パピイの昔話:大正の震災と関東地震

 広く言えば濃尾平野、狭く言えば尾張野に昭和一桁に生まれ二桁漢字三桁に育った私共は、一桁から二桁の初めの頃は、まわりで言う震災といえば、爺さん婆さん曾祖母さん等が身を以て体験した濃尾震災のことでした。

 日本の地震帯は日本中に走っています。東海地震の駿河湾トラフが今に揺れると大騒ぎしている間に、もう幾つ他が揺れたことでしょう。 北海道の島が一つ平らになるほどの壊滅的なのまであっても、未だ懲りず、東海地震に固執し、阪神淡路、そして、今回の宮城北、これでもかこれでもかと他のところえ来ています。 そのくらい日本の地震帯は数多く、あちこちに来るのです。 本州を黒く塗りつぶして、縮小してみて下さい。 小さな鰐がはってます。 口を上に開けて。 胴の真ん中がやけにくびれています。 敦賀湾から伊勢湾を結ぶ本州の一番細いところ。ここだって、駿河湾に決して劣らない地震でくびれたトラフです、自慢じゃないが。

 ここを結ぶ直線のど真ん中、岐阜県の根尾谷に、明治24年(1891)10月28日水平に四メートル余、垂直方向に0.6m程の断層を作って揺れ捲ったのが濃尾大地震です。 7200人余の死者(行方不明を含む)を出しています。 水平に揺れ始めたので、いきなり第一発で家が横になぎ倒されたのです。 筋交いの入っていない家は例外なく倒れた由で、その復旧、爾後の家の建て直しには、4面の壁に必ずカタカナのハ又はソ型に筋交いを入れるのがこの地方の慣わしとなりました。 立ち会い一発の張り手強烈、というわけです。 このほか、色々な地震ノウハウが、揖斐出身の曾祖母さんによってもたらされ、我が家の至るところに見られました。

 昭和二桁に入って爺さん婆さんが相次いでなくなり、やがて曾祖母さんも亡くなり、もう濃尾の震災の体験者はいなくなりました。 親父は座布団帽子のン大生で東京に遊学していまして、大正12年9月1日昼は、三田四国町の下宿家の二階の部屋にいたそうです。 終戦後は丁度日本電気のテレビ工場が出来た辺りだそうです。 そろそろヒル飯だな!と思ったとき、遠くから竹竿を地面に引きずって近づいて来るようなザーッと言うような音がしてきたと思った瞬間、座った座布団座机ごとドンドンドドーンと1尺近く2−3度宙に投げ上げられ、なんで1階の住人に床板越し、畳ごと下から突き上げられにゃならんのかと思ったほどだったそうな。 3度目か4度目投げ落とされた一瞬、縦揺れは収まったかに見えた途端、硝子障子がはり倒されたように吹っ飛び、これは地震だと思ったが、すくんで立てない、硝子障子が外れた窓がガタガタ可成りの速さで前後に震えていたがその敷居を腹這いで乗り越えて、波打って揺れる軒庇に出て、すぐ前の冠木門に四つん這いでおり、門灯のゼット型の配線管に縋って地面に居りようとしたらパイプがグニャーと伸びて曲がってお誂え向きにうまく軟着陸出来たのだと、その縦揺れが始まって座ったまま跳び上がる様から、Z型パイプが伸びて曲がって着陸するまでを、形態模写してみせるのであった。

 我々子供は経験していないから笑い転げるばかりだが、親父は「お前等も、本当に地震にあって見ろ、笑ってる場合じゃないぞ凄く地面がバンバンぐらぐら揺れるんだから、第一縮み上がって、ションベン漏らすぞ!」と真顔でした。 向かいの家の屋根瓦がバラバラと好きな方向に降ってき始めて、門の前は危ないので門を開けて中に入りたかったが、もうどうにも格子戸は開けられたものじゃなかった。 瓦が飛ぶような地震では絶対に座布団頭に括って、脱出しなければならないのだと。 瓦が飛び出すまでには若干時間が掛かるらしいがさて。

