戦前の国際的拉致事件:浅間丸事件(3):日本の対応(其の二)英反応の巻

 外務省当局と別に、当時の帝国海軍もこれに反応しました。次の新聞記事は、その間の経過をも含めて報じられていますので、当時の政府部内での連絡情景、各省の出方立場も読みとれると思います。

 [海軍も外務省支援、強硬姿勢]
 =(昭和15年1月24日 大阪毎日(夕刊))=
  郵船浅間丸が野島崎沖合35海里の海上で艦名不詳の英国巡洋艦より臨検を受け、同船上より獨人船客21名を拉致し去った事件に関し、有田外相は23日の閣議前、午前9時30分より1時間余に亘り首相官邸で米内首相と会見、事件の内容を報告すると同時に、英国巡洋艦の取った今回の措置は頗る非友誼的なるものとし、22日、クレーギ英大使を外務省に招致、谷次官をして厳重抗議せしめた旨を述べ、帝国の国際法上の見解よりして英国の態度は容認し得ざるものとし、英国の回答を待つこととなったと報告したが、更に午前11時より開かれたる閣議席上璧頭において、首相に報告したと同様全閣僚に対し、浅間丸事件については22日のクレーギ英大使に対し、抑留船員の引き渡し要求を内容とする厳重なる抗議を発せる旨を報告、これに伴う帝国政府の見解を説明したところ、これに対し吉田海相より「本事件に関し今回外務省が取った措置は当然のものであり、海軍としてはあくまで外務省を支援する」と発言し、ついで各閣僚とも英国の非友誼的な行為に対し外務省が行える厳重な抗議を全幅的に支持する旨の強硬なる発言あり、目下獨人船客を乗せ太平洋を航行中の郵船銀洋丸以下の後続船については、再びかかる事件の発生を見ざるよう有効、適切なる措置を講ずると共に、英国政府に対し抑留獨人船客引き渡し要求ならびに今後かかる非友誼的行為を繰り返さざることをあくまで要求することに、帝国政府の廟議を決定した。

 [国際法上、英の行為は正当と英大使声明]
 =(昭和15年1月26日 大阪毎日(夕刊))=
  浅間丸事件に関し帝国では、英国に対して不法拉致されたドイツ人21名の返還及び邦船への今後の保証を求める一方、連日にわたり外務、海軍、陸軍の関係当局が協議、自衛手段を講ずることになり、また今次事件は帝国の威信を失墜すること大なりとして与論憤激、反英気運が日に日に濃化しつつある折柄、クレーギ駐日英大使は25日午前11時、東京麹町の大使官邸で新聞記者団に対し、次のごときステートメントを発表した。
 (英大使の声明)
 日本諸新聞に発表されたる記事および当大使館に多数日本国民諸君の来訪により表示されたる意見に基づきて判断するに、今回の浅間丸事件に関する問題の諸点に幾多の誤解ありとの印象を受けた。

 たとえば日本船舶を単に停船せしめるという一事が、日本に対する侮辱なりとする論議のごときものである。 余はわが日本の友人諸君に対して、わが英国が日本国の名誉に対し毀損的行為に出ずるがごときは実にあり得べからざることであると考える。

 交戦国が臨検のために中立国船舶を停船せしめ得る権利は国際的に十分樹立せられ、かつ日本においても確認せられている次第である。 事実、今次China事変中において日本海軍は英国船舶を停船せしめ、かつ臨検すること百九十余回におよんでいる。 ゆえに此の権利の行使に関しては、両国間に少なくとも異義はないのである。

 しかし日本においては浅間丸が、日本沿岸を去る僅々35海里の地点に於けるがごとき近接せる海上において停船せられるべきではないとも主張するものがある。 国際法に従えば、交戦国が中立国船舶を公海上、すなわち領海外いかなる地点において停船せしめ得ることも合法行為なりと認められている。 しかしてこれは日本海軍の慣例とするところである。 例証を挙ぐれば,1939年五月中、英国定期船ランプーラ号は香港沿岸を去る四マイルの英領土内より観望し得る海上において、日本海軍により停船せしめられ臨検された。 余はランプーラ号と浅間丸事件は等しく、其処に何らの侮辱的意見の存在せざりしことを確信する。 勿論二つの事件にはなんら直接の関係は存在しないのである。

