SWL歴50年:JAが米国軍人局だった頃迄の世界のカントリ−・プリフィックス。

先ずチョットだけ戦前:(立読記憶)J2IB庄野OTが学生時代に実験局の免許を取られたことは、当時、K.S.生のインタヴュウ記事によって『無線と実験』誌に掲載されていますが(early'1938?)同じ号のコ−ルスハ−ドにはES,LY,YL,のバルト海沿岸3か国の現在と同じプリフィクスが見られ、アアまだソ連の併呑前の時代だったんだな、と記憶しました。2年後にはドイツとの秘密協定で、無血併呑されUP,UQ,UR,という、Uゾ−ンの仲間に入って戦後からつい先10年ほど前この戦前のに戻りました。

 最近になって戦後拾収についての米英ソの、ほとんど横暴に近いとの批判もあるように、戦後これらの地域のプリフィックスはそんな経過を辿りました。

 4X4…先ずパレスタインにいきなり4X4イスラエルの建国これは米の明らかな横車押之助、以後中東紛争の永久火種。M@/Mで始まる20余りのプレフィックス。…イタリアをも含む、占領地及び植民地などの独立までの英による信託統治。 M1・サンマリノ MB9 ・オ−ストリア LI/MC/MD・リビア MD3/4-=イ領北阿 MD5エヂプトMD6イラク MF・イタリア MP4セイシェル MP4クヱイト MP4オ−マン MS4ソマリ−伊領 MT リビア、等、亦欧州連合軍共同統治下のオ−ストリアにはFKS8のプリフィックスもあった。大戦でドイツとそして、巻き返しの連合軍と2度蹂躙されてしまったオランダはもう『俺(おら)んだ!』と言う植民地放棄が囁かれる中、稀にcwでPKプリフィックス(和蘭領インドシナ=蘭印)は結構聞かれました。そうそう、AG2が何処のプレフィックスだか分かりますか?イタリアが媾和によって主権を回復する前のトリエステです。アメリカはこんなところにも機を見て楔を打ち込んでいたのでした。更に第1次大戦前ドイツ領でW-WI後日本の信託統治領だった島島を当然のごとくKG6,KC6,KJ6,KM6,KX6とし沖縄迄その並びの、KR6を割着けていたのです。アメリカはアフリカに橋頭堡を築くため、地中海のヘラクレスの柱、ジブラルタルを英軍に譲る代り、アフリカ側タンジ−ルに気象観測部隊を送り込んで占領しKT1WXなる局がンビャクkWの超強力電波をアマチュアバンドに出しておりました。 アメリカは亦、ゴリ押しイスラエル建国のしっぺがレバノンからもありそうと考え事前にレバノンoD5に進駐して、米軍人局はAR8プリフィックスでアマチュアと交信していました。mars局としてでなく。またアメリカは地球上での制覇面積に加えるべく、北氷洋にできた観測史上3番目に大きい幅約80km長さ約130kmと言うフレッチャ−ス氷島に漂動観測部隊を送込み3−4年掛って北氷洋を半周回わりKF3なるプリフィックスで良く聴えていました。30人の日本人にJAの免許が降りてからもまだしばらくは、KF3FIなどJA1AD(洋行帰り・アメリカ弁のジェイエイワネ−デイ)と日曜日朝SKDを持っていましたね、14メガサイクルで。

 バイトと今風に言えばですが、私の場合、仕事の合間に学校に行き立読みし、ラヂオはならしっ放しの長良族、良くまあいろいろごっちゃにならなかったものと、文字通コンニャク否「今昔」の観。P.O.BOXをこっぴ−しようとすまいと、外国には限られたわずかの放送局にレポ−トする以外いケンヤクの時代だったのです。

 焼け跡とバラックの日本では全ての物は貴重でしたので闇市は流行り物価は高騰しました。そこへ一部の人が戦争末期や戦後すぐのドサクサに紛れて隠退藏した物資を小出しに使って荒稼ぎする、そんな富と物資が著しく偏在する社会でした。1947年秋だったかに旧円封鎖新円切換という経済措置が取られ表向きには一人当たり平等に新円10円許容となったが、配給だけの庶民にとっては、この額では買出し列車で買い出しに行くことも難しくなり悪政、学者の上辺の軽濟施策と酷評されました。裁判官や法科の学者夫妻が配給だけで生活して餓死するという痛ましい事件が起ったのも此の頃です。

