パピー・ニュウス:最近の公開講演会からの話題

 某県の社会教育研究会を傍聴してきた老友が、例によって「今時の若い者は、、、」を始めました。 それは言わないがいいよ、、という私にまあ聞いて呉れよ、これが言わずにおらりょうか」と語ったのは、先ずはそれに来てくれと言う誘い方から、どこか勘違いしてるよ、という。 つまり、昔の諺をさえ使えば年寄りには失礼にならないとでも思っているのか、、、「お年寄りでも、枯れ木も山の賑わいと言いますから是非傍聴に来て下さいよ」と言ったのだと。

 確かに、私も、ある会社で、お局様の女子社員が、「情けはヒトの為ならず」を勘違いして6年ほど、毎年新入りの女子社員を徹底的にしごいて、毎年半数ほどが辞めていった、ある昼休み、ふと読んだよその会社で全く同じ間違いした告白話が書かれた他社社内報を見て愕然となり、茶わかし場の床にべた座りして呆然としているのに出会ったことがある。

 「まあいいじゃないか、それを上手に教えないのが昭和一桁の欠点と言われているが、丁寧にただしてやったカイ?」 「あほらしい、枯れ木扱いされてよ、そんなん誰がするカイ!」 「それで、傍聴してどうだった?」 「それがなあ、やっぱりお笑いよ、ノーベル賞を取るような、こむらさき先生のような、ヒトを育てる、又育つような社会温床を、、、だって!こむらさき、こむらさき、と繰り返すから、そんなヒトがノーベル賞とったかいなと考えたら、小柴さん*)の間違いらしいと気が付いたが講師は最後までこむらさきさんを通したね、原稿を他人が間違って書いてその通り読んだのか本人こむらさきと思い込んで居ったのかはワカランが、馬鹿馬鹿しいんで、帰ってきたわ。 何が社会教育研究会か、先ず自分たちがもっと社会の動きや人の名を正確に勉強せなあかんわいな。」 誰もそれ小柴さんとちゃいまっかともいわんかったそうな。 (自分も含めて)誰かがいわにゃ、生涯気がつかんかも。

 学校の先生連中がこれでは、襟元が寒い思いですわな。 私自身しょっちゅう「ナガムロ」さんと呼ばれたり、ひむろさんねと言いながら「永室」と書かれたり大学の卒業証書まで漢数字の2以外はゼエンブ間違って、「永宝貞二」と書かれてまさか自分のモノでない卒業証書は受け取りもならず、拒否して、手続き順序煩雑で、3月は卒業できず、私は7月卒業しています。 御念が入っているのは此の名前が勝手に学籍簿上で3月幽霊卒業して、7月に私自身が卒業しており、卒業生が少なくとも一人多い勘定です。 断っておきますがこの件に関し私は加害者でなく被害者です。

 さて、その襟元どころか半袖では寒い日が続く関東、東京、夏休みが始まる海の日から始まって、その大学で色々公開講演会が開かれ、結構面白い講演が聴かれたようでした。 私は、脳もやられ、耳も不自由になって、聞きには行きませんでしたが、あちこち行った友人がメールで、結構面白かった、あれなんざあ、何年か後にはノーベル賞取るかもだぞ、と言ってきた。

 先ず21日海の日、大学付属海洋研究所の一般公開と、記念講演(2演目)。 その内の一つが、我々の口に直結する具体的な話で、講師もなかなかユーモラスな人(海洋生物資源部門・資源解析分野・松田裕之助・教授*)で、非常に面白かったそうだ。 題目は「サバの未来を読む、増えるか減るか、どうしてか?」。 同教授によれば、マイワシ・カタクチイワシ・マサバの回遊3魚の三すくみによる魚種交替と言う現象を反証仮説をもとに、90年代前半のマサバの減少が、ごく普通の自然現象であることを分かり易く例証して見せた。 その上で、ここからが大変なんですとして、90年代後半に折角回復基調になってきたマサバ資源量が、故意の未成魚の乱獲によってその後現在まで低迷傾向にあること、今後とも未成魚の乱獲が続くなら、マサバのみならず、マイワシも回復しなくなると予想されることに就いてユーモアを交えながらも,然るべき監督官庁が目の前の漁民の利に迎合せず、将来の漁獲確保を慮って、警鐘を鳴らすべきであると断じられた。と。

