JA局が占領米軍人局だった頃の世の中:(続き)マスメデイアの一つ、映画の検閲はとても厳しかったようだ。

 戦前のスポ−ツ小説で有名なのは、ユ−モア詩人サト−ハチロ−の父君佐藤紅緑著『ああ玉杯に花受けて』(一高寮歌には関係ない少年小説)と加納講道館柔道の基礎を固めた柔道高段者を父に持つ富田常雄著『姿三四郎』だっただろう。 実在の講道館で明治末から大正初めにかけて小兵にして暴れん坊の西郷四郎(講道館を破門され大陸に渡って孫文の辛亥革命とそれ以後の孫文の用心棒を勤めたとされる)の熱血溢れる青春小説でした。 こちらは日米開戦前にすでに映画化が決まりクランクインしていましたが(主演:藤田進、轟夕起子、助演:志村喬)黒沢明監督第一作として封切られたのは1942年、既に大政翼賛体制下で軍部の検閲も厳しく、鋏が入ったと言う曰く付き。 戦時中の戦意高揚映画としては、空中戦の特撮入りの『燃ゆる大空』『軍用犬金剛』『五人の斥候兵』『敵中横断三百里』『若き日の血は燃えて』の他文芸物では幸田露伴原作『五重の塔』位の物だった。 戦後これらのすべてのフィルムはGHQの検閲の対象となりズタズタにされた。 1938年の名作『三日月娘』は1942年の軍部検閲で恋愛など持っての外として切り刻まれ、戦後侵略礼讃としてGHQ検閲で完全抹消されたようだ。 あれだけ流行した主題歌が、『月の砂漠』と共にカラオケのナムバ−に登場しない。同年の『夜霧のブル−ス』は上海を歌ったものだが登場しているのに。

 GHQの恐れたのは多分『ゲリラ』や『一斉反逆蜂起』だった筈なのに柔道禁止で黒沢監督のフィルムも半分近く切り取られたようだ。 今は保管分は全部返却されたようだが監督台本と照合して、まだ190フィ−ト余りが行方不明と言う。 もし軍部検閲での鋏なら回収は絶望だろう。 こうしてGHQの検閲の厳しさが取沙汰された為戦後の映画製作は検閲に逆らわないアチャラカやナンセンス物か、外国小説の翻案物としての映画化から入っている 。記録映画としては古橋・橋爪、浜口選手等が大活躍した当時のポストオリンピックたるロスの日米対抗水上などは大ヒット物でしたろう。 アチャラカ・ナンセンスでは何人かの耳慣れないボ−ドビリアンが銀幕に登場している。 曰く「シミキン」こと清水金次郎、「きどしん」こと木戸信太郎らで、「誰それの」誰『のXX王』例えば『シミキンのマラソン王』などシリ−ズ物となった。 これらに戦前派の「アノネ、オッサン、ワシャカ−ナワンヨ!』で売り出しのアノネオッサン高瀬実が助演復活している。 少し遅れて戦前のボ−ドビリアン王「エノケンの」シリ−ズの登場『エノケンの法界坊』『エノケンの三尺左吾平』等続く内シミキンは結核で倒れキドシンは夜逃して「エノケン・ロッパ」名脇役堺駿二(堺マチャアキのテテ親:売出しは腰抜ヨタヨタ歩き)等の時代に入る。

