明治の初中期の、侍気質の残る日本に填り切れず日本をはみ出し、アメリカに渡る安田某も、これ又アメリカにも填り切れず、北氷洋の気象観測船のコック兼雑役として乗船するが、船が氷に閉ざされ食料が底をつく。 危急を知らせる氷上の脱出行を志願し、百数十キロ離れたアラスカまで、星空を頼りに、九死に一生を得てたどり着き、辛くも任務を果たす。 イヌイットの人たちに食料を船まで運ぶのを誘導して届けさせるが、自分の人生は此の助けてくれたイヌイットの人たちに捧げるべきと一念発起して、退船して、アラスカに定住する。 アメリカの捕鯨業が、鯨の脂だけを取るために北氷洋の鯨を取り尽くし、イヌイットの食料がなくなり、生肉食人種のイヌイットは、生きるのに困る時代に立ち至る。 フランク安田は、イヌイット族を説得し、鯨・アザラシに固執して飢え死にを選ぶより、山にいる大型つの鹿カリブーの肉で生きようと、海辺を捨てて、イヌイット族の大集団を率いて、山越えの長距離移動を計画、誘導し大集団移住に成功する。 これは一見はみ出し者には見えない偉人伝のようであるが、たまたま同時代に、その奇才を生かす別社会に填る事が出来た数少ない例外であって世の中こうばかり旨く行くことは少ない。

 フランク安田が、アメリカに渡るのとほとんど同じ頃の日本で、はみ出しまくって、若くして不遇のうちに生涯を終えた一戸直蔵の生涯を綴っておこうと思う。

 ほとんど余談だがアマチュア無線の国内交信をしていたある日のこと、私をコールしてきた湘南地方の局が、名前は一戸といいます、と名乗られた。 ほとんど反射的に私は、一戸直蔵さんという方をもしやご存じでは?と声をかけました。 「驚きました、一戸直蔵をご存じの方がアマチュア無線をやる方の中においでとは? 爺さんの兄ですから大伯父とでも言うのでしょうか、相当な変わり者だったようで、親戚の中でも余り口にしませんのです、此の名は。 一族の中では世間体を憚る名前という受け止め方でして」「いやー、あれだけの情熱を持って、日本の天文学を世界的レベルにするために奔走することで身も心も使い果たしてしまうということは、並大抵の情熱で出来る事じゃないと思います。 かねがねこの人のことを何とか書き残してみたいモノだと、考えているのですが、、、、」「まさか、氷室さんは天文学をおやりになった方? そうでなければなかなか一戸直蔵の名前さえご存じの方は極めて稀ですから。」 「いえ、天文少年でしたが、子供の頃科学画報かで、ヤーキス天文台の紹介記事を読んだことがあり、明治の30年代にロバ2頭に食料を積んで登って、ここに2年余り住み込んで、天体望遠鏡の実学を学んだ人がある、その名は一戸直蔵という事を覚 えていたわけです。 私自身10数年前、台湾に通い1年、住み込み4年勤務してそのときに、今は玉山といいますが、その昔の新高山3997mに登る機会がありました。 頂上まで連れていってくれたガイドさんが、携帯ボンベの酸素を呉れながら、明治時代日本の統治になってすぐ、ある日本人が此の頂上に天文台を作って、世界一の望遠鏡を置くのだと、時の台湾総督後藤新平に進言し、2人で強力を雇って、登山した話が、戦前までは強力村でだれ知らぬモノはなかったという事ですと語ってくれたのでした。

 これが、一戸直蔵のことだと判るまでに若干の手間暇は掛かったのですが、この時、後藤新平総督が頂上で直蔵の説明を聞いて返した返事も知れました。 「おいおい、直さんや、いくら頂上が狭かけん、天文台が建てられんからいうて、ダイナマイトで新高山の頭おっぺがしては、台湾の人はうんとはいうマイで。 も一寸考えんかい?」と。 これで、後藤新平は直蔵と肝胆相照らす仲とはなったが、やがて、直蔵の突拍子もない発想と行動に気圧されて、次第に疎ましく思うようになるのだと聞いたのでした。 これ以来それらの断片を繋ぐ話を探しているのです。 何か直蔵さんのことおわかりでしたらお聞かせ頂きたいのですが、、、。」 「氷室さんの方が詳しいねえ、先ほども申し上げたように、直蔵の事となると口をつぐむのが、親戚の慣わしだモノで、すみません」と。 やはり一人で探すしかなかったのです。

