はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(4)(直蔵:実学に填る、の段)

 明治5年の秋になって、手のひらを返すごとく、アッと言う間に、グレゴリオ暦の批准と、太陽暦への急遽、転換を図った最大の理由は後に、時の宰相大隈重信の語録にある由。 前述の福沢の突き上げ発言の通り、最大の理由は、明治6年が陰暦では3年に一度の閏年で、月俸制のため、13ヶ月分お給料を支払わなければならないことを避けるのが最大の理由でした。 ウソも方便、貴族院の演説では最大急ぐ理由は、清国に遅れを取っては文明国に仲間入りした名が廃るの誹りを受けるのは我慢ならぬであろう、が理由。 諭吉はこれらの語録を手に入れ糾弾したのでした。

 一方、天文台は、差配・管掌が猫の目のように更迭されながらもどうにかこのグレゴリオ暦への急転回を乗り切ったのでした。 付け足しておきますと、万国・暦・日付条約では、グレゴリオ暦への切り替えと1月1日の統一。 それに、地球の日付変更線をグリニッチ子午線でなく、もっとも国数の少ない180度の子午線にすると言う決定でした。 1933年までに現在のアラスカとニュージーランド付近で曲がった日付変更線に何度か修正されたのでしたが。 原型はこの年に出来たのです。

 政府も学校・大学も、実は天文や暦どころの騒ぎではありませんでした。 ああそれなのにそれなのに、海軍省がお雇いアメリカ技師の言うままに天文台を設置してしまい、内務省もいや暦法は我が省にて、されば天文台を、いや暦法・天文とも大学が管掌仕る、よって大天文台は是非文部省にて、、と現業官庁3巴の葛藤が激しく始まりセクト、お互いの事業連絡は途切れて、明治14年の内務省地理局による東京府下大観象台設立案は、海軍観象台の柳楢悦の反対にあって、潰される始末。

 明治の初年、開成校や昌平校に入ってくる人はエリートの小倅などが、政府出仕の道を得ようと、法経書学にはそこそこ来るが、理工学系に学ぼうとするモノは、数年に一人、それも目的が極めて偏っていた。 一方招聘されたお雇い外人教師も、広い分野に総花的に通暁して且つ教師免許のあるモノは少なかった。 そんな時代でした。グレゴリオ暦に改まった明治6年。 フランス人レピシェが開成学校のその他物理の意味の、諸芸学科主任として着任した。 一人だけの学生として究理・天文の受講を希望している寺尾 寿が居た。フランス語の素養はなかった。実直・寡黙な男だったが、フランス語を覚えるからと迫り、究理天文の関係語と、一般的なフランス語の単語帳を自分で作りながら、フランス語と究理・天文の勉強に日夜努力を重ねフランス留学に値するというレピシェの優等判定を得た。 この後しばらくは、この手の優脳者は記録されていない。 天文・暦関係では明治21年帝国大学にドイツからの招聘教師が独語物理を開設したときに入った平山 信が、地球物理と天文学を学び、更に光学を学んでドイツに留学した。 そして、明治28年日清戦争の終結を待って、帰国して帝大の物理天文学講座を担当している。 この平山 信迄は、そこそこの勉強までで、政府関係官員様になる程度の凡人しか育っていない。 外人お雇い教師が目を見張り、自国に留学に値すると、優秀判定するについては、そうとう腹を割って話が可能なほど外語会話が出来正確な質疑が可能でなければならないでしょう。 実際平山 信は当時ドイツから来ていた外人教師のお眼鏡にかない、ドイツに留学、寺尾が学んだ、星学とも言うべき保守的な位置天文学などが主流のフランス天文学とは一風変わったドイツ究理天文学に傾倒し、多くの人の協力の必要性、天文教育の重要性をも積極的に学び取って帰国していた。 寺尾が自身の勉強、観測に熱心な才人ではあったが、教育・研究に消極的で、弟子が育って来ないことが言われていたので、寺尾が天文台長兼務で天文志望生があると時だけ、星学教場を開き、平山は地球物理、とドイツ物理天文を担当し、数年間だけ招聘外人教師が居ない時代があった後平山が寺尾に変わって2代目天文台長の席につくこととなって、再び、帝大にはお雇い外人教師が必要となった。 寺尾がフランス天文学、平山がドイツ天文学、しからば次は、アメリカ天文学は如何やということでもなかったのだろうが、海軍省がアメリカもそうであったとして維新直後から開設運用している海軍天文台にお雇い外人が居たのだがその推薦で、アメリカから外人教師を招聘した。 水路局向けの天測技術者養成の教育訓練実習はお手の物だったらしいが、物理天文学に余り造詣深くなく、アメリカの当時のジャイアンチズムの宣伝マンの観がある、陽気なヤンキーだったらしい。