 戦後の栄養失調は多くの将来ある才能を『写真』にした、ほとんどが、『結核』である。 青春スタ−女優では桂木洋子、幾野道子(ヅカ出身、銀幕からは久く去ったがTVの松方弘樹主演の「遠山の金さん」に久々登場して「武家の奥方」を好演した)戦中派藤田進(姿三四郎)然り。 敗戦から4年目になって外国小説の『翻案』による映画が試めされる、黒沢監督三船敏郎のデビュ−作『酔どれ天使』で「赤髭先生」を志村喬が好演している。 吾等が清純女優、久我美子のデビュウ作でもある。 GHQ検閲パスと分かると、同じメンバ−で『野良犬』を出す。 黒沢三船のコンビに木村功、淡路恵子、千石規子、千秋実等がデビュ−して加わる。 やや遅れて他の会社も『翻案』映画に参加、例えば大ヒット作『銀嶺の果て』谷口千吉監督、今はその夫人八千草薫のデビュ−、若山セツコも好演している。 強殺犯とこれを追う刑事は誰だったのだろう。 深雪の稜線の雪庇の上の一騎打ちは迫力があったが。 この銀嶺越えに備え強殺犯は雪に埋もれた山小屋に国有林調査官を装って泊まる。 翌朝、下界との唯一の連絡用の伝書鳩は首を捻られ放送聴取用の電池式4球ラヂオはハンマ−1打球3球が潰ぶされて犯人である事は明かだが下界との連絡方法はない。 山小屋の主人はオカに上がった元船舶通信士。 無線機も作れる。 たった1本残った3A4シングルで発信機を作り懸命の「…−−−…」(SOS)の発信を繰り返すキ−やこはない、Bマイナスの線をシャ−シに付けたり離したり。 この大写しで3A4が読める。 壊される前にも一度だけチラと鳴ってる裏蓋無しのラヂオが写るが…1R5-1L4-1S5-3A4の舶来の4球ス−パ−らしい。 当時としてはハイカラなラヂオだがこのハラハラドキドキ・サスペンスの心臓部。 当然受信は出来ない。 電池の続く限りsos ホヘ ヤマゴヤ叩くっきゃない。 イチカバチか所がそこがお話。 追う刑事が八千草薫や若山セツコに見送られて雪の深い山へ入る。 こうして銀嶺雪庇の上の捕物となる。 刑事が雪庇を踏落しぶら下がるのを犯人が仏心を出して引上げようとするが、今度は犯人が雪庇を踏み抜いて落下する結末。 戦後の黒白映画でしかも日本映画でトンツ−が出てきて結構な役回りをした映画はこれが嚆矢であろう。 脱線が過たが、これで外国ものの翻案という事も知れるという物。 一方、「野良犬」はちょっと原作の推定がつかない。 しかしとにかく老練刑事を演ずる志村喬が「姿三四郎」の村井半助役以上の嵌り役をサラリと演ずるのだ。 デビュ−第2作の三船新米刑事はおどおど落ち着かなかったり丁度役が嵌ってくれた感じ。 淡路恵子はストリップガ−ルと言う設定なのだが、今みれば真夏の原宿にとてもかなわぬワンサ・ガ−ルって所。 GHQやら映検に相当気兼ねした物と思われた。 そうそうこの映画で売った人がも1人いる。 親一人娘一人の母を演ずるのが三益愛子。 ややオ−バ−アクションなのだがこれが全国のご婦人方の紅涙を絞った。 以後三益愛子の母物という映画のジャンルが出来上がる。 その代表作『母子草』は空前の観客動員をしたようだ。

 

石中先生行状記と新聞連載小説「青い山脈」の映画化。

 戦後直ぐの頃売れ筋の小説の一つはユウモアに富んだ明るい青春小説例えば、青森の田舎に疎開生活して実際に見聞した土地柄の暖かみ、可笑しみ、底抜けの明るさを連続短編で小説化してベスト・セラ−となったのが石坂洋次郎の『石中先生行状記』でこれも占領下で映画化された。 田舎娘の代表モヨ子は木匠久美子が一般募集から抜擢されている。 この好評で、石中、もとい石坂洋次郎は一躍スタ−ダムにのし上がる。 そして朝日新聞の連載小説を引き受ける。 こうして書下ろしながら読者を飽きさせない『若く明るい』小説「青い山脈」が進んで行く。 まだ小説が完結しない内から読者層から映画化を希望する投書が相次いだらしい。 完結を待たず前後編に別けて早期映画化も目論まれたようだが、GHQ検閲でどうせ待たされると分かって全篇1つにされた。 主人公は一体誰かと思う様なだが一応主演は池部良、杉葉子(一般募集)、原節子(美女教師)、若山セツコ(お茶目女学生)、藤原鎌足(変すい変すいラブレタ−を読み上げる校長先生)、伊豆肇(ガンさん)役名と俳優名が一緒の沼田耀一先生、他は忘れた。 第二回目のカラ−映画化が、主演宝田明、雪村いずみで、3度目の映画化は、ももえちゃ−んと今の旦那と息は長かったがその分記憶はごっちゃになってる。 しかしこの初めての池辺杉コンビも新鮮でこの小説に相応しい感じだった。 青春映画も、同じ石坂洋次郎の『山の彼方に』や『陽の当たる坂道』など続いたが、もう鮮烈な感動を呼び起こす事はできなかったようだった。