 後藤新平台湾総督に出あって以降のことは割に掘り出せば出てきましたが、1877年生まれの青森県出身という以外出自がはっきりしません。 それよりも、この人の、行動した明治時代の、日本の天文学分野の実状と世間の受け入れ状況、又当時のアメリカに於けるその辺りの事情を上手に紹介解説しないと、この人がなぜそんな突飛な行動に出ることになったか、当時としてはどんなに突飛に見えたかがおわかり戴けないかも知れないのです。 なるべく当時の社会の状況も解説しながら書き進めないと、意味がなくなり、何のこっちゃ、に終わってしまうかもなのです。時代の移り変わりをしっかり把握していただいて、お読み下さるようにお願いいたす次第です。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(2)(背景その1:明治と改暦の段)

 明治維新が成っても、すぐに、今の社会に繋がる社会の卵が割れて成長を始めたわけではありません。 為政者は勿論の事、元侍も、庶民も、明治天皇までもが、どうしたら、新しい日本に作り替えられるか、日夜頭を痛め、模索し試行錯誤を繰り返し、みんなが揃って、先ずどうやら自分自身の頭の中身を洗張りすることが必要だと考えることによって、明治維新の仕上げが成っていったのです。 そこここに幕藩体制の遺物・残骸が横たわり、徳川300年に慣れ親しんだ、古いしきたりだらけの世の中があり、陰陽師・陰陽道に操られた古い迷信や言い伝えが公然伝統として、世の中の論理や道理を支配していたわけです。 明治天皇は、新しい日本を呼び覚ますために五箇条のご誓文というのを、発しましたがその中の2か条で、「旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし」「知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」と喝破しています。 これなくしては、文明開化の御代は決してこなかったのです。 幕藩時代に、諸外国と、幕府を始め諸藩が勝手に結んだ条約は、すべて騙されたモノと言ってよく、不平等条約そのものでした。 明治新政府は諸藩を肩代わりして、これらを片っ端から調べ上げ、日本政府との条約に更改しながら不平等を糺し、借款を世界通商上の標準的借款に置換する作業に大わらわになります。 利子が利子を生むような不利な条約を交わしていた藩が多く、決済を急がなければならなかったようです。 生糸と絹織物を、決済に使うことが出来たのは、なんと言っても不幸中の幸いだったようです。

 このために、富岡や諏訪地方などの養蚕・生糸生産地には、全国の没落武家の娘子女などが出稼ぎに集まり、家族を食わせるために身を粉にして働き地方送金し、このことが誇大宣伝されて、女工哀史などと若干歪められて伝えられていますが、とにかく、養蚕から生糸の生産を奨励し、生糸の絹織物生産集散地までの輸送手段の整備が大車輪で急がれたわけです。 真岡鉄道、八高線、そして横浜に積み出す横浜線などがいち早く作られたのでした。 こうして、諸外国に対する、被虐的ともいえる情けない不平等条約が、国際レベルの通商条約借款契約に置き換えられる作業が続けられ、最後の置き換え条約の調印が明治23年10月5日に行われたのでした。 これで、明治維新の仕上げが成り、文明開化を目指す新生日本が、名実ともに、文明国の仲間入りが出来る外殻が整ったのでした。

 一方、日本人の生活ぶりは、維新によってどう変動したのだったか。 幕末にはかなりの生活の選択肢が増えては来たが、儒教の精神を底流とした控えめな道徳に支配されて生活していた。 維新後にはいろいろな形で庶民層にも、外国文化に関する情報が流れ込んできた。 維新で、世の中をひっくり返した貴族層には、まるっきり外国かぶれするモノも多く、鹿鳴館時代という、何ともナンセンスな浪費生活・享楽主義的な昼夜を送る者の集まりもあったりして心ある者を憂えさせた。 たがの外れた桶板のように日本人の生活態度が腐敗怠惰華美に流れることに時の明治天皇も心を痛めたのでした。

 前述のように、新政府の努力により、時流相応の国際的独立国としての体裁を整えたこの年此の月を記念に、明治天皇は、日本人の生活道徳復興と、人の道の再構築に資する何かを残そうとブレインの学者に諮って、「教育勅語」なるいわば「人の道宣言」を此の月末に渙発されたのでした。

