SWL歴50年:米軍人局から1ケ月で日本人に再割当てされたJAプリフィックス。

 1952年 6月ジッゲ−ボ−からキンゲ−ボ−に鞍替えした米軍人局は、一部の日本人JA局に貴重な置土産をしました。だって、その間のインタヴァルはミニマム1ケ月、JA局宛のP.O.Boxは、APO San FranciscoからPO Box 377東京に。QSL の多くがこちらに来て、JARLで見分けが付く訳もなく、本人に送られたのです。JA1の方はなし。米軍人局にJA1エリアは無かったからです。旧制中学時代の友人が、翌年JA2FBで免許をとりJARLの登録をSWLから正員にした途端、来ました来ました海外からのQSLが。ワンサと。中に1枚『チキショウ!』と言う奴が。ナント『YA』アフガニスタンのQSL,14メガcwのが。彼は旧法2級でしたから慌てて一級の受験準備を始めました。『YA』のQSLはどうなったか?って。その後上京してJA1XXのペケペケ数年で無線道落から足を洗ってしまった彼には反古も同然であったでしょう JA5SP;JA5SR(いずれも多分海兵隊憲兵将校)や硫黄島の2局JA0IJ及びJA0JI後の日本人局にはDXの珍しいQSLがどっさり届いた筈ですが。JA4HLもJA2RMも米人局が使ってくれなかったと見えて、なし。最後の望みのト−マス・エジソン(米国人なら誰でも知って居そうじゃありませんか?)所がこれもなし。JA4TEも空振り。

 ツキも実力の内、と悪運の強い奴等はうそぶくが、運の強弱は雲泥の差。やってられない。

 一方、ジッゲ−ボ−からキンゲ−ボ−にプリフィックスが変わった米軍人局は世界中の仲間から、『どうしてそうなったの? また、前のJA2の時のコ−ルのカ−ド、ちゃんと送ってね!と強要されていた。

 『日米媾和条約が締結されたので主権が日本に帰ったので…JAプレフィックスは日本人局に返したのよ。』とちゃんと説明できるキンゲエ−ボ−局は一局もなかった。■落ち行く先は遠州相良…』じゃないが、軈間も無く日本側電監によって『MARS局』であり、JA局は交信してはならない』旨の一片の通達だけでウヤムヤにした。キンゲ−ボ−は相変らずアマチュアバンドにのさばっていて、7メガサイクルのmars局が跳梁跋扈するアメリカン・フォンバンドには行かなかった。

 

SWL歴50年:JAが米軍人局だった頃のアンカバと電波環境事情

 私は母の胎内に6ケ月居た丈けで殆ど流産のような早産で生まれ落ちたんだそうでモヤシと苛められその割りに四肢がやけに短く晩稲手だった。作ればA1/A3の送信機も作れたんだろうが、なにかでもなく悪いことに引き釣込まれそうな予感に怯えて単に、ハムバンドもリスナ−でHBLと言って威張っていましたが、日本人に免許が降りないうちは、歪小僧ハムきち狂は、止むに止まれぬハムへの情熱の炎をアンカバ(under-covered)に注いでいた人は多い。当時は、朝鮮事変と言った隣国の南北戦争中で、共産圏へ通ずるスパイ活動の摘発の一環として電波監視はもちろん、官憲の保護観察も、特高警察の延長線上にあった。やがて、三橋事件やナントか通信社のスパイ行為が検挙される、が、それまでに大勢の、ヒズミ小僧ハム吉が『御用』になっていたようだ。

 敗戦後僅僅5年日本の警察側にはまだまだ治安維持法の名残の『特高警察』が生き長らえていたので、電波を出しさえすれば、『即スパイ。』の嫌疑で全てが始まる難儀な未啓発な社会だった。 官憲間の横の連絡もある筈もなく玉野市でJA4HLの予備免許を受けた昭和29年でさえ、岡山県警本部の0警部とK警部補が『俺達は元特高の者だ』とやってきて郵政大臣何某の免許状を確かめ、『所詮は紙切れ、やる気になれば支那でも露助とでもハイハイツウトントン出来るじゃろがの』と当分の間玉野署の元特高刑事Kが保護観察する旨言い置いて帰ったのだった。そんな時代だったのです。蛇足ですが、この保護観察身分は有難迷惑の迷惑抜きで、本州から四国への玄関宇野港での港祭りを港正面の特等席、玉野警察署長室で浴衣掛け、扇風機とビ−ル付きで見せて貰ったものだ。それは後々のはなし、ここでは、米軍人がJAジッゲエボウだった頃に戻る。