 黒沢監督がメガホンをとって巨編『七人の侍』をクランクインしたのは媾和条約発効直後らしい。 封切りは1954年4,5月頃。  JAコ−ルはすでに日本人に写って2年目、私はSWL-JA6-1020で大牟田市の活動小屋大天地でこの映画を見た。 この映画の中の志村喬は「野良犬」の老練刑事役の流れでなく、むしろ「姿三四郎」での村井半助役の演技の流れのように感じて興味深かった。 この流れは、彼の畢生の作品『生きる』の名画面に最高に結晶する。 多分これは志村が作り、黒沢監督がそれを100%引き出したもののように思う。 黒沢監督はついになぜこの時期に何故この映画を作ったかは遂に語らなかったようだ。 私は彼が、デビュ−作品姿三四郎のフイルムにズタズタに鋏を入れられた軍部やGHQの検閲と言った手枷足枷さえなければ文学や劇画を映画にするのじゃなくて、元から映画という娯楽付きの芸術を存分に展開する事が出切るんだア!と言っているように思いました。

 

爆発的人気ロスの日米対抗水上を裏から見た話。(付:タ−ザン)

 ここでの古橋・橋爪選手の活躍は敗戦後の混乱期に於ける歴史的快挙でした。 こんにち我々の贔屓チ−ムが勝つと、夕から夜にかけてスポ−ツニュ−ス見逃すべからずとばかりTVのすべてのチャンネルに跨ってハシゴ・ワッチを試みる、あの心境。 この記録映画は津島市市制施行記念の星空タダ映画会の観を呈した。 新市民だけでなく近隣の町村の人々で埋め立て地に6万の人を集めたとの新聞記事。 立錐の余地もなく第一上映時間(我が家から3分の距離)埋め立て地へわたる橋さえ渡れないのだ。 一緒に誘ったW君が言った「遠くから米粒見るくらいなら左手でメシ食ってもらおう」と天王川グランドを逆方向に駆け出す。 私にはさっぱり飲み込めてないから暗闇の中彼のゲタの音を聞き逃すまいと必死こいてグランドを逆回り半周(1周約800m)以上早駆した。 スクリンのあるのは戦時金属製品供出の一番手で銅像とその碑銘『片岡春吉君の像』と実物大の羊の頭3個(いずれも青銅製)の銅像のない銅像台座の上、すぐ後ろに堤があってここも木の枝まで数百人がぎっしり、しかし背伸びをすれば殆んど高さの同じスクリンは何とか見える。 成程プ−ルを泳ぐ選手を見るに右も左もない。 所が選手たちがメシを食べるシ−ンが出てきた。 堤の上からだけ笑声とも喚声ともつかぬ声が上がって埋め立て地側の人々は、キョトンとしたらしい。 1人を除いて右手に箸、左手に茶碗ごく自然何のおかしくもないのにスクリ−ン裏から喚声が上がるとは? そう、私が見たのは1人を除いて全員が左手に持憎そうに箸、右手に銀シャリ山盛りの丼を持ってパクついているのだから。 駆け出す前のW君の言った意味を漸く理解納得した。 蛇足だが、当時25ヤ−ドからマイルまでのアメリカのヤ−ド制自由型のレコ−ドは、全てジョニ−・ワイズミラ−が独占していて20年経っても誰も破る事が出来なかったのにヒロノシンヌルアシ選手は1マイルを除く全てのヤ−ド記録も途中計時で全部破ってしまった。 ジョニ−・ワイズミラ−とは当時のタ−ザンで最も多くのタ−ザン映画に出演した男。 彼に代わって黒白時代最後のタ−ザン映画でタ−ザンを演じたのは奇しくも短距離水泳選手ロスでも活躍した浜口選手だった。 アメリカでオ−バ−アクションとて不評で1作だけでチョン。 タ−ザン映画はカラ−化しワイズミラ−が2本ほどカムバックした。そう成る頃はもう星空映画会が開かれることはなくなっていた。