 戦前のプレフィックスの構成は、アルファベットx1(大国)又はアルファベットx2(その他の国)プラス数字と言う構成でしたが、全部の組合せは現存する国に前もって引当てられていたのでした。アメリカがイスラエルを建国した時1948年始めて数字と数字がアルファベットを挟む形式が作られ、その後、モナコ公国の3A8;更に国際的に去就の決まらなかったザ−ルに9S4が割当てられました。以後無線局の大ブ−ムに当面しても何とかプリフィックスを新たにしたり切り替えの余地が出来たのもこの時の決断による物です。その後、国連に依って植民地の開放独立自治が進められ、独立までは国連の統治若しくは元フランス領の様に宗主国による信託統治後独立となったが、戦前のままのFで始まるF@x(@=アルファベット例:A,B8,C,D8,E8,F8,G8,I8,K8,L8,M8,N,08,P8,Q8,R8,U8,Y8: x=数字(8が圧倒的))多くの民族独立国(プリフィックスのFがTに変わった所が多い)が相次ぎました。プリフィックスの変遷をみているとそんな世界の動きまで見えていた時代でした。実際、14Mc/sのCWとA3FONE共4X4は結構入感したが、9S4ザ−ルや3A8モナコは幻だった。ですからこの過渡期には新旧プリフィックスが共に有効で、有効DXCCカントリ−も今のエンテイテイに比べて40以上も多かったのでした。

 

SWL歴50年:米軍人局がJA局だった頃、占領軍放送のコ−ル・サインはどんなプリフィックスだったか?

今日、ラヂオやテレヴィに拘る方でも、エッラヂオにコ−ルサインってあるの?って言いかねない程の無頓着生活にドップリ身を浸していらっしゃる。難易もしらねえでドップリ長生きしておくんなさい、それが1番。私がポッと出で東京に出て来た時、名古屋にも出来ていたAFRSは東京にもあった。媾和条約も未だという占領下に愈いよ民間放送という、アメリカ式の官営でない、広告料で経費を賄う放送が出来ると言う。大きな都市、例えば6大都市では民間放送が3社くらいは、出て来るだろう、亦そのくらいは免許するだろう。NHKの第一、第二放送とでダイヤルに5局も並ぶんだぜ、と釜ビスしかった。今までの再生式のストレ−ト式ラヂオでは、相互に混信して分離がうまく行かないだろう、どうしてもス−パ−ヘテロダイン式にしないと、感度・分離ともうまくないだろうと言われた。5局ですって?何か忘れちゃいませんかってんだ。大抵の都市ではしかも第二放送と同じか次に強いのを。東京のAFRSは特に強く、第一放送も第二放送もかなわなかった。

 鑛石ラヂオ時代以来再び、放送局のコ−ルサインに興味を持つチャンスがやって来たのだった。鑛石ラヂオ時代には、ラヂオ自身も頻繁にJOAKだのJOCKだのとコ−ルサインをしょっちゅう叫んでいたのでしたが、覚えていますか?自分の幼い頃聞いていたラヂオのコ−ルサインを。JOAK東京、JOBK大阪、JOCK名古屋、JODKは?そう、今のソウル当時の京城、ついでにお知らせしておきますが、日本放送協会が、エヌ・エイチ・ケイ(ロ−マ字で書く場合はNHK)と決まったのは戦後だというのは大間違です。例の1942年、日米開戦の翌年大政翼賛体制化の一環です。ここにも大政翼賛体制の亡霊が佇んでいるのです。も一つ言うなら35区制の『東京都』も1942年の大政翼賛組です。(戦後22区になり、後に練馬区が追加されました。(板橋区の一部を練馬区に編入を含む))府立高等駅は都立高校駅となりました。(東横線)

 占領軍のAFRS放送は当時全日本に中継局も含めて50局以上存在したのですが、どうゆう理由か、米軍人局ハム局のコ−ルサインプリフィックスがJAだったのとは逆に、有名な『アメリカの放送局の頭文字は、ミシシッピイ川の東岸以東はK,西岸以西ではW』のル−ルに従って、例えばAFRS東京はWVTR,(今時の皆さんには覚えやすいコ−ルサインでしょう)というわけでした。そうです、当時は間違いなく頭文字Wで始まるコ−ルサインの放送局が日本狭しと設置されていたわけです。媾和条約発効後主権回復後もAFRS-AFRTSそしてFENとしてダイヤルのド真ん中に大電力で居座っているが、一体どんなコ−ルサインで免許されているのでしょうか?興味あるところです。

 アマチュア米軍人局が、JAからKAになってWVTRは益益レッキとして頑張っているのでしょうか?