 ここへ、官員様大嫌いな田舎者,一戸直蔵が入学したわけだ。 何故官員様を蛇蜴のごとく嫌ったかは伝承がない。 ともかく、津軽弁とベランメエアメリカン英語が意気投合して不思議な組み合わせが成立したらしい。 田舎からポット出のナイーブな一戸のメモリーには、アメリカのジャイアンチズム天文学が、又、当時女性(1902年?スノー嬢など)が大型望遠鏡を寄付したというアメリカ社会の市民の平等性などが、超強烈な印象として又理想として染みついて不思議ではなかったでしょう。 斯うして、一戸直蔵は理論天文学よりは実学天文台建設、望遠鏡の据え付けなどにはまりこんでいったのでした。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(5)(直蔵:の頃の天文界の様子の段)

 明治維新で、日本は鎧甲は脱いだモノの、産業革命にはほど遠く、実業は殆ど育っていなかったのです。 世界からはその意味では1世紀近く隔たった遅れでした。 背に腹は代えられぬお金に替わる決済資材としての、生糸と絹織物(当時は絹布と言った)の生産とその運搬鉄道は焦眉の急で、新政府が、外国から導入した機械で、建設、外人の指導で、動かした。 それらは外人技師には至極当たり前に動いたわけだが、明治の人々には、化け物か怪獣のように見えたに違いない。

 落語の故志ん生師匠の18番「抜け雀」の枕に、明治5年に新橋から横浜まで出来た汽車が出てきた。 志「近年、新橋から横浜まで出た汽車を岡蒸気と言いました。 みんなはあれはどうやって動くのだろうと言っていましたが、乗った人は自慢していました。 皆「岡蒸気に乗ったってな!」 乗「そうよ!。 おめえ達なんぞ乗れやしねえから。、、、乗っててみなよ。 いろんなモノが飛んで来るんだ、電信柱が飛んでくるは、、、山が来るは、海まで飛んで来るんだ、、、、、、それをな、まあ、うまーく避けるんだ!」

 それが笑えないそんな文明の夜明けでした。 当然、蒸気の怪物を見たり乗ったりした人には舶来崇拝の心が芽生えて無理はないでしょう。 この舶来崇拝の心は、日清・日露・第一次/第二次大戦に勝ったり負けたりした後も変わることなく、今も舶来ブランド崇拝として、根強く生き続けていますね。 米、魚や肉だけは逆のようですが。 当時はすべてでした。

 一方寺尾や木村を育てたレピシェが建議していた、天文台は、開成学校が東京大学になってからの明治11年漸く実現することになった。 この年、米人物理教師メンデンホールが招聘されて、東京大学の学生に、天測理論とその実地指導を行っている。 又大学内と富士山頂での重力測定を行った。天文と言うより地球物理と言うべきであろうが。又物理の先生は光学実験室を作って、太陽スペクトルのフラウンホーファー線の波長測定もして見せている。

 測地や、報時の官業から離れた純理論天文学では、ニュートン・ケプラー・トンボー達の天体力学がなお過去の栄光の残照が残っており、新興の天体物理学や後に大望遠鏡時代に開花する膨張宇宙論が起こる兆しも見えなくはなかったが、お雇い外人教師達は殆ど紹介に及んでいない。

