SWL歴50年:勿論最初はビギナ−、立読少年だった。

 事に依らず、繰返しや積重ねは恐ろしい。歴50年と言うとタバコがやめられなかったのが50年、禁煙には、100回以上挑戦しただろう。惜しむらくは、やめた回数より、吸い始めた回数のほうが何倍も多かったワケでもなくタッタ1回多かっただけで、マルマル・ジャスト50年吸った勘定。『タバコやめるの簡単、私はもう100回はやめた』と豪語していたもんだ。禁煙でなく休煙のヴェテランになっていたのだ。良く、初心に帰れと言う。フっと頭をよぎった『タバコ止めなさい』と言う絶妙なイントネ−ションの言葉に、ハッと我に返った感じでした。そうそう、何も前歴なく、ヒョコッと手に入った、鳴らないラヂオを直してみよう、どうすりゃいいのさというとき、終戦後、米語を覚えて、煙草にありつきたいと願望したとき、必死で毎日本屋で立読み暗記した事を思出し、暇を作っては本屋と古本屋に立ち続ずけたのだった。貧乏書生風情に本を買う余裕はない。懐やポケットにしまう代りに自分に今必要なポイントだけをガキッと頭に箇条書きよろしく収めて帰り必要あればメモ帳に書く、戦後5年経つか経たないかの時、図書館を探してゆっくり調べると言う悠長な事は考えも及ばなかった。こうしてこの頃の私のメモリ領域の大半は立読みと耳学だった。序にメモリの端っこに勝手に這入たメモもあったろう。ラヂオの本ばかりじゃない、古本屋では半年以上掛かって、千谷利三著『一般物理化学』千数百ペエジを丸暗記は大苦手の脳味噌に噛んで齟嚼する形で叩き込んだ。毎晩同じ本を立読みしていた事はとっくの昔古本屋の親父にばれていて、読み終わった晩、呼び止められた。『それだけ熱心に読まれればその本も幸せでしょう、どうせあなた以外には誰も見向きもしない本です。お持ちになって大事にしてやって下さい』と戴いてしまった。ほとんど頭の中に入ってしまっていますから、と断ったが、親父さんは用意していたフジエットの風呂敷に部厚いその本を包んで風呂敷ごとくれた。本は十数回目の引っ越しで惜しくも紛失したが、風呂敷は、フランスまで付いてきて略3分の1世紀私と行を共にしてくれた。コンコルドラファイエットで置引に遭った。私には中のカメラよりもその風呂敷に愛着未練があった。生前の東海林太郎さんが新幹線の中でちょっとトイレ…と席を立たれるときでも、バ−バリのレインコ−トを着て、本1冊ほどの風呂敷包みを胸に抱えて歩いて行かれる、そのようにシッカとその風呂敷包を手に持っておくべきだったと今も悔やんでいる。脱線が過たが、その頃は、私にとって全てが新鮮だったのだ、タバコを止て見る事以外は。今はテ−プナビのCMの部屋よりも私の脳味噌のほうが散らばっているだろう。それ以前、田舎でのラジオや電気工作、天文もみんなみんな立読知識で仕込み、通訳少年、ラジオ少年、工作少年、そして、地理学者とあだ名の1歳上の兄の天文知識の受け売りと足して天文少年と、言う事に。だからSWLには「オ−ルウエ−ブ」と海外短波放送や周波数帯割当のデ−タなどが欲しかったわけで、本が欲しかった訳じゃない、だからこその、立ち読みだったわけ。当時4メガサイクルや8メガサイクルのJJY標準電波は始まっていたが、メ−カ−製のも私ら自作のラジオも、目見当でダイヤル目盛して、SWLするには再生用のミゼットヴァリコンの羽を毟って2枚ずつくらい残してバンドスプレッドバリコンとしバンドを広げて、バリコン角度と周波数を1ミリ方眼紙の縦横に目盛って読み出しグラフを作りマ−カ−になる局を決めて補間法で上下から計ってここ、と言う事で待ち受けたものでした。付近に放送のないシオニスト・ユダヤの『Voice of Zion(ザイオンと発音)』は自身9メガのマ−カ−だったが、ラジオ雑誌の受信報告欄によれば、9.003kc/s だったり9,004や9,005kc/sだっったりした。確かに、日に依ってQRHは明らかだった。新聞やラジオのニュ−スの頭に「ブラザビル放送ラジオプレス」とあり、RP社が聞いたブラザビル放送とゆう意味なのだが、ヨ−ロッパの政治経済ニュウスは何時も一番早かった。一番苦労した、そして1年以上受信続けて、そこ、その周波数にはほとんど一日中フランス語を喋っている、「ハジオ・レンズマ−」とゆう局しかないと結論ずけた。後に立読みによって「ラジオ・ロレンソマルケス」と言うのが、『ブラザビル放送』と言われるのだと分かり活字と受信耳の大違いを思い知ったことだった。