 この後東京中、あちこちで昼支度の竃から火が出て、小石川区の3%の被災率区を例外として、本所区の100%を最高に、14萬6千人の死者行方不明者を出す大震災となったのでした。 お気づきの通り火の出なかった小石川区は家屋倒壊率のみです。 本所区は家屋が全部全半焼以上して、家屋倒壊率が全く不明なのです。 下町を中心に火は至るところから燃え広がり住民は火に囲まれて、隅田川、荒川放水路などは川面が見えない状態にみんな川に飛び込んだりして、亡くなったのです。 何ともいたましいことでした。 東京がこんなでしたから関東大震災といえば地震も東京が一番酷かったように思われがちですが、この地震は、相模湾北東部の海底下数十kmの深いところの震源のマグニチュウド8.5ほどのエネルギー水準のプレートテクトニクス典型形地震のようです。 では、歴史的にこの程度の大地震が都市を襲ったことは日本ではなかったのでしょうか?

 豊太閤秀吉の治世の慶長元年閏7月(1596)丹後、京都にまたがる大地震に、京都が灰燼に帰しています。 京都の太閤の誇った聚楽第も形無しにした大災害でした。 公家を始め京都人を腑抜けにしてしまい、もしここで、気鋭の地方武士が、京に駆け上がれば、クーデターも簡単に出来たかも知れません。 ただ、情報網もない時代、京都がそんな状態とは地方にいては知る由もなかったらしい。 小心者の太閤秀吉は、どうしていいか部下に図るのも忘れて、暫くは何の沙汰も触れも出せないでいたらしい。 朝廷側の記録にあるらしい。 困ったモノだ。 阪神淡路の時のどこかの国の政府みたい。 前例はあるモノですね。

 江戸開府以降では、相模湾底型と、奥江戸湾直下型の大地震が交互に江戸を震わせていたようです。 先ず慶長9年江戸城築城を始めた直後、湾底型が襲っています。 家康が、改めて、関東は大地震じゃから西国の外様大名の助力要請を西国に触れてみると、何と関東と同日ほぼ同時刻、南海道を中心に紀勢、中国、四国と大地震。 つまり珍しい同時刻2震源で、トラフ型の地震が起きていた。 プレート・テクトロニクスでは寧ろ十分考えられることであります。

 関東東北ではこの年凶作も予想されたため、家康は、諸国の結束を固めさせるには自分が隠居して江戸を去り、将軍を秀忠に譲り、全国諸侯の助力を秀忠に集中的に捧げさすしかないと判断させた大地震であったのです。 翌春秀忠が2代将軍の座に付き、家康の思惑通り、家康の威光・報復を恐れて諸侯は先を争って江戸城築城に務めることになり、思いの外捗って、江戸城と江戸の復興が速まるのです。 なおトラフ湾底型では毎回江戸大火が記録されています。

 次の江戸地震は、延宝6年(1678)8月、幸いなことに、直下型、家々は初動震一発でペシャンコに潰れたが火事は起こらなかったようです。 江戸は潰れたが相模湾岸は何事もなかったようです。

 元禄16年2月、前年暮れに吉良義央を討ち取った浅野の家臣47士が、私怨で天下を騒がせた大罪として、切腹させられます。 判官贔屓の庶民は面白くありません。 今にお上にも天罰あれかしと待つが、秋まで待っても何事もない。 もう間もなく極月が来るが、、、とその時、地軸を揺るがす両横ビンタをはり倒されるような地震が江戸を襲った。 陸は裂け、海がせり上がり、家は薪の束となり燃え上がった。 南海岸では8−9町も砂浜が広がったと記載される。 湾岸トラフ型である。 庶民は江戸大火に家を焼かれながらも、ザマア見やがれ四十七士のたたりであると喝采を惜しまなかったとある。 更に暮れ遅く、富士山の土手っ腹に風穴が開いて噴煙を吐き出したのだ。 幕府も慌てた、庶民のそれ見た事かに、である。 朝廷に図って、噴火した宝永山に因んで宝永と改元したのである。 何も庶民の憤懣は47士の処分だけではなかったのだ。 時の将軍綱吉は、奇行が多く、すぐ禁令を出し都合が悪くなるとすぐ又止めた。 猫の目で朝令暮改、庶民の生活は困惑の固まりだったし全国的に一揆の気分が高まっていた。 この2年後例の生類憐れみの法という悪政を行うあの綱吉の時代だったのです。