 事の序でに、民放のコ−ルサインは始めJO@Rで@の所のアルファベットがAが中部日本CBC,Bが京都、Cが神戸Kがラヂオ東京、Nが開局一番乗りの大阪の毎日放送でした。JO@Rが2十数局で満杯すると、JO@Fシリ−ズになりニッポン放送はJOLFでした。その後、田舎の100ワット以下の中継局には始めJO@R時代には、JO@O(@=主局に同じ)が割当られたが、満杯を機にJOxA@、(x=エリア数字;@=アルファベット)つまりJOで始まる二文字2x2コ−ルサインが発給されているようです。但、局側にSWLやBCLの経験者なく、且そうゆう勉強しないので、いくら受信報告の詳細レポ−トを送っても、殆どの局はヴェリファイしない、外国の中波弱小局に比べて日本の局が一番不勉強で、ヴェリファイの何たるかさえ無関心、要するに『投書の「没」』扱いしか出来ないのは、国際的にみて嘆かわしい。民放の最初の頃は、各社こぞって、ヴェリ・カ−ドを発行した。余り勉強したとも言えないが、『関西コマ−シャル』の「勉強しまっせ」ぐらいの心意気はあった。中には、アマチュアのQSLカ−ドをそっくり真似て放送局用のヴェリ−カ−ドにした為に、TNXFB QSO,PSE QSLとまで印刷されていたのにはお笑いでした。

  追補)"0828"号でKA1は?のところで、私設実験局の昔のコ−ルでJ1コ−ルをお持ちだった方は必ずJ2コ−ルもお持ちです。と書きましたが、それを機に廃局届けを出した方がある由で、例外がありました。廃局検査があったよ由驚きました。考えてみれば空中線の即時撤去無線機の棄却又は他の免許者えの譲渡の確認等が法的に必要だった模様。 1−>2の例 J1FZ-J2IM=JA1BI; J1EI-J2HK=JA1BZ; 氏等。

  追補)"092?"前号、30局予備免前夜のSWLの項、J5CC-XU8HHのほかXUの例: J2DJ-XU2DJ=JA3AD等。

  以上、追加補足訂正させて戴きます。調べが悪くて御免候らへ。

お断りとお詫び: 9月19日発売の「CQハムラジオ」誌に写真が出て、二重コイルの白熱電球…ウンヌンはいいのですが、その二重コイルスパイラルantの詳細がその下段のアドレスのホ−ムペ−ジにあるやの錯覚される方がおありになるようですが、ホ−ムペ−ジはあく迄JAIGのもので、私の『昔の話』はありますが、spiral Antの話はJE1BQEさんによっていずれ又CQ誌や学会誌に発表されるまでお待ち下さい。

 

SWL歴50年:『ポッと出』書生が最初に頼まれた電蓄改造は1938年製のテレフンケン製、フラットモ−タ−式

戦後日本人JAが開局しての最初に出版されたコ−ルブックは戦前のコ−ルブック作成の苦労人J3DE宮井宗一郎氏の喜びの序言入で、「ラジオと音響」(JA1AE福士さんのオ−ム社刊)の1953年8月号の付録として発行されています。これには趣味道楽の項はありませんでしたが、数年してCQ出版社から金文字黒表紙紐綴込み形式の局名録が発売されこれの趣味の項が話題になりました。今なら差し折りプライバシ−云々カンカンガクガクでしょうが『長期無断借用』趣味の方方が数十局と言う逆カンカンギャクギャグで大賑いでした。私の「趣味」は『落語鑑賞、旅行』となっているはず。 それより話は10年は遡る。

