はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(7)(まさにジャイアンツ・アメリカの段)

 無線で音声で交信するとき、言葉を確実に送るために分解して、1字づつ確認するためにはフォネチックワードと言うのを使いますね、aはアルファ、bはブラボー、、、、、zはズールー族と言うように。 数字の1はナンバー・ワン、2はナンバー・ツー、、、、では9は?それがナンバー・ナインではナインです。 世界的にこれは、ナンバー・ナイナーが正解なのです。ナイナーって何?と日本人は90%以上知らない。 ところがでは49er、フォーテイー・ナイナーはと言うと5%位知った方が増える。 そのナイナーなんですね。

 19世紀のど真ん中。アメリカ西海岸で、幾つかの河の中から砂金が見つかった。 山師が探すと至る所から山砂金が見つかった。 ニュウスが東部に飛ぶ。 1849年は、ゴールド・ラッシュ、遅れてはならじ我も我もと、馬や馬車を西に走らせるモノが相次いだ。 こうしてこの年頃西部に移住した人を49er,フォーリーナイナーと呼びます。 西部活劇、保安官ドク・ホリデーが、悪者ワイヤット・アープ一味を倒す荒野の決闘、Oh, my dearling Clementine 主題歌の一番にも出てくる。 ♪、、、excavating for a mine、 dwelt a miner,49er, and his daughter Clementine。 鉄道と、電信線が、西へ西へと人を追う。 そんな一時代を作り出したわけでした。 この唄の中では、最後は、クレメンタイン嬢は身をはかなんで、朝九時に、泡立つ激流に身を投げてしまうようですが。

 日本ではその年は、嘉永2年。 未だ太平の世、松前、琉球には、アメリカ、イギリス、フランス、オロシャの船が頻々と現れてはいたが、、、たった4杯で夜も眠れなくなるペロリの蒸気船が来るのは未だ4年後のこと。 鍋島藩で、直正公が全藩民残らず種痘する事のおふれを出した年。 このゴールドラッシュ、西部開拓が19世紀後半のアメリカ経済発展の導火線だったわけ。 日本にも開国を求めるようになる蓋然かくの如し。

 母国イギリスから独立戦争によって、新大陸に独立市民権を得て13州アメリカが1789年。ヨウロッパ特にイギリスでは既に産業革命が、すべての工業に、偉大な展開を始めた頃でした。 段々落ち着きを取り戻し、先住民を蹴散らしながら、西へ、北へ、兵担線が延びて行くに連れて、馬車集団ワ-ゲントレインや駅馬車による人貨の輸送の限界が危ぶまれ、イギリスから多くのノウハウを持ったエンジニア達が、東部に渡来し、イギリス式に、山間部の大水車動力工業を脱皮して、復水器付きの4倍能力の蒸気機関動力で、ペンシルヴァニア西部の無煙炭の露天堀炭坑をフル稼働して平野の付近に色々な鉄工業から派生する産業を興し、急激に工業発展することになった。 山間部に残った水力水車工業も大水車時代を出現させ、直径100フィートなどざら、、、、日本の水車を想像しては困ります。 岩をかむ激流、とそれが削り取ったカスケード滝の対岸のオーバーハングした岩場に、大型の木製の要部鉄補強した水平水車を仕掛けるのです。 此の回転を平ベルトをねじって、水平シャフトの回転にして主軸を廻し、一つの工場の動力源にしてしまうのでした。

 NY州北東部、のヴァージニア州近い山間にフージック・フォールズと言う滝の名がそのまま町の名という昔の山間の工業の町があり今も100feet直径の大型水平水車を廻したカスケードと岩場と工場の跡が残っています。 製紙工場だったのがその後色々変遷したようです。 こうして、アメリカの産業革命は、独立後50年後の1840年頃に始まり、爆発的にわずか20年ほどで、製鉄所の近代化、鋼材鋼板ワイヤー更には、精銅所、電線製造所を近代化したのでした。 これによって鉄道の敷設も、それのタブレット連絡電信儀用の電線の架設も追いつき、中西部開拓の発展の大きな力となったのです。

