大昔の話:北海道のマンモス

 ペレゾフカで偶然急速冷凍3万年の後、発見された大型のマンモスは、徹底的に研究 されたが、当時年代測定技術の精度が問題で、氷河期との相対年代がはっきり確定は出来ていないらしいのですね。 と言うより現在も研究継続中らしいと言うべきでしょう。 そうゆう意味でマクロにマンモスの氷河期との関係を見ると、現代象の祖先におされたナウマン象が北進してマンモスを更に北に追いやったが、氷河期の進行に伴い氷河が厚くなりその分海水面が下がってあちこちで陸続きが生じ、樺太北海道がシベリヤに繋がると、マンモスの中型以下が、大型に押されて、樺太北海道にまで南下してきてナウマン象など小型の象を更に南の本州に追いやったようです。 樺太・北海道あたりのマンモスの骨や牙から推定されるマンモスの体格は、前述のペレゾフカのマンモスに比較すると、体重で半分以下2.5トンくらい、一頭から得られた食肉は最大で1頭あたり1000kgと推定されています。 因みにナウマン象は更に半分くらい。 日本列島の氷河期の推定は更に難しいらしい。 というのは、日本付近は、プレートが幾つもぶつかり合って、地震火山活動が、一定の規則を守ることがあったとは思われず、局部的に氷河期厳冷期でも広い範囲で春の気候が続いた地区に象などが止まった可能性も指摘されたり、、、 野尻湖のナウマン象なども世界の古生物学から見れば一種の例外的なモノだと主張するヒトもないでもない。 こういう言い方すればきりがないのであって、北海道にマンモスの痕跡があるのもひょっとかすれば、例外なのかも知れない、と言いたいヒトも出てくるかも。 誰も見てきたわけじゃないのだから。

 氷河期の原因でさえ、昔は、太陽系的未知の原因で、大気が冷えて、凍り付いたと考えられたが、現在では、世界的に地球規模で、火山活動が活発化が重なった事から大気上層に火山灰が吹き上げられて沈降せず、太陽光を反射してしまい、太陽エネルギーを大気が受け取れなくなったが為に、地表大気がホンの10−14度ほど低下して、極地に2000m−3000m級の氷河層厚に水が固定されたのだと熱精算されている。 海面は160m-180m位下がったと見積もられている。 これが、地球規模で少なくとも前後4回は起こって、凍り付いていると言うから、いつ又起こり始めても不思議ではない。 人間の無理解な営みや、人間の身勝手な行動がきっかけとなってそれが起こり始めないことを願うのみです。

 因みに、マクロに計算された氷の厚みと、熱精算を重視して、水サイクルとの関係から海洋の水容積を見積もっての計算では、海面低下の高さが、20−30mも違ってくるようで、20m余分に干上がったとすれば、間宮海峡だけでなく、北海道と本州も充分広く繋がり、又、カムチャツカ半島から、北海道まで千島列島ランドブリッジが完成していた可能性が生じ、北海道のマンモスは、カムチャツカ型で、シベリヤ型の大型とは全く別の進化を遂げていた可能性が考えられるとか。

 気温低下が、平均10度か14度のたった4度の見積もり違いで、干上がった推定海面低下量が、平均20m異なり、計算誤差+/-20mが帳消しになるのか、拡大されるかで、北海道のマンモスの進化は微妙のようです。 鰐の祖先や、虎の祖先などの肉食獣に本州部分の日本が攻められて、草食大型動物である象類や緩慢動作動物が倒されて、中型以下が、北上して、どうにか命脈を保っていて、人類も、これらと行を共にしながら、氷河期の到来初頭に、ベーリング海峡を渡って、モンゴロイドの祖先が、アメリカ大陸に渡っていった、大型/中型草食動物は、寒さに怯えて、沖縄ランドブリッジや大陸棚ランド方面に逃げ帰って肉食獣が居なくなった本州に迄又じわじわ と南下したと考えられています。