 

ノンフィクション映画のハシリ『きけわだつみのこえ』……戦没出陣学徒の手記及び遺書。

 1942年卒業予定の理工系大学生は1941年12月に繰上げ卒業となり甲種及第一乙合格者は殆ど上海の海軍の教育訓練隊での訓練と演習に駆り出されたがこれはまだ良いほうだったようだ。 挙国一致大政翼賛体制下となった1942年、43年3月卒業予定学徒を42年8月に卒業せしめ代々木練兵場で『学徒出陣式』と引続いて教練演習を強行した。 降りしきる豪雨の中、地面は泥寧と化し、学生服や学帽は1日で泥服泥帽となり泥は襦袢・褌に至る迄ドロドロにしたと言う。 日終講評では、「泥を恐れて戦争が出来ると思うか!顔の汚れの少ない者は一歩前!」無理遍に拳骨即ちビンタ「戦地野戦の兵隊に謝れ、ビンタに礼を言え、シャバの言葉を使うな、軍隊言葉で言え!」で再びビンタの陸軍用語は「有り難くありました」でなければ再びビンタもんでしたから。 閲兵されたのも宮様なら学徒隊の横隊行進の先頭指揮をされたのも学徒宮様だったが訓練終了時に友人が新しい手ぬぐいで顔を拭いた為、危うくビンタの対象となるところだったと言う。 手記に依るとビンタを吊に来た老練下士官は顔に見覚えがあったらしく『官姓名を申告しろ!』(名前を言えでは決してない)『復誦。申告します。OOの宮O仁であります!』『ようし!』で宮様を手にかけるのを辛うじて踏みとどまったと言う。(もし知らずにでも宮様をビンタ喰わせば不敬罪で重営倉、軍法会議もの)

 これ以降の出陣学徒は、全て最短の内務班教育(ビンタ(鬢打)の吊られ方、「鴬の谷渡り」「坂道自転車」等の罰直中心)の後、前線の部隊員数の補充要員として各方面に送られたようだ。 もう米軍が制海権をを握っており輸送船と共に「海行かば水漬く屍」に直行してしまった方も多かった。 これらの学徒出陣して戦争のために死んだ人々の折に触れての手記や遺書、それらは血の絶叫、魂の叫びなのだが、一方で戦争の空しさ人命と引き換えるべき価値ありや?を反省させられ反戦思考を呼び起こす物だった。 1949年に出版されベストセラ−。 1950年

 

今は死語、当時の「戦後語」ワッカッカナ−?

 当時、まだ、省線萬世橋駅は爆弾攻撃で完膚無き迄に破壊されたままだった。 良く見ると今も修復された煉瓦壁の回りにある古煉瓦には沢山の爆弾破片で抉ぐられた穴が相当数数えられるほどだ。 この駅はアメリカ戦略爆撃の対象になる丈けの理由があったのです。 と言うのは駅名が駅名だけに東京や習志野千葉地区の師団や連隊が戦地に出征するに当たっては上野からや両国、東京、品川などの各駅から各都電通りを通って分隊行進して萬世橋駅に達し、ここから専用の軍用列車で横浜なり宇品なり下関なりに輸送されて行った詰まり一般大衆の戦意高揚の為のデモンストレイションをし続けた軍国主義の権化のような駅だったのでしたから。 1954年春私が東京を去る迄は少くともこの駅の前後にはまだ曲った錆ついたレ−ルの引込線の残骸が残っていました。