 エネルギー源として石炭が初期には使われましたが、テキサスで水井戸を掘ったら油臭く飲用出来ず、別の箇所に掘り直したら、なんと石油が自噴して来たメッチャ・超ラッキーな人も現れて、一攫千金文字通り。ジェームズ・デイーンが演じた「ジャイアンツ」でおなじみ、石油王ロックフェラーなどです。 産業革命のおかげで石油は時代の寵児となり、所得税もない時代、儲け放題、稼ぎ放題、ゴールドラッシュの噂に、ヨーロッパからなけなしの金をはたいて新大陸に渡ってきた人たちとの間の貧富の差は、計り知れないモノでした。 やがて、此の恨み辛みで社会不安が醸し出されます。 富豪ランドvs貧民ハーレム2極化。 富豪の免罪符的寄進が始まりますが、見返りのあるモノへの寄付は、汚い金として嫌われ[ジャイアンツ」と言われるためには、元々見返りの期待できないモノへの寄付と言うことになり、ここに浮かび上がってくるのが天文台。 どんな金持ちでも天文台からの見返りがなさそうなことは、ハーレムの人たちにも理解できようと言うモノ。 とかくの噂のヤーキスもイギリスロンドンの地下鉄で稼いで来た金を天文台に掛けた一人だったのです。 こうしてアメリカでは、「ジャイアンチズム」天文台時代が始まったのですが、、、一戸直蔵が「うぶな心で」やって来たのがたまたま又「その」ヤーキス天文台だったわけです。 アメリカに産業革命が渡ってから60年、20世紀がガラリと明けて5年。

 蛇足ですが、イギリスで、ジェームズ・ワットがウエッジ・ウッド陶器会社社長の援助のもと、ワットの蒸気機関を発明、専売特許を取得したのが、1769年。 12年掛かって、レシプロ・アーム・マシンを、弾み車の回転に変える装置を作っています。 その後、協同発明者の発案で、安全弁や、インジェクター付きのボイラーとコンデンサー「復水器」付きの蒸気機関に出来て、初めて、安全・安定・強力な蒸気機関として、1785年頃から工業動力に爆発的に、使われることになったのでした。 マンチェスター、バーミンガム、シェフィールド、グラスゴーなど、山間部から、工業が平野や盆地の平らなところに降りてきたのでした。 イギリスは小さい島ながら、至る所に炭坑があり、石炭の供給には当面事欠くことはなく、スチーブンソン始めみんなが、こぞって競い合って、機関車を作り、線路を造って、鉄道網を強いたのでした。 但し規格化されず、軌間距離などはテンデンバラバラ、後に国有化するに際して国家的大問題。 エーイ面倒とばかり、植民地インドに売り飛ばしてしまった。 今でもインドはこの為鉄道が発達できないでいる。 軌間距離が30種類以上もある由。 大変な付けを廻したモノです。 それはさておき、、、。 此の汽車ポッポ・鉄路ブームは、既成都市ロンドンやパリに、地下鉄を作るのですが。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(8)「その頃の世界情勢は、の段」

 一戸直蔵の渡米に先立つ、19世紀の後半は、産業革命に裏打ちされて、多くの産業が勃興し経済が激動しながら豊かさを増し、それに連れて、人心が安定する反面、社会不安にも揺れ動いたのでした。 ギリシャ・ローマの昔から、人心の不安・社会不安の時は、人心を外に向かって開かせるのが為政者の常套手段。 現在の某大国大統領も一所懸命これだねえ。 1世紀半遅れてるようなモノです。 一世紀半前は、ホンのチョイとしたことに目くじら立てて、大戦勃発ね。 社会不安に伴って醸される社会思想で、国際情勢が、右往左往した時代でもあったのでした。 アメリカでも、独立戦争の後、イギリスは、18世紀の終盤、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランスと、次々領地の争奪紛争を起こし、19世紀にまで、くすぶらせているし、世界を股に掛けた大国の版図主義は、19世紀後半若干スマートに見せかけただけで、一つも改まってはいませんでしたから、後発のドイツ、不凍港確保のためのアジア極東進出を絶対命題とするロシアは、ジタバタ動き回っていたのです。