 此の時代の日本の庶民の生活を律していたのは、一つには、中国4千年の歴史に基づく、孔孟の教えと、陰陽道から来る暦とそれにまつわる蒙昧な迷信をも含む、言い伝えに根付いた生活ノウハウであったと言えるでしょう。

 陰陽道を司り、陰陽師の允許を取扱い、暦の頒布で財をなしていたのは、平安以来700有余年独占的地位にいた土御門家であった。 幕末のごたごたが始まると、土御門家は利権危うしと見たか、別に暦も狂っていなかったにも関わらず、幕府と朝廷に改暦を申し入れている。 存在感を示そうとした以外の何物でもない。 しかし直後に大政奉還という、驚天動地の事件が起こり、無視されただけでなく、幕府解体に伴って、暦法管理権を新政府預かりとされてしまった。 一つには、世界的に暦法議論が盛んになっていたことに、土御門家は目をつぶっていたのに対し、幕府暦法方は勿論在野の究理学者らは、その議論の行方が、近々ユリウス暦が、グレゴリオ暦に改変されることまで、見抜いていたのであった。

 その通り日本では大政奉還の翌年、世界では万国暦日付会議が開かれ、参加国のほとんど大多数の賛成で、太陽太陰暦のユリウス暦を廃し、太陽暦グレゴリオ暦に改暦し、世界の年頭日、すなわち1月1日を世界中統一し毎日の日付と曜日を世界中同じにようと言うことが議決されたのでした。 日本は、中国暦に倣って、太陰暦でしたから、これから太陽暦それも2月が極端に短いグレゴリオ暦に改暦することは世の中がひっくり返るほどの混乱になると、大勢は大反対でした。 実際、農業国の日本では、作物の種まき、植え付け刈り入れ、何をとっても、旧暦で季節と農作業生活にピッタシ・フィットしていて、何の不足もないと思われていました。

 ところがです、頼みの綱であった、陰暦国中国、時の清朝は、一年半後の明治5年に、此の太陽暦日付条約をあっさり批准してしまったのでした。 寝耳に水と日本新政府は慌てることになります。 実際にどう国内で暦をどうするかよりも、気は「清国に遅れを取る此の恥さらし、、、。」の国内批判が怖い。 しかし維新カイオスの真っ直中の新政府には暦どころでなく内外多事山積の有様。 しかし新政府内には外交の際など、その文書の日付が、国際的に違うことの不自然さ煩雑さの他に、太陰暦の暦日が、迷信的暦注と結びついて文明開化に向かうべき民間の啓発や教育の邪魔になっていることや、外国の制度の取り入れの障害になることを理由に、権大外史、塚本明毅の世界暦に倣うべきことの提議が出されるに及んで、いい理由が着いたとばかり、あっさりとグレゴリオ暦改暦を11月批准可決、12月を短縮12月3日を明治六年1月1日とすることにした。 これから約40年、福沢諭吉など文明開化派の旧暦擁護併記派と旧暦完全廃棄派の文部省外務省海軍省が、公然ジクジクと、揉め続けることになる。

 福沢らの言い分は明治6年が旧暦の閏年で、政府月俸予算が明治5年分も11月ですでに赤字、これで明治6年が13ヶ月予算では政府が立ち行かぬからと言って民意を深くも聞かずに急に改暦断行するとは、独断専行もここに極まったとして新政府を糾弾するところから端を発している。 政府も応戦、改暦に乗じて、旧暦占朴併記の暦を売って民心の動揺を煽り、旧体制復帰を諮ろうと言う反政府運動はきつく官憲によって取り締まるという布告を発布し旧暦併記の暦は見つけ次第没収焼却するに至る。 しかし、内務省から仲裁案が出され、明治7年秋頃から併記ではなく、「月齢合載」暦はこれを差し許すこととなった。 しかしこれでは暦は売れず、民間は依然旧暦の行事に固執が続き、新政府に対する反感醸成の一因であった。

 西南戦争はそうした中で起こった国内最後の戦争であった。 稀代の大度量、西郷隆盛は新政府の不明振り、そして腐敗官僚の存在を嘆きながら、此の「はみ出し一代」セゴドンは「しかしそれをしも又時代、やむを得ぬか!」と城山に自刃した。 時に明治10年9月であった。 お手玉唄、鞠つき唄には「私は九州鹿児島の西郷隆盛娘です、明治10年3月に切腹なされた父上の、、、」と歌うが、実は半年もずれている。 語呂合わせの罪のようだ。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(3)(背景その2:当時の大学と天文台の段)

