屋久島シリーズ(2):「世界文化遺産として」の章

 此の絶海の孤島は、火山の噴火によって、海中から突出したものと考えられています。 現在噴火はありませんが、宮之浦岳は、1800m級の山です。 紀元杉や、縄文杉を見られる、ハイキング路からでさえ、此の宮之浦岳の頂上までは、登山家の脚で片道最低5時間は掛かるとされています。 麓からの宮之浦岳登山は馴れた人たちで往復各一晩の野営が必要で3日掛かりの行程となるようです。 第一回にも書いたように、此の島の環境として、月に35日は雨が降るとされ、登山は、可成りの覚悟が要る様です。 頂上近くは大樹を育てる霧雨が多く密林の中は霧が立ちこめて見通しが利かず、良く馴れた人でも道に迷うことが多く、特に下山・帰りは道を失うことが多い様です。 昭和初年及び昭和40年代には方向磁石が狂う地域もあった事も報告されています。 明日それが起こらないと言う保証はありません。 冬は6−7合目から上は雪山になるようです。 昭和30年頃、九州地区で、冬スキーが出来る地区としては唯一屋久島だけというクイズをラジオで聴いた記憶があります。

 火山島として出来た絶海の孤島にしては、古くから、鹿や猿が棲み、縄文時代に発芽した筈の杉が現存している世界で最も大きな杉の樹の群生が見られる此の島は、当然世界文化遺産に登録されましたが、第1回に書いたように一度、かなり大きな伐採事業が此の島の自然を左右するほど痛め付けたことが登録の際の付記事項になったようです。 富士山が登録にならなかったのは夏と言わず冬も、登山者の出すゴミによって、山が、空き缶や空き瓶だらけの状態だったことが審議事項とされ、審議の結果反対多数で、登録拒否となったそうです。 屋久島は其の一段下でしたので、すれすれ登録が叶ったのであり、今後もし再び、屋久島の自然に拘わるような人工が加われば即、登録解除の裁定がなされる可能性も無しとしない状態です。 前回も屋久島の島民でなく、外来者によって行われたわけですが、富士山の例にもある如く、誰の手によってなされようが自然が壊されることに変わりなく、自然の環境保持が自然にとって仇となることがないように、島民外のヴィジターも深い思慮が大切なのです。 単なる物見遊山気分で山に登ったり、屋久島を訪れて、鹿や猿を餌付けしたりすることの無いようにしたいモノです。 此の島の自然は今病後の回復期にあるのです。 自然の治癒力・回復力に待つより仕方がない時期です。

 猿と鹿が何処から来たのか、いつ頃持ち込まれたのか、これからの研究課題でしょう。 これ以上、生態系のバランスを崩しかねないペットや生き物の持ち込みがないことを祈るばかりです。 他の絶海の孤島に、船乗り達が持ち込んだ、山羊が、自然繁殖してしまって、駆除が間に合わない例などもニュースで報告されています。 前回の「開発」の美名に隠れた自然破壊のせいで、此の島の周りの海が荒れてしまい、魚群も薄く、島を離れ、海藻・貝類の生育も止まったままのようです。 これは昔の自然より島民の生活も含めて、海を汚していることにも原因があるかも知れません。 自然だけの治癒力・回復力が発揮できないで居る証左かもしれません。 林業、漁業の収益性に期待出来ないとなると、観光資源の活用と言うことが議論されがちですが、どうかその場合でも、観光事業が、有形無形に自然のバランスを崩さないよう、森が海を守り海が森を守っているのだというこのことを常に充分に理解して35年前の愚を繰り返すことのないようにお願いしたいものです。


屋久島のハムが送ってきた屋久島の画像の紹介(2)

 


ミツチョムとトローキの滝 by JO6PRM


志戸子のガジュマル by JO6PRM


世界一笹川杉(その2) by JO6PRM


耳岳(その2) by JO6PRM


トローキの滝 by JO6PRM

 

パピーの昔話:私の生まれ年(71年前)の無線雑誌から(其の1)

