大昔の話:ペレゾフカ冷凍保存マンモスの頃

 いやーゴールデンウィークに暇な方々が多く、3日連休では半端で、使いようがない。 爺さん何しているかと、各種メールが飛び込んだ。 明治大正に強い黒柳徹子女史も、ふしぎ発見で、明治生まれだから実際に見て知っているのだと言われたが、明治初年の太陽暦批准新暦切り替えは、知らなかったのにパピーは、電脳ニュウスにこれを見てきたように書いている。 黒柳ファンにとっては面白くない。 パピーはどのくらい昔を見て知っているのか?、、、、サアネ?どう答えようか?

 見ていないけど調べる筋は知っている。 野尻湖のナウマン象は数多く、800頭分以上の食い散らかされたバラバラの状態で骨が採集されているが骨だけなので、数で勝負できないが、たった1頭だが、焼き肉の味まで議論された、シベリヤの永久凍土層に氷漬けで、少なくとも3万年新鮮なまま冷凍保存されていたマンモスについてなら色々調べたことがある。

 この偶然が幾つか重なった事で急速冷凍されてそのまま何万年の歳月の後、偶然猟犬が生肉に毎日ありつくのを見ていぶかしく思ったハンターによってシベリヤのペレゾフカで発見された新鮮な丸々一頭のマンモスによって、実に色々な事が、マンモスが未だタイガに生き残っていた頃の状況が科学的に解明されています。 第一発見者は生肉を数日間試食した猟犬だったようです。

 第一に、このマンモスが解剖されたとき、その胃袋から、はち切れんばかりに飛び出してきた15キロモノ内容物がどれも未消化で新鮮な植物であったという。 現在でも同地方に見られるごく普通の雑草とその実、小枝、コケ類が中心だが、今ではその付近にはもう分布していない唐松やこびと白樺、花ごけ、柳、などが発見され、当時は今よりも若干暖かい気候であったことを裏付けた。 その後、急に氷河期が襲ったことも推測された。 (E.W.フィッツエンマイヤー著「シベリヤのマンモス」以下この著書による)

 氷河期前期までは、象の種類にマンモスも入っていた。 現在のアフリカ象やインド象の祖先の象が、氷河のない暖かい地帯にいたと思われ、一寸旧式のマンモス系の象は、氷河の裾に追いやられ、それなりに剛毛と長い毛をまとい、どうしても露出しなければならない肛門を厳しい寒気に曝さない仕掛けまで進化させて肛門を守っていた。 一日に、何度も200kg位は食べて、そのくらいの糞を排出せねばならなかったのだから。 現在の草食獣でも、大体野生の生活では、消化吸収率は平均50%と見積もられるが、象のこの値がほぼ平均値(但し飼養される象は60%一寸上)に対してこのマンモスの胃と腸の内容物からの推定計算では、40%一寸下と意外な計算が出ている。 推定通り余りいい環境でないところへ追いやられていたと言えるようです。 食肉獣はたとえばライオンなどは、獲物を捕って一度満腹すると、直ぐ殆ど100%消化は早いがカロリーが高いので、割と、長い時間、2−3日は狩りをしない。 これに比べると草食獣は消化吸収率も悪く、消化に時間が掛かり効率が悪いため、寝ている時間以外は一日中食べて、糞をして過ごすことになる。 マンモスには肛門に蓋をする尾の付け根に半月形の特殊なカバー筋があって脂肪と厚い皮膚に覆われていた。 脂肪と言えば、このペレゾフカのマンモスは、脂肪の厚さが平均9cmもアリ、人間がマンモス狩りに熱中した最大の理由がこの脂肪燃料の獲得にあったのではないか、と考えられるようになった。 つまり大きな雌マンモスが通ると、燃料タンク車が通ったと雀躍して、仲間に通報、団体組織行動で、何処までも執念深く追っかけたに違いないというのだ。