 此の後は嘉永6年(1853)2月に小手調べと、安政2年(1855)10月2日に、江戸での人的被害最大約2万人が初期上下動一発で家がペシャンコで圧死するという直下型最大に見舞われている。 因みにこんな地震でも相模湾岸は一寸揺れただけで、推定マグニチュウドは6.3−6.5とされ海岸の隆起は全くない、間違いなく直下型なのでした。 この初動震で家が潰れてあっ死者の中に有名な国学者「天地正大の気、、、、云々」で有名な藤田東湖の名が見える。

 こうして調べてみると、湾底トラフ型では、都度、江戸大火に及んでいるが、安政の直下型や、大正の関東大震災の15万人にナンナンとする焼死者・行方不明者は出ていない。 江戸には江戸時代なりの火事の逃げ方のノウハウが庶民にあったのではないだろうか。 それが直下型で初動上下動で一発で家がバンと潰れるのではどう逃げようもなかったようで、2万人の圧死者が計上されている。 関東地震でも、火事さえなければ、濃尾地震程度の死者行方不明で済んだのではないかと言うこと。 阪神淡路でも、萬を越えてはいない。 親父の経験話から、火を消す余裕は感じられないが、どうしたモノだろうか。

 もう一つ。揺れ方と、逃げ方、直下型のバンと潰れるのをどう逃げればいいのか。 濃尾の様に水平断層4メートルでは上下動無しにいきなり家が横ビンタを喰らってタンスと壁が倒れると言うより一緒になって反対の壁の位置までふっ飛んだと言うが、これの対策、逃げ方はないのだろうか。 いずれも、慣性の法則上、非常に難しい問題でしょう。 家が動くのでなくその量、いきなり動かない筈の大地が大幅に動くのですから。

 一級建築士さんたち、どう計算されているのかな? いずれも最初の張り手ですよ。 ワカッカナア? いきなり来る初動です。 それが張り手の場合と、も一つがいずれも力任せの下からがつんと地面がいきなり2m急に持ち上がるの。

 次、プレートテクトロニクス的、隆起沈下。 添付の第二図。 油絵です。 大正関東地震の時代。写真機は写真技師の専用の時代で素人の手に負えるモノではなかった。 第一ガラス板に暗室の中で、コロジオンという糊と銀塩を混合した乳剤を手探りで塗ってアプリケーターというモノでこさいで薄く均等な膜を作って乾かして乾板というモノを作る作業が要ったし、箱形の組立カメラ一式と、三脚と、此の乾板というガラス板を納めた薄ぺらい箱を、撮影枚数だけ鞄に入れて持ち歩かねばならないし、撮影後も、暗室内で、現像液、定着液を処方し、現像、水洗、定着推薦、乾燥して、漸くネガ乾板、それから又暗室内で、印画紙をアプリケータして、乾燥しこれに印画投影して、又暗室操作で現像定着。全部自作自演しなければならない時代です。 水彩画や油絵を習って、写真撮影代わりにスケッチ彩色するいわゆる記録写生画の方が余程、手早かったわけです。 此の二枚の油絵は、東京大学地質学教室に残る、貴重な記録画のワンセットです。 当時記録画の必要な教室にはその専門の画家助手がいたわけで、偶々石崎氏は大正十二年明けの冬休みに野島館という白浜の宿の一室から野島崎の燈台を何気なく写生していたのでした。 その秋の初め、関東地震で、野島崎付近は5尺ほども持ち上がったと聞かされて、次の冬休み又野島館の同じ一室から、灯台の倒壊した野島崎の手前の隆起した波食海岸の様子を、今度こそは比較の目的を持って、写生してこられたというわけです。 ダイエットなどの使用前.使用後の比較写真に相当するモノですね。

