爺怪説:問題の本質2 ニュウトンの合点はリンゴが落ちることだったのか?

 読者の皆さん、あなたが、このニュウトンとリンゴの話を一番最初に耳にされた、ないしは本で読んだときには、アイザックニュートンは、ある日リンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見したと、聞きましたか、本をそう読みましたか?

 もし学校の先生がそう話して聞かせたとすると、あなたは、理科系にむかないと思いこんで、文科系に進まれた方ではないでしょうか? その先生はあなたに影響を与えています。 その影響は円周率を3だと覚えなさい、と教えるほどの影響の大きさです。 図形の中心から、いつも、同じ距離にある点の軌跡が、その距離の6倍という事は、その圓に内接する6角形と圓が同じ形だという極めておかしな事を教え込んでいるわけで、教え込まれた子供はある日、突然気が付く途端ニュウトンよりも驚いて、論理パニックに陥り、収拾がつかなくおそれさえあるでしょう。 幾何学も、物理学も理解の彼方に吹っ飛んでしまう可能性無しとしません。 今の日本文科省の学校教育はそうゆう方向に行きかねない岐路にあります。 日本の学校教育には、論理の時間がありません唯一教えられそうな学科は数学です、それが危機に瀕しています。 フランスでは算数自体をロジーク、つまり論理の一環として教育します。 全く論理があべこべ、天地の差。 この差が社会のクレバーさの大きな違いになっていると思われて仕方ありません。 日本の論理は国益でさえうわべの損・得しかないじゃないですか。 本質は見ず、幼稚に過ぎてあまりにも情けない。

 ニュウトンが育つ頃には、もう、コペルニクスの地動説は当たり前、ケプラーの惑星公転の3大法則も確認されて、天王星まで発見された頃でした。 引力という暗黙の了解がなければ、地動説もケプラーの法則も理解は出来なかったでしょう。 又ガリレオが望遠鏡を作って、木星の4大衛星の運動を観測して、木星も地球もこれらの衛星が木星の周りを回るのと同じように太陽の周りを回っているのだと言ったことが知られていたし、その廻り方が、ケプラーが法則を見出した惑星の軌道は太陽を一方の焦点とする楕円軌道の上を廻ることも、太陽と軌道を結んだ掃引面積がいつも一定な軌道上の速さで周回することも既に確かめられていました。

 では、ニュートンが、リンゴの木の下でその日も考え込んでいたのは、一体どんなことだったのでしょう? リンゴが枝を離れ、自然落下しました。 地球がリンゴ衛星を引っ張ったのに地球の周りを周回しようとはしなかったのですよね? いえ、リンゴは周回したかったのかも知れないと一度は考えたかも。 しかし、地球が余りにも近すぎたこと、地球が余りにもデカ過ぎたこと、の為で、、、と考えそれではリンゴが地球のないところで落ちたとしたら、リンゴは何処えどう周回するだろうかその時既に知られている、太陽、と、水・金・火・木・土・天王各星とリンゴの関係は? と考えて、すべてのこれらの星はリンゴを引くし、ああ、そうすればこれらの星同士も互いに引き合っていない筈はないんだ!! 待てよ太陽系の惑星同士だけはないんだ、きっと全てのモノに引力が何か決まった法則が決まって働いているのじゃないか? だから惑星が太陽の廻りをケプラーの法則で廻っているのに、どれ一つとして、同心円のような同焦点楕円の上を走らないで、思い思いの楕円軌道の上を、走って居るんだ、よし、この引力の研究して法則化し物体の運動を式に書き表す研究を完成すれば逆に軌道上の惑星の運動から、太陽の引力の他に惑星同士の引力の影響を知ることが出来、今最外周だと思われている、天王星の外には惑星があるのかどうかもひょっとしたら、、、。 と夢が膨らんだ様でした。