 アンカバででるしかなかった頃の彼等は、戦前のJ@コ−ル(@は数字)や中にはC(CHINA)のコ−ルを使っていた人までいた。蛇足ながら付け加えると、戦前中国からの中国人のアマチュア局は稀有で、15年戦争で戦線拡大後、占領に行った軍関係の日本人アマチュアが出て、現東北部(満洲)はMX2/9南船北馬の民国では、日本人はXU8を用いていた。因みにかの有名なJ5CCは中支派遣軍時代はXU8HH(当時のロ−マ字で堀口文雄の頭文字)を使っておられる。

 J1UXやJ1PUなどは明らかにラジオ部品の略字だが、同じPUでもJ2PUとなるとそうは行かない、確か実在局で戦前数少ないMITの洋行留学帰り、合併後の誠文堂新光社のラジオ雑誌『無線と実験』に新風を吹き込んだ『K,S生』こそその人だった。戦前の同誌の読者なら戦後JAのどのコ−ルで免許を取られたかはわざわざ聞くまでもない筈。

 『今日はやっこ出てこないね?』『何でも昨夜踏み込まれて、一式証拠品没収されたってよ』という会話がアンカバ・チャンネルで聞かれたものだ。それもなぜかほとんどが本人不在中に踏み込まれている。

 

SWL歴50年:日本人30局にJAコ−ルの予備免許が降りる、その前夜のSWL

 夏の盛りのクソ暑さがビ−ルの酔いにごまかされる頃、或晩アンカバチャンネルが妙だった。そして私は到頭SWLヒストリイ50年の中でも『指折りの』SWLをする事になる。先ずはそのままお聞き下さい。ラウンドQSOでした。

@1『いよいよ明日だそうでワクワクドキドキ胸が高鳴りますね……』

@2『何でも1遍に30局ほど降りるらしいですよ。ex J2IB庄野さんが同町内(註:私の早とちり=同庁内)の便利さとは言え、毎日日参していただいたお陰で、電監も一応7月約束のメンツ守ったが、遅れた分局数は滑り込んだようですよ。本当に庄野さんのこの度のご尽力には頭が下がる思いです。1AAをとるのはきがひける、とおっしゃっているようですが、なに遠慮なさる事はない、JA1AAをお取りになるに相応しいご活躍でしたね。お陰で我々もお相伴に預かれる、幸運でした。』

@3『それにしても、かえすがえすも残念な事は、電波審議委員会委員でもある大河内先生が、『トンツ−の免許試験がないクラスのアマチュアと同列視されるのは肯んじ難たい』と委員時代からの信念を曲げられず免許申請を取下げてしまわれたことです。信念とは言え、何か…チョット物寂しいですね?ナントかならなかったものでしょうか?

@4『いやあ、大河内先生だけじゃなく国際的なアマチュア無線の本部も、『アマチュアの資格要件は、モ−ルスを、自分の手で打って、自分の耳で聞ける事』と謳っているのに、日本は!……と言うのが大河内先生の論旨のようです。個人ベ−スの話じゃない日本の恥に繋がる曲解とも言われかねない制度ができる事を心から心配しておられる、それを電監は時間がないとそのまま強行してしまった。審議委員としての立場は無視された、と言う事もあったようです。』

@5『相手がお役所だとこっちが硬直すると相手はもっと突っ張ってくる、出来る話もブッ壊れる。電波行政はそうしない為に折角FCC米連邦通信委員会形式にしたのに、何も変わってませんね勉強もしないで突っ張り挙げ句の果ては時間がない、官僚主義丸だし、語るに落ちた、あきれた。と言うところじゃないですか。

@6『明日の官報告示には本当に出るのでしょうね、印刷が間に合わなかったりして『幻の』って事はないでしょうね。』『ワクワクして今夜は眠れそうにありません。その反面なんだかわかんない不安もありますね。いっそ今直ぐ明日になっちまえばいいのに。』

@7『ワア!…言い辛いな、私、その電監案で2級のモ−ルス試験無しの恩恵に浴す者です。何かいま話し聞いてると、皆さんに悪いなあ。申請は明日には間に合っていませんがいずれ小さいフォンの機械で出てきます。この私の200Wの機械には永遠に火が入る事はないでしょう。ナントも寂しい夕暮れです』。