 人間が氷河期を生き抜いたのは実に脂肪燃料を手にしていたからではないかと考えられている。 草食性だったと思われるネアンデルタール人が、氷河期を境にいなくなった一つの推定原因でもある。 マンモスの牙が草食性であるにも拘わらず氷河期に2m以上も進化して伸びて、丸まっているのは、雪や氷を掘り割って下に冷凍保存されている草木を掘り起こすためのブルドーザーの腕木の役をしたことがこの器官のこの形への進化の原因だろうと。 因みにこのペレゾフカ・マンモスの牙の目方は一対で250kg弱だったと記録される。 象牙の比ではない。 別のウクライナで発見された遺跡では、マンモスの牙と骨96頭分を使って、大家族制と思われる住居跡が見つかっているが、ツンドラ地帯や草原では、マンモスは建築材料でもあったのだ。 逆に、マンモスは、氷河期の間に耳が随分小さくなる進化をしたようだ。 体温放散の必要が殆どなくなったのだった。

 人間は、もしそれまで草食を主としていたとしても、このマンモスのように雪や氷を掘り起こして冷凍食品を得ることは出来なかったので、そのマンモスを獲物とすることによって、氷河期を生き抜いたと言えるのです。 最後にマンモスの焼き肉の味はどうなったかのくだりを紹介しておきましょう。 「そんなこんなマンモスの焼き肉の味はドンなだろう?と何度も議論したが、我々は鹿の乾し肉を充分なだけ持っていた為誰も喰ってみようと言うモノは現れなかった。 ヤフロフスキーのヤクート猟犬だけが毎日、この肉を賞味する光栄に浴していた。 毎日喜んで喰っていたし。 その犬の頭の上を隙をねらうカラスやカケスが、うるさく啼きわめきながら飛び交う有様だった。 何とも図々しい鳥だ。」

 

 

童謡・童話知りーず:「赤い鳥」創刊の頃

 大正時代に入って直ぐの欧州大戦が終結、ドイツからの賠償金が入って、文部教育も多少底入れ、音楽掛も文部省小学唱歌の教科書をつくってがんばり始めた。 此処に一方大正リベラリズムが台頭、20世紀は自由民権の世紀、官製唱歌何するモノぞの気運高まり遂に、大正7年7月7日セヴンフィーバーしたわけでもないが、作詞家、詩人、文士達によって、童謡童話同人誌「赤い鳥」が発行された。 創刊に招かれて、婦系図等で名高い大御所、泉鏡花が珍しく童謡風の詩を贈り、巻頭を飾っている。 又表紙は清水良雄の2頭の揃え馬に乗るハイカラリボンをつけた二人の女学生の絵である。 馬はリズミカルなかっぽを踏んでいそうな、、、。 では先ず、泉鏡花作「あの紫は」から。