 彼は、後にニュートンの運動方程式と呼ばれる公式を探りながら、物体に働く力の3大法則を見出す偉業を成し遂げ数式化できる法則にしたのでした。 この法則と考え方から、天文台員と数学者が手を繋いだら何とわずか数時間で天王星の外側の星が見つかり、海王星と名付けられました。 更にこの海王星の周回運動が精密に観測された結果、未だ外に惑星があり、影響しているらしいことが推測されるに至りましたが、その外側惑星が発見されるにはそれから更に約30年も掛かったのでした。 TVが50年のNHKのヤンボウ・ニンボウ・トンボウとは関係ないトンボウという天文学者が前任者が見つけきらずに退職した後を継いで観測遂に第九惑星を発見、先輩の名からの「プル」と自分の「ト」を繋いだ、プルートー、日本語では冥王星と名付けられました。 ニュートンの法則、運動方程式が、基本的で、普遍性があるモノだったからこそ此処まで、応用が広げられたのでした。 副産物として、微分、積分の考えを引き出し、微分・積分の応用法を進めめたのも彼の偉大な功績でした。 天文解法だけでなく、産業革命に伴って大きく広がった技術工業等のあらゆる分野で多大の貢献を果たしたのでした。

 ♪一杯のコーヒーから、夢の花咲くこともある、、、」じゃないが、♪一粒のリンゴから、夢の花咲くこともある、、、と信じたいモノだ。

 

はみ出し者伝記(3):ドン・ガバチョ(2)JH1BAN/JH2BAN無線生涯、、、の章

 JH1BANが無線雑誌のグラヴィアページを飾ってどのくらいたった頃だったろうか。 CQハムラジオ誌に、JH2BANが、伊豆半島東南海岸の絶壁頂上にコンクリート城とアンテナタワーを完成して、DX交信に乗り出している、彼はJH1BANでもある有名なコメデイアン藤村有広氏とグラヴィアに出ていた。 絶壁はオーバーハングしていそうな程で、その上のコンクリート製の建物は将に城砦風であった。 潮風が吹き上げて大変だ ろうなと思った。 それからまたどれくらいの月日が流れたのだったか。

 ある日の午後、私の両端接地のビッグ・イメージ・ループに、14メガSSBのJH2BANの伊豆半島先端からのCQが聞こえた。 まさかとは思いながら呼んでみた。 応答があって、伊豆の藤村とのこと、間違いはなかった。 はやる心を抑えて押さえて、型どおりの挨拶。しかし抑えきれずに、CQ誌のグラヴィアで見たと喋ってしまいました。 意外なことにそうなのですが、とは答えありましたが冷静な声、それはストンチョの小父さんの声でもなくドン・ガバチョの声とは似ても似つかぬ悲しげな響きにさえ聞こえました。 珍しく、国内向けCQでしたが、と聞いてみたのです。 体調を崩して静養中なモノでという始めの答えでした。 この日は先ず、どうやって、コールエリアだけ違うそっくりプレフィックスもサフィックスも同じコールを取れたかを尋ねましたが、まあ、偶然と云うことにして下さいとの一点張りでした。 コンデイションの話、伊豆からの DXの成果の話など、でなかなかストンチョの話やドンガバチョの話までは行かないうちにコンデイションが変わって、尻切れ寸前失礼し再開を約しました。

 梅雨が明け暑い夏の日に、また。殆ど同じ14メガでCQを聞きつけ、コールしました。 今度は挨拶もそうそうに、殆ど泣かんばかりの声になり「聞いて下さいよひむろさん、私の命は後2ヶ月なのだそうですよ、何が理不尽といって、、、。 確かに若い時から羽目ばかり外し、おっちょこちょいにも、好きな巫山戯方で、当たりを取っておりましたことは、その年の方なら良くご存じでしょうが、いい加減の単語並べて外国語に聞かせるインチキ語も、先生方が教育上良くないと文句仰言ったそうで直後からそれならばと、家庭教師延べ12人付けて、6カ国語を先ずマスターし、そしてその後また4カ国語に挑戦中です。 それなのに何と、世の中は無情ですね、折角真面目になって3年余、もう余命2ヶ月ですって。 死刑宣告より厳しいです。 どんな死に方したらいいんだか、毎日毎晩悩んで泣いていますよ。 お寺のお坊さんも、念仏唱えよと云うだけで、、、、」と絶句。 マイクが廻ってきても慰めようがない。 仕方なく、謝りながら、教えて下さいと、秋田弁と津軽弁のやりとりの言葉を再確認して貰ったり、どうしてあれは一回こっきりで止めたのか尋ねたり、6カ国インチキ外国語のアイデアは何がヒントだったか聞いたり、しました。 前の章に書いたミス・ワカナ・島ヒロシの漫才からということも話していただきました。 後から思えばハム同士で本当に良かった、この上ない貴重なラグチュウではなかったかと思いました。 日は何時しか西に傾き、気付けば1時間半に及ぶロング・ラグチュウ、、、、。 近距離のコンデイションは限界あり、消感していきました。最後に贈る言葉も見つからないような、唯又お会いしましょうとだけ、、、。 しかしその後JH1BANもJH2BANも声を聞くチャンスはありませんでした。 「物言わぬ電鍵」となったのでした。