 明治13年、メンデンホールに代わり、ワシントン海軍天文台所員ポールが来て漸く、理論天文学授業を行ったが詳しい説明は測地学に必要な範囲にとどまったようです。 ポールも、明治15年に又、内務、海軍、文部、3省協同の天文台に統合拡充設立を提案したが、、前年反対した、柳楢悦が海軍に健在で、相手にされなかった。 この度の、柳の過激な発言「富国強兵に直接関係ない予算に金を出す様な政府は政府ごと叩きつぶさねばならぬ」はポールをいたく失望させ、野蛮国には居られぬと憤慨、船を予約、席を蹴ってしまった。 翌、明治16年フランス留学から寺尾が帰国、ポールの講座を引き継いだ。 しかしフランス純粋天文学は、ポールのモノとも異なり、学生は面食らったようである。 寺尾は明治18年、天文学という自分の講座を星学と改名している。

 明治21年になって、海軍省水路局長柳楢悦が急に退職。 事態が急転回。 政府予算局が予算の有効活用を旗印に、内務省地理局観測課天象部の天象観測と編暦事業、海軍省水路局観象台の天象観測作業を併合して、麻布飯倉の海軍観象台の地所に東京天文台を設けて、帝国大学理科大学付属とする政令を発した。 3省ともぐうの音も出ない。 富国強兵以外に金を出す奴はブッ潰すと言った柳は居ない。 下のドジョウだけ。 すんなり決まって、寺尾が初代台長を拝命。講座は又お雇い外人教師に。 斯うして寄せ集められた東京天文台は、寺尾台長のもとで、沈香も焚かず屁も放らず編暦・報時などの官庁業務にいそしんでいた。 寺尾の人柄とも取られ勝ちだが、この発祥の経緯を思うと、寺尾の立場は相当微妙だったようだ。 海軍OBには口うるさい榎本武揚や勝海舟が政界に口出ししかねない位置にいたし、目の上のたんこぶは☆の数ほど居たようだ。 斯うして台内には、「お役所天文学」の空気が瀰漫していたようである。 後は余暇にちっぽけな望遠鏡で、夜空を眺めて、観測と称する程度だった様だ。

 一方国際的に天文分野を見ると、19世紀後半は、国際協力の機会が増えて、意見交換が物理天文学を動かし、研究の加速度がついてきた観を深くする。 次の章で述べてみたい。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(6)(直蔵以前の国際協力の段)

 一般的に言って、一口に天文学と言っても、今日言う、カーナビなどの位置、言い換えれば、緯度、経度の測定など、地域科学的なことと、地球は一つ、的な、宇宙論など地域には関わりのない面とあるが、特に後者については、更に国際的な情報の交換、前者については、地域的にどのような違いがあるか、の比較論的情報交換、が必要であろう。 産業革命によって、機械が発達し、交通手段が出来、有線電信網が出来てきた19世紀の後半はすべての学問にも革命的な進歩が起こるが、天文学では観測の国際協力という進歩が約束された。 たとえば、南半天球の石炭袋や南十字星はヨーロッパでは見えない。 喜望峰の天文台では見える。 ヨーロッパでは昼星の見えないときアメリカでは、夜で星が見える。 日食や月食、惑星の掩蔽、水星や金星の日面通過などの現象では緯度経度の異なる地球上の2つ以上の異なる点で観測することによって、望外の効果を上げることも多い。 18世紀から行われ始めた国際協同観測は、19世紀半ばから、船や鉄道の便が始まったことで、急速にネットワークづくりが始まっていた。 更に、明治新政府がお雇い外人を呼ぶようになって、お雇いでなくても西欧の学者が、東洋にも来航するようになった。

