西堀流真空管語録(5):他人のせんことをせな!

 私が化学屋という真空管の門外漢であるにも拘わらず、結構西堀さんの話し相手を務めているので、不思議に思われたのでしょう。 ある日急に、あなたは一体何処で真空管やラジオのことを勉強しやはったんですか?と聞かれました。 かくしてもしょうがないことですから、正直に真空管のジャンク屋にバイトしたこともあり、その時に、同年輩の早稲田の学生も勤めて居て彼が戦前の分厚い綴込み式の大井脩三著のラジオ技術講義録を持っていたので、借りて読んだのが纏まっての勉強では最初ですと答えました。 話は戦後直ぐのジャンク真空管の話になり、当然の帰結として、「カン・マツ」の話になりますわな。

 「カン・マツ」はこの時期の正体不明のジャンク真空管の値段を吊り上げて、ジャンク屋が稼ぐ究極のアイデアでした。 真空管の変なマークはきれいに消して襤褸切れで、息を吹きかけながらガラスを磨き上げ、タコ坊主印刷ゴム球を使って、真空管のガラス曲面をモノともせず、白ペンキで、マツダのマークを印刷した球を言います。 これを神田で印刷したので神田で出来たマツダということの略称カン・マツと呼びました。 実に沢山のカン・マツが売られ、全国的に偽のマツダということが次第にばれていきました。 誰が始めた方法なのか、このカン・マツか、本物マツダか判定する簡単な方法が開発されて知る人は知る見分け方が現れました。 カン・マツと思われるマークを麻やジュートで、こすって白ペンを完全に落とし、木綿のハンカチできれいきれいして、ハアーッと息を吹きかけます。 偽物は何も見えませんが、本物のマツダなら乾いてきれいきれいされたガラス面には何も見えないのに息で一瞬曇ったガラスが乾き際に一瞬はっきりとマツダのマークの跡が見えるのです。 この謎を解け、と台湾坊主のジャンク屋の親爺にこっそり頼まれた私は色々やってみました。 もしカン・マツでこれが再現出来たらお前の4年間の学資や生活費は俺が見てやろうじゃないかと持ちかけられりゃ、悪いこととは知りつつも、、、でした。 随分色々考えてやってみましたがアイデアは行き詰まっていきました。

 春の夜でした。 昔の航空研、当時は物性研の前の道を池之上の駅に向かって、深夜真っ暗な道を歩いていたが、気付くと道に白い点線が続く。 何かと思って、指でつまみ上げると塩のような結晶。 なめてみるとしょっぱい。 結晶の反照は暗闇でも僅かな星明かりを反射したのでした。 コレダッと、翌日白ペンキを練って、乳鉢でガラスを潰して混ぜて、ガラス板に薄く塗り、乾かして、拭き削りハアーッと息吹きかける と、、、、。 不完全ながら一瞬跡が見える。 ガラス粉を細かく均一に混ぜれば完成だろう。 つまりあの本物マツダのマークのペンキには極細かいガラス粉が練り込まれていたのでした。 真空管のガラス面はツルツル、マーク印刷されていない面はそのまま、マツダマークのペンキはこすり落とされても何ほどかのガラス粉が表面にこびり着いて残り、粗面になっていて、乾いたときには変わらなくても結露したときなどに反射が微妙に変わりマークの跡として見えたのでした。

 喜び勇んでメーデーの正午過ぎサンプルを揃えて、台湾坊主の店に出勤しようとしましたが、昭和27年5月1日、後に皇居前血のメーデーと呼ばれた左翼右翼警官隊入り乱れた大擾乱の当日、右翼の斬込隊による第三国人粛正で、店はめちゃめちゃ、親爺他は逃げたか斬られたかの惨劇の後で、近寄れませんでした。 学資や生活費どころかバイトもなくしたわけで、悪いことに加担した天罰覿面の事件でした。

 それで、西堀さんには本マツダとカン・マツはペンキの仕掛けが違った、天罰を喰らわなければ、カン・マツのペンキも微細ガラス粉を混ぜて同じように私がするところでした、と言いました。 「そうかあの頃にもう見抜いていた人も居たのか、、、」と独り言のように言われました。 しばらくは無言でした。 その日の講演の中に、開発研究の話題が出たときに、仕上げには特許明細書の中にも実際にも、よけいと思っても人のせんことをしておくのも意外なところで役にたちまっせ。 と一言付け加えられた。 それがこのマツダマークにガラス粉が入っていたことも一例として意味していることがピンときたのは私だけかも知れなかったが。

 

童謡・童話知りーず:月の砂漠の頃

 今時の子供達は、「月の砂漠」は当たり前「月の「何々の海」という名前の所は水なんか全くなくて砂漠なんだよ!それがどうした?」ってモノでしょう。 大正の詩人加藤まさを はこの頃胸を患って、千葉県の御宿海岸に転地療養中だったそうです。 当時の満蒙教育委員会の、童謡作詞募集に応えて、丁度御宿海岸にあった砂丘を見て「月の砂漠」を作詩したのでした。

