戦前の国際的拉致事件:浅間丸事件(4):英大使声明以後の動き

 島国根性による国際思慮の欠如や、神国教育による孤高・排他に昂ぶる人々も、この英大使の、国際法の解説と例示特に、帝国海軍も結構頻繁に、中立国船舶の強制停止・臨検をしている事実を知らされて、鳩が豆鉄砲を喰わされたのであった。 2国間問題はさておきの国際法上の問題と気付かされたのでした。

 個人的な島国根性が、結構、未啓発な儘のジャーナリズム社会を助長していて、ニュース性ばかりが先走り、国際的啓蒙がおろそかになり、結果的に、明治ジャーナリズム社会から脱皮できぬ儘、国粋主義ジャーナリスト・徳富蘇峰(文学者・徳富蘆花の長兄;蘆花は明治37年兄弟の縁を義絶)が再び息を吹き返して、大正・昭和リベラリズム何するモノぞと、日本のオピニオン・リーダーになろうとする素地を与え、昭和13年には、「青少年学徒の動員に関する詔勅」を蘇峰が起草して、昭和天皇に迫り、翌14年に渙発させている。 これがこの事件のすぐ後の全国的なすべての学校(女学校・大学を含む)に於ける軍事教練、配属将校制度、そして、学校生徒の軍需工場等への動員等又更には学徒出陣の一大免罪符として作用する、その直前の国際事件であったのです。 こうした社会背景を踏まえてお読み下さい。徳富蘇峰については稿を更めて書き記してみたい。

 [有志代議士が協議会結成]
 (=昭和15年1月26日 東京日日=)
  浅間丸事件は衆議院各派をして遂に決起せしめ、25日午後2時半から日比谷の衆議院議長官舎に各派の有志代議士二十余名が出席、璧頭阿部海軍省軍務局長、須磨外務省情報部長より同問題の経過につき説明を聴取し協議した結果、直ちに、外交問題各派有志協議会を結成、左のごとき声明を発すると共に「浅間丸に関する事実調査委員」六名(氏名特秘)を選出し、徹底的に事態の真相を訊した上、院内外に於ける運動に乗り出すことを申し合わせて、5時散会した。
  [声明]
 東亜新秩序建設は帝国不動の国策である。 しかれどもこれが完遂のためには内、国内態勢を刷新強化し、外、外交の重圧を克服しなければならぬ。 近時外交問題はますます重大かつ複雑を極め、国民をして向かうところを迷わしむるの感がある。 われらここに外交問題各派有志協議会を結成し、帝国の執るべき確乎たる外交方針を討究かつ樹立し、以て今後の時運に対処せんとするものである。(後略)

 [法律論の英政府回答。外相が再抗議]
 (=昭和15年1月28日 東京日日=)
 浅間丸事件に関する英国政府の正式回答をもたらして、クレーギー英国大使は27日午後二時、麹町三番町の外相官邸に有田外相を訪問、右回答文を手交するとともに、正味二時間に亘り回答内容にを中心にあらゆる角度から浅間丸事件に関し全般的討議を行ったが、同日の会談では何らの結論に到達せず、両国の見解ならびに主張の相違甚だしきを認めたので、来週早々続開を約して会談を終わった。

 クレーギー大使は、先ず事件に関する英国側の国際法上の見解を詳細に披瀝した長の回答文を有田外相に手交した後その要点を説明し、英国は国際法規に準拠して浅間丸を臨検し、乗船中のドイツ人21名を拉致せるモノであるから、日本政府が21名の引き渡しの権利を留保すると言うが如きは筋違いである。 かかる主張には聴従する能わずとて、法律論一点張りで、問題の解決に当たるの態勢を示し来たった。

 これに対し有田外相は同日の会談では特に事件の法理的解釈論に入ることを避け、帝都の近海で行われたこの種事件が日本の国民的感情を刺激し、ひいては日英国交上に及ぼす影響等につき帝国の立場を強調し、かつ英国が同種事件を繰り返すにおいては日本国民の感情は更に悪化することは必定である点を指摘し、英国が単なる法理的解釈の立場を離れ、両国国交調整の大局的立場に立ち政治的考慮を払わなければ、到底事件の円満解決は期し得ないとして、英国政府に対し厳重再抗議の申し入れを行った