 −…−・−

 こんな調子のアンカバ十数局のラウンドが一回りする頃は目はギラギラしているのに、脳味噌は豆腐のごとく疲れ寝込んでしまっていました。翌日本屋の開くのを待ち兼ねて0と5の日に出る『官報』を立ち読みに行った事は勿論です。

こうして私は、『偶然』(と言って良いでしょう)JAコ−ルがジッゲ−ボ−から日本人の手に帰る前夜祭とも言うべきアンカバのラウンドQSOをSWL'ingしたのでした。(1952年7月29日夜)

蛇足:この頃のSWL JA1-1024のRX:(ant:6mX6mH逆L) RF-Amp  段間非同調 Mix  If-Amp  Det Af-Amp  OutPut Rec
MC-658A Osc717A  MC-658A  UZ-78  UZ-77 UY-76  6Z-P1  12Fx2
(住友真空管) (RCA) (住友) (桜マ−ク)(桜) (錨マ−ク)    (BESTO)

注)VT-717Aはドア・ノブ管
6AK5の電極を水平にして
GT管ベ−スに収納したノブ管
gm=約4千     約6千 IF=455kc/s 78/77はRCAの6D6/6C6に相当。(確か理研丸特印)
MC-658Aもメッシュ・インナ−シ−ルド型     但D6/C6=壁内面妨電塗装 78/77=メッシュインナ−シ−ルド

MC-658A;UZ-78/77
RCA6D6/6C6
VT-717A

 

SWL歴50年:実はHBLばかりしてたわけじゃない。

 上京して下宿に入った途端鳴ら無くなったばかりのナナオラの国民型二号受信機を前の住人が置土産に呉れそれが短波用の1-V-1として再起する頃、クラスメ−トが俺は電気工学へ進む心算だから壊れたラヂオを直す人を見たい、とこれ又鳴ら無くなった、クラリオンの国民型2号受信機を私の下宿に担いできた。2号と二号でどう違うかって?それはとても鋭い質問。そう、自自公JI1KIT内閣じゃないけど、1942年挙国一致大政翼讃体制の一環として局型放送受信機の1機種づつの局認定はやめて、国民型1号から4号AB間で4型5種に規格化されたのでしたが、戦中に準備された銘板や代用の名札は(当然いずれも右横書き)一二三四丈、戦後は算用数字1234も混じるという有様で2号は明らかに戦後性だが二号のほうは、戦中戦後の見極めが難しいという事でした。この年、同じ大政化で日本独自の、真空管の機能命名法が考案され、後の6WC5や3YP1などを超45や2A3などより少し解り易くして今日に及んでいます。

 いずれゆっくり国民型や、日本式真空管の命名法は詳しく解説しましょう。君が代日の丸だけじゃない体制翼賛体制の亡霊はほかにもあるって事。

 さて、宇宙劇画なら『合体』はお手の物。クラリオンの2号はトラのレア・ショ−トというラヂオとして最悪故障。友人の前で、ホイこの通りとやって見せたのは半端だった。2号の方のB配線をきり二号のB電源から『貰い湯』して鳴る事の確認まで。後日トラを載せ換えるから…と言ったら、モオエエ、調ベ方・直し方さえ解りゃあ勉強済んだので鳴らねエラヂオやこは下宿の邪魔だ、勝手に直して遊べ!と置いて行った。占めたと、合体計画に取掛かる。2号のシャ−シにRF1段ミクサ−と局部発振を組み込み後からトラを菅換える事にして二号の方の1-v-1を中間周波増幅(前年世界的にIF波統一され455kc/sに)完成の暁には高一中一のオ−ルウエ−ブが完成した。黒点数サイクルはサイクル18の落掛けでも21メ−タ−バンドでラヂオ・アンカラ・タ−キ−のオルゴ−ルISやスイッツランド・コ−リング・エイシャのスイスホルンのヨ−デルISがガンガン入った。アンカラへのSWLレポ−トにはISのオルゴ−ルの旋律を採譜して書き送った。Identification-Signalを楽譜にしてSWLレポ−トに書いて来た人は1st everだとVerifyしてくれた。