 確かに、役人という人種は、自分が其の役、任にあるのはせいぜい数年だから、目の前の人といい付き合いでその期間を過ごせばいいとしがち。 漁獲高が減ったから未成魚もとらせてくれてもいいだろ?と言われりゃ、目もつぶりたくなるだろう、しかし、漁民の将来を考えれば、これではお先真っ暗かも知れない。 自然の摂理は人間の都合を待たないのだから。 10数年の魚種交替のサイクルだとすれば、3すくみの魚種が全部健全サイクルを果たすまで、未成魚の乱獲は厳に慎ませるべきでないか、と言うことらしい。 すぐ切れる日本人も全く良くない。 短慮浅はかと言うほかない。 多くの漁場で、過去に既に、多種の魚類を未成魚の乱獲により「幻の、、、」にしてきた。 一旦「幻」になってしまうと生物は自然回復できないのだ。 あちこちで、黙々と、採算度外視して、回復に血のにじむ努力をしている人々が、時々TV番組などで放映されるが、マスメデイアも、その前の段階からのPRにも配慮が必要だろう。

 他にも地震研なども公開・体験・展示が2日間あったりしたようだったが、割愛する。 そして、7月31日、雷雨が近づいてくる安田講堂で「科学の魅力を語る」公開学術講演会が行われた。 上述のコムラサキ先生(失礼!)は、ノーベル賞を取ってから此の講演会に出られたが、私も此の講演会から5年後は無理でも10年以内にノーベル賞受賞者が現れると予言しておきたい。 この日、3つの講演があったそうだが、ここではその一つ、第22回「女性科学者に明るい未来をの会・猿橋賞」を受賞された理学系研究科の真行寺千佳子・助教授が「生命を支えるモーター・精子の運動の謎を解く」と題して、自分がのめり込んだ、動くという生命の不思議、それを確実に支えている物質があるこのことを教える科学の魅力、、、を熱っぽく語られたそうだからそれを紹介しておく。

 生命はその基本単位である細胞の動きによって支えられており、相互作用、移動、構造変化などのダイナミックな細胞の機能は、自ら動く蛋白質であるモーター・タンパク質の助けを借りている。 モーター蛋白質の一つであるダイニンは、精子の鞭毛の骨格蛋白質である9本のダブレット微小管上に並び、力を出して隣の微小管との間に滑りを起こす。 此の滑り運動が鞭毛の屈曲の原動力であることは1970年代後半に明らかにされていたが生命との結びつきの振動運動がどのような仕組みで起こるのかは最近まで依然謎であった。 真行寺助教授は1998年にダイニン1分子が振動すること、1分子の出す力の大きさが約6ピコ・ニュウトン(1ピコは1兆分の1)であることを発見した。 現在は、ダイニン1分子の振動が、どのような分子構造変化メカニズムで発生し且つどのような仕組みで鞭毛をシステムとして振り動かしているのかの解明に全力を傾注していると言う。

 生命科学の最も根幹に迫る研究であり、解明されれば、生命とは何か、何が生命を動かすか、と言う此の分野全体への謎に、事は小さなミクロ振動だが大きな一歩を踏み出すことになりそうな予感がするのはパピーだけではあるまい。

 *註1)コムラサキ先生:小柴(昌俊)先生の読み違い。 ニュートリノ天文学の扉を開いて、ノーベル賞を受賞。大正12年9月17日(関東大震災16日後)生:豊橋市出身;蛇足ながら、NHK教育TV:コトモアロウニ「日本の話芸」番組で前後編2回に分けて、講談師・田辺一鶴が、演題「小柴昌俊教授とノーベル賞」を小気味よく弁じた。 彼の弁によると;小柴先生は、何でも突き抜ける、地球も突き抜けて、尻の下から上へ抜けていったニュウトリノを痕跡をしっかり見て数を記録した。 いまは人間社会に何の利益ももたらさないかも。 しかし、19世紀のおしまいに、何でも突き抜けてしまう光線、従ってこれはエックス光線だ!とどうしようもなかった光線を、写真の看板に自分の手のひらを透き通して撮して見せた、レントゲン博士は、20世紀の初め、1901年、第一回のノーベル物理学賞を受賞している。 現在、医学・医療上の診察方法として、X線透視ほど20世紀の人間社会に役立っているモノが他にあったでしょうか?と、何でも突き抜ける、ニュートリノの検出方法を考案した小柴先生のカミオカンデをレントゲンのノーベル賞受賞のX線と比較して宇宙の構造を調べるX線に代わるモノとして説明、好演した。

