パピイ・ニュウス:手作り衛星X I(サイ)などの呼び名はキューブ・サット

 JARL NEWS 5/6月合併号で、2頁ブチ抜きで紹介され、うち上げは6月下旬と報じられていましたが、6月のギリギリ一杯、6月30日午後11時15分に、ロシア北西部のプレセック宇宙基地から成功裏に打ち上げられました。

 東大・大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻の中須賀真一助教授のグループと東工大の学生等がそれぞれ手作りで完成させた、超小型人工衛星2基を含む衛星等を載せたロシアとドイツの合弁企業ユーロコット社の宇宙ロケットが、未だ太陽の沈まない現地時間6月30日午後6時15分に打ち上げられました。 衛星は打ち上げから1時間半後に高度約820kmの円軌道に投入され、7月1日朝、それぞれ予定軌道に乗ったことが確認されました。

 今回の打ち上げは学生やアマチュアにも宇宙の門戸を広げる試みで、「学生にも宇宙工学の実践を」と言う米国の研究者の発案で始まったプロジェクトの第1弾。 東大・中須賀研究室では2000年から約1年半かけて、人工衛星の設計・製作・地上実験を行い2001年末には完成していたが、その後打ち上げのチャンスが得られずにここまで伸びてきていました。 今回のユーロコット社のロケットの主目的は、チェコの大気観測衛星などでしたが、ロケットが小改良が進んで、ペイ・ロードに余裕が生じたということで、この度アメリカ、カナダ、デンマークの4大学の衛星4基と此の日本の2基が、積み込まれたのでした。 先ずさきに、チェコの大気観測衛星とカナダの宇宙望遠鏡衛星を分離した後、打ち上げから約90分後に、中須賀研究室の超小型衛星「サイ」などのキューブ・サット計6個高度約820kmの円軌道に順次投入した模様。

 キューブ・サットの大きさは10cm 立方、1 kg 。「X I(サイ)」は太陽電池で発電し、アマチュア無線で通信を行う。 搭載カメラで地球の画像を中須賀研究室に送信した。 画像は、一般の希望者にも電子メールで配信された。

 「サイ」の打ち上げに先立つ、先月25日に、行われた東大・大学院工学系研究科合同定期研究成果発表会と記者会見でも、応用化学専攻の平尾教授を拠点リーダーとする「化学を基盤とするヒューマンマテリアルの創成」の4大マテリアル化学プログラムの話が主軸をなしていたが、「未だ打ち上げてはいませんが、、、」で始まる中須賀助教授の、自信に満ちた、理路整然たる、キューブサットの研究紹介とその設計・組立、地上実験の経過報告は大迫力で、詰めかけた記者達の興味を一挙に奪い取ってしまったという。 特に、此のキューブサットの製作打ち上げ実践のミッションは、打ち上げそのものよりも研究設計製作を通じての、工学的実践教育、プロジェクト・マネージメント教育として一貫して役立つこと、工学的目標ミッションとしては、超小型衛星のパス(基本要素)が宇宙に上がっても設計通りに正しく働くことの検証実験、アマチュア無線帯を使った様々な通信実験、さらには搭載カメラによる地球画像の取得とその画像の転送実験の3点が強調され大いに会場は湧いたという。

 註:[キューブ・サット] スタンフォード大学のロバート・ツイッグス教授から提案された10cm 立方,1kg 以下の超小型人工衛星の呼称。 国際的に認められつつある。 学生などが、衛星の設計製作など衛星開発のすべての基本プロセスを経験し更に打ち上げて実際の世界での挙動を知ることにより実践的な宇宙工学教育を施すことが出来ると提案された。 2001年末に完成していた東大の「サイ」、東工大の2基が先陣を承ったが、打ち上げは遅れていた。

 

戦前の国際的拉致事件:(2) 日本側の対応(其の一)、、の巻

 1940年1月21日正午頃、房総半島南端野島崎灯台から、約35海里の海上に突如現れた、英国巡洋艦によって、日本郵船・桑港(サンフランシスコ)定期航路の客船浅間丸が、発砲によって停船を命じられ、午後1時頃、英海軍臨検隊が、ピストルを擬して乗船して船長室に現れ、浅間丸の船客であるドイツ人21名の引き渡しを強要したところまでを1月22日朝刊の東京日々新聞の報道から伝えました。 以下同新聞の続きです。