 先日2月1日、テレビが本放送開始50年という記念番組をやっていました。 その説明によると、戦前、高柳氏が、カタカナの「イ」の字をプラスチック(本当はセルロイド)板に書いて、送る方は大回転圓板で送り受ける方はブラウン管で受けたと言っていましたが、ブラウン管の発明の方が2年以上後です。 始めは受ける方にもスキャナー大回転円板が必要でした。 最近のNHKは結構こういう早とちりを平気で冒すので油断がならない。 私の手元に富山市にお住まいのJA9BE 森さんが大事に持って居られた誠文堂発行の昭和7年9月号の「無線と実験」のハードコピーを戴いています。 これに、当時のテレヴィジョン事情が囲み記事で掲載されていますのでご紹介することから始めましょう。 著作権は50年有効ですが、これは20年前に切れています。 尚1932年ですから、オリンピックの年、陸上、三段跳びで南部忠平氏が金、大島選手が銅メダルを取った、ロスアンゼルスのオリンピックがあった年でした。

(1)827頁[囲み記事]「我が国テレビジョンの進展」

 我が国には既に数年前より浜松高工の高柳式のテレビジョンがあり、絵素数1万の送受映に成功し、又早大は屋外の天然光線を光源とする大衆用の大テレビジョンを完成して、共に科学国日本の誇りを海外にまで発輝しているが、今回、更に完備せる小型テレビジョンを電気試験所の曽根氏が発表したので、我が国には3つのテレビジョンが完成したわけである。

浜松式: は、送映機として直径約1米の大圓板、大アーク燈等を必要とし、送映室は薄暗い部屋であり、受像所には大圓板等は不必要であるが、暗室の中でなければ受像が出来ない。

早大式:は電灯又は屋外の光線で送像するので薄暗い室は必要ないが、受像は矢張り暗室でなければ出来ない。 送映用の大圓板は勿論、受像用にも可成り大きい鏡車が用いられる。

電気試験所の曽根式:のは送像用の光源としては、普通の室内光線でよいので、暗い室へ入る必要がない。 又スキャンニングデイスクは60孔であるがこれを30孔2列としてあるので、圓板の大きさは他の式に比較すると頗る小さい。 即ち送像用圓板の直径は60cm、受像用のは僅かに40cmである。 これを1/4馬力のモーター(送像用)で廻すので電力も他式に比し頗る小である。 又送受共、最高所要電圧は約350Vで家庭用としても頗る安全である。 目下は電池を電源として試験せられていたが、AC式に改めることは決して難ではなく、将来多数製作するとせば受映機一式は約200圓である由。 これを他式例へば濱松式に比較すると約1/3で据え付けられるわけである。 即ち濱松式は受映に可動部分がないから調整が簡単であるというのであったが、今回発表された電気試験所の曽根式のも極めて受映の操作は簡単で、同期用のモーターは1000サイクルの標準振動回路で制御せられ居り、之を調整するのは単にヴァリコンのダイヤルを少し動かすだけで足りるのである。 此の調整は極めて簡単で1秒か2秒で事足りるのである。

 尚、最後に特筆すべき事は、現在は受映の光源としてネオン管を使っているので暗室を必要とするが、近き将来に於いては水銀ランプの利用により、普通の室内の明るさの所で受映される真の家庭用テレビを完成せられる確信のあることで、吾人は之の完成の日を心から期待するものであり、之が完成された時、テレビの実用は、最早や実施期に近づいたもので、ラヂオに画期的の進展を見るの時である。(註=此の稿終)

(2)S.W. ニュース :(註=から抄出).(845頁)

 ◇ 周波数単位の称へ方:例へば読者は、870kc.と書いてあった時、なんと称へられますか、数字は普通の如くに読むのは当然ですが,kc.の方です。 ,,,,,,キロ・サイクルと単位の呼称その儘を忠実に称へるのが一般ですが、アメリカでも新しがり屋は、ケースイーと呼ぶのが流行だしました。 書いてある通りを読むのも此の国の習慣だそうです。

 ◇ ワシントン記念碑 5 米テストに用ひらる:ワシントン記念碑の頂上に、5.35米=56,000kc.の送受信器とアンテナが設置され、之と、ナショナル・プレッス・ビルデイングとの間に5米の二重通信テストが行はれた。 送受信器は電池も合はせてその重量は9kg位であった。 後から街路上と記念碑間とでテストしたが相当の成功を収めた。