 こうした縁の下の力持ちの腕と、幸運にも支えられて当時の学問は進歩し続けたのでした。 添付の第3図相模湾岸から房総にかけての隆起沈降量の等高線図です。 南ほど隆起し、丹沢山塊が沈下しています。 前述の江戸時代の湾岸型地震の記述にもあるように、砂浜や波食棚が露出したことを伺わせるに十分です。

 なお余談ですが、大洋プレートが、大陸プレートの下に潜り込む地帯にあっては、地震後は大陸プレートの先端は持ち上がっていますが、次第に海洋プレートの潜り込みに引き込まれて下がって歪んできます。 歪みのエネルギーが限界に達すると、大陸プレートの先端が崩れて跳ね上がって、バネ歪みエネルギーを解放します。 これが地震です。 相模湾では今までほぼ同様の隆起量の開放と試算されています。

 ところで今年新田義貞が剣を投じて有名な稲村が崎の海水浴場がもう砂浜が殆どなくなったから、今年から閉鎖されてしまいました。 まさか引き込み沈降歪みが限界に近づいているのではないでしょうねえ? 東海地震の駿河湾トラフと、相模湾底で、どちらが先にエネルギーの解放が先に起こるでしょう、、。 慶長地震と同じように同時と言うことだってあり得ないことではないのですよ。 又奥東京湾直下型との交互に起こる問題は? 関東も決して、安閑としておれぬ状況なのかも。

 


市電の写真


隆起・沈下頭高線図

 

童謡・童話知りいず(5):清水かつらと西條八十、そして鳴秋

 またまた時代をさかのぼりますが、60年の歳月を越えて、覚えていてハーモニカで迷わず吹けた曲に、「叱られて」がありました。 きっと昔吹いていたのでしょう。 作詞者も、作曲者も、いつ頃の歌かも知りませんでした。 殆どこの歌のリサーチのために、このシリーズが出来ていったとも言えるでしょう。 レサーチ、もう一度探す、そんな意味合いですねえ。 覚えていたのは節、間奏、のメロデイー。 ハーモニカで吹きながら歌詞を確かめていきました。

 ♪叱られて 叱られて あの子は町までお使いに
  この子は坊やを ねんねしな
  夕べ 寂しい 村はずれ コンと狐が 鳴きゃせぬか。

 ♪叱られて 叱られて 口には出さねど目に涙
  この子のおさとは あの山を
  越えて あなたの花の村 ホンに花見は いつのこと。

 この曲はハーモニカではC調です。 連想ゲームのように、この歌と並べてAマイナーのハーモニカで吹いたことのある歌が浮かんできました。 題が思い出せません。 歌詞は、

 ♪お母さま
  泣かずにねんねいたしましょう
  赤いお船でとうさまの
  帰るあしたを楽しみに。

 ♪お母さま
  泣かずにねんねいたしましょう
  あしたの朝は濱に出て
  かえるお船を待ちましょう。

 ♪お母さま
  泣かずにねんねいたしましょう
  赤いお船のおみやげは
  あのとうさまの笑い顔

 そうそう、と調べてみました。 この二つは、同じ作詞者、作曲者も同じ、発表された のも、大正9年6月号、雑誌「少女号」♪お母さま、、、は題名かと思ったら違って「あした」、作詞は清水かつら、作曲は弘田龍太郎でした。 となるとチョイと待った、そのコンビで、有名なのがあるじゃないか! ホラソレ、アレ、アレだよ、、、っと出てこないが、半年前の「少女号」にありました。 「靴が鳴る」です。 ♪オテ天プラつないデコちゃん、、、。 あれ。

 ♪おテテつないで 野道を行けば
  みんな可愛い 小鳥になって
  歌を歌えば 靴が鳴る
  晴れた御空に靴が鳴る。

 ♪花を摘んでは おつむに挿せば
  みんな可愛い 兎になって
  はねて踊れば 靴が鳴る
  晴れた御空に靴が鳴る。
  =「少女号」(大8.12)

 当時、内野安打や単打で稼いでいたのが、息長く昭和の歌謡界まで稼いだ西條八十。 それに前回紹介の雨情等。 西條八十には名曲もあるが、売れなかったほうが多い。 成田為三の作曲で打った「カナリヤ」(当時は漢字で「金糸雀」で「カナリヤ」とルビを振る)と、本居長世作曲の「お山の大将」を続けて。