 英艦が浅間丸臨検、乗客のドイツ人拉致
 [昭和15年1月22日 東京日々]
 [浅間丸渡部船長の談話の続き]、、、
 「、、、私は、欧州大戦勃発後、9月末神戸に帰航した船にも乗っていたが、英艦から左様な要求を受けたことはないから、ドイツ人船客を貴方に引き渡すべき理由はない、と一応拒絶しました。 これに対し英士官は、、、、、それは船客が大戦前乗船の船客であったから左様な処置は受けなかったが、本船の船客はしからず。 とあくまでドイツ人の引き渡しを要求された。 其処で私は更に、しからば何か証拠があるか。ドイツ人を連行するならば一応調べてからにして下さい。 と申し立てたところ、向こうは既に調べていたと見え、、、、、 貴船客ドイツ人中、軍籍にある21名だけの引き渡しを要求する。と言うのです。 それに対し私も、危急の場合ではあるがいろいろ考えた結果、英艦の方では既に、ドイツ人船客が米国で乗船の際の旅券その他を十分証拠を聞きつけた上での要求であり、しかも場所が、残念ながら日本の領海外であることなどを考えて遺憾ながら国際法によって交戦国の権利を行使する以上反駁しても仕方がないと諦め、ドイツ人船客の取り調べをやむなく承知しました。 船客中には、我が外務省に直ちに無電して救援を求めよと言うことを主張する人もあったようですが、先頃独貨拿捕令で問題となった山陽丸のような場合と違い、今度の場合は明らかにドイツ本国に向かって帰るドイツ人であり、しかも敵国ドイツの戦闘力を増すと認められる以上これ以上抗弁しても仕方がないと考えたわけです。」(後略)

 [英大使に厳重抗議、抑留者の引き渡し要求]
 =昭和15年1月23日 東京日々=
 艦名不詳の英国巡洋艦が我が郵船浅間丸の船上よりドイツ人船客21名を拉致し去った事件に関し、22日外務当局は午前に引き続き午後3時辛さから更に諸材料をとう備し、慎重審議を重ねた結果、取りあえず、午後十時50分、クレーギー駐日英国大使を外務省に招致し、谷外務次官より厳重に注意を喚起した。 即ち我が方としては、たとい日英両国間に国際法上の見解が異なるとはいえ、今回英巡洋艦が取った措置は頗る非友好的であり、帝国官民の斉しく不満とするところである、況やかかる行動は国際慣例を無視したものであり帝国政府は事態に対し重大なる関心を示すものであることを通告し厳重抗議した。
クレーギー英大使は午後11時半辞去した。
英の態度容認しえず、浅間丸事件に関し、外務省情報部では、谷次官の22日のクレーギー英大使に対する抗議後、次のごとく発表した。

 [外務省情報部発表 23日午前零時]
 21日午後、房総半島沖において行われた英国軍艦のわが浅間丸臨検事件につき、谷次官は22日午後11時、クレーギー在京英国大使を外務省に招致し、次の通り本件に関する帝国政府の見解及び抗議を申し入れた。
1。1月21日午後零時50分、千葉県野島沖35海里において、一英国軍艦は、ホノルルより横浜へ帰港の途次にありし帝国船舶浅間丸に対し停船を命じたるをもって、右帝国船舶は零時五四分、北緯三四度三四分、東経百四十度31分の地点に停止せるところ、右英国軍艦は士官及び水兵数名を浅間丸に派し、国際法上の権利なりとして詳細の理由を説明せず、かつ同艦の艦名すら明示するところなくして、乗船ドイツ人21名の引き渡しを要求せり。 浅間丸船長は右要求を拒絶したるも、英艦の強力による前記ドイツ人船客の抑留措置を防止し得ざりしものなり。
2。 従来帝国は一般に承認せられたる所に従い、公海において交戦国の一方が引き渡し要求し得るの中立国船舶上の交戦国の他方の国民は、源に軍籍に編入せられおるものに限らるべしとの原則を執り来たれること、既に英国側においても十分承知の通りなり。 右帝国の態度を十分承知しているにも拘わらず、帝国の近海において英国軍艦が帝国船舶に対し前項のごとき強力処置を取りたることは、英国側の帝国に対する重大なる非友誼的行為と看なさざるを得ず。 帝国としては本件を極めて重視するものなり。
3。 帝国政府としては今回英国海軍が取りたる処置はこれを容認し得ざる所にして、右に関し至急英国政府の十分にしてかつ根拠ある説明を要求するものなり。 帝国政府は右抑留せられたるドイツ人を帝国政府に引き渡すべきことを要求することの権利を、あらかじめここに明白に留保し置くものなり。
4。 今次英国側処置が既に帝国与論に莫大なる衝撃を与えつつある事実に鑑み、かかる行為が今後も繰り返さるるにおいては、帝国国民の対英感情はますます悪化すべきこと必至にして、帝国政府はここに日英国交の大局より英国側の深甚なる考慮を要請するものなり。(続く)