 あの紫は お池の杜若(カキツバタ)
一つ橋わたれ 二つ橋わたれ、
 三つ、四つ、五つ、
杜若の花も 六つ七つ八つ橋。
 
あの紫は、お姉ちゃんの振り袖
 一つ橋わたれ 二つ橋わたれ
三つ四つ五つ
お姉ちゃんの年も 六つ七つ八つ橋。

 続いて当時脂が乗りきって、詩を書き捲っていた北原白秋。 殆どすべての雑誌に投稿しているが、赤い鳥の創刊号には、例の「栗鼠、栗鼠、小栗鼠」である。

 栗鼠、栗鼠、小栗鼠 ちょろちょろ小栗鼠
 杏のみが赤いぞ 食べ 食べ   小栗鼠。
 
 栗鼠 栗鼠 小栗鼠 ちょろちょろ小栗鼠
 山椒の露が青いぞ 飲め 飲め   小栗鼠。
 
 栗鼠 栗鼠 小栗鼠、 ちょろちょろ小栗鼠
 葡萄の花が白いぞ 揺れ 揺れ   小栗鼠.。

 この頃は未だ誰も北原白秋が失明したことを知らない時期でした。 もし知っていれば、流石の西條八十も、この詩を創刊号に送りはしなかったでしょう。

 「薔薇」:西條八十(ヤソ)
船の中に 忘れた薔薇は 誰が拾った。
 
 船の中に 残ったモノは めくらが一人、
 鍛冶屋が一人   おうむが一羽。
 
 船の中の 赤い薔薇を 拾ったモノは
 めくらが一人 見ていたものは
青空ばかり。

 後年西條八十はこの詩を投稿したことをいたく悔いた。 それを聞いた白秋は、誰だってそうしたよ、と一向に気に留めず相変わらず、カラフルな、そして白い花の出てくる詩をドンドン書き捲って、楽しんでいた。 白秋は視力をなくして、尚一層、情感を高める事を得、そして詩の中に色を鮮やかに盛ることによって、自分の視野を補っていたとも言えるのである。

 今年の梅雨は陽性だろうか。 子供の頃梅雨は長雨が同じ調子で小やみなく昼も夜も何日も降り続いた。 この北原白秋が作詞、赤い鳥大正7年9月号に発表した「雨」のように。 この詩には弘田龍太郎が作曲して、長梅雨の間中子供達に愛された童謡でした。

 ♪雨が降ります 雨が降る
  遊びにいきたし   傘はなし
  紅緒の木履(カッコ)の緒が切れた。
 
 ♪雨が降ります 雨が降る
  いやでもおうちで遊びましょう
  千代紙折りましょ畳みましょう。
 
 ♪雨が降ります 雨が降る
  ケンケン小キジが 今啼いた
  小雉子も寒かろ淋しかろ。
 
 ♪雨が降ります 雨が降る
  お人形寝かせど 未だ止まぬ
  お線香花火もみな焚いた。
 
 ♪雨が降ります 雨が降る
  昼も降る降る 夜も降る
  雨が降ります雨が降る。

 

パピイの昔語り:尾張野の英雄達(AU-3)

 まあなんと言っても小賢しい所がある秀吉は、人々の心の底から人望を集めることは一寸出来なかったようだ。 氏より育ちとは言うモノの、育ちも心貧しいモノであったのだから。 そこえ行くと、先代とも言うべき織田信長は、物心付く頃から、吉法師様と呼ばれて家来にかしづかれ、英才教育を受けるほどの育ちではあったのでした。 これがある意味で、人間性の欠如とも取られる面を助長したのかも。 しかし進取の気性、古いモノはたとい抵抗派があろうとも自民党はブッ壊すぐらいの意気込みは終始持ち続け小泉某の如く直ぐに腰折れする事はなかったし、ロジークに厳しく、特に迷信を廃し究理に徹するモノの理屈に耳を閉ざすことなく、率直に物理を学んでいる。 漢学よりも洋学に興味を示したのはこの意味が大きい。

 既に、少年の頃、馬飼いの老爺に攻め馬の限界を懇々と聞かされていた信長は、決して馬を乗り潰すことをしなかったのでキチガイの範疇の癇癖ではなかったと江戸医学に判定されている。 ご存じない向きには説明しておくと、馬という動物は、とてもデリケートな生き物で、乾電池1個の1.5ボルトでも気絶し、死に至ることがあるほどで、どんな駿馬、サラブレッドになればなるほど、体温に敏感で、長い時間攻め馬して走らせると、最後には血の汗をかいて、突然死に至る。(血汗馬の由来) 現在のサラブレッドでは長くて50分間という。 西部劇でも、ジョンウエインの映画で、悪漢を追いつめて後150mと言うところで馬が突然死する映画があった。 この事を信長は良く知っていた。 今川義元を桶狭間に急襲したときも、馬は疾駆させたが小半時以上は絶対に続けて走らせなかったのだ。 先を急ぐ家来共を叱りつけ熱田の宮に参らせて、馬に水と休息を与え、ねぎらうことを忘れていない。 もしこれを怠れば、義元の手前150mで馬が倒れたかも知れなかったのだ。 この勉強する心が、キリシタン・バテレンの法と共に輸入された、西洋科学に興味を示し、鉄砲戦術以外にも、利用出来るモノは徹底的に利用して、中世の陋習を瓦解させている。延暦寺の焼き討ちを始めとする中世のまやかしに近い宗教勢力の集中排除などに徹底して利用した。 毒を知り毒を盛って毒を制したのである。 信用せずとも利用した。 可成りの程度の理性の人であったとも言える。