 Switzerland callingの方は逆で先方のVeri-CRDにISヨ−デルの楽譜が加刷されてありモニタ−になってくれとの勧誘があった。紛れてやらなかったが、ラヂオ・プラハからは積極的なレポ−トなので毎月歓迎するからモニタ−に決めた1年でいいから月1ミニマムのrpptをおくってよこせと勝手にモニタ−に推薦された。1年間何とかレポ−トを送ったら、クリスタル・カットグラスのカップをお礼に船便で別送したので受け取ってくれ1年間の優秀レポ−トに対する心ばかりの対価である、と読めたので首を長くして待った。約2カ月後破けた小包の殻だけが届いた。如何にも情けないので湯島にあった郵政監察局の事故処理係に出向いて文句を言ったが、普通郵便や普通小包は差出人と宛先の讀めるものなら、内容には関知しないので郵便業務としては全うしているのでどうしようもないの一点張りだった。こうしてツキのない人生にまた一つの大穴が開いた。SWL歴50年と言っても飾るべきカップすらないのです。

 話はチョット遡ります。私がコチョコチョッとラヂオを作ったり直したりする事は何時の間にか結構有名になっていました。大学生の『ラテン・タンゴを愛する会』から11メガのアルジェンチンの第二放送が聞こえるラヂオを3k円で作ってくれないかという注文。朝鮮事変が始まった年の秋口だったように思います。タンゴの女王『ウ嵐子・藤沢』がオルケスタ・テイピカ・トウキョウとアルジェンチンに永住してそこの放送局で第二放送ながら毎日週の帯び番を持つ事に決まった、と言うのだ。本当は学内の法文経の大教室で日本のお別れリサイタルをやらせたいのだが、真平という奴が金のことばかり言うものだから、おかしくなってまだ本人にも話が通じないそうだ、と言う話。私は仕事の近くのビルにあるオルケスタテイピカ東京のケチな看板を思い出してあああそこねと呟やいてしまった。翌日藤沢嵐子に直接会わせてくれるなら3k円、断られてもそれが本人の意志なら半分の努力賞と言う、妙な契約で生まれて初めてのプロジェクトを請け負った。T大生やT大出の弱点の一つは、人の明けたドアを胸を張って入れるが、初めての人のドアを自分で開けるのは嫌か出来ないところがある。私は当時貧乏書生、なりふり構わず先ず生活費から稼がねばならないのだ。世の中、『案ずるより産むが安し』ツキのない私にもウンと天は稀に味方する。真平は近くの自動車屋へ金払いに行って揉めていて不在。嵐子さんが覗いて『えっT大の学生さん?何でしょう?とドアを開けてくれたのでした。ドアの隙間に靴の先を突込んでと思ったら逆にサッと開かれたのですんでのところで足が宙に浮きこれまた失敗と思いきや、言う事が違った。『象牙の塔の人達に比べたら私たちは所詮しがない芸人よ。一生掛かったってT大で唄う事なんて夢のまた夢だわ。早川が何と言おうと私はお話聞きますわ。』ヤッタア3K円。向こうの電話を借りて近くのサテンで待機して居るラ・ダ愛会にすぐに俺様用に3K円持って走って来い、真平が帰ってくるまでにその気にさせてしまうのだ、アワテロ。』成功報酬第1号はこうして夕方の神谷酒造の電気ブランに化けた。

 秋ランコ藤沢は南米へ去った。以後35年を彼の地で過ごす。さて11メガ第二放送である。ジャンクの局型123号の3ペンをもじってレフとし手巻のコイルで9〜11メガの放送バンドをカバ−させたス−パ−にした。初放送の明け方私の下宿は人で埋ずまった。電信柱によじ登ってエナメル線でアンテナを張ってくれる者を募集したが返事がない。仕方無く自分で上がり電柱と青桐の間に20メエトルほどの逆Lを張った。ラジオにつなぐんだと言っても誰も動こうとはしない。こお言う集団はプロジェクトに全く不向きと痛感する。が、エ−レエ−ルレイ−セグンド−はフェ−デイングしながら嵐子藤沢の第1曲、事もあろうに『サヨナラ』で入感した。日本の嵐子を愛してくれた皆様にサヨナラと言うわけだとコメントがあった。この日、聖徳太子3枚の他かかなりの帽子銭が入ったがラヂオは裸馬のまま引き取られていった。

 まあ話題性のある話はそんな所か、後は亦ハムバンドリスナ−の話に戻る。

 

SWL歴50年:当時のハムバンドリスナ−の談話室は?何だったのだろうか?

