はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(11)じっぱりネジ巻かれて帰国の段

 今時の子供、夏にデパートで買って貰ったカブトムシが急に寒くなって、籠の中でデングリ返って動かなくなった。 「あーっ、お母さんカブトムシの電池が切れちゃったから、今日お買い物に行ったら電池買ってきておいてね。」「それは電池じゃないよ、死んだらもう捨てるっきゃないよ。早く捨てなさい」。 気楽なモノだ、生き物の命が語られていない。 親も親なら子も子のご時世。 デパートだけがはやるらしい。 昆虫の中にも混血が起こり、既にカブトムシでさえニューハーフが現れ始めたという。 私どもの子供の頃も、確かに電池はあった。 便利であるが貴重なモノでもあった。 子供が手にするモノではなかった。 手にするようになったのは戦後の停電頻発時代から。

 昭和20年戦争に負けた年の秋から翌年夏過ぎまでは、朝、夕、昼、一番電気の欲しい時間には、定額灯、従量灯線とも、停電していた。 昭和一桁時代を再現して、定額灯は朝4時頃から日の出まで、日没から午後10時まで、これ以外の時間の送電は地区配線により送電は保証しないのが昭和21年3月時点での東邦電力(株)(現:中部電力(株)の前身)の定額灯契約者への通知書にあった。 勿論明治38年前後には一般家庭には電灯電源の配電は影も形もない時代。 豆電球のつかなくなった、つまり寿命のつきた電池をどうやってか再生できないかと言うことで、いじり廻した。 今の人はそんなモノ買ってくれば?と仰るが、町中探したって売ってない、モノがなんにもない時代って、判らないのかなあ。 今の乾電池ほど念入りなモノじゃないから炭素棒の頭のソバのピッチに穴を120度ごとくらいに錐で明けて釘で穴を大きくして、ここから食塩水を入れては振り入れては振りして、入らなくなるまで入れる。 運がいいともう1−2時間は豆球が点く、2度目は点いても暗い。 仏の顔も三度までとはよく言ったモノだ。 2度目3度目になると、乾電池のマンガン減極剤が酸化力を使い果たしてしまって、2−3分でおしまいと言うことになるが。 この停電時代は炭素棒と、トタンメッキのバケツで、豆球をともした。 減極剤が無いから食塩水だけでは直ぐ暗くなる、バケツを吊しといて揺するか、液面にてえ突っ込んでバシャバシャかき混ぜると、又しばらくは明るく点く。 身を以て減極作用の体験をしましたよ。 マンガン乾電池ではこの代わりに2酸化マンガンの酸化力を使っているのです。 当然、トタンバケツの亜鉛は、段々消耗して、最期は内面は真っ黒な鉄板が露出して、親から大目玉を喰うわけですが、亜鉛が電気に化けて明るくしてくれたわけで本来文句の言えた義理ではないのです。

 我々の玩具でなくても、レコードを聴く蓄音機でさえ、クランク軸を差し込んで、手回しで板バネ・ネジをしっかり巻き上げて、レコードを掛け、レコードの音がゆるんでおかしくなったら慌てて又ネジを巻き上げて、長い時間レコードを聴いた後は、大抵翌日は両腕ともビンビンに腕が張ってしまっていたモノです。 自動車や太鼓を叩く猿の玩具などすべての手を離して動く玩具はみんなネジを巻いたモノですから、人に対しても、「ネジを巻く」という表現が常用語で、現代語で言えば「気合いを入れる」のうちの、「励ます」の二乗位のところでしょうか。

 ヤーキス天文台の世界最大の屈折望遠鏡の勉強に留学し、この世界最大の屈折望遠鏡が、レンズが巨大すぎて評判倒れで、大きさだけの働きどころか、8−10インチ級の屈折望遠鏡にも叶わない星像写真しか取れない場合が多いこと(注:三鷹天文台の65cm屈折もほぼ同様)に大きな失望を覚えながらも、世界の望遠鏡の大権威、ヘール博士に声を掛けられネジを巻かれた一戸直蔵は「大口径の反射望遠鏡を高山に」のアドヴァイスを最大の土産に、2年半余に亘るヤーキス天文台滞在を終わり、20世紀初頭を戦捷で飾って全国隙間無く有頂天の日本に帰ってきた。 順風満帆、四海波静か、希望に満ちた若者の鹿嶋立ちであるはずだった。