 またここにドイツ国人の引き渡の事実に関する問題が残されている。 今の場合、国際法上の特殊なる解釈に対し、これを支持し又は反対せんとするものではない。 余の了解せるところによれば、敵国の軍隊に服役する国民のみが公海上の中立国船舶より交戦国の一方により引き渡し得るというのが日本の解釈である。 しかしロンドン宣言中の「敵国の軍隊に編入する」という字句は、捕獲審検所の判決により予備兵をも包含するという解釈をされているのである。 しかのみならずドイツのごとくに組織されたる国家の場合においては、予備兵を包含する戦闘員の拉致と軍務適齢のすべての男子の拉致とは、実際上相違するところなしとする意見を抱懐する向きもあるのである。 英国はこの後者の意見に従い、またドイツ自身もこの解釈に従うもののごとくである。 その例として、ドイツ駆逐艦がスウエーデン汽船クロンプリンセサン・マーガレタ号上より昨年9月24日、英国漁夫21名を拉致する事件あり、またバルチック海上において中立国船舶より若干名のポーランド人がドイツ海軍により拉致されたこともある。 今次大戦中、数回にわたり中立国船舶より軍務適齢のドイツ国人を拉致したる事実があったが、日本を除いた他の中立国の態度はわが権利に対してなんらの異議のなかったことを指摘したい。

 かくて英国と日本との両国間に生じた唯一の問題は国際法上、ドイツ政府の費用においてその軍隊に服役すべく帰国の指令に接し、その途上にありし軍務適齢のドイツ国人を中立国船舶より拉致し得るや、またかかる行為がドイツ国ドイツ軍隊の現役員にのみに限定せらるるやというにある。 この問題は両者間において憤激することなく、冷静なる雰囲気のうちに解決し得るはずである。 かかる希望を持って、この問題の論点に関し、余の観察に基づき簡単なる説明を試みんとしたのである。 (続く)

 脚注) これも読者からのご指摘ですが:
 司馬遼太郎著:「坂の上の雲」には、日清戦争の際、清国兵(軍装)を満載した英国船舶を、東郷平八郎司令長官は撃沈したが、国際法によって明らかに戦闘員であり、英国からは大して執拗な抗議はなかったと書いてあるそうです。 尚、東郷は、英国船員は全員救助したが、清国兵は一人も救助しなかった(つまり未必の故意の皆殺し=ズバリ戦闘員ですから)とのことです。

 

パピイの昔語り:尾張野の英雄達(6)山内一豊と浅野幸長

 我々戦前の修身教育を受けた経験者にとっては、小学時代に既に歴史ではなく、山内一豊の名を頭に刻み込まれていた。 それは、不思議にも、一豊直接でなく、「山内一豊の妻」の旦那としてである。 寧ろ、男尊女卑、封建教育の戦前の修身教育には「山内一豊の妻」の内助の功こそ、絶対不可欠の要素だったのである。 イヤな、嫌みな世の中だったんですねえ。 しかしトニアレ、一豊の妻の名は知らされずとも、その存在は、小学生の記憶の中で光り輝いていたと思います。

 大きくなって知らされた一豊夫人の名は尾張野の地名の一つ「お千代さん」でした。 一豊自身が、何処で生まれたかは、尾張の西北部で2説があります。 というのは、彼の父は既に織田信長の上級士官級の家来で、尾張木曽川町黒田城、か岩倉城かのお城勤務時代のいずれかで、生まれているはずだということです。 有力説では伊勢守信安が、信長に盾突き黒田城に滅ぼされたとき一豊の父は、黒田城の城代であったとされ城と運命を共にし(その説では一豊2歳)その後一族に連れられ岩倉城に移ったとされています。

 長じて、清洲城の信長の下級武士として鳴かず飛ばず、漸く一族を支えてくれた武家の娘を嫁に迎えます。 お千代さんは常日頃、一豊がどうしてでもいい、出世の糸口を掴んで呉れることをこいねがい、質素倹約に励み、コツコツとへそくりを溜めていました。 ある日、馬には特別ご執心の信長が近々馬揃えを行うと振れが出、諸国の馬飼いが馬を売り込みに城下を訪れました。 一豊も、その内の惚れ惚れとする一頭に心を引かれましたが爪の先に灯をともすような下級武士の身、家に帰っても落ち着かず、お千代さんの前で遂にため息をもらしました。

 こんど馬揃えがあるが、また俺は目立つことが出来ぬ、と。 城下に馬飼いが馬を曳いてきたことを聞いていたお千代さんは、その内の駿馬は値いかほどかと聞きただし、へそくりと、親が鏡箱の中にそっと入れてくれていた緊急救恤金を全部取り出して、今こそ、おかみにご奉公するとき、ぐずぐずせずすぐその馬を買い取りなさいと、馬の尻ならぬ一豊の尻をひっぱたいたのです。