 大学に入ってクラスメ−ト同志の自己紹介では「趣味は以上の通りだが道に落ちる方の道落はラヂオの作っチャ壊しでカラスの啼かぬ日はあっても一日に1度ハンダ鏝振り回さぬ日はない」などと口が滑ってしまった。日ならずして、クラスの紅一点から叔父の舶来の電蓄を今様に改造するのを請負ってくれないかと引き合いがあった。オ−ナ−に引き合わせるからと、どこかのビルで改造希望を伺った。一応オ−ルウエ−ヴ電蓄なんだが、欧州仕様でラヂオの中波がない、長波のダイアルを利用して中波を入れてほしい、序にス−パ−化して欲しい、出力管がドイツ球で補充が利かないので球は皆日本規格に統一してほしい。更に、ワウ・フラッタ−をきらってフォノモ−タ−は、ジ−メンスフラットモ−タ−だが、レコ−ドの掛け始めは手でスタ−ト掛けてやらないと・・だし疎開の時の引越しでモ−タ−のタ−ミナル板に何か当ってわれているのでフォノモ−タ−は今様のオ−トストッパ−付のなるべくワウ・フラッタ−の少ない物に乗せ変えてもらいたい、以上だが内容は分るかい?と来た。早速、物は見ていないがこんなですかねと要部のスケッチを示しながら、改造点を復唱した。フラットモ−タ−ッっていうのはきくが初めてでクソ度胸が要ったが、今様UFOのような絵を書いて端子板を書きそれが折れてる図を描いたらまぐれ当たりで、現物みたらソックリサンで今度は私が驚く番でした。手間賃も部品代も弾む代わり外見は昔の侭に頼むよ、特にダイヤルはちゃんと手入れして残してよ、と。戦前のレコ−ド狂の一人だったのだそうで、後からブルブるぶルった。翌日学校からだったか仕事からだったか下宿に帰ると下宿のバアさんが『あんな年寄のジイサンに荷物の引越しさせては酷だよ、横浜からリヤカで引いて来たって言うじゃないか!いくら何でも可哀想じゃ無いか、ゼイゼイ言って一っ時そこにヘタって座込んでたよ!』と。そんな老いも若きも働かざる者の食うべからずの時代だったのです。送主が勝手に頼んだんだよと言っても、2〜3日ばあさんは可哀想だとブツブツ言ってた。ばらし1晩、部品物色買出し2日、夜はシャ−シの穴開け、『穴は開かずに夜が明け』たりした。『ノコが切れぬとシャ−シ切れずに息切れた』もんだ。部品取付け、P/Uとオ−トストッパ−の位置決めは多少のドタマと時間を費したが、原形の出力管もその程度のインピ−ダンス4極管だったらしく、UZ-42でマッポシ旨く、フィ−ルド型のダイナミックをダンピングよくドライブ出来て順調に仕上がった。5日目に送届けた。蘇生した電蓄は好評で私も久々に聖徳太子のお駄賃にありついた。

 取外したテレフンケンのシャ−シ裏には、図のような、真鍮の條をベ−ク板に銅釘様の鋲や真鍮鳩目で固定して形成した、初めて見る、平面回路が使われていた。後に印刷回路って物を見た時に思出して、ああこれは、テレフンケンの回路方式を釘や鳩目の代りに導体板を直接ベ−ク板に接着剤で張付た丈じゃないか、と思ったことでした。取外した真空管は4.5ヴォルト真ん中にも足のあるバナナ脚の五本脚で、ベ−スの横腹にア−ス用と思われるタ−ミナルネジが付いていた。1-v-1型チュ−ナ−分の3本はトップグリッドだったから、4,5極管だったろう。下図参照頂く。KX-80用にUXソケットが付加されて差された80以外、球名も何も印なく、出力管のみ薄銀の小さな四角のテレフンケンのマ−クが球面のベ−スに近い裾に小さくあった丈。内部のステムに1364Eなる管名と思われる字が印刷文字で書かれていた丈でした。プレ−トはNi黒の網陽極でした。(下図参照)

 