 帰国した時期が悪かったのか、帝大の平山も、天文台の寺尾もお役所天文学に没頭していたのか彼の所属について直ぐ的確な指示も与えず辞令執行もなく徒に月日が過ぎたらしい。 曖昧が大嫌いの一戸直蔵は何度か寺尾に迫ったようだ。半年ほどが経過して明治42年夏頃から、東京天文台で、台長当てに帰朝報告書と、出張報告書を提出しているので、所属は天文台に決まったモノと思われるのだが、この辺から彼の処遇は既におかしかったのではないかと思われるのである。 この春彼は東京を離れて、紹介状を持って、台湾に渡り、後藤新平に会おうとしたが、後藤は丁度更迭されて、日本に往復するところで行き違った。 その間を利用して、一戸は単身ニイタカ山に登っている。 催促してきておいて辞令執行しようとしたときにはいないのだから几帳面な寺尾台長にはカチンと来たことは想像に難くない。 直蔵には不幸であったとしかいいようがない。 ともかくも、そこからは、天文台長当てに、実に精力的に、報告書を量産提出している。 数、ページ数などでは、寺尾、平山両先輩の、フランスドイツのそれぞれ帰国時の報告書合計量の数倍に及ぶ量産振りなのである。

 勿論、報告書と言うモノは、ページ数が多ければ多いほどよいと言うモノではない。 要は中身だとサラッと済ます人も多い。 見てくるだけなら「山あり河あり平野あり、詳しいことは本にあり」もよろしかろう。 本に詳しい時代になってからならね。 ただ彼の報告書には附図が必ず別冊でついていて、当時最新式と思われる墨入れ製図で、本人のモノとも思われないモノもあったようである。 アメリカで貰ってきた図に字だけ書き入れたかも知れないのだが、今となっては全く判らない。 然しかなり製図に精通していたことは間違いないと思われる。 この辺りで、フランスに留学した寺尾などと、様子がかなり違っていていわゆる純粋天文学とは随分かけ離れたことをやってきたな、と言う感は与えたかも知れない。 その為に、そういう学者肌の読まず嫌いに会って、ツンドクされて、貴重な屈折大鏡限界説が日本では世に出ないまま後年のツアイスの65cm鏡の購入に歯止めとならなかった可能性は極めて強い。

 赤城山天文台もあり得る程度の例示は、この帰朝報告の中にもあるようだからアメリカに居た間から、日本に帰り着くまでの間にも、既に、一戸直蔵の考えの中には赤城山天文台構想は芽生えていたことを疑う余地はない。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(12)はみ出し者面目躍如の段

 この行方不明事件の後、麻布の東京天文台に出仕し十数巻のレポート約40冊を量産した頃は、真面目に天文台に詰めて、出仕したようだが、一段落すると、2つの戦争に勝って日本列島至る所に設立された鉄道会社を訪ねて全国を出張するようになり、しかも、大都市では、当時最新流行し始めたばかりの勧工場、今で言う百貨店の経営者などの金持ちに面会して歩いている。 九州には便船で行ったらしい、阿蘇、雲仙、久住に登った形跡がある。間違いなく高山・天文台候補地の下見行脚。 ついでに、寄付してくれそうな分限者のフィールド調査と言うわけでしたろう。 そして関東では赤城山に、友人や、下僕を連れて数回の登山と山頂野営を繰り返したとされる。 そしてこの仲間と共に、赤城山頂天文台構想を勝手に吹聴して歩いて寺尾台長から大目玉を喰らっている。 そうでなくとも、ご一新なって、文明開化の世は来たというモノの、ここはれっきとした日本、決してアメリカじゃないのでした。 何故赤城山なのか。 当時「筑波根の峰よりおつる男女(みな)の川、、、」明治末期から大正に掛けて盛り上がったロマン、、の筑波山には一戸直蔵天文台伝説が針の先ほどもないのがも一つの不思議。眺望絶佳なのに。この辺りがセンスがビッコ的すぎる。

 明治維新から40余年は経過しているモノの、廃刀令は徹底して刀を差して歩くモノこそ居なくなったモノの、主人と奉公人の関係は、士農工商時代と何お変わりはなく、何も、おかみに仕えなくて、ごく普通の商家に雇われてもそのことを奉公すると表現するのがぴったりの時代でした。 7-8歳で丁稚で商家に入って、10歳になると小僧、漸く盆正月に藪入りで、実家帰りできる。 ここからは見よう見まねで精進次第、先輩と、番頭さんご主人、おかみさんの評価次第で、手代へ昇進、漸く、番頭さんやご主人の商売について歩いて見習いが始まる。 番頭になって、経営参加の一端が始まり、責任が掛かってくる。 番頭になって、借家住まいながら家持ちになれる、それまで20−30年は商家に住み込み。 この丁稚・小僧の時代の努力勉強精進が商人としての人格・素養の形成に不可欠とされた時代です。 一戸直蔵について、何が判らないって、この5−6歳から学齢期の頃何処でどんな生活をしていたかが皆目見当さえつかないのです。 どう育つと、こんな人間が当時の封建制度そのままの延長上の社会で育ちえたのだろうか、明治の七不思議の一つと言っても言い過ぎじゃないと思うのです。