 クレーギー大使は日本政府の主張を本国政府に伝達すべきを約し、回訓到達次第、来週早々交渉を続開すべきを申し合わせ、物別れの形で同日の会談を綴じた。

 =(外務省情報部発表27日午後8時30分)=
 浅間丸事件に関する有田外務大臣及び英国大使クレーギーとの会見は本27日午後二時、外相官邸において行われたが、席上英国大使は本事件に関する日本政府の抗議に対する英国政府の回答文を外相に手交した。 同会見においては本事件に関する全般的討議が行われ、相互にその見解を主張した。なお本事件に関する交渉を来週続行すること、並びに前期英国政府の回答文はここ数日中に東京及びロンドンで同時に発表することを申し合わせた。

 =(須磨情報部長談)=
 英国大使のもたらした公文は長文のものだが、英国側の法律的見解の陳述に終始している。有田外相は今回は法律論には入らず再応帝国の立場を強調し、大局上の見地から厳重英国側の考慮を求むることとなった。 (続く)

 

パピイの昔語り:尾張野の英雄達(付録2)歴史小説「蟹江川」の正勝と藤吉郎の出会い

 話をはしょっておきましたが、小六正勝と、藤吉郎よりもその又小さい頃の日吉丸が、 矢作川の橋の上での出会いが古くは一般的でしたが、今川義元の思惑もあって、当時長いこと増水にかこつけて、矢作川の橋は、落ちたままになっていたのは紛れもない事実となって見れば、藤吉郎と蜂須賀小六正勝とは別の出会いがなくてはなりませぬ。 斉藤攻めの要の墨俣の一夜城は、これも紛れもなくそれまで尾張のアウト・ロウで名うての小六一家の渾身の総力を挙げた、一世一代伸るか反るかの大一番であって見れば、藤吉郎が初対面で急に小六を口説いたなどと言うウソは絶対に通らない。 それより以前に可成り固い約束がついていないと此の大バクチに小六が簡単に乗るはずがない。

 昨平成14年秋文化の日に、栄えの文化勲章を受章された女流小説家杉本苑子さんが、奇しくも36−7年も前に発表された歴史小説「蟹江川」に、その二人の出会いを題材に、そしてそれが墨俣の一夜城の伏線であったろうことをほのめかして書かれています。 執筆当時まだ、矢作川の橋がなかった等という歴史考証は多分なかった頃で、蟹江川(註:現、大江用水)の土手に場所を設定されていた杉本さんの慧眼に驚くばかりです。 それはさておき、「蟹江川」の、その二人の出会いのあたりを成る可く忠実に引用してみましょう。 中に一二本関係ない小枝を取り払いますが。

 (前略)、、永禄三年(1560)、春の初めだった。清洲城下の南、甚目寺村の隣の西大門村にある遠縁に用があって出向いたもどり道、蟹江川沿いの土手の上で、正勝と従者3人が一休みしている所へ川下の方角から百人ほどの隊列が近づいてきた。 大将はと見るとこれが二十七、八の猿によく似た若者なのである。 かろうじて当世具足を身につけてはいるけれども、乗っているのは、所々毛のすり切れた老いぼれの農馬、、、。同じく百姓馬30頭ほどの背に、積ませているのは火縄*)らしい。

 正勝主従のそばまで来ると、若者は鞍から伸び上がって、「休止だあ、みんな休め、荷駄に水を飼え」と怒鳴った。 小粒のくせにビックリするほど声が大きい。 河原へ降りていくけらい共とは逆に今来た道から土手に跳び上がると、「すみません、火打ち石を拝借できませんか」となれなれしく蜂須賀主従に声をかけてきた。

 むっとして正勝は相手の腰に目をやった。

 蛙の腹ほどもふくらんだ火打ち袋を、若者はぶら下げているではないか。 「いやあこれですか、こいつは違うんですよ。」いいざま袋をはずして、中身を草にぶちまけた。 銅銭であった。