 *註2)松田裕之助教授:ご自身がいつも苦笑せざるを得ないそうです。 良く今でも助教授だと思われて。 そうですよね、途中に点を入れないと、「松田裕之」助教授か、「松田裕之助」教授か判りませんよね商売柄。 これを講演の導入部に使って先ず聴衆を笑わせてリラックスさせる。 「災いを転じて福と為す」ユーモリスト。 「コムラサキセンセイ」を押し通す先生とは出来が違う。

 

童謡・童話知りいず(6)お詫びして訂正・白秋・耕筰コンビ、そして未明、広介の登場

 此のコンビの初出は、「かやの木山の」だと書いたところご指摘がありました。 かやの木山は童謡かも知れないが、と前置きして、兎に角れっきとした童謡が、赤い鳥創刊から一年くらいした同誌で見た記憶があると「チョッキンチョッキン、チョッキンナ」ではなかったかとご指摘を受けました。

 将にその通り、恐れ入りました。「あわて床屋」ですね。

 ♪春ははよから  川辺の葦に
  蟹が店出し  床屋でござる
  チョッキン チョッキン チョッキンナ

 ♪子蟹ぶつぶつ  シャボンを溶かし
  親爺自慢で  鋏を鳴らす
  チョッキン チョッキン チョッキンナ

 ♪そこへ兎が  お客にござる
  どうぞ急いで  髪刈っておくれ
  チョッキン チョッキン チョッキンナ

 ♪兎ア気がせく  蟹ア慌てるし
  早く早くと  客ア詰め込むし
  チョッキンチョッキン チョッキンナ

 ♪邪魔なお耳は  ピョコピョコするし
  そこで慌てて  チョンと切り落とす
  チョッキンチョッキン チョッキンナ

 ♪兎ア怒るし  蟹ア恥ヨかくし
  仕方なくなく  穴へと逃げる
  チョッキンチョッキン チョッキンナ

 ♪仕方なくなく穴へと逃げる
  チョッキンチョッキン チョッキンナ
  ー赤い鳥(大8.4)ー

 ホントに失礼しました。 うちの初孫は、一歳一寸で他の唄に先駆けて、チョッキンナだけは早かった。 ああそれなのにそれなのに。 Ah, never-the-less、ネヴァザレス!、,,

 そうそう、此の後昭和初期の童話界を背負って立つ、小川未明や、浜田ひろすけが、この頃、童謡詩に登場しています。 作曲が付いたかどうかは知りません。 先ずは小川未明「海と太陽」

 海は昼寝る  夜も寝る
 ごうごういびきを かいて寝る。

 むかし  昔  大昔
 海が始めて  口開けて

 笑ったときに  太陽は
 目を回して   驚いた

 可愛いい花や 人たちを
 海が呑んで   しまおうと

 やさしく光る   太陽は
 魔術で海を   眠らした。

 海は昼寝る   夜も眠る
 ごうごう   鼾をかいて眠る
 ーおとぎの世界(大8.6)ー

 浜田広介は矢張り鳥が題材「シジュウカラ」

 青い帽子に   白いシャツ
 どこから来たか シジュウカラ
 チンチンカララ  チンカララ

 あめ屋にしては アメがない
 パン屋にしては パン持たぬ
 何を売るのか   しじゅうから

 いえいえボクは  軽業師
 旅から旅を     一人ぼち
  葭の細笛      吹きながら

 さかきにくぐる  クリの枝
 よこちょに渡る  ツタの蔓
 チンチンカララ  チンカララ

  ー良友(大8.12)ー

 シジュウカラが、チンチンカラカラブイブイブイ、と鳴く四十雀なら青い帽子はウソですね、青いのは羽で、頭は漆黒です。 ノルマンデイの四十雀は黄色いシャツを着ています、顔も黄色です。 鳴き方は同じチンチンカラカラブイブイブイですが最後がブイブイイイイーと小さく伸びます。 秋の終わりには、南に下る、ハヤブサや、チョウゲンボウが、此の黄色い四十雀を好んで高い空から羽をつぼめてつぶてのように逆落としに急降下してきます。 黄色は目立つらしいし、鷹の類は眼がいいのですね。