 東洋の中でも日出ずる国すなわちもっとも東北に位置する日本が、近代化したことで、国際的観測網の上で、重要な位置に現れたことになった。 この位置でなければ、お雇い外人教師もおいそれとは来なかったかも知れないくらいお互いにそれは有り難いことだったのです。 偶然にもそれは明治6年頃から目に見えてきます。 金星が太陽面を通過する時間を地球上の違った点から測ることによって、太陽の地心視差、つまり太陽と地球の間の絶対距離が求められる。 これは極めて重要な観測なのだが、金星が太陽面を通過する現象はそう頻繁に起こらない。 明治7年(1874)の機会は1769年以来のことだったのです。 そこで早くも、明治6年に、米国政府から日本政府に横浜、長崎に観測所設置の申し入れがあり、例の柳水路局長がこ の好機に天測を研究修得すべき旨答申して外人の観測が許可されている。 当日、アメリカ、メキシコ、フランス、日本の4班が観測して好結果を得た。 この際、来日した外人から、当時の日本では未だ知られて居なかった、電信利用の経度測定などの天測術を習ったり、四分儀・六分儀他天測儀、望遠鏡など機械器具の斡旋を依頼したり文献を依頼して交流の実を上げている。 日食観測も、観測遠征隊を交流させる好機である。 明治20年の白河日食では、アメリカの天文学者が来日し、明治31年のインド日食では、日本から観測隊を派遣し以後もしばしば観測隊を派遣している。

 19世紀は国威発揚の世紀だったので、天文学にも国際政治の駆引きや軋轢が絡んでくることが多なった。 上述はほぼ純粋に天文や地球科学的国際協力だが、国際的に政治が絡んだ問題もあった。 1883年ローマに於ける測地学会(日本は不参加)の要望をもとに、翌1884年25カ国が出席し、ワシントンで子午線会議が開かれた。 それまでもとになる子午線(経度原点線)が国によって違って数カ所あり、地図が違った経度で作られていて混乱していたので、この際、イギリスのグリニッチ天文台の子午儀の中点を通る子午線に統一し、ここを東西経0度の本初子午線としこれから東経西経各180度を採ることを公式に採択した。 グリニッチを原点とすることはイギリス中心主義として、フランス代表は猛反対の演説をぶったが、日本代表菊池大麓は、大勢に同調した。 フランスは、それまでもパリ天文台の子午儀を基点にした経度の地図であり、現在もミシュランの地図には、グリニッチ基点のモノとパリ基点のモノと2通りの地図が売られているので注意が必要2度40分の経度の差がある。 この決定以来日本の標準時は東経135度によることとなった。

 更に、1895年の国際測地学会の時、ドイツのベルリン天文台長フェルステルの発議で、地球上なるべく経度の離れて居て緯度の等しい箇所を数カ所選び、ここに国際共同緯度観測所を設ける案が大多数の出席者の賛同を得た。 当時日本の科学界は黎明期で、欧米人から見ると精密な天文観測を日本に委託するには時期尚早であり、ドイツ人技師を送るべきとドイツは主張したが、日本代表大森房吉が、日本人の特性を説明、日本人自らの手でさせて、技能知識を更に磨かせるべきと主張して、ドイツを説得、日本人の手で行うことに決定した。 ついで、1898年に開かれた、同総会で、この案の実施が承認され1900年から5年継続で、日本の岩手県水沢が、その観測所の1つに選ばれた。

 大森房吉が突っ張り発言したのを証明するかのように、水沢の所長、木村 栄(ひさし)が1902年に緯度変化のZ項を発見精度が世界的であることを証明した。 当時の日本としては、珍しい国際級の仕事であった。 以後、緯度変化の測定は日本のお家芸となり、水沢緯度観測所は、後に第一次大戦後の大正11年から昭和11年まで、緯度変化国際中央局の栄誉を担い、更に第二次大戦後、再び国際中央局に復帰している。

 一戸直蔵が、大学に学んだ時期が、丁度この水沢緯度観測所の地道な観測が精度を上げた頃で、彼にとってはアメリカかぶれの頭から見ると、なんとチマチマしたことと感じていたかも知れない。


(C) Copyright 2002-2003 JA2RM and JA9IFF All right reserved.