 「火縄を買い、馬を買い、槍を買って、未だこんなに残っている豪勢でしょう。」酷く愉快そうである。 そして名乗った。
 「私は清洲の織田信長どの仕え、火縄奉行を承っている木下藤吉郎という者です。 お見知り置き下さい」
 あやうく正勝は吹き出しかけた。 其処で藤吉郎がいい繋いだ。
 「上様の特別の思し召しで今度火縄奉行に抜擢された。 ついては馬を貸してくれないか」
 「馬鹿言うな、仮にも年上のわしに向かって」。
 正勝は腹の中で「此の若造が」と思いつつ「お断り申す」と返した。 「くゆるなよ、俺が一城主になって尻尾振ってきても知らないぞ」と口に出そうであった。
 藤吉郎は決して悪びれたところもなく、「あなたは蜂須賀村の豪士、彦右衛門正勝どのでしょう」とずばり言い、
 「自分は織田家中の軽輩に過ぎず、あなたほどの人に何も申し出る資格も今はないが、やがて人がましくなれた暁にはお迎えに参上したいと思う、助力して下さるか」と尋ねた。
 口つきの真摯さ、かげりのなさに、苦笑しながらも正勝は強く魅せられた。
 「次々に主家を離れ、今は一介の痩せ浪人に過ぎない私です。 お役に立つときがあれば喜んで馳せ参じましょう。」
 決意より先に誓いが口に出た。 藤吉郎は大変喜んで、辞退する正勝の手に、「近づきのしるしです。」と無理やり脇差しを握らせた。 みすぼらしい彼の装具の中で、それはずば抜けて見事な一振りであった。
 「旧主人松下嘉兵衛どのからの拝領の品、いわば私の魂です。 あなたに預けます。」

 美濃攻め開始の直前、藤吉郎の招きにより、正勝は立った。 墨俣の川べりに一夜にし て出現した幻の城、、、。 一振りの脇差しは藤吉郎の人生を軌道に押し上げ、正勝の後半生を大きく変えたのである。 何故か不思議に信長の敵にばかり回り続けた不運から彼は今こそ決別したのだ。 その時正勝41才。 永禄9年6月の初めだった。」 ー以上が「蟹江川」のさわりー

 此の後、正勝は20年間、秀吉の右腕となって忠誠をつくし、幾多の功績を挙げ、天正14年(1586)5月永眠享年61歳。 秀吉の信頼最も厚かった正勝は大坂城外楼のほとりの自宅の脇に葬られたが、大坂城拡張の際天王寺に移され、昭和46年に、徳島市眉山中腹に移され、徳島市を見下ろしているという。

 *氷室註)火縄:織田信長は鉄砲の威力を知るやこの武器の応用に夢中になった。 弾、火薬、火縄について、実によく勉強している。 中でも、火縄が火縄銃にとってどれほど大切なモノかを知る、時の武将の中での第一人者であった。 その素材について、良く研究している。 一般の檜皮(ひわだ)楮三つ又などよりも、信長軍は当時まだ珍しい綿花、竹の皮を檜皮などにうまく混用し使っている、今なら特許モノだろう。 城下の農家の雨の日や夜なべ仕事として縄になわせた火縄を集めて来て、城内で、硝石液をかけて干して仕上げたモノと思われる。 織田軍の鉄砲隊が三段がまえの釣瓶撃ちが出来たのは実に優秀火縄に負うところ大であった。 (この項終り)

 

童謡・童話知りいず(3):満蒙教育委員会が掘り出したもの

 大陸侵略がいいことだと言うつもりは毛頭ありません。 その意味で、戦時中の昭和13年愛染かつら、シリーズ等の全国的な活動大写真のブームに乗って、大陸侵攻の夢のロマンで彩った純愛映画、「三日月娘」が大ヒットしましたが、第二次大戦下では、恋愛モノ御法度、戦後は大陸侵攻モノ御法度で、流石の第一興商のカラオケにもあれだけ全国流行して、小学生まで口ずさんだ「三日月娘」が収録される気配さえありませんのに、、、片や、一方では、国立芸大の声楽科の歌曲の中には、満蒙教育委員会が掘り出した童謡が格上げ「歌曲」の美名に隠れて、正課に使われたりしました。