 浜田広介は、昭和10年代初頭、日本児童文学賞を受賞します。 はまだひろすけ童話集「むくどりの夢」は空前の200萬部のベストセラーを記録しました。

 浜田広介の詩で、本居長世が曲を付けたモノがあるようですが、私は此の唄聞いた覚えはありません。 鳥ではなく虫ですが。 「山のはたおり」を。 童謡にはいるかですが、、。

 ♪山のすすきの  やぶかげに
  はたおり虫は  機(はた)を織る

 ♪月の青さに  濡れながら
  織るは菩薩の  召し衣

 ♪石の姿に   おわすれど
  月の光の   青ければ

 ♪じぞうぼさつは 寒かろと
  はたおり虫は  機を織る
  ー婦女界(大10.9)ー

 スイッチョ、スイッチョ、スイッチョ、、、と鳴く、昭和になってからは何故か馬追と昆虫図鑑に記載されて、機織り虫の名は消えました。 多分その為此の唄も消えたのかな? 漱石など、明治の小説家は「ガチャガチャガチャ、、、、」と鳴くクツワムシを馬追といっています。 馬を追うと轡をガチャガチャ言わせて走るからです。 此の混同から、地蔵さんの召し衣を縫うと言われたスイッチョはクツワムシの古名を貰ってしまい、地蔵さんのお召しを織る虫がいなくなりました。 月の光が青いとも言わなくなりました。 前回の、濱千鳥でも、歌い出しは♪青い月夜の、、浜辺には、、、」と月の光は青いのですが、、、。 青くちゃいけませんか? 最近は、揚げ足が、小理屈(靴)を履いて、ドタドタ歩き回って困る。 言葉にも優雅さを込めねばね。 (続)

 

尾張野の英雄達:(+1)不思議な男: 加藤清正

 調べれば調べるほど、判らなくなる、、、(1)彼の出自:(2)秀吉の無類の信頼:(3)秀吉没後の豹変:(4)関ヶ原の時の板間稼ぎ:世に何かを強調するとき、1に何々2に何で、3:4が無くて5に何々、という言い方があるが、「加藤キヨマサお馬に乗って、ほい。」じゃないけれども、秀吉の唐入りも総帥は、小西行長に渡し、美味しい虎退治のところだけ行っているし、秀吉の亡くなった後、いきなり秀頼への家康の使者を引き受けて格好を付け、家康にどう取り入ってか、秀吉にも行長のとなりの領地はいやだから国替えをといって、取りあえず軍勢を駐屯させていただけの筈の熊本城を仮に、領有している。 更に、関ヶ原の役、では自身の所在ははっきりさせず、軍勢は東軍に送り、石田三成側、唐入りの総帥、小西行長の熊本の南の宇土城を、関ヶ原の直後の留守をねらって急襲して、易々と手に入れ、関ヶ原の論功行賞で、肥後一国に近い領有を貰っています。 以後、大坂攻めまでの間の、秀頼宛の家康の使者は清正、淀君宛の使者は有楽斎、と相場が決まり、何度か仲介顔して、大阪城に出入りしている。

 一般に、戦国の世では、投降したモノも戦力として利用するが普通は一旦寝返ったモノは、利用はするが信用せず、本気での登用はしないモノ、いつ又寝返られるか判ったモノじゃないとされたから。

 1。へ戻ろう。 秀吉が彼ほど信頼し甘やかした部下は他にはいない。 彼は秀吉の生まれたと称した中村郷の生まれで、その地の人々と深いつきあいがあると触れ込んで、秀吉の部下に引き取られた。 母親同士が従姉妹だったのではないかという説もあるが、当時それくらいのことはどの村でもどの家族にでもあり、珍しいこととは言えまい。 又それを以て信用出来た世ではない。 実は彼の生地、育ったのは、蜂須賀村の西、現在の日光川の岸辺辺りではないかとされる、勝幡、小津の辺り。

 小さい頃の逸話としては、偶々天狗の面で遊んで藁小屋で寝た晩、此の村を野盗の群が襲う。 彼は事前に気付き、道ばたの涸れた古井戸に隠れる。 野盗が村に脅しの声をかけようとした鼻をねらって、古井戸の中から低いが大きい響く声で、声をかけて震え上がらせて置いて、天狗の面を被って、飛び出して、野盗の群を追い払ったという。 戦前講談社の絵本にもあったし、実際、現津島市にある、清正公さん(神社形式)のお祭りとして、何年に一度かづつ秋に、清正公祭りというのがあり、天狗の面を被った、若者が一本歯の高足駄を履き、ヤツデの葉団扇を扇ぎながら行列する祭りがあった。 戦後バタンコ景気の頃まで、あったと思うが、今はスポンサーもないのであろう、社も寂れ緑もない状態と化して祭りの話も聞かぬ。 斜陽の地方都市の現状そのまま朽ちていく文化の一つでもあろうか。