 放送局の同定検知には定時0分前後に短く1アナウンス入る「ラジオ何々」を待つか、放送開始前流される、インタ−バル・シグナル又はアイデンチフィケ−ションシグナルや「ラジオ何々」を待つしかない。にゅ−スや音楽番組には全く興味はない。この待時間は殆どハム・バンド・リスナ−で費やした。

 或年の夏、立読でトロピカルバンド4.9メガバンドにポルトガルのリスボンの放送が「多分間違って出ている」とあり勇んで空電ノイズ一杯のこのバンドに挑戦しました。空電バリバリの中、意外と良く入っている英・独・佛・露・中・韓語意外の初めて耳にする言葉。サテワ早捜当てたかと思いきや外れた、ラジオ・アングカタン・ウダラと言う。喜び勇んで報告をその雑誌に投書し息を飲んで活字になるのを待った。しかし海外放送受信の大御所山田氏だったか田口氏の何れかに先を越された。インドネシアのロ−カル局でインドネシア語と1日に数回オランダ語のラジオ・アングカタンウダラのアナウンスがあるに過ないと言う。何十年のヴェテランがそう易易とビギナ−に先を越されるということは起こり得ないのだ。併し『又やられたか!』は何年という長さで私の放送聴取の気合いを殺ぐのに十分、堪えた。で益益HBLに傾倒して行ったのです。

東海林太郎氏略歴:1896年生
(しょうじたろう)1920年早大商学部首席卒業
            滿鐵調査部引当三井物産入社。
          24年滿鐵調査部で私学出は軽視される
            と滿紡に転職直又新京放送局に。
          26年同僚森繁久弥等におだてられ一時
            帰国に際し某レコ−ド会社の
            オ−デションを受け合格30歳で歌手
            デビュ−。新・富士の白雪
            新深川節などフシモノでレコ−ド界へ。
          32年赤城の子守歌他ミリ・セラ相次ぐ。
            直立不動の姿勢での歌唱は逸品。
註:JA2RMの父と同学同級、広告研究会で一緒だった由。

 

詩人・文豪島崎藤村はリモ−ジュに住んだ事がある。ウソ!ホント?

 フランスの一般家庭は押し並べて『100%勇気質素倹約』。一年間日常生活は爪の先に灯を点す程の吝嗇に徹して一方ヴァカンスには、王候貴族風の大盤振舞で、1年間のウサを一気に晴らし100%リフレッシュする。週末も、近所の仲間同士マ−ジャン・ブリッジの様な札遊びを、40-60燭の電球の下でするくらいのもの。日本人はもう忍者のかけらも残ってないが、世界にはまだまだ忍者視力(例:インドネシア人ら)や明るいのは苦手サン(例:青い目のフランス人)がいる。日本では読書は120ルクス、工場の製品目視検査面は望ましくは200ルクスと言われるが、彼等の目っ繰り球にとっては目の中が真っ白で何も見えないらしい。工場や、オフィスの照明設計のやり直しには手を焼いた。どうしても間接照明(反照)でなければ駄目という部屋もあった。紅緑色盲や色弱を足すと色感異常は35%以上に達する。 この人達がカ−ドに1人勝したからとか1人負けしたからと翌日の夕食を自分の家へ招待するがこの、日本人にとっては遮暗い明かりの下で結構器を見せる。持ちろんんカ−ド仲間の時と正式の賓客では物が異なる由。しかしバッテン・ハウエヴァ−、メ…いずれも100%リモ−ジュの窯で焼いたポ−セレンなのだ。冬、気象情報を見ているとフランスのオヘソ、リモ−ジュはフランスイチ寒く雪が多い。