 いいモノはいいのでしょう。 それとも加藤まさおは駄目で、北原白秋や山田耕筰ならいいのかな? 私はそういう一貫性のなさ非普遍性は嫌いです。 童謡ではありませんが兎に角「三日月娘」を、、、思い出しておきましょうか。 誰の作詞作曲かは知りません。

 ♪幾夜重ねて砂漠を越えて  明日はあのこのいる町へ
 ♪鈴が鳴る鳴る駱駝の鈴が  思い出させて風に鳴る。

 ♪恋は一目で火花を散らし  やがて真っ赤に燃えるモノ
 ♪あのこ可愛や三日月娘  思い出させて風になる。

 大正時代の満蒙教育委員会の第一回の公募の話は書いたとおり、加藤まさおの「月の砂漠」でしたが、その後、大正14年頃北原白秋が「ペテイカ」(楽譜タイトルではペチカ;歌詞の中ではペイテイカ)が選定され山田耕筰が作曲し残って戦後歌曲になっています。

 ♪雪の降る夜は  楽しいペテイカ  ペイテイカ燃えろよ
  お話ししましょ  むかしむかしの、、燃えろよペチカ

 ♪雪の降る夜は  楽しいペテイカ  ペイテイカ燃えろよ
  表は寒い  クリやクリヤと  呼びますペチカ

 ♪雪の降る夜は  楽しいペテイカ  ペイテイカ燃えろよ
  誰だか来ます  お客様でしょ  嬉しいペチカ

 ♪雪の降る夜は  楽しいペテイカ  ペイテイカ燃えろよ
  じき春来ます  今に柳も  萌えましょペチカ

 ♪雪の降る夜は  楽しいペテイカ  ペイテイカ燃えろよ
  お話ししましょ  火の粉パチパチ  はねろよペチカ
(大14・5月「子供の村」)

 更にその頃、童話に応募した、満州(現、中国東北部)の日本語小学校の女教師の方があり、これは満語で語られるこの地方の民話・寓話の類から日本語化して応募したのだと添え書きされて、童話と童謡で、一躍有名になったモノがありました。 「人間万事塞翁が馬」とも並び称されるべき教訓的なモノと思います。 「待ちぼうけ」です。 歌は満蒙教育会から委嘱された北原白秋が童話の筋から作詞し山田耕筰によって作曲されて楽しい軽快な旋律で間奏まで自然に覚えてしまうほどです。

 ♪待ちぼうけ、待ちぼうけ、  或る日せっせと野良稼ぎ、
  (註:楽譜の中の歌詞はセッセコ)
  其処へウサギが飛んで出て  コロリ転げた木の根っこ

 ♪待ちぼうけ、待ちぼうけ  しめた!これから寝て待とうか
  待てば獲物は駆けてくる  ウサギぶつかれ木の根っこ

 ♪待ちぼうけ、待ちぼうけ、  昨日鍬取り畑仕事
  今日は頬杖日向ボッコ  うまい切り株木の根っこ

 ♪待ちぼうけ、待ちぼうけ  今日は今日はで待ちぼうけ
  明日は明日はで森の外  ウサギ待ち待ち木の根っこ

 ♪待ちぼうけ、待ちぼうけ  もとは涼しい黍畑
  今は荒れ野の箒草  寒い北風木の根っこ
  (大14.5月「子供の村」)

 人に驚いて飛び出して切り株にぶつかって目を回したウサギ、もう此の黍畑にやってきた最後のウサギだったとしたら、、、。 たとえ切り株だらけにして、千年待っても、もうこんなボケウサギが切り株にぶつかるような僥倖はないでしょうね。 そんな僥倖を今日か明日かと手を拱いて待っているより、地道に働くことの尊さを、此の寓話は教えていたのですね。 (続く)


(C) Copyright 2003 JA2RM and JA9IFF All right reserved.