 斯うして世界と共に歩く文明国の一員となった以上は暦を科学の中に取り込み、暦法は天地の運動の究理によって定まるモノという概念を教育の中に取り入れ西洋風潮を盛り上げなければならなかった。 旧幕府の天文方、麻布の観象台こと天文台、暦法方などは、昌平こうとともに東京帝国大学の前身開成校に引き継がれ、文部卿の管轄に移された。 始めは、第一番中学開成学校;昌平学校と称したようです。 しかしいつの間にか、第一番中学という枕詞は消えて、開成学校、昌平学校と並び称されたようです。 昌平学校(現在の湯島聖堂@昌平坂)は手狭で、開成学校(@本郷赤門)がどんどん学科学級が上積みされて、大発展し各単科大学を持つようになっていったのでした。 そして5箇条のご誓文「知識を広く世界に求め、、」で、お雇い外国教師をどんどん招聘した訳です。 これらが東京大学となるのが明治10年、更に帝国大学法で東京帝国大学となるのが明治19年です。 こうなった後東京天文台が東帝大の管轄のもと建設され、寺尾寿が初代天文台長として、着任、暦世天文一切を取り仕切る、つまり天文は大学のモノに取り込まれたのでした。

 当初はどんな学問の分野をどの程度の広さと深さで教育することにしたらいいか、諸外国の程度もそれらのお雇い外人教師から習って決めて行こうと言う、甚だ虫のいい状態でありました。 その為には先ず外国に留学できるだけの素養と肝玉を育てなければならなかった。 そういう人となりを育てて、諸外国に留学に出して勉強させながら、日本に来て何か役立ちそうな先生にめっこを入れさせ、口説いて引っ張ってこようと言うところから始められている。 学校も、天文台も暦法方も、足早に、裃を脱ぎ捨て、西洋風に改革出来るだけの自信を少なくとも植え付けて貰う必要があったのでした。

 安倍の清明の、化け物退治の陰陽道以来の、陰暦と、迷信化させて生活を律するようにさせようとする暦と占ボク術に毒されて700年、既に賽は投げられて、グレゴリオ太陽暦を批准し、諸外国と1月1日を一緒に合わせて、ハイ文明国でございと言ってみても「散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする」チャカポコチャカポコ、、、、中味が空っぽの音では始まらない。 政府は暦頒布権を押さえたモノの、巷は囂々たる非難、迷信だらけの占ボク術百っ鬼夜行の有様だったのでした。 徳川時代のごくごく終わりに近く、漸く洋学書によって知られた究理に立脚した天文学を普及させて、暦の中の占ボクと、百鬼を追い払わなければいつまで経っても真の文明国とはなれそうもなかった。

 そお言う意味で、開成学校の究理・天文の教授の人選は難航し、最終的に、ヨウロッパに偏らず、アメリカとヨウロッパから常に毎年半半に招聘することになった。今も昔も変わらぬ官のイージーゴーイング的結論誘導法であったのです。 この決め方が、呼んできた先生によって、生徒の仕上がり方がガラッと違うことになる。 たまたま生徒の品性にもよるのかも知れないが、フランスから呼んだ究理専門の先生についてしかし天文を勉強した寺尾寿は、卒業して直ぐフランスに留学、勉強を重ねて、帰国、やがて、東京天文台の初代総長を永年勤めることになる。 しかし、明治も半ばのアメリカの天文専門教授についた一戸は、アメリカ流の、天文台設営学を中心に指導されてしまう。 そして、アメリカに留学するのだが天文学の理論でなく、当時、アメリカ中部の荒野の山に建設された、最新のヤーキス天文台に望遠鏡とその設置、操作、メインテナンス法を習いに行ってしまった。 この辺がその後の一戸の行動を律してしまうことになったし当時の西洋かぶれがアメリカかぶれにひどく偏った原因になったように思う。 人は環境に生きる動物ってことかも。 後段で、当時のアメリカ流天文台とは何であったか特に説明しておきたい。 それはヤーキスだけでなくその後の巨大鏡天文台についても言えることであったのだが。 意外にその辺のことを日本人は知らされないのです。