 ♪唄を忘れたカナリヤは
  後ろの山に捨てましょか
  いえ、いえ、それはなりませぬ。

 ♪唄を忘れたカナリヤは
  背戸の小藪に埋けましょか
  いえ、いえ、それはなりませぬ。

 ♪唄を忘れたカナリヤは
  柳のむちで打ちましょか
  いえ、いえ、それは可哀想

 ♪唄を忘れたカナリヤは
  象牙の舟に銀の櫂

 ♪月夜の海に浮かべれば
  忘れた唄を思い出す。
  =「赤い鳥」(大7.11)

 「お山の大将」

 ♪お山の大将 おれ一人
  後から来るモノ突き落とせ、

 ♪転げて落ちて又登る
  赤い夕日の丘の上。

 ♪子ども四人が青草に
  遊び疲れて散り行けば、

 ♪お山の大将月一つ
  後から来るもの夜ばかり。

  =「赤い鳥」(大9.6)

 そうそう弘田龍太郎は、このシリーズ(2)赤い鳥創刊の頃、北原白秋が赤い鳥に寄せた「雨」の作曲をしていることを、書いておきました。 作曲家として勉強の仕上げ間近のいろんな詩を曲にしてみる時期だったのではないでしょうか。

 山田耕筰にもそんな時期があり、色々な人の詩に曲を付けて、挙げ句、白秋の詩に傾倒していったように思われます。 しかし、初めの頃、ペテイカなどでは、詩が曲想に歯当たりが悪いとして、細かい改詩を要求したこともあるようです。

 弘田龍太郎の曲は、オーソドックスなものが多いが、中でも、大正中期の教科書の小学唱歌に、鹿嶋鳴秋の詩を、それぞれ小学低、中、高学年に持ち込んでいる。 「金魚の昼寝」、「お山のお猿」、「濱千鳥」です。

 「金魚の昼寝」

 ♪赤いベベ着た 可愛い金魚
  お目目を覚ませば ご馳走するぞ。

 ♪赤い金魚は あぶくを一つ
  昼寝うとうと夢から覚めた。
  =(大・8.2)

 「お山のお猿」

 ♪お山のお猿は 鞠が好き
  とんとん鞠つきゃ 踊り出す
  ホンにお猿は道化者

 ♪赤いベベ着て 傘さして
  おしゃれ猿さん 鞠つけば
  お山の月が 笑うだろ。
  =(大8.2?)

 「濱千鳥」

 ♪青い月夜の  浜辺には
  親を捜して  鳴く鳥が
  闇の国から  生まれ出る。
  濡れた翼の  銀の色。

 ♪夜鳴く鳥の  悲しさは
  親を尋ねて  海越えて
  月夜の国へ  消えていく。
  銀の翼の   濱千鳥。
  =(大8.2?)

 (続く)

 

パピイの昔語り:八月十五日に徳富蘇峰という男について考えよう

 8月15日、昭和20年のその日は、カンカン照りの、風に砂埃が舞い上がる典型的な夏の日でした。 学徒動員で、2キロほど学校から離れた軍需工場に、材料が入れば徹夜でも働く態勢で動員されていた我々は、打ち続く空爆と艦載機による機銃掃射で、機械が壊れ捲って、主たる動員作業として生きている機械と生きているモーターをつなぎ合わせても、ベルトが燃えて足りないとか材料が入らないで、工場が機能しなくなって、この日の午前ここの退所式を行って、昼に学校で小休止し、午後は更に1キロほど離れた自転車とリヤーカーを作っていた工場で木製飛行機を作るべく、動員先替えの入所式の予定と知らされて、正午前学校に着きました。