 

パピイの昔語り:尾張野の英雄達(5) 徳島・蜂須賀補足と池田輝政(AU5)

 阿波・徳島の読者から早速のご指摘を戴きました。まことにごもっとも。 至鎮の父家政が、善政を布いた頃の禄高は25万八千石だがどうしてその子が18万六千石か、何かの間違いじゃないか?そうなんです。 子が先で、親が後から出来る芋は八つガシラと言う芋です。 で八須賀家と言おうなんて思ってませんよ。 ただ、子の代の次に孫の代が来るのが順序なのに親の代が来ただけの話です、と申し上げておきましょう。

 関ヶ原の天下分け目で、南宮大社系の部下に大軍を与えて、西軍の主力毛利軍を支えさせたは此の家政の不明のいたらざりし処と、、関ヶ原後、家政は城を返上、自らは剃髪し、さっさと仏門に入ってしまった。 家康は、おおよその察しを付けたに違いない。 毛利の西軍主力を支えた支隊は南宮山にあって、敵味方をつぶさに観察して、その寝返り情報を見通しの位置の至鎮の機動小隊に、鏡か何かを使って素早く合図を送ったに違いない、これは今後も使えるかけがえのない情報部隊だとホクソ笑んだに違いない。それをもっとも効果的な地理上の要の地に配置することを考え阿波徳島に配置した。 その時は領主は至鎮であり、18万6千石であった。 その後も、至鎮は家康の情報担当として西国大名の動きを把握し家康の期待に十分応える働きを続け、10年足らずで、阿波徳島の隣一郡と、淡路島を加増され、25万8千石の大大名に出世するが、急病を発して、35歳の若さで急逝してしまう。 お世継ぎは未だ乳飲み子であった。 家康のお声掛かりもあって、剃髪していた家政が還俗、幼孫・忠英の後見となり実質25万8千石を受け継ぎ、寛永3馬術名高き四国の一角、淡路、阿波徳島の治世をゆるぎなきものにして、寛永15年まで70年の波瀾万丈の生涯を送ったのでありました。 これでお判りかの。

 オキャーマの名藩主池田公がもとはと言えば尾張の産。 秀吉が、小牧・長久手で、織田信雄・徳川家康連合軍と死闘を演じたときの、秀吉軍の清洲・織田の遠縁の猛将親子池田恒興・池田元助が相次いで戦死。 秀吉は元助と乳兄弟の従兄弟輝政に池田本家を継がせ織田信長の嫡孫三法師秀信の岐阜城を守らせます。 秀吉の小田原攻めで、先陣を承ったが徳川軍の応援を受け、その後、家康の奥州征伐から徳川軍の支隊となった関係で関ヶ原では、ややこやしくも、東軍浅野幸長の攻める三法師岐阜城を守りながら南宮山の毛利軍を攻めるとんでもない複雑な羽目に陥ります。 しかし家康は此の複雑にして重大な働きをこなしたことを良しとし、姫路城に配置換えしますが、ただし有り金残らず城の徹底改修にはたくことをを命じます。 今の白鷺城の形に作り上げたのはこの時の「毒を喰らわば皿まで」状態での池田輝政の純粋な芸術性の発揮です。 日本一、いや、美的感覚から世界一の城といえるかも知れません。

 孫の池田光政の代に岡山に転封され、一躍52万石に加増され家来が足りず尾張、岐阜から多くの家来の縁者を急遽岡山に移住させました。 これがオキャーマ弁と尾張弁が共通の曖昧母音を持つようになった原因とされます。 池田公が去った後の姫路城は譜代の酒井氏の居城となり更に小修理がなされて今の国宝の仕上がりになり海内にその威容を誇るようになったわけです。

 他の尾張野出身の英雄とは一風変わった履歴と姫路城以降の芸術築城派で、とても尾張の出自と見えないところが此の家系の特徴かも。証拠としてのオキャーマ弁の来源も納得しましたか?

 


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