 明治新政府が出来た頃から日本の外交上の問題は、始めに述べたとおり、幕藩時代の各藩と幕府がテンデンバラバラに諸外国の借款と引き替えに向こう充分な条約を交わしているのを新政府が肩代わりする、そのかわり、不平等を糺さねばならぬと言うことのほかに、朝鮮の腐敗気味な政府が、新政府の成立を祝って来たがその書状で、此の機に朝鮮に朝貢するように求めてきたことで、騒然となっていた。 大勢が朝鮮征伐に傾く中で、西郷隆盛が一人「オイドンが行って、此の一言は引っ込めさせてきましょう。 戦争はそれを拒否されるか私が殺されてからではごわはんか?」と征韓論に歯止めを掛けるつもりで発言している。 がどこかで誤解を生んで、征韓論の先鋒とされて枢機卿の職を解かれてしまう。 いつの世にも足を引っ張って、引きずり下ろし自分がのし上がろうと言う輩は多い。 野に下った西郷は鹿児島に引っ込んで、征韓論の主砲陸軍少将桐野利秋と言えばチッタア聞こえもいいが、幕末の狂気の志士「人斬り半次郎」に「世に熱きは桜島とセゴドン」と祭り上げられてしまい西南の役に自刃する。

 しかしここで談判に踏み込まず、その手紙の後半部は無視したことによって、朝鮮はつけ上がったし、清国までが日本新政府与し易しと、朝鮮の腐敗高官と組んで、日本と朝鮮との通商条項に茶々を入れ始め、特別関税の設置などを強要したりしている。 特に江華島事件以後は清国の利権にも事が及ぶとしておおっぴらな朝鮮政府の対日外交に内政干渉するに至る。 更に中国東北部に接する朝鮮の2州を租借しようと画策を始めた。

 明治27年1894年7月25日黄海豊島沖公海上で訓練中だった日本艦隊が清国北洋艦隊の軍艦を砲撃してしまう。 これより先6月に日本軍部は、参謀本部の中に大本営を設置している。 多分予定の行動。 8月1日対清国宣戦布告。 9月に大本営を広島に移す。 翌1895年2月始め、日本陸戦隊北洋艦隊基地威海衛を攻めるが艦隊なし。 威海衛を占領。 11日北洋艦隊主力旗艦「定遠」戦艦「鎮遠」と日本艦隊遭遇黄海大海戦。 「♪勇敢なる水兵」の通り。 「未だ沈まずや定遠は?」だが、「戦い難くなし果て」られて、提督丁汝昌翌12日降伏。 重傷のため水雷艇で長崎海軍病院へ緊急入院。 手術後1ヶ月ほど入院後、日本駆逐艦で鄭重に威海衛に送り届けられるが、それを恥じて翌日威海衛でピストル自殺。 武人としてのメンツを守る最期。 誰か劇画にしないかな?結構哀れを催すいい話だと思うがなあ。 一方日本陸軍と戦った清国側は、国軍ではなく、軍閥李鴻章の私兵と義兵。 下関での講和条約には李鴻章が来日。 明治から大正昭和まで伝わった尻取り唄に「李鴻章の禿頭;饅頭喰って皮残す;擂り鉢頭に灸据えて;帝国万歳万々歳:」と言うので残っていた。 そうでなければ彼が禿頭だったかどうかまでは歴史書には残らない。

 一方、丁汝昌は傷が癒える頃海軍病院で、お世話になった、病院関係軍医、海軍高官、報道記者らに、揮毫を送って謝意を表しているが、現在此の時の書の評価は高くない、これは、おかしい。 彼の字が中国人にしては悪筆というのは全く当たらない。 彼がこの時何処を手術して、どういう状態で此の書を書いたか、その歴史の一瞬の証拠としての別の価値があると私は思っている。 健康体の捕虜として来ていたわけじゃない。 考証鑑定人の不勉強だ。

 兎に角も、新生日本が大国を相手に、タイトルマッチを戦って勝ってしまった最初の戦い。 勝ったことが後の世に良かったかどうかだが。 ともかくも。とそんなところだったのじゃなかろうか。 問題が、朝鮮に対する、日清両国の干渉問題に端を発した戦いであっただけに、事後処理に対して、世界が神経をとがらせて注目したのであった。 当時は満洲と言った中国東北部、ここに日本の関心があることは、世界中が知っていたことだろう。 下関講和条約で中国から此の地区の鉄道開発についての利権をもぎ取ったことは未だいいが、遼東半島を領有するのはやりすぎだろう、返すべきだと、フランス、ドイツ、ロシアが、勧告した。 世に3国干渉という。 軍部は渋ったが、明治天皇は詔勅を発して、遼東半島は返還すると宣言した。 世界と解け合うにはそうすべきだという良識に基づいたモノでした。 十年以上前から、清国に依頼されて北白川宮が日本軍を率いて蛮族征伐をした台湾は此の講和条約ではっきり日本に統治を委譲されたが、島民はこの際独立したいと立ち上がり、独立運動が島を覆ったが、日本軍に平定された事は余り書き残されていないのが不思議である。