 こうして「朕茲に世界の大勢と帝国の現状に鑑み、、、」云々、良く聞こえない、もし聞こえても我々には何のことやら意味不明のことだったような、玉音放送たら言うモノを聞かされました。 級長がキヲツケって言わなかったら、、、起立もしなかっただろうし、そのまま眠りこけていたい茹だるような暑さに、ただひもじい夏の日だったです。 級長がキヲツケの号令をかけ、反射的に起立しました。 そういう教育を身に沁みて仕込まれていたわけですから。 暫くして当番級長が、「校長先生の話があるからマットヶ、戦争は終わったらしい、負けたんだ!」と吐き出すように叫んだ。 それに触発されたかのように級友の一人が泣き叫んだ。 「それじゃ俺の父ちゃんや兄ちゃんの戦死は何だったんだ、犬死にじゃねえかヨオ、それじゃ母ちゃんが、母ちゃんがヨオ、あんまり可哀想じゃねえかヨオ、、、先生もよう、、,戦争だから、、、お国のためだからというから、我慢してきたんじゃねえかヨオ、、、今更なんてえこったあ、、、、しんじまった父ちゃん、アンちゃんは帰ってこないんだあ、、、」

 校長が何を言ったかは覚えていない。 それまでの軍国教育を反省する言葉がこの当日出たとは到底思えない。 我々の頭に入ったのは、この級友の泣き叫んだ「取り返しのつかない現実」だった。 いつも教練で目の敵にされて罰直ビンタや海軍精神注入棒代わりのバッタを喰らう男が「配属将校を見つけて、ぶっ殺してやる!」と駆け出していった。 実は配属将校はとっくに風を食らって逃げてしまっていたのだが。

 その夕から女子どもは山奥へ逃げないと鬼畜米軍に手慰みの目に遭うと、まことしやかに、何度も言う人々がいて、姉は、岐阜の山奥の郡上八幡の叔母を頼って出掛けた。 後から聞くと汽車がすぐに乗れず丸二日かかって、乗り継いで、やっと叔母のところへ着いたそうだ。 色々な流言飛語が飛び交った。 舞鶴に米海軍が入ろうとして四本の火柱が立って、ア メリカの軍艦が何隻か沈んだ、とか、陸軍大将が残った飛行機の戦爆連合で爆弾を積んで、敵艦に体当たりすると出撃したそうだとか(これは宇垣纏中将の実話の誇張と後でわかった)。

 そんな中で、終戦の数日後私どもの町の近在の村の小学校の校長さんが、「戦争に行って、手柄を立てて死ねと教え子たちを戦場に送り出したわしは間違って居った、いくら詫びても死んだ子たちはかえらん」と割腹自殺しようとして他の先生に見つかってなんとか自殺は思いとどまった、が先生をきっぱり辞職して百姓することにしたらしい。という悲しい話が聞こえてきた。 先生が終戦の直後にすぐ反省したのはこの話ぐらいだったのではないか。

 長じて、色々この当時のことを、特に8月15日の前後に思い出す。 特に埃っぽい風の舞う暑い夏の日には。 うちの親父も中学の教師で、母ちゃんと兄弟6人に何かを喰わすのに懸命で、上述の校長のようにきっぱり責任を取って先生を辞職するなんてことは出来なかった。 親爺自身この校長さんは偉い人だ、娘さんたちも、それぞれ気強く生きてよう勉強してるようだ、といっていたし、授業中にも脱線して、家族を喰わせるのにわしは先生ぐらいしか出来ぬから、教え子を戦争に送り出した反省はあってもよう辞めもせず、おめおめと未だ先生をして居るが、、。とぼやいていたそうだ。

 一転して、先生も確かに級友の泣き叫んだように、軍国教育の手先として働いたが、その軍国教育、国粋教育を進めたのは果たして、軍部だけだったのかと言うことを調べてみると、かなり鮮明に一人の国粋主義者が浮かび上がってくる。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると、陸軍も、とても勝つ自信はなかった、それで、アメリカに前もって、いい加減なところで仲裁に入ってくれるよう頼んでおいたと書いてある日露戦争を、世界の大国と戦争して勝って国威を世界に発揚せねば日本の将来はないと、日露開戦を国士たちと煽ってなお飽きたらず、遂に自分の文筆に酔いしれて、こともあろうに、「日露開戦の詔勅」を自ら起草して、明治天皇にその渙発を迫り、多くの国民の反戦運動の声に耳を籍すは婦女子の為す児戯と、天皇に迫り、遂に、開戦の詔勅を渙発せしめた男、当時の売れっ子新聞を生ぬるいと内部告発してオン出て、爾後、昭和まで、自らをオピニオンリーダーたらんと売り続けて戦争を煽り続けた、徳富蘇峰という元ジャーナリスト。