 実はもうこの直蔵のこの行脚の最中から、寺尾台長の許には、直接間接知己友人を通じたりして、この男の正体についての照会と、もし真面目な話ならば何故然るべき地位にあるモノが来訪しないかの苦情を含む情報が相次いで寄せられたのである。 これは当然のことで、今も当時もなく極当たり前の、手順であり礼儀であるから。 そこえ抜け駆けの赤城山天文台構想発言。 上司をないがしろにするもいい加減にしろと、台長が頭から湯気立てるのも、当然。急速に、立場は悪くなり、且つ、経済封鎖や締め付けが行われて当然のなり行き。 ところがこの時代、嘗て幕末の浪士を庇護した人があった例に倣って、人脈の間を泳いで這い上がろうとする者がやっぱり居た。 国士・壮士の類を飼養してことを起こし図ろうとする政財界の裏業師が結構居た。 全国を回っているうちに案の定、ナイーブな直蔵はその連中にも取り込まれていたのだった。 直蔵にはそれは勿怪の幸いに見えたことだったろう。 天文台長には前回の台湾行きで行方不明事件で多大の迷惑を掛け台長の首が危ないのに、大目玉で引っ込めた首の儘、直蔵は明治44年に再び行方をくらました。

 十数日後に彼の姿は悪びれもせず、台北の台湾総督府の総督執務室にあった。 日露戦争で完全に統治委任されて5−6年、始めは、民族独立を叫んで、全島が抗日的だったが、蛮族が平定され武装解除され食糧供給法が実施されると、急に、静かになった。 食い物の恨みだったわけでもないが、日本が我々台湾人に一つの文明開化を待ってきたらしいと期待したのだと、私は台湾人の年寄りから聞いた。 軍政でなく民政であった。 初代総督は後藤新平。 度量の広い男だった。 酒の底なしを中国語で「海量」(ハイリャン)と言うが、彼は心も海量だったと台湾の古老は口をそろえたという。 然し、後藤も10年余の総督で、いいも悪いもコケが生え、更迭された。 後継者は能吏ではあったが台湾のタイプではなかったらしい。で後藤は後見役として台湾に残ることとなっていた。 ここで直蔵は素直に熱っぽく、アメリカ留学のいきさつと天文学には大きな望遠鏡を高い山、台湾のニイタカ山のてっぺんに据え付けたいと単刀直入に話したと伝えられる。 後藤新平総督はほうほう言いながら、聞いていたが、新高山の頂上は何でも6畳敷きくらいの広さしかないらしいぞ、と混ぜっ返したという。直蔵その時少しも慌てず、2年前に登山して検分し、あれほどのモノ、何ダイナマイトの200キロもあればいい、吹っ飛ばせば。と真面目にいい平然としていたらしい。 その後は、総督は、私邸に彼を連れ帰り、たしなめるつもりで酒にしたが、直蔵の熱に釣り込まれてたしなめもしただろうが何のことはない結果的に直蔵と一緒にニイタカ山登山に及んでいる。この時にお供と、強力がついていたのだそうだ。

 後藤新平は直蔵にそれは穏やかでない、台湾人が玉のように大事にしている新高山の頭をダイナマイトで吹っ飛ばすのは佳くない。 まあこういう手の話は、根回しと言って、話の外堀から埋め、構想だけでなく実行計画、資金の手を打って幅びろく賛同する者を随所に置いて、それから話を進めないと、一発で掃き落とされてしまう。 まあ20年は掛かるだろう、と言われて、直蔵もそう覚悟したらしい。

 

はみ出し者伝記(1):一戸直蔵(13)世は 明治から大正への段

 2つの大国に、どうにか勝った、その為に多くの国民が犠牲になったことも忘れて、軍部は有頂天になっていた。反省しながらもそれを止められなかった明治天皇は、二人の我が子を戦場で犠牲にした乃木大将が退役したのを機に、学習院の院長に任命した位のことを晩年の印に残して、治世45年、夏の終わりにこの世を去った。 乃木大将夫妻は、明治大帝のろぼが、墓地へ向かう出門の喪礼砲を合図に、帝の大恩に報いるために自宅で自刃して殉死した。 軍部のなした帝に対する数々の無礼をも詫びる思いも多分にあったかも知れない。 武人と武人の妻が明治という一つの時代を閉じるにならふさわしい立派なという最期ではあった。