 ♪月の砂漠を、はるばると 旅の駱駝が行きました
金と銀との鞍置いて 二つ並んで行きました
 ♪金の鞍には銀の瓶 銀の鞍には金の瓶
 二つの瓶はそれぞれに紐で結んでありました
 ♪先の鞍には、王子様 あとの鞍にはお姫様
 乗った二人はお揃いの 白い上着を着てました
 ♪広い砂漠をひとすじに 二人は何処へ行くのでしょう
朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼとぼと
砂丘を越えていきました 黙って越えていきました。

 応募は少なかったらしいがそんなことと関係なしに絵本の中そのもののようなこの歌が当選し、大正12年3月号の少女倶楽部に発表されるや全国で歌われることになったのでした。 蓄音機もレコードも普及がとても行き届かぬ頃、小学校や、幼稚園の足踏み式のオルガンによるモノでした。同じ月の「小学男生」誌に百田宗治作詞のご存じ「何処かで春が」が発表されています。

 ♪どこかで「春」が生まれてる。 どこかで水が流れ出す。
 ♪どこかで雲雀が鳴いている どこかで芽の出る音がする。
 ♪春の三月東風吹いて どこかで春が生まれてる。

 春と言えば翌月大正12年4月の「銀の鈴」誌にかの有名な「春よ来い」が相馬御風氏によって発表されたのでした。

 ♪春よ来い 早く来い あるきはじめたみいちゃんが
赤い鼻緒のじょじょはいて おんもへ出たいと待っている
 ♪春よ来い  早く来い おうちの前の桃ノ木の
蕾もみんなふくらんで はよ咲きたいと待っている。

 関東大震災、世界的な恐慌と、此の後、世間は沈み込みます。 近頃昭和の金子みすずの「鯨の墓」などの悲しい詩が人口に膾炙していますが、「春よ来い」と同じ月の「童話」誌に、ブロードバンド詩人西條八十氏のこんな詩が発表されていますので紹介しておきます。 当時の社会や世相の一端を反映していると思います。 金子みすずの詩と同路線のように思います。

 「村の英雄」  西條八十

 村の大きな黒牛が   春の夕暮れ死にました
 永年住んだ牛小屋の   寝藁の上で死にました
 女やもめのご主人に  いつも仕えた忠義モノ
 朝晩重い荷を曳いて   「くろ」はすなおな牛でした
 お寺の鐘は鳴りません   けれども花は散ってます
 村のやさしい英雄が   春の夕暮れ死にました。

 

パピイの昔語り:尾張野の英雄達(AU-2)

 信長が「啼かぬなら殺してしまえホトトギス」で、秀吉が「啼かぬなら泣かして見ショウホトトギス」で、三河の家康は「啼かぬなら泣くまで待とうホトトギス」だと比較される。 果たしてそうだろうか?

 尾張野の小心者猿面冠者が大言壮語して、小細工を弄して成り上がり、最後の最後まで、その為に「明日は我が身」の恐怖にさいなまれるほどの虚構を演じ続けたモノには本来他の二人と並べられるだけの人間の品性がない。 何よりの証拠が京都・三條河原に残る畜生塚事件であろう。 彼が畜生でしかないと付けられた名ではないだろうが、今の世ではそう取られるほどの事件である。 家康も、これがなければ、豊臣の残党を最後の穴の中のアリの一匹までトコトン嫌いはしなかっただろう。

 備中高松城を落としてトンボ帰りして馬の続く限り駆けさせて、何とか、自軍のモノに、明智光秀の首を取らせることが出来た秀吉は、大義名分相立ち申したとばかり、後はやりたい放題。 廻りを蹴落とし成り上がっていく、段々身分の高い女を妾にして、家族構成していくのが成り上がりモノの特徴、しかしこれが、寄せ集め家族で後に簡単に瓦解する。 織田信長もそうであったが、大きな土木工事をやって見せて、権勢を誇るのが当時の気風。 遂に天下人となった秀吉は、京都御所を見張るようにその西北に、安普請を金銀で貼り隠した聚楽第を作る。 茶室や、茶々と二人だけが入る専用風呂場はすべてを金を張り尽くして、豪華なモノであったらしい。 専用風呂の方は後に西本願寺の庭に移設されたようだが。 兎に角此処に天皇を呼びつけて、天下に威勢を示した。 茶室を金ぴかにするなんざあ、師である千利休の、「侘び・寂が茶の心」というのとは仙気筋もいいところ、人間としての品性が疑われて当然。 果たせるかな口論となり逆に師に詰め腹を切らすことになる。 ろくなモンじゃない。