 世田谷でしたか、蘆花公園というのがありますね、徳富蘆花というホトトギス派の文筆家を記念した公園が。徳富蘇峰は蘆花の兄だから、これ又偉い人かと思ったら大違い。 もう国粋主義によって、国の進む道まで、間違わせたほどの男。 日露開戦を煽って、天皇まで動かしたことで、直後、徳富蘆花は、蘇峰とは兄弟の縁を義絶すると、内容証明付きの手紙を蘇峰に送り、そのことを、反戦派の一方の旗頭、与謝野晶子にその義絶の旨を書き送っている。 こうして蘇峰は自らの恣意を天皇の「聖断」に置き換えて、反対派の行動を押しとどめようとしたが、与謝野晶子は諦めず「君死に給うことなかれ」の反戦詩を世に問う。 その中に「、、すめらみことは言えばとて、御自らはいくさばまでは、い出まさぬ、」こんな酷いのもいたのだ。

 つまり民草、民衆は戦場に送っても天皇自身が戦場に行くわけじゃない、と詠っている。 終戦の日、級友が泣き叫んだ、父さんや兄ちゃんの死は何だったのか!と軌を同じくする。 身内の「現実の傷み」を蘇峰は知ってか知らずか、なのだ。まあそれはそれとしても、売り言葉に買い言葉でもなかろうが、203高地が多くの犠牲を払っても攻略出来ないとなると、この詩が効いてきたわけでもないのだろうが、「すめらみことが戦場まではい出まさぬ」わけに行かなくなったわけでもないだろうが、大本営を広島に移し、明治天皇も、ここに臨御遊ばされることになる、与謝野晶子の詩には、そんな力もあったんかとも思いたくもなるというモンだ。 203高地を落とし、敵味方更には土地の非戦闘員や女子供までも巻き添えに10萬になんなんたる犠牲を払って、旅順を占領し奉天にというところで、陸軍があらかじめ手を打っておいたように、アメリカのルーズベルト(親父の方)大統領がタオルをリングに投げ入れて、漸くこの戦いに決着が付く。 この戦いの犠牲の多さに、明治大帝も心を痛められたが、蘇峰の反省の弁は全く残っていない。 何万死のうと10萬傷つこうと全く自分の痛みではないのだから。

 結局、反省がないのだから世の中記憶が冷えた頃又悪さのおもしろさだけが顔を出す。 自分が痛んでいないことの証拠でもある。 一方、一将功成って万骨枯らした当の陸軍を率いた乃木希典は二人の息子をこの203高地の激戦で失ったが、明治大帝からは何のお咎めもなく、晩年は学習院長として勤めさせて貰った恩義に感じて、明治天皇の霊柩車が宮城を後にする儀礼砲を合図に、夫人とともに自害して果てた。 蘇峰は、しらん顔の鉄面皮を決め込んでいた。

 代わって皇位に着いた大正天皇が暗愚とわかっても、蘇峰は世間には決してそうでないと弁明にこれ務め、その傍らで徹底して利用しようとした。 天皇機関説はこうした中で芽生えたのだった。 昭和天皇は摂政時代に、蘇峰のこの動きに気付いていた可能性があるとの説がある。 知っていながらお互いに信用はせず利用したのだと。 この為昭和の御代になってしばらくは蘇峰も神妙に事の推移を推し量っていたようである。