 『都電』と云いました。 「東京都は戦後都制が敷れたのだ」とお思いの方が殆んどの様ですがこれは大きな間違い。 1942年の例の挙国一致大政翼賛体制に基ずく35區あった東京市と東京府をひっくるめて東京都として一括管理下に置く都有措置が取られたのであり大政翼賛の申し子の亡霊の一つです。 戦後22區に統合されてその後数年して板橋区の一部と豊多摩郡練馬村で練馬区が誕生し23區の特別區になったのですが、な−んでか、練馬区の発生以来50年以上あたらしい區の誕生はタブ−なのか、マンネリ官員様の政治なのか竜頭蛇尾の観ですね。

 こうして由緒正しき滝野川區(午蒡の名で有名)、麹町區、日本橋区、荏原區、小石川區、大森區、麻布區、本所区、深川區などが消えて新しい區名による合併区が残ったのは慥に戦後でしたが。 『戦いに敗れゴボウが大根に』は練馬区が誕生したときの時事川柳にありました。 だからといって、都電の前の呼び名は府電ではなく市電でした。 東横線は渋谷発の次は並木橋、代官山、…というと今の人は「そんな筈では『中目黒』貴方は何を『祐天寺』」と云うかもですが、その先青山師範は第一師範に、府立高等は都立高校に改名しました。 その後の学制改革によって、更夫ぞれ学芸大前、都立大学に改名しました。 都立大は今もあすこにあるんでしょうか? 『心配なら自分で見て見給え!』『君ンチ』『僕んち』『…し賜え』『これから君ンチに行っていいかい?』『いいとも!何時でも遊びにき賜え』などの言葉は聞かれなくなった。恐らく麹町区や本郷区と共に消えた言葉ではなかろうか。

 チンピラやくざ用語も社会の底から浮上がって来た。 言葉の天地を引繰返えすザギン:ノガミ(銀座・上野)地名や宿(ドヤ)中国語の金額呼称法から来たと思われる(100元を壹百魁(イ−パイクワイ)など)ニコヨン(254円と思っている人間違い、160元はイ−パイ(カイ)リョウ、この傳でニコは200円ヨンは 4/10x100(コ)=40円メめて240円が正解。 当時の失業救済の為の復興工事人足の公定日雇賃が日当240円だったのです。 この日雇労働者をもニコヨンと呼んでました。 ノガミの浮浪者がニコヨンに成るのは大変な努力と手続きが必要だったと聞きました。 このほかノガミの地下道には「浮浪児」が蝟集して居り戦災や旧日本領土からの引揚げで家も親も財産も仕事も見放された多くの子供逹が「類を以て集まって」いたのです。 正式には『戦災孤児』『引揚孤児』と称したらしいが一般名は『浮浪児』不労ではなく靴磨きなどして一生懸命生活していました。 戦後言葉の『シュウシャンボ−イ』逹です。

 