 ◇S.W.用室内空中線の成績:H.P.スコットと言ふ人が、短波帯用の、室内アンテナと室内アース線を張って、更にアンテナカップラーとランスを介して、短波ラジオに繋いだ所、すべての波長帯に於いて非常に良い結果を得たといふ。 外部へアンテナを出せないような不便な場合に都合がよい、天井近くの横木、四周に20mの可萄線を張り廻したが、アメリカでは、約20mの此の種電線が僅か5セントで買えたらしい。 更に床近くの四周にもアース代りに同じほどの長さの線を這い廻して、それぞれを、アンテナカップリングとランスに繋ぎACTを短波ラジオに繋ぐ(A.C.Tの詳細は不明)。 何でも之のシステムで、I2RO(ローマ);FYA(パリー);G5SW(チェルムスフォード)ケーニッヒスウステルハウゼン(ドイツ)の電話の局などを受けたが、とても良く受かったという。(Radio News Aug.1932)

 ◇ W6USA:ロスアンジェルスのオリンピック村にW6USAといふ特別のアマチュア局が建てられた。 之は既設のW6SNの別名で電力は250Wだとの事である。 いずれ詳しいことが発表になると思ふ。 (QST, July, 1932)

 ◇富士山頂東京間の超短波連絡試験:7米の超短波を用ひて富士山頂と東京間の二重無線電話連絡試験が電気試験所主催の下に、8月中旬1週間に亘って行われた。 数ワット以下の極めて僅少電力であったにも拘わらず、殆ど24時間を通じて相互間で電話の連絡が取れたことは超短波が特殊通信に益々将来あることを暗示しているかの如くである。 直線距離にして約100キロメートル、受信器は簡単な超再生式が用ひられたが、誰もが認めているように超短波には超再生式が非常に良い結果を与へた。 (続く)

 

パピーのマレーシア話:昔のマレー半島

 現在のマレーシア、共和国でしょうか?王国ですね、何王朝かは知りませんが、日本の天皇制のように、象徴なので、マレーイシア人も日本に対して親近感を持つようです。 現在は、マレー半島だけじゃなく、ボルネオ島の北側、ブルネイを除いて東マレイシアになっていますが。 古くはどうだったのでしょう。 大航海時代、流石のマゼランも、マレー半島のあの海峡へ行き着く前に、フィリピンの近くで発病、ミンダナオ島付近で、没したようです。

 然し、それから1世紀も経たないうちに、このスマトラ島と、マレー半島の間のマラッカ海峡は難所として有名になり、イギリスが、マラッカ、シンガポール、ペナンの順に、要塞を築いて、ペナン島には、東インド会社の本拠地を作りました。 スパイス類の宝庫だったのでした。 この当時は、マレー半島内陸部は、誰も足を踏み入れようがない虎が棲むジャングルだったようです。 マレー人は海岸縁に小さな集落を作ったり、水上家屋でニッパ椰子の屋根でスコールを凌ぐ程度の生活で、イギリスが、海峡部の要所を占拠したに過ぎず、海峡植民地化しても、マレー人は我関せず、だったようです。 イギリスもジャングルに踏み込む必要もなく2世紀が過ぎたのでした。

 ペナンの東インド会社が世界の富を集めると言われるようになった19世紀初頭、ペナンから程近い半島の内陸部探検が行われ、隊員はマラリヤで、全滅寸前を救われる羽目に陥りましたが、、銀に代わる世紀の金属と当時貴重だった錫鉱を発見していました。 本国から錫鉱山師が続々とやってきましたが、ジャングルとマラリヤに追い出され錫鉱山の開発には20年ほどの時間が流れたようです。 これを克服したのが、南中国沿岸部の人たち。 海南島始め、中国沿岸部では既にマラリヤの克服法が判ってきていて、それほどは恐れないことが判り、1830年頃から、錫鉱山の使役には、スワトウ付近から中国人の移民、人買い奴隷、等が、連れてこられ、頭家と言う中国人一家党が首領になって人足補給、人の仕切り、住処の建設提供、錫鉱の積み出し等を牛耳ったようです。 現在の蛇頭と同じ流れでしょうか。 当時は、人海戦術で、スコップで掘りモッコを担ぎ、手で選鉱してから手押し車で運んだ様です。 1890年頃、大雨が続き、殆どの錫山が没水する事が起こり、一旦抛棄されようとしましたが、ここで、錫山の採掘法に革命がもたらされたのでした。