 軍部の独走による、大陸侵略が始まり、満州に傀儡政権が樹立されても特に積極的な発言は残さなかったようだ、この地とは、相性が悪いとでも思っていたのかも知れない。 満州皇大神宮か建国神宮を作ったら?位の発言。 後に作られた満州国の国立大学が、建国大学と命名されて、彼の造語建国という名は残った。 昭和2桁時代に入って、彼の造語趣味が世に出てくる。 この満州建国を「建国」で代表させたような。 それと昭和の御代になって、考え直したのか、天皇陛下よりは帝国議会の存在を一段介してと、議員どもへの接近を試み始めている。 困ったことに結構彼の弁につり込まれる議員どもが党派を超えて出てくるのである。 日華事変という侵略が、戦線を拡大して、国際的孤立に陥るのを、寧ろ国威の発揚、巌頭に立つと勘違い早合点して着いてくる議員共を従えて、蘇峰は再びオピニオンリーダーになろうとシャシャリ出始める。 「戦線」に対する対語に国内の社会を「銃後」という造語も彼の造語(以下鍵括弧で示す)のようですし、議員共に、「挙国一致・大政翼賛」と呼びかけた彼の言葉もその後1−2年かかって、政府のお墨付きを得て国策標語となる彼の造語です。 昭和十五年に行う予定の歴史を偽っての「皇紀」二千六百年記念事業準備に、自分の息の掛かった「大政翼賛議員」三十名を指名して委員とさせるなど、もうこうなると戦争侵略指向に向かって国民を煽動したのは軍だけじゃないといえるでしょう。

 更に遂に再び実弟、徳富蘆花の強烈批判をものともせず、彼の手は再び天皇に及びます。 昭和天皇です。 蘇峰は、先ず「国民総動員令」を起草し、帝国議会通過するや、「青少年学徒の動員に関する詔勅」を起草して用意し、全国中等学校以上大学までの(女学校を含む)の軍事教練の実施、配属将校の配置、青少年学徒の勤労奉仕動員の実施、等を直訴します。 「学徒・学生は若い。 その若さを有用に用うベシ」が彼「徳富蘇峰翁」の弁となる。 昭和14年5月、この蘇峰起草の詔勅は若干タイトルは違うがまさしく渙発され、大学まで、軍事教練は必修科目となり、配属将校が女学校にまで配置されます。 出征兵士を送り出して、手薄になった農村の農作業や、水道工事、飛行場のモッコ担ぎに学徒動員が頻繁に駆り出され、学校での「小国民」は勉強どころではなくなって「進め一億、火の玉だ」にしてしまうのです。 如何に彼の恣意が、時流を押し上げ、戦争にむかわしめたか、お判り戴けようかと。 更に、彼は昭和15年から昭和16年にかけて、全国を演説行脚して、めぼしい府県立中学を手始めに、虱潰しに中等学校を訪問して、「学徒動員」「挙国一致」を正当化しようと、例の、「諸君は若い!その若さを有用に用うベシ!」と絶叫してアジって廻っているのです。 これが私どもが教練以外は学校から全く引き剥がされ、農場に、土木工事に、飛行場に、工場に、時をわかたず勉強を捨てて、こき使われる大義名分となったのでした。 実際我々の中学(愛知県立三中)にも昭和16年の5−6月に突然訪れて来て、「諸君は若い、その若さを有用にもちうベシ」とアジ演説をやっていったと先輩たちは徳富蘇峰とは何者とも知らされずにこのセリフだけは覚えたようでした。 戦後になっても先輩共が下級生を扱くときに良くこのセリフが出てきたモノでした。 それほど、軍国教育にとって、この言葉と、この勅諭は意義深いヨイショ、しかし振り返って人道的に見れば罪深いヨイショに他ならなかったのでした。 敗戦しても「終戦」、小学校の校長先生ほどの反省すらなかったのですよ。

 八月十五日が来ます。 社会を毒して、「取り返しのつかない現実」に引きずり込むコンピューターウイルスのような罪深いヨイショを、ファイヤーウオールやフィルターですくい取って、現実の社会から洗い出さなければならないその決意を新たにする日ではないでしょうか。

 因みに、教え子に済まないことをしてしまったと、腹をかっさばきそこねたがきっぱりと先生を辞して、一生百姓をして過ごした元校長先生の娘さんは、女子師範を卒業、新制高校の女教師として新生日本の英語教師として、親父さんの心を心として、男勝りの切れ味の鋭い気合いで、民主教育に貢献され、母校の高校の副校長までされましたが、多くの教え子と同僚、村の人々に惜しまれながら今春他界されました。 ご冥福を祈るばかりです。 (終)


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