 さてしかし、前項でのっけに書いた、部下の論功行賞に行き詰まって、海の向こうに侵略軍を派遣し、自分だけが16人目の妾・茶々と金風呂でイチャイチャしているわけにも行かず、九州にその名も名護屋なる出張り陣屋を設けて、渋々出掛けていった。 後を追って、急使が到着、「茶々殿ご懐妊」、、、。 手の舞足の踏むところを知らず大喜びした後、ふと大弱り。 小細工を考え、急使に何事か託した。 それより前、妾を次々作っても世継ぎ丸は出来ず、変な家族だけが増えることを心配した秀吉は、跡継ぎとして、甥の秀次を養子に貰い、太閤を秀次に譲ったばかりの所であったから、、、。 泡を食ったのであった。 この小細工は効をそうする。 やがて、月満ちて、茶々は玉のような男の子を出産。 鶴松と名付けられるが、この名が全国的にお世継ぎの幼名と聞かされていた秀次は動揺する。 半分自暴自棄的に、殺生を禁じられた高野山の寺領に猪や鹿が繁殖しすぎていると聞いていた鹿狩り好きの秀次は気張らしもかねて、家来に命じて、寺領から追い落とさせて狩りを行った。 朝鮮征伐も白村江の大敗北を境に軍勢が軍資金切れで戦意喪失、敗走を重ねて、遂に追い落とされてしまった。 秀吉はいつになく不機嫌を続けて、京都に戻るや秀次の鹿狩りが高野山の寺領の鹿であったことで、烈火の如く怒り、太閤にあるまじき行為と悪し様に大勢の家来の前でののしった。 秀次は高野山に詫びに行くが此処で自害したのであった。 この件に関連した秀次の家族は次々に裁定に掛けられ、うむをいわせず三條河原で処刑されてしまう。 後に高野の秀次と、これら家族の骨が集められ、供養されたのが、三條河原の畜生塚である。 秀吉の年老いてからの行動は狂っていた。 茶々は淀の君と呼ばれ、大阪淀に城が建てられたが鶴松は夭折した。 秀頼まで育った跡継ぎは、次に生まれた拾い丸であった。 折角此処まで小細工を弄し、秀次一家を残らず惨殺までしたが、秀頼は淀と城と共に炎の中に消えたのであった。

 もうその前、茶々とその子だけかわいさ故に秀次を理不尽なことを構えて詰め腹を切らせ、更に一家を皆殺しにしたことは、一番身分の低い正妻北の政所は言うに及ばず、妾共とその家族まで身の危険を感じて、逆らいはしなかったが秀吉の死後誰も大阪城を振り向こうとはしなかったのは当然であろう。 こうして家族は一瞬にして瓦解したのであった。

 彼の為した中で、評価出来るのは、検地を厳しく実際に即して測量したこと、その測地法に土地を三角に切って、面積を求める現在も使っている方法を既に採用したこと、更に、その土地が田や畑として痩せているか肥沃か台帳に記入させたことであろう。

 又頭がいい小細工の一つとして、全国の武士以外の僧侶、商人、農民が隠し持つ刀狩りをするのに、方広寺に木製の奈良の大仏より大きい大仏を寄せ木細工で作るので、釘が無数にいる、ついては刀の魂を仏の体内に納めて仏の魂として、これに後生安楽を願うが良かろうと、全国に触れて、刀狩りを強引に行い、武士以外の武装解除を進めたのであった。 この寄せ木の上に漆を塗り金箔を張った大仏は完成したが数年後に、大地震で薪の山となり、炎上して灰となった。 秀頼の代までそのままになっているのを、大阪城に金の延べ棒数万本ありという情報を得た家康が、秀頼に命じて、大阪付近一帯から近畿一円の寺社の修復を下命するが、関ヶ原以降慶長19年の大阪冬の陣までの間に殆ど終わったが大阪城には未だ金が残っていたようだ。 そこで、家康は方広寺の大仏を更に高くして銅で作ってはどうかと、秀頼に勧めた。 秀頼は中国から銅を買い戻して(当時日本は銅は輸出国)大仏と鐘を鋳た。 この鐘の銘に、「国家安康」と家康の名が二つに斬られていて、イチャモンが付くのである。

 この方広寺の銅の大仏は19メートルあったという。 奈良の大仏は16メートル(ルシャナブツは五丈三尺五寸と小学校で習った)。 その後どうなったかご存じか。 事のついでにお知らせしておう。 足袋も靴も文数で言うだろう? ナヌ靴は糎だと。 足袋の文数は何を単位にしてる? これを知らないでクイズ・ミリオネアに出てはならない。 ライフラインが宛にならないだろう。 寛永通宝の直径だ。 じゃこの寛永通宝は何処の銅で作られたか? ハイ方広寺の大仏をブッたぎって幾艘かに分けて船で江戸に運び、寛永通宝にしたのですぞ。 寛永年間に鋳造されたこの文銭は良銭で、以後の幕藩体制の基準通貨として不動のモノとなった。 つまり方広寺の大仏は良質の銅で鋳造されていたのだった。 それまでは足利時代に乱発無理矢理流通させた皇銅十三銭と呼ばれるビタ(悪)銭と中国から輸入した永楽通宝などであったのだ。

 一文線を笑うモノは一文銭に泣く。 おかしければくるしゅうない、次の間へ下がって笑え。


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