 氷河期が何かの地球的規模の理由で、地球が震えるほどの火山活動の活発化で、始まったとすれば、カムチャツカ・千島、日本などは到るところで、火山が噴火していたと推測され、食料植物が火山灰で枯死していて、大変な土地であったはず。 草食小動物も死に絶え、肉食同士文字通り竜虎相打ち、さしもの肉食猛獣も南下してこの地を去るしかなかったでしょう。 人類はこれをある程度予測して、南下せず、ベーリング海峡やアレウトランドブリッジを東進して、北米大陸まで一気に駆け抜けたモノたちが、此処で氷河対策南下を始め、ベーリング海を渡ってから僅か千年で、モンゴロイドの子孫は南米南端まで達した形跡があるようです。 彼らが、猛獣と、火山活動から逃れ、寒気と乾燥に耐える肉食を始めながら、いかに生き抜くか必死で、ひたすら逃げることを考え、且つ生活の知恵を集積していったのではないか、そう考えずには居られません。 早い時期に温暖な地域に逃げおおせた種族は草食に戻り、後から氷河が迫った頃に未だアラスカ・カナダにいた種族は肉食を続けた訳でしょう。

 マンモスやソノサキのナウマン象を追って、猛獣の去った本州に帰ってきた種族は、火山からは離れ、温泉のわいているような、不凍湖のほとりで、象などの来るのを待って、狩りをしたと考えられています。 ナウマン象が典型的な例です。(続く)

 

戦前の国際的拉致事件:浅間丸事件 (1) 事件発端、、の巻

 戦前の国際的拉致事件としては、1940年1月、英国諜報機関が英国海軍巡洋艦2隻を使って日本郵船、定期航路・客船を臨検、日本を経由してドイツ本国に帰国中のドイツ人乗客21名を拉致する事件が新聞・ラジオを騒がせ、国際的にも論議を呼んだ此の事件が国内外で有名でした。

 ドイツは、ポーランド侵攻を開始しており、英国と交戦状態にありましたし、日本は、列国の反対を押し切って、中国大陸の戦線を拡大、オウセイエイなるモノを傀儡政権の長として国際的には認められていない侵略占領地区に新政府を作らせるなど、隣国の内政を圧迫干渉の限りを尽くしていた頃のことです。

 一方、日本国内では万国共通の暦ではない神話上の国の始まりを紀元とする皇紀の紀元2600年だと勝手に決めて、、、

 ♪ キンシ輝く日本の 栄えある光身に受けて 今こそ祝え此のあした紀元は二千六百年
  ああ一億の胸は鳴る

 などと歴史と神話をわざと混同、歴史を660年ほども水増しして利用し、挙国一致体制へのキャンペーンに軍部に踊らされた政府・指導者・学校の先生までが誤った道に国民を引き込もうと躍起となっていた頃のことです。 ただ、それに勢いを得た外務当局も腑抜け腰抜けの今とは違って、一丁前に、たとえ相手が最強の大英帝国であろうと も、言うべきことは言う姿勢をとっていたことは頭に置いておくべきでしょう。

 ことは昭和15年1月22日の朝6時のラジオ・ニュースと、配達された新聞の記事で全国一斉に知ったわけでした。 たとえば、東京日々新聞の記事、、、。

 英艦が浅間丸臨検、乗客のドイツ人拉致
 [昭和15年1月22日 東京日々]
 [横浜発]日本郵船桑港(サンフランシスコ)航路浅間丸は21日午後7時、ホノルルから横浜に入港したが、端なくも同船の港外着と同時に、同船が東京湾外野島岬沖の北東方約35海里の海上で、突如姿を現した英国巡洋艦一隻並びに仮装巡洋艦一隻から停船命令を下され、あまつさえ威嚇発砲された上、同船に乗り日本経由本国への帰途にあったドイツ油槽船乗組員21名が、強制的に英艦に連行されるという事件が勃発したことが判明した。 今次の欧州大戦勃発以来、英国軍艦が不遜にも我が近海を遊弋しつつあった事実はしばしば認められていたが、今回は我が領海に近接し、客船を不遜にも強制停船せしめ、臨検に際して英兵はピストルを擬して同船無線席を威嚇して無線連絡を断絶させた上、ドイツ人を拉致し去ったモノで、辛くも連行を免れた残りのドイツ人先客は、あまりに突然のショックに生きた心地もなく、恐怖の色を浮かべつつ英艦の処置に激昂している。 一方、邦人船客達も無事横浜に帰着した喜びに安堵の胸を胸をなで下ろすなど、異様に緊張した悲喜こもごもの情景を呈した。 尚ドイツ人を拉致し去った英艦は明らかに3本煙突1万トン級の巡洋艦で、右の同艦に次いで付近に現れた船は7−8千トン級の商船を武装した仮装巡洋艦で、高い1本煙突の特徴を有する点から、恐らく英国ブリューファンネル(青筒)商船を仮装した1隻と見られている。