 三国干渉で清国に貸しを作ることに成功したロシア帝国は、歌劇「サドコ」じゃないが不凍港を極東に持つチャンス到来とばかり、シベリヤ鉄道の満洲への乗り入れを画策清朝から言質を取って、満洲で蠢き始める。 1899年清国山東半島で、義和団の蜂起が起こると、各地で政情不安で、義兵が不穏な動きを始めた。 満洲でも匪賊が台頭して略奪を恣にするようになった。 これこれと、ロシアは、軍隊を満洲国内に入れた。 5月、オランダ・ハーグで、第一回の世界平和会議が開かれ、ロシアの満洲進駐に対し、英国と日本他が反対したが、3国干渉のよしみか、フランス・ドイツが支持する演説を打ち、物別れとなる。 これが日英を急速に接近させ日英同盟となる。 ドイツは更にロシアを煽る。 更に日本を挑発し、日露間をおかしくする。 しかしこのことが後でドイツを孤立させることになるのだが。 欧州アジア北アフリカの各国がそれぞれ各個に同盟や協商協定を結んで、身の安全を図ることが盛んに行われた。

 こうして、20世紀は風雲急を告げる世界情勢の中でやってきたのでした。 この頃一戸直蔵が、東京帝国大学に入ります。 帝国大学だったのが1897年京都に京都帝国大学が設立されたので、東京帝国大学と改称されました。 清国からの賠償金2億両は、当時の3億円日本の国費予算4年分に相当するモノであったのです。 そのうちの84%が、臨時軍事出費と軍事費に廻されましたが残りの約半分で全国の高等学校、中学、高等女学校が新設・整備されています。 政府も軍部も戦争の味を占めたと言って良いでしょう。 これが、日本を軍事大国へ向かわせたのでもありました。

 1904年、ロシアは清国をなめきって、遂に遼東半島を占領し、旅順港の裏山の203高地に巨大な要塞を構築するに至ります。 超大国ロシアに手向かいするには手も足もすくみながら、味を占めた日本は遂に宣戦布告、日露戦争の幕が切って落とされたのでした。 ロシア軍の機関砲と当時は呼んだ、マンドリンと言われた、チェコ機関銃に対して、日本軍は未だ村田銃。 これに牛蒡剣をつけて剣付き鉄砲でワアと叫んで、突貫する戦法。 機関銃の前にはひとたまりもない。 火器性能の差は、乃木将軍一人のせいではない。 しかし文字通り1将功成って万骨枯る、数万の兵が203高地の攻撃で、命を落としている。 陸軍の一兵卒として従軍した乃木将軍の二人の息子もそれぞれ、此の戦いで、不帰還となった。 何ヶ月もかかって、何度も敵に見つかって失敗しながら何度目かもう地面が凍るようになって掘ったモグラトンネルが功を奏して、やっと此のさしもの大要塞も陥落したが、兵員損耗彼我合計6万数千。 他の戦場全部の数を合わせても此の半数という。 なんと戦いとは空しいモノか。 更に1905年3月10日、雪の奉天大会戦で、ほぼ陸軍戦が終了水師営の会見となる。 しかし、その前にバルチック海を発した、バルチック艦隊の精鋭が、喜望峰、マラッカ海峡を通って、ヴェトナムで、無煙炭と水を積んで、ウラジオストック目がけてやってくる手筈。 ロジェストウエンスキー中将がまかせなさい!と言っていた以上未だ戦いは終わっていなかった。 ヴェトナムで、石炭を積んだのが4月の終わり。 そして、運命の5月27日借り上げ商船信濃丸の「敵艦見ゆ」に始まって、日本軍が使った始めての無線交信の日が始まったのでした。 東郷司令長官の奇策、敵前回頭が、下瀬火薬の効果と相まって、ロジェストウエンスキーの鼻っ柱をへし折っての大勝利。 それもその筈。 もう途中の港で、帝政ロシアは赤色革命で崩壊して下克上の世の中になったと脱走兵も出る始末で回航に思わぬ時間を空費しているし、兵員の士気も沈滞してしまっていて船足も重く、いつ白旗を揚げるか時間の問題だったらしい。 一縷の望みは主砲の到達距離で、勝てると思ってやってきたらしい。 所が直前に日本で、ピクリン酸が国産化出来ていて、到達距離は、日本が上回っていた。 東郷さんはその距離を敵に容易に悟られぬようにあの陣形にして、撃ち始めたのだとの説がある。 敵の射程6千5百。 一年前の黄色火薬なら日本は6千。 しかしピクリン酸で、7千8百で命中している。