 信長が馬の目利きに優れることは、大分前の章で述べたとおり。 馬は普通に手入れし、馬具を飾り立てる武士共には目もくれず、信長は、馬具は実用品質素ながら手入れが行き届いている一豊の駿馬に一瞬にして目を奪われます。 「余の乗馬に差し出せ」と命ずる信長に、打ち首覚悟の一豊は偉い、「そればかりは、、、」とお千代さんの内助の功の一部始終を話し「、、、ご勘弁を」と許しを乞います。 信長は、ものもいわずその馬に飛び乗るや、単騎駆けて、一豊の家にいたり、お千代さんにそれを確かめます。 生活の実状とお千代さんの平伏土下座して夫の許しを乞う姿に感激した信長は以後何かと山内一豊に目をかけ、妻女は息災かと声をかけるようになったと言います。 信長上都の後秀吉の軍に加わり、戦功を重ねて、漸く一軍の将となるのです。 信長は一挙に取り立ててはいないのです。 それが取り立てられた者にとっては居辛いありがた迷惑の負担モノであり、また嫉み妬みで駄目にされた者数知れぬことを信長は知り尽くしていたからです。 秀吉の四国攻めで、越智、長曽我部、を和戦両様の構えで屈服させて、土佐一国を約束されますが、、、。水際だった知謀があるわけでない一豊を凡庸と決めつけ唐入りに参加しなかったことで、秀吉は約束を半端反古に世を去ります。 内心忸怩たる山内一豊、迷い迷った挙げ句の関ヶ原では遅蒔きながら東軍につき、家康から予定通りの土佐一国20万石を安堵されています。 三つ葉葵ならぬ三つ柏の家紋にしたのはこの時からと言われています。

 あるまじき勅使下向の春弥生、殿中刃傷に及んだがニックキ上野介には蚊が刺したほどの傷しか負わされず、自らは切腹お家断絶の目にあった浅野は関ヶ原から百年目の浅野分家赤穂浅野での出来事。 「此処で遭ったが百年目」はそれがもし千載一遇の出会い頭でも事を慎重にせよと言う反面教訓。 それはさておき、、、。

 尾張野の西部で藤吉郎の配下となって以来、後に秀吉の天下となるや五奉行の一人に取り立てられる浅野長政は、藤吉郎に因果を含められ、長いこと前田利家の配下を勤めます。 折角秀吉時代なって急に取り立てられても、居具合が悪く、すぐ五奉行を息子浅野幸長(ヨシナガ)に譲り引退します。 この世襲五奉行に石田三成が、皮肉を浴びせたのが決定的に関ヶ原の対陣で、尾張野出身の武将を大半徳川方につけて向こうに回す結果となる三成の思い上がりの大失策でした。

 幸長の初陣は、父長政について秀吉の小田原攻めに参加したときで、幸長十五歳で大活躍であったとされます。 唐入りの際は二度も渡海し、二度目の有名なウルサン攻めでは陣頭指揮を勤め、負傷を押して奮戦して敵味方に剛勇を謳われました。

 関ヶ原合戦では石田三成打倒の執念に燃え、信長の孫、三法師の守る岐阜城を陥れ、決戦の日、家康の後方陣を承ったはずが、役目大丈夫と隊を割って、小隊を以て南宮山に斬り込み小競り合いながら、東軍の勝利の糸口をつけました。 この功績により甲府二十二万石から和歌山三十七万四千石に封じられますが、関ヶ原から僅々八年目、ウルサンでの弾傷が因とも言われる病で三十七歳の若さで世を去ります。 跡目は弟の長晟(ナガアキ)が相続し、大坂冬の陣夏の陣に家康の本陣護衛を務め真田幸村の奇襲から家康を救った功績により、不動と言われた福島正則・広島五十万石を譲らせ、四十二万石で移封し明治まで不動であった。 家康は長晟に更に三女振姫を嫁がせ室とした。 家康がこの命拾いをどんなに有り難がったかが察せられると言うモノ。 更に浅野首筋に逆分家を許し赤穂に封じましたが、勅使下向トラブルは表向き、裏には製塩業生産地同士の根深い角逐もあって、吉良吉田の藩主上野介の術中に手玉に取られて絶えます。 広島・浅野は、明治まで続き、以降も軍都として栄えるだけの素地を作り上げていたわけです。