 この信長の人間性を非情と極言させた一つの原因は竹生島事件であろう。 大奥から台所まで、規律が緩みきって、言うことも聞かず、信長自身が外出して帰らないと判ると直ぐ女共が町に繰り出して「親方安土城」で飲み食いし私用の買い物を公費でする、言って聞かせても泣き落としで言を左右し止まるところを知らない状態と聞いた信長はある日、竹生島参詣を思い立って、船を用意させ家来と出掛ける。 船には家来の半分を乗せ代参させ自分は城にとって返し、女共の点呼を取る。 半分も居ない状態だったらしい。 慌てて帰ってくるモノを集めて断罪した。 しかし、死罪を賜った大奥から台所までの女共が、これをうらみに思うのは典型的な逆恨みで、企業や集団にあっては、女子従業員共の行為は決して許されないのであって、これを知った会長社長である信長が、現行犯として、それらの不心得者が集団規則違反、会社服務規則違反、社費の私用着服等を半ば公然と犯す現場を抑えるために行ったモノで常習犯行を行っていた側が責められて然るべきモノでありましょう。 この囮捜査法は、西欧的事情が移入されていた当時には既に知り得たことでしょう。 現代の民間企業のトップマネージメントは既に卒業済みでショウが、外務省あたりでは未だ伏魔殿だそうで見習うべきで、信長大臣が来ればこれからも起こりうる、省内規律粛正のお手本みたいなモノでしょう。 ただ、この時の女共の怨念が、亀岡街道を目前にした明智光秀に乗り移って竹生島の時同様に馬首を廻させ、明智も西国へ向ったわいと寝につこうとした本能寺の信長の虚を突かせたのだとする説がある。 女の怨念は理非正邪を超えるとする。ホントなら、、、オオコワ。

 信長は主として自分の興味のために許可したのでしょうが、ポルトガルの学校を、♪雪に変わりがないじゃなし、、、の京都ポント町に作らせたのは、世間のためにもなっている。 この時期実に多くの外国情報が、日本語化して、先斗町文化として今に伝わっている。 天ぷら、びいどろ、びろうど、こんぺいとう、あるへいとう、キセル、タバコ、、、、数え上げればきりがない程である。 多くの植物が珍しがられ、多くの機能部品が輸入された。 火薬用の硝石もこの時代は未だ殆ど全量輸入であった。銅の最新の製錬技術がもたらされ鞍馬谷で公開実験が行われる。 以降急速に全国で銅山が、再開発されて日本の外貨獲得の主力製品となる。 鉄砲と火薬輸入のためであった。 当時の黒色火薬は木炭粉、硫黄とこの硝石で、やがて、硝石は、国内各地で、洞穴の中や田圃に糞小便を撒いて硝田生産で2-3年掛かりで賄われるようになると自給自足となった。 果樹や花の品種改良も足利時代から始まっていたが、この頃漸く定着法が伝えられたようだ。 珍しいところでは足利時代に外来したオクラ(とろろ葵)が、日本全国で栽培され得るように品種改良されて広まっている。

 因みに「ポント」はポルトガル語では岬・桟橋/突き出した先っぽと言う意味で日本当て字「先斗町」は実に気の利いたハイカラないかにも信長好みの名前であります。


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