 それから15年以上の月日が経過して、7メガでだったと思いますが、伊豆半島東南岸ですという人の交信を聞いて、呼び「その辺りに、ストンチョの小父さんのコンクリート城があったところですか?」と聞きました。 「あったところとは何ですか!未だあるんですよ!、ですから村中の厄介物になってます。 遺言とか、遺書とかで何か言い残してないと勝手に他人が処分できないのだそうです! しかも、岩山の上、前は 絶壁で海に落ち込んでいる、作るより取り壊す方が何倍も費用が掛かる、村にはそんな費用を出す余裕なんてあるわけないじゃないですか!!」ということでした。丸で私が、そのコンクリート城砦を放置しているような凄い剣幕でしたのでそうそうに尻尾を巻いて引き下がりました。

 彼が、自分の芸の手足をもぎ、自分を徹頭徹尾邪険に扱った放映世間に対し、又非情にも不治の病に死なせた運命に対し、消極的ながら唯一見せた最後の反抗が、遺書・遺言を残さずに堅固なコンクリート城砦を墓石代わりにわざと放置する事だったのではあるまいか?私にはTV放映開始50年でNHKが見せた態度でそう思えた。

 JH1BAN/JH2BANストンチョの小父さんドンガバチョ、安らかに眠れ、ストン、チョと73 を送る。チョン・チョン、合掌。

 

昔の雑誌から:郷土の科学

(子供の科学:1933年6月号688頁)大分県玖珠郡森町 小野 勇

◇長者ヶ原の殺生石:
数年前から、日本少年団キャンプ地として指定されている九州大分県長者ヶ原には殺生石と言ふその名の示すやうに生物を殺す石があります。 此の石はタマモノマエといふ歌舞伎芝居に出てくる八つ尾の狐が狐ヶ石に成り、其の石が3つに割れて一つが此の長者ヶ原に飛んで来て毒性を発揮しているとの傳説があります。 小鳥や昆虫ヶ此の石や此の付近の草木に止まると死んで落ち、蛇や蛙や蜥蜴などは此の石の南側の土と石との間に十糎位の穴がありますが、此の穴の付近で死んで居ます。 付近の石は殺虫剤になると言って掘り取って畑の野菜のコガネムシや油虫の駆除に使ひます。 果たして此の毒は何か未だ不明ですが、此の石は周囲十数米位の火成岩で木の根やツタで取り巻かれ其の南に前に記した孔があります。 付近は火山地帯で、九重山のやうな硫黄を噴出している山があります。 此の石から百米位の所に筌(ウケ)の温泉という鉱泉が湧出している事から考えますと、多分地熱により地下の有毒な鉱物が分解されて気体と成り前記の孔から噴出して生物に危害を与えるモノと思われます。 此の毒性も年々少なくなるのか以前は人々も余り近寄らなかったのが、近年は鳥の死んだのも見ず、昨年の夏は蜥蜴と蛙が死んでいたくらいで、人々も平気で近寄り、人家も付近に数軒もあります。