敗戦後の世間で思出す事悌:『少年工作』誌は今の新聞の4ペ−ジ分の紙面から始まった。…

 一部の人達が隠し持つ、隠退藏物資を除けば、敗戦後の日本には全てが欠乏した状態で、飛行起用のヂュラルミン板はあっても、弁当箱用の絞りの効くアルミは無く、直角迄曲げた超ヂュラルミンや超超ヂュラルミン板の組立て式の弁当箱が流行った。戦後一番売れた金属製品ではなかったか、底板に側板を前後左右4枚立掛けて雑穀飯を詰めて倒れないようにしおかずの梅干しかタクワンの尻尾を乗せて底板と同じ作りの蓋をする、組立板は隙間だらけだから、雑炊や代用食の汁垂れ物や炊いたおかずは弁当包の風呂敷を台無しにするので入れられない、石鹸は貴重品だったのだから。 庶民生活衣食住、全てが足りない中でも、学校の教科書の、好戦的、封建的、大和魂的な章のペ−ジを墨で塗り潰して読めなくして所所を学んだ話は割かし有名だが、次世代の GHQ文部省発行の教科書は現新聞2ペ−ジ裏表にあっち向きこっち向きに印刷されており、[2つ折+切り放し]×4回で32ペ−ジ単位ずつ綴じて何単位かを併せて1冊の本にする、その元の1mx1.6m位の紙の配給を買い銘銘自作の教科書でした。教科書でさえこんなでしたから、日常出版物は言うにや及ぶ。

 昭和17年即ちド−リットル指揮の艦載B-25による東京初空襲(4月18日)を契機として、挙国一致内閣による挙国一致大政翼賛体制が施かれこれに疑義や異議を挟むもの全て『非国民』呼ばわりされることになりました。「物言えば唇寒し秋の風」下手に冗談言っても、軍部に拘れば憲兵隊が、政治や時局に係われば特高警察がしょっ引いて行きウムを言わさず拷問下手すりゃ嬲り殺しの目に遭わせると言ったヤケクソの時代に突っ込んで行ったのでした。

 今でこそ出版物は劇画雑誌くらいがマスメジアの役ですが、当時のマスメデイアは出版物でしたから、軍部も特高警察も、鴨が葱背負ってないか、鵜の目鷹の目…でした。そこえ軍部の入れ知恵もあって、出版は事前許可制内容検閲0kとなってから出版用紙の割当配給を申請して紙配給を待ち紙の入手が出来てから初めて印刷に掛かるという状態だったようです。例えばの話、戦中、東工大の森田教授が『超短波』を著わすべく上梓されたのが1943年春、180部かの部数限定付き検閲は、数か月で許可になった由だが、印刷用紙の順番が回って来たのはナント1945年2月、印刷終わって製本中に3月12日の東京大空襲で下町は火の海、製本を終わっていた3;4冊が動員学徒によって持ち出されている。紙の配給を待った時間の長さから、当時の物資不足の一部をお察し下さい。敗戦占領軍進駐で検閲側が、軍部からGHQに移っただけで、紙は相変らず払底し厳しい配給制度でした。下町の製本業者が焼け、人も焼出されて疎開して人手不足、製本に幾十日懸るよりは、読者に製本を任せるほうを選んだとされるが、正体不明・文化不明の日本を占領したSCAP/GHQが日本人勝組のゲリラ蜂起に、出版や放送という今日で言うマスメデイアの挙動を極端に警戒し出版に映画に否定的とも思われるほどの消極的検閲を行っている。皮肉にも面白いのは、もし日本全国が一斉武装(但竹槍程度)蜂起を呼掛るなら必ずNHKラジオ(独占)だから、…と言う事でNHKの解体、民間放送への移行という線が出てこれがまだ媾和条約前の占領下での民放の出現につながっている。新制中学では英語はIt is a pen.から習ったという人は多いが、私たち歯、1942年の挙国一致大政翼賛体制の一環としての敵性語排斥で英語の時間は脱線でした。戦後すぐ、津島・海部郡は、中学校の校庭での大量武器隠匿露見で、米海兵隊1個旅団が上陸占拠し戒厳令が敷かれ照空燈陣地破壊の工作大隊と併せて町郡民人口に匹敵する員数のアメリカ兵でごった返しました。不足したのは通訳。この際It is a pen を飛び越えて、実用米語を習って通訳してチョコなり洋モクにありつこうでないのと語らって3人で小遣ヘソクリ出し合って書店にいき新聞全紙大の紙切れ1枚のポケット版「日米会話必携」『実用日米会話』「日米ポケット会話」の3冊を選んで、各自1冊を製本マスタ−し他の2冊を互いに貸し借りして、3冊の最小公倍数のマスタ−と応用方法についてもいろいろ勉強しました。この種会話本のGHQ検閲や紙の配給は別枠だったのか戦後すぐ本でない全紙状でしたが雨後の筍でした。新聞全紙裏表で64ペ−ジのポケット版に畳んで切るのでしたが、仙花紙という低品質の紙でインクも悪く短命で、擦切れる前に覚えて終わなければなりませんでした。(通訳と洋モクの話は別にしましょう)