戦前の洋画は良く知らないが戦後すぐは美少女や美女一杯!洋画の世界。

 戦前と言っても15年戦争の内、子供の頃は、映画と言うと、学校の校庭や近くの天王川公園埋立地などで大銀幕でタダ映画で見た物だ。 ベッテ−ね−ちゃんことベテイ−ブウプも何度か見たし、ミキ−マウスの初めの頃の今よりよっぽどネズミっぽいミキマウスも見た記憶がある。 よその学校の校庭の映画も暗くなってから到着するようにして出かけたものだ。 結構当時もイジメッ子ていたのでね。 親父も見たいか本気でイジメっこよけに付いてきたのか他校での星空映画で、アボット・コステロの『凸凹海賊珍騒動』というのがかかったことを鮮明に覚えている。 他のシ−ンは忘れたが、海賊首領コステロが、ザ・ピストルを突付けてアボット船長を脅す。 ア『?。タマあるかい?』コ『アルサ、ミテロ!』引き金を引く。 弾丸はオモチャの紐付弾丸でプスと音がしてポトリと落ちる。 ア『…?。ドウシタ?』コ『ニホンセイダ!』(字幕:当時、吹き替えなんて便利なものはない)そのとき早く画面では”Made in Japan !"と言ったのだそうな。 帰り道々オヤジは一人ごちボヤイていた。 「メイド・イン・ジャパンだと笑わせやがる、ケシカラン映画だ。…しかし考えて見るとさいが、舶来もんに較べりゃあメ−ドインジャパンはそんなもんかも知れんて! 皆頑張らなくっちゃ!ナ」と繰り返し多分自分に言い聞かせていたのだと思うが、私にもメ−ドインジャパン(冥途・印・邪パンと長年覚えていた)は忘れじのフレ−ズだった。 戦後、洋物はマンガしか星空劇場には懸らず、希に宣伝用予告編が『ご観覧は当津島映劇へ』の名入りで見られた。 別稿にタ−ザン映画をおさらいしたが、占領軍時代にも良いアメリカ映画が入っている。 戦前のドイツ映画流行りはボシャッたが。 濃尾平野の真っただ中に育ちながら名古屋へ出たのは陸軍幼年学校と旧制八高の入学試験に行ったタッタの二回だけ、戦前の洋画やら知るわけはない。 所が戦争とは皮肉な物で田舎の我が家に東京でのと名古屋でのと、2組もの家族が夫々戦災で焼け出され舞込んで来て都会風が吹き込んだのでした。 その風にはいろいろあったがその一つがキネマ旬報という戦前からの雑誌のバックナンバを見せて貰う事だったし、大伯母が結構好きで名古屋で良い洋画がかかると1時間に1本のしかもノロノロ1時間かかって名古屋につく電車も物ともせず息子を従えて名古屋で洋画を見て来て、いろいろ説明と批評を聞かせてくれた。 この大叔母がカラ−映画『誰が為に鐘はなる?』(下−痢・食うパア:日本初出のイングリッド・バ−グマン主演)を見て来て言った言葉が忘れられない。 「とにかく『映画は芸術だ』と言ういい映画だった、最後は無茶泣かされてよう絵が見えせん位泣かされたけど」と。 大叔母の話に聞いた当時の洋画のタイトルだけを思い出すままに並べておく。 『無防備都市』『パルムの僧院』『オ−ケストラの少女』『情婦マノン』そしてこの『誰が為に鐘は鳴る?』(For whom bells ring ?)等等あとは忘れた。 洋画館に入る様になったのは1954年JA4HL予備免許の年以降。 ただ題名や監督主演スタ−看板の絵では覚えている物がある。 1950年、短期間だったが絵筆を捨て切れないでいた私はイロハ歌留多モジリ川柳「『芸が身を助ける』程の情けなさ」生活費に事欠いて「横文字も書ける映画看板職人募集に応募した事があり親方や兄弟子が書いた看板の横文字部分だけを分相応の大きさ書体にして書き込んで親方が纏めると言う仕事をした。 脱線しておく。 場末の館でオ−ケストラの少女だったかの看板であどけないジュン・アリスンの大写しの顔を書くとき親方が書いて「ヤッパ今日の俺にゃあこれは書けねえ!」と投げ出した事とがある。 「手本あるならこの子は一度書いてみたいと思っていた、ちょっと書かせて!」と志願した。 看板描きは絵描きの感覚で無くペンキ屋の感覚でないとノビノビした絵にならないと痛感しながら何とかジュン・アリスンを書いた。 親方は、フンフン合点しながら傍で見ていたが仕上に近ずくと到到吹き出してしまった。 『タンクさんよう、高校二年ぐれえのこんな顔の彼女いるんだあ!それ書いてやがらあ!」 梯子足場から降りてチョット離れて見ると少し撓の立った子供顔、先輩の妹で名古屋の高校1年のはずのTちゃんの顔だったのだ。 親方はその晩一杯機嫌で『これからも時々絵も書いて貰おう』といって笑った。 精進潔斎でもしたのか翌朝早く親方が書いた絵はさすが、あのあどけないがキリッとして美しいジュン・アリスンそのものだった。 ここにプロのど根性を見た思いだった。 以後私は似顔絵アレルギ−になって今日まで駄目。 な−んでか私がエヴァア・ガ−ドナ−と言う横文字を入れる時、親方の絵は気合いが入っている感じだった。 若き日の思い入れでもあったのだろうか…「美女と野獣」は親方に失礼に過ぎるが世の中存外そんな物かも。 その後舶来デユポン社製のア−トフィルムの厚手のポジポジフィルムに写真を超ハイキ−に引伸ばしてそれに完全透明水彩ニスで総天然色着色して地下鉄駅ホ−ム等の裏照明看板広告に使った時期があり頼まれて親方とは随分付合って勉強さして貰った。 偶偶或る駅で作業中に級友K君にバッタリ。 翌日K君曰く「タンクのは絵描きって云わねえよ、あれはお子様のヌリエ・芝居で言えばカキワリよ」の酷評。 たしかミカン山の間を走るミカンの実と葉の色の『湘南電車』(1950年5月開通)の絵だったと思う。 頭に来て又エンタ(タバコはこの時代こう呼んだ)を始めてしまった関係でペンキ屋は御法度となりヌリ絵御エカキも看板ナデナデも止めた。 皮肉にも学生時代タバコ吸わなかった旅順工大引揚のK君はタバコ専売のK工場に長く勤めて工場長で定年となり彼の地に住み着いてしまった。 「人生かくの如く不可解なり」である。 イングリッド・バ−グマンは彼に依れば古今東西を通じて最高の美形と云っていたっけが。 学生時代の私の渾名はタンクで結構有名、自分では『何でも何処でもノタくる戦車』の事だと自負していた。 卒業前、互いにノ−トを回しあって住所新しい勤務先などを交わしたが、10人が十人申し合わせたように「『短躯』頑張れ」と『タンク(戦車)』でなく『短躯』だったのにはひどーく落込まされた。 そのせいもあって、同級生は3月卒業したが、私の卒業手続きは7月完了している謂わば落第生なのだ。自慢にゃならねえよ。。 $お節介じゃないジジ『介節』