 水没して大きな湖になった錫鉱山は最早、鉱山師の手には負えませんでした。 一世紀前に起こったイギリスの産業革命は第二次革命となって、あらゆる産業に革命を巻き起こしていました。 治水にも蒸気動力が用いられ、河川改修堤防建設に浚渫船が人力に代わって、大活躍する時代になったのでした。 錫鉱山の復活にも大資本が浚渫船を送りつけて、ドレッジャー法という水で鉱石を分散させて、選鉱しながら掬い上げる、一挙に人力は要らない方法になってしまったのでした。 数十万の中国人労働者達が1割ほどの人を残して一挙に職を失ったのです。 中国人は、結構ドッコイ生き抜く。 半島全体特に、シンガポール、マラッカ、ペナンその他の交通の要衝に散って、商売、交易に励んだのです。 斯うして半島の近代化が自然に進むことになったのでしたが、ここで、イギリスは、海峡植民地と錫鉱山地区だけでなく、全体を領有している旨の宣言をしたのでした。 王様がジャングルの中の王宮に住んでいると判ったのはその直後だったのです。

 イギリスは、王様始め住民に住民みんなのために国を富ますから、イギリスに統治権を委ねるように頼んだのです。 斯うして、イギリスは、このジャングルを、富みの森に変えねばならない責任を負ったのでした。 既に、インドや、スリランカでは広大な林野を富に変える人々が入植していました。 それでその人人に来て開発をして貰ったのでした。 取りあえず早く出来そうなのはゴムの木の栽培でした。 20世紀初頭ゴムの栽培が、マレーは適していることが判り、椰子の木を残して、他の木は伐られ、半島のジャングルの80%に及ぶゴム林の開発が始められました。 この為には、スリランカ、インドで、我慢強く低賃金で働く事を知っていたゴム栽培指導者によって、ん万人のタミール人が移民させられました。 ゴム園の開発に連れて1921年現在は、12万人のタミール系インド人が、1931年現在で、64万人その内2割がマレー生まれだったと言われます。 この移民は1938年ストップされました。マレー全体の人口が増えすぎてしまったためでした。 イギリスも施策に窮していたところで、1941年暮れ日本が戦争を仕掛け、翌年の旧正月には、半島全部とシンガポールまで占領してしまったのでした。

 日本軍の占領政策は無策でした。 ひたすら圧政。 軍政の弊害。 ゴム樹液を絞り上げ、枯れれば燃料にしてしまう、ゴム園は3年で荒れ放題だったと古老は嘆いていました。 椰子の木は軍隊の宿舎建設とその燃料に殆ど切り倒され、たった4年後の終戦の時は、殆ど残っていなかったのだそうです。 現在あるあの国の椰子の木他の樹木は殆ど1945年以降に植えられたモノだそうです。 これでは日本が恨まれて当然でしょうねえ。 これに引き替えイギリスは尊敬の念で語られます。 マレーシアのニッパ椰子のハウスに、多くの文化と教育を持ち込み、国を富ませてくれ国の礎を築いてくれたのはイギリスだと。

 然し、日本降伏した戦後、イギリスも本国の復興に懸命で、植民地まで手が回りかねました。 戦勝国で本国が焦土と化したのですから。 領有を抛棄せざるを得ませんでした。 これから、各州の権力者や領袖の勢力争い主導権の抗争戦争が、12年間も此の半島を覆ったのでした。

 現在、此の国には前述のように、移民労働力輸入によって、入ってきて棲んでいる中国人、タミール系インド人がマレー人の他に棲んでいるわけです。 それらの人々が主としてどういう契機に移り住んだか大体いつ頃からかと言うことがお判り戴けたかと思います。 そう古いことでもないのです。 そして、此の国の人口過剰問題が、既に、第二次大戦前、イギリスによって気付いていた問題だったのだという事も。 従って、現政府は、現実には政治はマレー人、経済は中国人という現実を凝視しながらしかし、19世紀から20世紀に掛けてのこれら労働力無思慮移入の弊害の軽減に、躍起となっているわけです。 これが現政府の掲げる、プミプトラ政策です。 18世紀以前からの「土地の人」の主体性の国作りと言うことです。


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