 それから1年程経っても製本された本と、紙折り畳み式とありました。

 戦前戦中と「幼年クラブ」「少年倶楽部」「子供の科学」「科学画報」「中学生の科学」等見て育った私は、これらの復刊を待ち望んでいましたが、「子供に科学は不急不要先ず食い気」だったのでしょう、もう、新聞全紙32頁1枚物で「少年工作」と言う工作少年にとっては見逃せない雑誌が創刊されたのでした。ボケが始まって定かではないが、確か創刊号と2号までが全紙版32ペ−ジ切り畳み式3号ぐらいから中とじ製本しかし32ペ−ジ。この号だったかに、『32ペ−ジのわけと読者にお勧め』なる囲み記事があり、紙の割当が全紙一枚分で32ペ−ジ(含表紙)なので我慢してくれ、また、製作記事などもっと詳しい説明か組立部品図などを描いて呉れという要求が寄せられていますが編集部としては何れかの記事に偏るわけにはいかないので、この程度の記事をヒントにして各自その辺は工夫を凝らして少しは自分の頭も使って考えて貰って色色の分野への応用を考える癖を付けることをお勧めします、と言う内容でした。編集の言う様に成程著者は、機關車電動機は山北藤一郎、天文は野尻抱影、鈴木敬信、『健ちゃんのラジオ』は斉藤健氏と、当時の惣惣たるメンバ−に依る執筆でした。朝鮮事変で軍需景気を呼び食糧事情も物資事情もかなり改善され多くの戦前雑誌も復刊してショ−トリリ−フ誌は姿を消した。

 

「健ちゃんのラジオ」について

 「健ちゃんのラジオ」は、戦中に開発され戦後に残ったようなミゼット球の応用の製作記事で、戦前の電池管の定番UX-30でも代替可能なUN30Mとか30MCの双3極、UY-11(UX-111B)やそのミゼット管UN-11M/MCなどによる単球ラヂオの製作記事で多くのヒントが盛込まれていました。濃尾平野の真只中ではそんな物の入手は夢の又夢、色色想像を巧ましうする自由を満喫するに留まりましたが、今考えてみると、手順的にドリったりヤスったりしていくところまでシミュレ−ションをしていた事が、後々のラジオの製作時の部品配置や設計に大きく役立ちました。私のラヂオの勉強はここから始まったように思います。 後に、戦後版『一般放送受信機故障修理読本』大井修三著が発売されましたが、23円なにがしと高価で自分の小遣では半分も足りず、兄と姉のカンパにより買ってもらいましたのでこの厚意に報いる為本をぜ−んぶ飲込んでしまいました。戦後版というものの内容は1942年の大政翼賛体制の落とし子国民型1号から4号AB型に関する機能の説明と故障修理のトラブル・シュウテイングに関するものでしたが、これ又いずれ劣らぬ勉強の種になりました。 大体この故障修理読本やラジオ講義録は戦前から有名で日本放送協会が認定する『ラジオ故障修理技術者』の勉強の種だったようです。丸暗記が大の苦手で、何でか理屈で覚えればすんなりドタ頭に入る、多少のイメ−ジトレ−ニングは要りますが。「健ちゃんのラジオ」でもこのイメ−ジトレ−ニングを繰返したお陰で、何台ものラジオを作ったり壊したりするのと略同様の経験技倆に到達出来た様でした。が残念な事に実務経験とは成りませんのでNHKの故障修理技術者を名乗る訳には行きませんでした。UX-30は上にも述べた様に戦前の電池管の定番3極管、その前ナス管ではUX-230;これがマジックアイのような寸胴のミゼット管となって30Mその電極が双3極挿入されて30MCでした。 またUN-11Mは空間電荷格子(Space charge grid)管UX-111B(電極が水平に封入されてる珍しい球)のミゼット化ヴァ−ジョン、後に山岳小説家「新田次郎」として有名になる当時の気象庁高層気象観測課長藤原寛人氏は更に此の双4極化&ミゼット化を実現させ11MC,コロイドバッテリ、ブザ−バイブレ−タ−の三種の神器で、ラジオ・ゾンデの軽量化と多機能化に依るゾンデの国際レベル迄の改良により昭和30年に運輸大臣表彰を受けられました。深く追及したわけではありませんが、確かにこの時期、ジャンク屋は神田中心から秋葉原のラヂオガ−デン(省線電車萬世橋駅跡際)他へ北進中でしたが、ラヂオゾンデ骸やミゼット管・ブザ−ヴァイブレ−タ−・コロイドバッテリ−などをかなり見掛けました。『鶏が先か、卵が先か』の喩へはあるでしょうが、この「少年工作」誌の『健ちゃんのラジオ』の記事と、新田次郎いや、藤原高層気象観測課長のラジオゾンデの画期的改良とは何らかの強い関係にあったに違いないと思います。 10年ほど経ってふとした事からブザ−ヴァイブレ−タ−を入手し手持ちの電池管で電池ラヂオを作ろうとしましたが、ヴァイブレ−タ−からのノイズは回路を通るのみならず接点火花とコイル巻線からB電波を空中に撒き散らし物凄い強さでラジオ受信どころでなく接点火花を消す程のコンデンサを入れるとB電圧が殆んど出なくなり遂にギブアップしましたが、ラジオゾンデのように專ら送信専門の役目ではノイズ変調のかかった電波になるだけの話で却って信号の同定には役立ったのではないかと思われます。そのB電波の放射強さを一口で言うと、ネオン管検電器附のドライバ−のさきを5mmぐらいの空間を置いてブザ−ヴァイブレ−タ−に近付けてネオン管が点燈するほどの勢いでした。