 尾張野の英雄達(付録):英雄呼ばわりしないが町名は今も残る

 郵便切手じゃないが江戸は徳川家康が400年の昔此処に幕府を開府して、三河から此処に移った。 当時も今も、酒屋や味噌溜屋には三河屋さんが多い。 織田・豊臣の尾張屋さんは、明治以降のきしめん屋だろう。 そんな中で、江戸の町名から東京府、そして今の都の町名まで生き残っている尾張出身者ゆかりの町名をご存じだろうか?、、、 おれ地理には弱いんだ!、、、 言ってくれるね、じゃ一体何に強エんだ?、、、 唄だね、カラオケならOKってもんよ、、、。 じゃ、知っていておかしくない、今はナツメロだがね?、、、 フランク・永井がひっさげて、大丸と一緒に東京進出した、ほらアレヨ!、、、 まさかテメエ、銀座4丁目を尾張町って呼ぼうってんじゃねえだろうねえ?、、、 そんなフランク・永井はオラ知らねえ、、、 ほらあるじゃないか、 ♪あなたを待てば雨が降る、、、 てえ下手な天気予報みたいの。、、、 何だそんなカラオケの幼稚園見たいの、それ「有楽町で会いましょう」て言うンダゼ、何が尾張だよ! ハ、ハーン、カラオケ一本槍で他に趣味道楽やったことないな? お茶とかお花とか、骨董焼き物とか? 人間の幅が狭いな、どぶ川位っきゃない、幅がよ? まあ、水道のからん締め切り忘れたときのツーと垂れる水のように細い趣味しかない人はしょうがないが、偶々その細い趣味が、奥深くなると、こういう有楽町のような町名が残るかも知れません。

 織田信長の末弟に、長益というヤットウは得意でない学問も不向きだという、今なら登校拒否するようなショウムナイ男が居ました。 部下を持つことも嫌い、だけど信長が偉すぎる、その弟。何処と言って取り柄はないが、言いつけたことはする、仕方なく信長に仕えておりました。 本能寺の変で信長の死後は、秀吉の部下となり仕えておりました。 秀吉が気まぐれに茶の湯にこり始めた頃から、この、兄信長に比べようなく覇気のなかった、長益の目が輝いて来、千利休をして、茶道は長益殿、と言わしめる様になり千利休の直弟子に取り立てられます。 不登校児や学科に興味がなくても何かに急に打ち込んで天才的な実力を示す事があり得ます。 長益の例がいい例です。 茶の湯への打ち込み様は尋常でなく此処に将に生き甲斐を感じ、何か閃きを得たかのようだった様です。 利休は、茶道では、袱紗の裏表、武者小路家に伝えた流儀の3千家流を残しますが、他に長益に有楽斎(ウラクサイ)という号を名乗らせ、彼一流の茶の湯の才能を開かせたのでした。 茶の湯のお手前より、茶の心とその茶道具に打ち込み、有楽斎流、いわゆる楽流の茶道具を自由気ままに色々楽しむことを人々に教えたようです。

 関ヶ原の合戦には、家来というより、武士で楽流の弟子450名程が集まり、徳川に味方し南宮山の南方で、織田有楽斎徳川方にあり、と気勢を上げたので、後日家康から武人としてでなく特別の報奨として、奈良山辺郡3万石の領主となりました。 大坂・冬・夏の陣ではそれぞれ徳川家の支社として、淀君に降伏勧告の使者として仲介の労を執りましたが、淀君の答えは家来によって無視され不成立だったようです。 晩年まで3万石の碌でしたが、願い出て、息子の長政、尚長に、それぞれ1万石を譲り、自らは1万石に甘んじ、もっぱら江戸有楽町の邸で、茶道に打ち込んだ様です。

 千利休割腹前の、秀吉時代の京都の有楽斎邸の一角の、「如庵」という庵が、どうにか原型が判る程度で残されていたことが判り、現在愛知県・犬山遊園地の一角に移設復元され、国宝に指定され、残されています。 利休千家流とも少し異なって自信なさげな、古びた中のしっとりさを押しつけてくる、まことに質素な庵です。 有楽斎が、千利休から一人立ちした頃の茶の湯道場で、此処で、侘び、寂、楽、等々の習いを稽古した彼の道場です。 400年の月日は感じられません、彼の人柄が伝わってきます。 (終)

 


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