 但し打ち始めはばれないように6千で打ち方始め、だったようだ。 東郷さんも始めから此の火薬を信じられなかったのじゃないか、打ち始めて始めて、ああ敵前回頭しても恥かかんですんだ!とホッとしたのでないか。 因みに現在のTNTはトリニトロトルエン、ピクリン酸はトリニトロフェノール。 トルエンがフェノールに、つまり亀の子についてる硝酸基3個は同じだがトルエンは−CH3が、フェノールでは−OHになっているだけ、当時としては画期的もう殆どTNTに接近した爆発力の火薬を使ったのでした。 こうして海戦が終わったのに日本軍は樺太に上陸、アメリカルーズベルト大統領が、もう止して講和しなさいと勧告した。 そう、一寸大人げない。 ポーツマスで講和条約。 ロシアが清国から租借権を得ていた遼東半島の先端部の租借権と、同じく、ロシアが、清国から委譲されていた満州の鉄道開発権を譲り受け、更に南樺太を領有することになった。 これが決まった頃には、既に、一戸直蔵は、アメリカのヤーキス天文台に到着していたのでした。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(9)(天下のヘール博士も落込むの段)

 日本では日露戦争が漸く泥沼から抜け出しそうになった頃、ヤーキス天文台からの手紙が来て、戦争に後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、直蔵は、先生の紹介状を懐に、船上の人となった。 勝海舟は冬の北太平洋の荒波の航海中、船酔いしていたらしいが、直蔵はけろっとして船室で、焼酎を友として、勉強と、船員相手に米会話の練習に余念がなかったらしい。

 当時、未だ、フランスに割譲した後カナダと交換で、アメリカ準州に帰ってきた頃の、ニューオリンズで本船を下り、ミシシッピー遡行の水車型蒸気輪船で遡行したモノと思われる。それはフォスターの世界であった筈。

 途中は駅馬車で、何百キロの胃腸返しの道を突っ走ったのかも知れないが、最後の天文台までの単独行は、さすがの青森出身の直蔵も、西部劇風の馬3頭で、かっこよく乗り付けるわけにも行かず、ロバ2頭を引いて徒歩で、歩いて数日掛けて荒野を渡っていったらしい。天文台には既に当時世界最大の対物口径102センチ、焦点距離約20mのジャイアンツ望遠鏡が据え付けられていたが、そのソバに時々、世界に名高いヘール博士の失望に打ちひしがれた悲壮なまでの浮かぬ顔があったらしい。

 ここに2年余の月日を費やして滞在した後、帰国した後、東京天文台に客員身分で勤めた際に、出張報告書から、天文に役立ちそうなレポートを実に精力的に量産した直蔵だが、折角ヘール博士がヤーキス天文台に来てもその落ち込みのすごさにとても話しかけられそうになかったと白状している。 しかしヘール教授も此の東洋人が、天文を専攻した後、望遠鏡の勉強に来ているのだと知らされると、教授の個室に呼び、自分が此の望遠鏡に固執したのは大変な失敗だったと、ぼつぼつ、屈折望遠鏡の性能上の限界、反射望遠鏡に比較した屈折望遠鏡の欠点を事細かに語ってくれたらしい。 その欠点は、何もレンズ磨きの腕っこきの職人によるモノではなく、レンズの中を通ってその為屈折が起こる光の性質のためと、その光を曲げるレンズがとても重いことに起因することをいつもぼやいて大いに反省していたのだと言ったらしい。