 戦後復活の初の公衆電話は先ダイヤル後・コイン方式だった。食糧事情は関係ないかナ?

 意外に『記憶にありません』方方が多いのがこの、庶民・早口人には絶好評その分電話局がカモられたのがこの公衆電話。先に先方の番号をダイアルして相手が『もしもし00です』と確認できたら間髪を入れず10円コインを入れるとそのまま繋る形式でした。相手がモシモシ言う前に用件を早口で言ってしまえば、相手が受話器を取ってから2.3秒で切れるその間に(コインの投入が必要)用件が済めばコイン要らずのロハ電でした。2.3秒間に用を済ます人が増え、電話局は収入がドンドン減って大慌て、1年たらずで撤去現在の先コイン式に置き換えられました。東京に出てその夏の終りか秋口だったから、1950年の八九月頃ではなかったか。私は食事付き下宿にいましたので、配給米の食延ばしに、夕食の欠食電話は絶対必要でこの2秒半足らずのロハ電は大いに利用させて戴きました。お米どころかその代用食に到るまで米穀通帳に依って配給を受けている時代でしたから、下宿や旅行は難儀な手続きを要したのでした。旅館に泊るには、要求される外食券を前もって渡すか、米現物を担いで行くか、だったし下宿は毎月の食数の外食券を渡す(外食下宿は除く)か本人の住所変更をしてその町での米と代用食の配給を受ける事になってました。外食券毎月は配給通帳を持って役場に行き、配給量の67%を限度として職数換算され、その分の平均単価換算の値段で交わされましたが、外食に当たっては当然外食券のほかに調理おかず料金が必要で結構闇市価格に匹敵するコストでした。1951年が明けると、米を背負って旅をすることは殆ど無くなり朝鮮事変軍需景気が日本の経済に絶大に作用している事を実感させられました。外食券食堂と表示があっても必ずしも外食券は必要でなくなり、銀舎利10円麦飯8円沢庵付、味噌汁5円の時代が来ました。苦学生・貧乏書生の私はこうした外食券食堂や学食でも、良く、ショウライスやソ−ライスで切り抜けた日が多かったです。ホカホカ飯に醤油やソ−スをブッ掛けて熱いうちに引掻回すと醤油もソ−スも御飯も煮えて美味しくなるのでした。店によっては沢庵の尻尾をサ−ビスしてくれたものだ。


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