 [英国大使館 声明]
 英国軍艦の浅間丸臨検事件に対し、麹町区一番町の英国大使館では同夜、タフネル海軍武官を始め幹部が協議の結果、左のごとき声明書を発して今回の行動の合法性を主張している

 「英国海軍が公海上において中立国に属する船舶からドイツ人の船員を拉致するの行為は全く国際法に準拠するモノである。 今次の戦争中においてかかる行為をとるの権利あることについては、未だいずれの中立国からも抗議を受けたことのないモノで、既にドイツ側ではこの種の行為をなしているものである。 浅間丸の場合には、乗っていたドイツ人船員全部を拉致したものでなく、単位ドイツ側の、戦闘力に役立つべき技術士及び熟練船員のみを拉致したものと解される。

 [国際法上問題(立博士談)]
 東京帝国大学名誉教授・法学博士 立作太郎氏は語る。
 詳細な資料がなくては断定を下し得ませんが、戦争中、敵国の商船船員を俘虜にすることは合法的なこととして一般に認められています。 ただしこれは直接その船から拉致するときに限るのであって、中立国の船舶に乗船しているのを捉えるということは、1909年のロンドン宣言によって非合法と認められており、我が国の学界でも大体此の意見を採っています。 中立国の船舶を臨検することは、それ自身としては領海外であり軍事上の必要があれば問題はないのであるが、その船から交戦国の現役軍人でない者を俘虜にする点に問題がある。 ただしこれと同様の前例は欧州大戦当時2、、3あったと思うが、これは主として連合国側の艦船が小国(中立国)の船舶に対して強行したものであったと記憶している。

 「発泡して停船要求<渡部船長談>]BR> [横浜発] 浅間丸船長渡部喜貞氏(51)は横浜入港と同時に、さすがに異様に興奮して次の如く当時の模様を語った。
「今日(21日)の午後零時15分頃、本船の前方に一隻の船影を認め、次第に本船の方へ近づいて来るのを発見した。 同28分頃、漸くそれが軍艦だとわかり注目していると、35分頃、その軍艦が向きを変えて横になったので、はじめて英国の軍艦だということがわかりました。 零時40分、いよいよ本船に接近して、「汝の船名と国籍を知らせよ」と信号旗を掲げたので、本船ではその通りにすると、その英艦は本船の前を右から左に横切りつつ、「我を避けよ」と信号して、左舷に艦首を向け次いで零時51分「直ちに停止せよ」と本船に対して停船命令を下した。 次いで、零時55分「我がボートを送るベシ」と再び信号してきた。 その際英艦から一発大砲を発射する音が聞こえたので、やむなく停船したが、其の位置は野島崎灯台から約35海里ばかりの海上でした。 すると午後1時、英艦は本船の左舷尾約200メートルの後角に泊まって、一隻の内火艇を降ろして本船に向かってきたが、その時また右舷船首方面から一隻の武装した灰色の英国商船(半船客船)が本船に向かって北から進行してくるのを見、いよいよただごとではないと思いました。 英艦の内火艇一隻は午後1時10分頃、本船の左舷舷門に着き、ピストルを持ち武装した士官3名と水兵9名が移乗してきて直ちに船長室に姿を現したのです。 私も覚悟を決めて面会すると、向こうの士官は、「航行中を止めて気の毒であるが、国際法によって、ドイツ人船客を引き渡して欲しい。」と言葉は丁寧ながら厳然たる要求を突きつけられたのです。 私は、、、。」(途中ですが以下次号に続く)

 

パピイの昔語り:尾張野の英雄達(4) 蜂須賀小六正勝(AU4)