 我が国は、二つ目の大国相手の戦利として、樺太(当時は、カバフトとかサガレン、とか称した、現サハリン)の北緯50度以南の領有、満州に於ける、旧ロシアが獲得していた、遼東半島関東地区の租借権の継承、幹線鉄道の開発権等の権利の委譲継承。 ロシアの朝鮮北部の租借交渉の永久停止を勝ち得たのだが、アメリカが、この交渉を取り仕切ったことについて、軍部と、政治家の一部に、不満が渦巻いていた。 軍部は、日露戦争終結に引き続き政府が、韓国に日韓保護協定を強制することを求め、強引に韓国の独自外交権を奪った。 やくざ言葉で言う「カツアゲ」である。 確かに韓国の上層部は賄賂にまみれ腐敗しきっていたのではあった。 こうして骨抜きにしておいて、第3協定を提示して軍部による軍政総督府を設置、遂に1910年強引にも韓国を併合領有することを宣言してしまった。 セジョン大王以来の李王朝の末裔は、皇族に準じて、親王殿下に列することで、臭いモノに蓋をしたのであった。 それから1年ほどで明治天皇はこの世を去り、世は明治から、大正の御代となった。

 まあこうして、ちょんまげが、散切り頭、2本差しの侍が刀を捨てさせられて、サツマッポたちが、威勢の良さのもって行き所が無くなって、巡査と兵隊に商売替えしたりした洋服姿の巡査や兵隊をダンブクロ、といって、板に付かない文明開化の代名詞にした明治45年の治世が終わり庶民の生活にも、封建の気配から抜け出して、色々試みる気風は起きてきていた。 ただ、富国強兵に走る日本の一般経済は貧しく、国防のための軍備は殆ど外国からの輸入に頼っていた。 軍艦も大砲も。 日露戦争の主たる兵器、歩兵銃は村田銃であったが、戦勝の年に、5発の銃弾を一挙に弾倉遊底に沈めておいて発射ごとに次弾をバネの力で押し上げ装填する型の新式銃を制式採用した。 明治38年に制式採用された故を持って38式歩兵銃と呼んだ。 国産であり、一挺一挺の銃身に菊の御紋章が刻印されていた。 程良い旋回螺旋がよく鍛えた鍛鉄に施されて居て、手入れ次第で命中率は結構佳いライフルだったが、惜しむらくはとても重い銃だった。 私は中学1年の陸軍記念日、完全軍装で剣付き鉄砲肩に行軍させられ、途中から雪が降り雪中行軍となったが、たとい銃身に菊の御紋章があろうが途中で放り出したい思い(重い)であった。 庶民は全国貧しく、工業は官営の僅かな軍の兵器工廠を除けば判で押したように家内工業で、産業革命の恩恵にも縁がない零細工作所であった。 経済規模もアメリカと比べたら100分の1にもならなかったろう。 それなのに直蔵はこの時代に分限者からの寄付で、天文台を高い山に立てようとしたのだった。 どだい無理な相談だった。

 一戸直蔵は、確かにアメリカには行った。 ニューオリンズ辺りからミシシッピーを遡航し、往復の途次だけは外界を見たかも知れないが、ヤーキス天文台までの荒野の旅で、天文台のカプセルに籠もって2年余、ヘール博士他の外界人に会うほかは単調な天文台に幽閉されていたようなモノである。 アメリカの経済、工業力の大きさや活力規模は全く判っていない、井の中の蛙が缶に入れられていって、別の家の庭先だけビンで運ばれて、又他家の井戸に入れられ、2年いて、又缶とビンで運ばれて、元の井戸に帰ったようなモノ。 日本とアメリカの国の違い、社会の違い、ましてや経済力の違いを知れと言っても直蔵には、理解の向こう岸だったに違いない。 ただ、アメリカで、ヘール博士に期待され、しっかりネジを巻かれたそのことを忠実にやろうとしたのだろうが。 やったことは、上司を差し置いて手順を構わず暴れまくって、上司の立場もずたずたにしたのであった。

 たった一つ、帰って来て明治の御代に貢献したのは、日本の天文学界にに天文学会を設立してのけたことであった。 平山も寺尾をさしおいては出来なかったのに彼らを祭り上げて頂点に戴き、一戸直蔵が殆ど一人で話を纏めたのであった。 彼は官僚嫌いで、この学会も官員様が取り仕切るようになると直ぐ彼は離れていったのだが。


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