 ここに文学者島崎藤村が4年ほどを人知れずヒッソリと暮らした家がある。10年も経てば顕彰会によって日本人向けの観光スポットとしてフランスの名窯の陶器と共にリモ−ジュの売上に貢献しようとの動きがあると知った。丁度その夏の終りフトしたことでボルド−へ呼付けられ行きは飛行機の予約書きいたが、帰りが3日先しか空いてないと言う。同じ客先から、パリへなら、只で送っていいよ、ただし1年に1遍のリモ−ジュへの皿の買い出しは欠かせない、リモ−ジュ一泊覚悟なら乗せて上げようと言う事とになった。こうして老夫妻は先ず目の保養そして眼っ子いれた名窯出来焼き物を正客用に一式分達や隣近所用に値段の割に豪華に見える実は安物一式を予算のぎりぎり差額まで値引き交渉するのだ。正客用は決して値切らないが、こっちは、見ていて呆れるような交渉である。4時間5時間はまだ短いほうだと聞いた。店側が腹がへっては戦に勝てぬとなれば客の勝なのだそうだ。彼等の食事用語にカリテ・プリと言う言葉がある。『単価当たりの美味しさ満足度』とでも言う事だろうが他の分野では決して使わない、寧ろ禁句の様です。安物はヒタスラ値切る。こりゃ−こちとら腹ぺこ熊よ、ジャわしはその辺の他のかま見て来ると言い置いて、タバを探して腹の虫を押さえた。タバの例外でない髭を蓄え腹の出たオッチャンに尋ねたら、ジャポネが何事とかしに来る家って?解らんナ、と時計を見て、そろそろ連中が腹減らしてくるから聞いて見な!お−ラ来た来た。ペンキやセメントで彩られた一団が入ってきた。オッサンが何か言ってくれた。『あ−日本人?大使館の人?唯の観光客?ムッシュシマザキのメゾンて!先週ちょっとパテ飼ッタ。チョット遠イネ婿ノ谷ノ坂降リルノ所3分ノ1ヨ。』関西アクセントながら「ニホンゴなら任せ」なのだそうな、相棒が、此奴の前のカ−チャンは日本女性だったんだとばらした。『歩いたら何分くらい?』『そうね坂下って登って小1時間かね』と結構立派な日本語「30分待ったらその坂のほうへ行くからタバ一服吸って待ってろ、車で送ってやる、」と親切にも送迎付きで藤村が住んだ仕舞屋風の3けん続きの建物を見る事を得ました。逆に坂を上がり切って振返ると、藤村の小説のどれだったかに描写される馬籠から妻籠かその逆かの坂道の描写がありますが、まさにそれを思い出させるに十分な坂と谷と自然です。フランスの木曾谷だったんです。傷心の藤村がパリにも身の置所なく日本から此処まで来てやっと木曾谷を見つけて心を癒す事を得て5年余で立直り帰国出来たのは、木曾谷のお陰なんだと思いました。老夫妻は夕暮れ近くなって、私も行ったタバで遅い昼食を取りジャポネが腹透かしてこなかったかと尋ねて行く先を知り此侭6時間すっ飛ばして10時頃パリでどうかと迎えに来た。彼等の首尾は上々だったらしい。老マダムが旦那の若かった頃の失敗話を始めて、彼もそうそうと肯定して笑いだし、車内は笑いで若返った。高速道路のオルレアンの見通し直線では、210km/h迄踏み込んで見せてくれたりして、パリのイタリヤ門に着いたのは21時過ぎだった。まだ早いからと私を、『王子様どうり「ユ・ムッシュ・る・プランス」』のカラオケに落っことしてくれた。た。この辺に昔ラインダンスのワンサガ−ルだったバ−サンがタバか酒場をやっていたな、とつぶやくんでついシスカの婆っちゃなら今も元気だよ、シスカの店やってて、私も時々あそこで夜明かしするよ。と言ったら、俺の若い頃と同じだ、と呵々大笑してサヨナラした。シスカの婆っちゃは間もなく亡なったと聞いた。あの老夫婦も元気だろうか?呵々大笑しているだろうか。

 そして・昭和の初め、帰国してからの島崎藤村は驚異的エネルギ−を発揮して2作の長大篇を世に出す。詩作も次々。-…-

 10年経ったがリモ−ジュの藤村の家が日本人用の観光スポットになった話は聴かない。坂は?谷は?今も「木曾谷」の風情を残しているだろうか?


(C) Copyright 1999-2003 JA2RM and JA9IFF/1 All right reserved.