 今ならさしずめ、インタ−ネットなどだろうが、ハムは許可前だし、コンピュ−タ−はまだ影も形もなかった。 数学者加藤先生の2進法計算機の可能性の講義は51年秋に始められたのだから。 2進法は10進法に比べて3倍強桁数が多くなるので絶対損というのが世界の大勢だったようだ。 『しかし電気の流れる流れないはどんなに早くなっても多分ついて行ける決定的な計数法だから』が先生の持論だった。 今まさにクロック周波数は600メガを越えた。 先生の炯眼思うべし。 そう、メデイアに飢えていた我々は、『無線と実験』誌上の『愛読者室』の占領を企てた。 後の二文字ハムコ−ルで言うなら、(JAは省略)1CH 3CB 3FV 4HS 7BB 7BEに 4HLと言ったところか? 吾吾はSWLと言うよりはHBLなのだと自称強調するキャンペ−ンを入れ替わり立ち代わりグッドタイミングで投書するのです。 1人2人と、1CH,7BB,7BEなどハムの免許を取って行くに連れ愛読者室の投書頻度とタイミングは悪くなっていくのでしたがその後、この愛読者室は数年の長きに亘り重度四肢身障者をハムにして上げようじゃないかというキャンペ−ンに使われます。 事の起りは我々の投書やり取りの中に、一人の妙にニュ−アンスの変わった三好譲君という人の投書が挟まる感じで入り出したのです。 上の7人の侍の誰かの問いに答えて彼は隧に自分は重度四肢障害者であることを告白したのでした。 2年ほど彼を励ます幾十通の手紙がここで紹介されました。 しかしもうタイミング的にも月刊誌上では間尺に合いません。 誌上では全国に檄を飛ばす時だけにしようと話合って直接郵便のお世話になる事になってこの愛読者室の火は消えて行くのですがついでに彼のその後に触れておきましょう。 『無・実』誌ではなくて1963年6月頃の『CQハムラヂオ』誌が7年以上の長きに亘り彼は不撓不屈の精神力で遂に念願のハム開局をしたとの詳しいインタビュウ記事を特載していますが、写真入りで彼の奮闘ぶりを紹介、二の腕に自転車のチュ−ブでハンダ小手を縛り付け僅かに効く足指でパ−ツを押さえてついに高一中2の10球ス−パ−と終段807の10W機を完成させその間に2アマの試験もクリヤ−してのけ昭和37年頃JA1GVFだったかのコ−ルで念願のハムになりました。 アンテナだけは隣近所の正常者のお世話になったと謝辞にありました。 彼の送・受信機組み立ての材料は『無・実』誌上『愛読者室』で全国に寄捨をお願いしました。 ジャンクでいいと本人がいうのに新品を送り付けられた方もそこそこあった由。 『7人の侍』を代表する形で、彼用のマニュアルを書いたのは私でした。 しかし、このCQの記事を本屋で偶然立読みしたとき顔が熱くなって爆発するのじゃないかと思う程の衝撃と恥ずかしさを覚えました。 身障者用のマニュアルをどんなに注意してどんなに身障を装って分析して手順を書いても正常者には限界があって、シミュレ−ションはならず、所詮『趣味レ−ションの世界』に過ぎないことを思い知らされました。 この記事の中で彼はJA6BNBだった私に最大の謝辞を送ってくれていますが、写真は彼が開発した彼なりのノウハウを示しているのです。 ということは、彼は自分にはやっぱりほんのチョットだが氷室さんの方法は無理だ、という悲哀を何度も味合わせてしまったに違いない、その証拠が、この治具だ、このやり方だ、ワア私は何てえことをかれにやらせてみたことだろうと思うといたたまれなかったのでした。 彼は中野区打越町に住んで、中野身障者授産所で働いていました。所が開発の波が彼を襲ったのでした。 中野ブロ−ドウエイが出来立退かなければならなかったのです。 身障者授産所というのは当時、どこにでもあるというものではなく、そのまた近くに住まなくちゃならない。 大変だったと思います。 そうした多くの仲間逹また授産所の人達の協力で横浜市中区の町名は奇しくも同じ打越町に引越しました。 『無線と実験』誌の『愛読者室』の蔭にはこんな影の話もあったのです。


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