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<氷室註>

此の噴気孔は殆ど亜硫酸ガスのようですが、大分県特に東・南部では、大正時代から戦後まで住友鉱山が稼働した土々呂鉱山のように、硫黄に似ても、雄黄や鶏冠石など硫化砒素や亜砒酸などの中毒性の鉱石がありますので注意が必要だったのです。 此の亜砒焼きの鉱害については、岩波新書黄表紙「亜砒焼き」に詳しい記述があります。 戦後まで、世界の大量の亜砒酸農薬需要をメキシコ及びヴェトナムの海岸の沖積鉱床と競って、前記大分県下の砒素山を掘って焼いていたわけ。 多くの人が砒素毒の犠牲になったようです。 海岸沖積鉱床は焼かなくて済むのに対して、亜硫酸ガスのようなガスになり冷えれば白い結晶状微粉になります。

 砒素系の毒は、平安時代から知られ、肌を抜けるように白く透き通らせる女官などは肌の美容の為に使ったとも言われ、やがて5年殺し10年殺しの長期殺害薬として用いられ、江戸時代には石見(いわみ)銀山ネズミ取り、銀鉱と夾雑する砒素をネズミ取りに使ったが、毒薬としても使われ有名になった。 これを灼くと亜砒酸になる。 戦後まで、硫酸銅と石灰中和で作るボルドー液と亜砒酸が葡萄を始めとする果樹用の甲虫類(特にコガネムシ類)に対する防虫・殺虫剤であった。 日本は当時亜砒酸輸出第2位国であったようです。

 因みに、江戸時代から非常に盛んになった日本画の絵画には、岩絵の具として、黄色は雄黄が、又赤紫色には鶏冠石が用いられた。 これらは上記の通り硫化砒素鉱物であり、色も鮮やかであったが、毒性も又鮮やかであった。 南蛮渡りの毒薬もあったが、国産も結構手近にあったのです。 殺生石がこうして恐れられる割には、砒素毒に気付かず多くの犠牲者が出たり、企業公害問題が軽視された歴史に合点が行かない。 毒の強さは時と場所を選ばないのだが。

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◇野生動物の土団子:
近来猟銃の発達と鳥獣肉需要激増の為野生動物の恐慌時代を現出した今日、野生動物が農家の冬期夜業小屋の内に3カ年に亘り土団子を投じて壮丁に戯れたという昔語りのような事実があります。 九州 大湯恵良駅より程近き山間小部落に昭和5年12月上旬夜業小屋を建てて夜業を始めると毎夜土団子を此の内へ煙出し穴から投ずる者があるので最初は壮丁仲間の悪戯かと思っていたが、人為でなきことが判り興味の的となりました。 同地方は勿論各地の青年や警察からも其の真偽を確かめに来られたが誰が来ても相変わらず2、30分に一個づつ投じ其の正体は見届けることは出来ませんでした。 壮丁は其の正体を知るために犬を小屋の中に潜め待機したが其の夜は来なかった。 ある夜は一青年が猟銃を藁ヅトに包み人にも知られぬように藁積みの中に潜んで待機したが其の夜も来なかった。 ある時は石灰を散布して、足跡を試したが、犬や猫の足跡が多くて明瞭には判らなかった。 尚投ずる夜は地面が凍結して、足跡の付かない闇夜に限られ、月夜や雨降りや雪降りなどには絶対に投じない。 かくして、翌年2月迄続けたが小屋は取り壊し、春夏秋を過ぎて12月上旬に小屋を建てると又同一なる動作を始め翌7年2月まで続けましたが、其の正体は矢張り分かりませんでした。 本年は小屋を建てませんでしたから其の珍現象を見ることが出来ません。 たとい小屋を建てたとしても継続したかどうかは判りません。 小屋と住居は15米ほど離れて建てていましたが、住居の方には毎年とも何も変わったことは起こりませんでした。 投ぜられる土団子は動物の毛などが混じった、直径2.5糎乃至3糎のまん丸で、とても野生動物が手で丸めて作る物とも思えません。 投じた当時は若干の水分を含んで、少しジメットしています。 此の主人公はいかなる動物か見た人は遂になく読者の想像にお任せしますが、野生動物が食を漁るためでなく又本能でもないことを相当の危険を冒して、3年余に亘り為したことは興味あることではありませんか。


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