 当時、アメリカでの、大型レンズ磨き職人の第1人者は、1873年アメリカ海軍天文台の、口径66cmの対物レンズ、アクロマート凹凸2枚の球面レンズを磨いて以来、次々と、大型レンズを磨いて成功して来たClarkであった。 アメリカに於ける65cmを越える、彼がレンズを磨いた屈折望遠鏡の表を掲げておこう。

 

クラークが磨いたレンズの屈折望遠鏡


対物口径天文台口径比レンズ磨き者製作年
102 cmYerkes19Clark1897
91cmLick19Clark1888
66cmU.S. Naval15Clark1873
66cmLeander McCormick15Clark1883

 

 一戸直蔵が見たヤーキス天文台の102mの屈折は彼のみがいた最新のモノであったのです。 そして、世界最大は、今日でもその通りです。 というのは、ヘールの此の猛反省によって、屈折と反射の徹底的な価値分析が行われ、屈折は口径が大きくなると比例して色々な誤差と不便が集中してくることがはっきりして、此のヤーキスの屈折を最後に大口径は、反射鏡の時代が来てしまったのでした。

 因みに、クラークが公式文書に残している、此のヤーキスの102cmの対物レンズの磨き完了時の正味重量が言い当てられますか?アクロマートは、色収差を打ち消すために、凸レンズとそれよりも厚い凹レンズを組み合わせます。 正解は、凸レンズ146kg、凹レンズ278kgで合計正味だけで424kgもあるのですよ。 焦点距離は約20mですから、支点を中央と仮定すると、十メートル先に少なくとも424kgの目方のついた20mの筒っぽを振り回すことになり、此の筒の軸心と、対物レンズの光軸を常に合同の位置に保って任意の角度を向けている事の難しさは想像を絶します。 更に凹凸二枚の間隙は計算された極僅かな空間でミリミクロン単位で相互位置が確保されているまま振り回されねばなりません。 これが色収差を消す秘密なのですから。 電波望遠鏡や反射望遠鏡の反射鏡は、放物面鏡ですが、屈折望遠鏡のレンズの表面は、逃げも隠れも許されない完全球面ですから。 更に此の位置ずれや、光軸のずれは、性能劣化にもろに響き、しかも望遠鏡ですから、光学的効果は倍率分の拡大して見えてしまうと言う仕掛けなのです。

 ヘール博士はそれでも、必死になって此の馬鹿でかい望遠鏡に世界的な仕事をさせられないか、と心を砕くのですが、とうとうその結果は皆裏切られます。 最後に、太陽の光をプリズム分解する機械を取り付けますが、これも、プリズムが熱膨張して変形してしまうと言う事態となりヘールも遂に諦め、此の天文台自体を抛棄することに繋がります。 ヘール博士の活動の中心は、スノウ嬢の寄付した水平太陽望遠鏡を据え付けたウイルソン山に移り、ここに新しく2m口径の反射望遠鏡を据え付けます。 高山に大径反射望遠鏡時代の始まりです。 ヘールの業績をたたえその後ここはヘール天文台と呼ばれるにいたります。

 実は、後年になりますが東京三鷹の天文台にも、昭和4年、第一次欧州大戦のドイツの賠償金で、ドイツのツアイス社に65センチ口径の屈折望遠鏡を発注してしまい、昭和5年入荷据え付けても、遂に一度も、その性能発揮されることなく、なまくら望遠鏡扱いされるのですが、実は、東京天文台には、此のヘール教授の此の反省に関わる、一戸直蔵の貴重な分厚い報告書があったにも関わらず、此のはみ出し者の報告書は開かれることもなく、貴重な外貨をどぶに捨てるに等しい、ヘール博士の名に釣られて前車の轍を踏んでしまったのでした。

 当時の台長藤原咲平台長も、どちらかと言えば気象学のオーソリテイー、大口径屈折望遠鏡の此の限界問題を知らず、単なるミーハー族的舶来崇拝でドイツならツアイス社屈折レンズならツアイスでしょうとばかり決めてしまった。 どうしても上手く働かないのは、敗戦ドイツにはいい技術者が居なくていい加減な磨き方をしたためだと決めつけてしまった。もし一戸直蔵が生きてありせば、、、又一戸の報告書が多くの識者の目に事前に留まって居れば、安くて取り扱いやすいもう少し口径の大きい反射鏡を輸入していたであろうのに。 もう彼は重い末期の結核の病床にあったのでした。


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