 (2).も、中村郷の出自との触れ込みだけで、まさか、ベストテントップの信頼を勝ちうるモノか、特に戦国の世。 不思議の極みであります。 豪胆にかけては右に出るモノはいなかったが、人望は今一、秀吉も唐入りの首領には推しかねて、小西行長に因果を含める仕儀に至ったとも言われます。 二度の出陣のどちらかで、土産に、秀吉に虎の皮の敷物を献上し、秀吉がおぬしが槍に掛けた虎かと尋ねたのを機に、自分が槍で仕留めたことにしてしまったらしいアバウトさなのですが、なにやら二人の間は此の[ヤリ]とりのようにいい加減な 別の結びつきに思われてなりません。

 そうでないと、、、(3)以降が成立し難く思われます。 勿論、唐入りの「総裁選」に負けた遺恨はあったでしょう。 しかし、最終決定した秀吉を恨まず、小西総裁を恨む此の気持ち、男を恨まず、本妻を恨む妾の気持ちに似ていませんか? どこか見当はずれ。

 (3)小西行長初め豊臣の重臣は秀吉病篤との報に伏見目指して集まっていますが、清正は熊本は離れたようですが、何処にどう立ち寄ったか暫く所在不明のようでした。 多分この間に、徳川方とコネを付けていたと思われます。 福島正則辺りの仲介で、正則清正コンビで行動を開始していたのではないか、それもどちらかといえば、清正主動の形で。 賤ヶ岳の7本槍辺りから、二人の間には戦功の貸し借りがあったに違いないのです。 賤ヶ岳の後の鳥取攻め辺りも怪しい。 これで、加藤清正の存在が羽柴秀吉筆頭家臣に浮かび上がり福島正則は霞んで行き、秀吉の貸出専用の忠臣に変貌するのだが。 関ヶ原で再び貸し借りが大清算されたのであろう。 その打ち合わせがこの時既に手が打たれたのでは? そして、関ヶ原では福島正則が戦の文字通り火蓋を切る。 これが第一くさい、譜代の大名を差し置いて、である。 何か臭くてしょうがない。

 (4)が徳川家康に対する最大の手みやげとして、宇土城を手中にして石田三成の右腕をもいでしまった。 驚くべき戦国世渡りの達人にも見える。 しかし、戦国ポンポコ狸親爺の徳川家康のこと、たかが手土産如きに騙されはせぬ。 其処で、大坂の城攻めの前段階の、色々難しい、交渉ごとを、正則でなく、当の清正本人にアバウトでなく、家康の命ずるまま100%実現するように、交渉役をさせて踏み絵にしたのではないか。 更に四の五の言う秀頼との対面の儀まで、清正に実現役を命じて、アバウトな性格を徹底的に矯正せねば腹を切れとまで迫る勢いでさせて、遂に慶長16年(1611)家康は何かあれば先ず寝返った清正を刺す、清正は何かあれば秀頼側に寝返って家康を刺す覚悟で、大阪城の対面を実現させ、家康は言いたい放題、秀頼に大阪城にあると噂の800万両の金塊の使用先、使用方法を徹底的且つ具体的に命じたのです。 秀頼はかしこまってござると言うより他に方法がなかった、その場の殺気があまりに凄かった事によるらしい。 そりゃあそうでしょう、居合わせる三人が三人一触即発の構えでの命がけの対面だったのだから。 しかし一触即発は避けられ、その前後、二重の大阪城の濠堀が埋められていた豊臣は金を使い果たしたところで、あっけなく滅ぶのである。 清正は、大阪城の対面が完了して直後熊本へ帰る瀬戸内の船旅で、発病し、熊本に着いたとき虫の息。 そして世を去った。 享年51歳。

 織田信長の詠い続けた「人生五十年、化転のうちに較ぶれば夢幻のごとくなり、、、」を地で行った、夢幻好みの化転者であったのかもしれない。 それが証拠に、戦中発病の直後、遺言として「我死せば具足を履かせ太刀かたなを穿かせ(座)棺に入れ納べし。末世の軍神たらむ」(清正記)とある。 (終)

 

 

 

 

 

 

 


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