 一寸脱線ですが、イギリスで、産業革命の導火線となった発明は、ジェームズ・ワットの、蒸気機関の発明でした。 これはトウインビーの近代産業論の講釈を待たずとも大丈夫ですね。 ところで、そのジェームズがやかんの蓋が蒸気でカタカタ踊るのを見て、蒸気機関を発明したと日本の学校では習ってしまいますね。 一寸待って下さい。 ジェームズの家はそんなに裕福な家庭でしたか? 彼の父親はジェームズの兄弟を沢山抱えて、近くの炭坑で、穴に潜って、石炭を掘る炭坑夫でした。 昔は、偉人伝とかよく読めば書いてあったようです。 私はたまたま近所の遊び仲間に借りた少年倶楽部で読んで知っていましたが、当時青い釉薬を見つけて売り出した陶器で一山当てたウエッジウッドがスポンサーとなって初めてジェームズワットは蒸気機関の模型を作っては壊しして、発明を完成することが出来たのです。 これをフランスでは小学校で習います。 蒸気機関は大切だが、博愛が大切、そして、先行投資も大切。 と言うことを教わるのです。 偉人伝でなく、社会には何が大切かを教えるのです。 ウエッジウッドはただもうけただけでなくそれをジェームズの才能に掛けて彼を助け、そして蒸気の力を引き出して産業の姿を変えただけでなく社会構造まで変えた、とまあこういうわけです。

 昭和7−8年頃の科学画報にも、このワットの蒸気機関の発明を助けたのは、ウエッジウッドだったという記事を10年ほど前に私は見つけました。 日本でも偉人伝を教えろと言うのではありません。 間違えないで下さい。 折角の大発明の卵でも、しっかりとしたその才能を見抜くスポンサーが付けば、世界中が潤うこともある、このワットの蒸気機関は好例だったと言うことは教える価値があると思うのです。 トインビーがどう捕まえていようとも。

 アメリカのヤーキス天文台以降の個人財団持ちの巨大鏡天文台のケースは大分違います。 先ずヤーキスという人を知っていますか? 日本人の99%以上は知らないでしょう。 蒸気機関のワットや産業革命ならもっと沢山知っているでしょう。 私はこれも少年倶楽部か子供の科学で読んだ記憶があります。 ついでに言っておくと一戸直蔵の名前も科学画報で子供の時に見た記憶があったのでいた。(前に書いたか)

 ヤーキスもご多聞に漏れぬ、シカゴのチョイとした悪でした。 フランスやイギリスで、路面・市内電車が盛んになると、いち早く、勤めていた銀行を退社しシカゴの路面電車路線を片端から落札独占専有に走ります。 市長・市議を買収、籠絡し、汚職贈賄もビジネスのうちと称してやり放題。 遂に電鉄王と言われながら、やり放題が過ぎて、夜の帝王になろうとする直前、新進気鋭の新聞記者の籠絡に失敗、生まれ故郷ペンシルバニアの新聞ですっぱ抜かれて失脚。 ニューヨークのIRT地下鉄の株買い占めもばれて、おじゃん。 結局アメリカでは汚い金と言われて、投資も出来ず、どうにか株を全部金に換えて、アメリカ脱出。 イギリスに渡り、ロンドン地下鉄の株をこっそり買い占め、漸くロンドン地下鉄の理事を務めた。

 晩年、石油王ロックフェラーが作ったシカゴ大学が、ヘール博士の設計の口径1mの世界最大の屈折望遠鏡をどこかに据える計画があるのを聞き込み、どうせ地獄までは100ドル紙幣一枚、持っては行けぬと、すべての私財をなげうった。 ウエッジウッドと随分違いますわね。 これが当時最新鋭のヤーキス天文台です。 免罪符的発想の産物です。 この屈折鏡は荒野のど真ん中、一寸した丘の上。 文明の光が来ないだけ。 お金にモノを言わせる。 しかしこの屈折望遠鏡は確かに世界一だが焦点距離20mは長すぎ重すぎ、使い勝手が世界一悪いことが判り、ヘール博士が大反省。 以後は高山に巨大反射鏡ブームが跡を継ぎます。 これを見かけ上、ジャイアンチズムと呼んでいます。

 アメリカから雇われてきて、一戸直蔵に天文学と言うより天文台学を教えた先生がこの出来立てのホヤホヤのヤーキス天文台に知人を持っていたのでした。 私の記憶では、一戸は、ロバ2頭に食料と水と、蝋燭と油を積んで、荒野を数日掛かって、天文台まで歩いて行ったと書いてあったと思います。 日露戦争が終わった1905年のことだったのです。(続く)


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