 急に粒が小粒になったと言うなかれ、そりゃあ、信長、秀吉に比べれば天下を取らなかった分、小さく見えるだろうことは否めない。 また天下分け目の関ヶ原での布陣図などを調べても、一体何処でどう此の戦に参加したのか要領を得ない。 しかし、後に家康によって、あわ徳島を賜って、♪エライヤッチャエライヤッチャヨイヨイヨイ ヨイ、、、、阿波踊りの徳島を興隆させて居る。 第一なんと言っても、足軽以前の日吉丸、織田信長の草履取りの籐吉郎の頃から眼をかけ将来の大物を見据えて、墨俣一夜城以降地位の逆転するのもいとわず、一介の籐吉郎を押し立て、羽柴秀吉に、さらには太閤豊臣秀吉に育て上げたと言っても言い過ぎでないほどの働きぶりは、並大抵のものでなく、その忠臣ぶりは半端じゃない。

 この日吉丸/籐吉郎/秀吉と出世魚見たく、トドのつまりの太閤まで、一介の日吉丸の面倒を見た蜂須賀郷(現海部郡美和町字蜂須賀)出身を標榜した此の男の出自正体は、織田信長時代の、木曽川南岸尾張の一体を取り仕切る野武士集団の首領であった。 いわば、戦国の世の典型的アウト・ロー。 自らは籐吉郎よりも早く老いていく、 力量に限界は感ずる、此の集団を、いずれか将来ある天下人の正規軍に取り立てて貰い子分共を安堵させるには、知恵者が要る、見つけてこれと決めたらなにが何でもその道を進むしかない、おのれと籐吉郎の主従関係など目ではないと決めていたのではないか。 籐吉郎も、小六集団として扱い、集団の統御統括は一切小六を信頼して小六にまかせていた。 集団のパワーと小六の此の集団への統率力は見抜いていたに違いない。

 こうして、籐吉郎と小六の双方の夢と希望の話がバッチし組み合い、では、織田殿に挨拶し、腕の程をご覧に入れようとやってのけたのが、美濃攻めの墨俣の一夜城。 小六集団が日頃の此の地で情報網と勝手知ったる地理と協力者との総力を尽くしたプロジェクト・デモンストレーションを敢行したのだった。

 これだけでなく、以後、賤ヶ岳の戦で、また中国征伐の各作戦技法において、集団のノウハウを駆使して籐吉郎/秀吉の名を挙げさせ、更に一向一揆鎮圧や四国制圧の裏工作でもプロジェクト的な動きで、ことの成就を謀って成功している。 これらの戦功の中で、小六自身は老い行き、秀吉は、自分が略取した播磨、竜野の城を、本能寺直前に、小六の息子蜂須賀家政に賜るよう信長に願い出て快諾を得ている。 どうも小六は此処でなくなったのではないだろうか。 しかし小六集団の活躍は此の後も陰ひなたなく、秀吉に付き添って中国四国制圧に出没するのだが。

 秀吉のいわゆる唐攻め、朝鮮半島侵攻には殆ど忘れられた如く名がない。 此の集団も丁度代替わりの難しい時期だった頃だし、秀吉も、此の集団を異国の地で扱える格好な武将を思いつかなかったのかも知れない。 竜野城主として家政の治世は、此の地の伝統的な醸造業の振興の礎となるものであったという。 軍政よりは文政に長けていたと思われる。

 天下分け目の関ヶ原に当たっては当然秀吉小六の関係から大坂方の旗頭として石田三成から強い参陣要請を受けたが、南宮大社系の最重臣の一正規軍を当てて三成の顔を立てておき、家政の子蜂須賀至鎮(よししげ)は、父家政の計らいで、極めて少数ながら最精鋭の機動隊手勢と共に東軍に参じ、家康本陣の旗幟を守っています。 家来の策謀と家政の計らいは効を奏し、敵軍の寝返り情報等のIT並みの速さ・正確さが家康の眼鏡にもかない、居並ぶ一般の論功行賞に彼の名はなく、おや?と思わせておいてやがて別に、此の至鎮の働き出色であると、当時としては異例・破格の阿波徳島十八万六千石を賜り、四国の一大大名に安堵します。 四国の近隣大名だけでなく、大坂、摂津、和泉、兵庫、紀伊、と紀淡海峡の向こう側の者まで一目をおかざるを得ない、それは 家康流の小憎らしいまでの深謀演出だったのでした。

 ♪偉ーいやっちゃ偉ーいやっちゃ、、、の始まりです。 こうなること、、、こうすることが、祖父、蜂須賀小六正勝が、籐吉郎に賭けた大バクチの、、、夢の結末。 実現したのが籐吉郎でなくて家康であろうともそんなことはどうでもヨイヨイヨイヨイのでした。

 


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