 

過酸化水素水「オキシフル」とその効能

 先日高速道の上で過酸化水素水を500リットル(家庭のバスタブ約1杯半)程積んだタンクロ−リ−が爆発しました。 過酸化水素(H2O2)を34%含む水(H2O)です。 一般工業用にはこの濃度で取引されていますが、MGC社や台湾のC社では殆ど倍濃度の64%過酸化水素水が製造されています。 薬局でオキシフルと称して売っている約3%の消毒薬は皆さんに御馴染みのものでしょう。 「オキシド−ル」も「パアヒドロ−ル」等も3%消毒液の商品名。 切り傷擦過傷の消毒にはもってこいの消毒効果を持っています。 分子式を見ると只の水にもう1原子酸素が結び付いていて、何かの拍子にちょっとした刺激でこの1原子の活性の酸素(発生期の酸素と呼ぶ)を放出して黴菌や有機物を少し焦がして消毒効果を発揮します。 3%でも普通の皮膚に付けるとあまり激しく泡立つ事はないけど第1種以上の火傷に至るので、劇薬・毒物に指定されています。 薬店薬局でオキシフルの瓶は100年揺すぶっていたって爆発の危険はないのです。 爆発物ではないのです。 自動車の燃料や排気の話に付き物の触媒をご存じですね。 そう、ほおっておいても徐々に反応する者同士の反応を一層活発にしてやるが自分自身は反応に参加しない物質を正触媒と言い、急激な反応をグっと押さえて安定状態に保つ物質を負触媒と云います。 過酸化水素水の場合一般的には、負触媒としては正燐酸が添加されていて分解を殆ど停止させています。 正触媒は有機物と鉄(血液の中のヘモグロビン鉄も)です。 これは高校の化学(例えば田島栄著「高校化学」で習う殆ど常識項目でしょう。 活性の発生期の酸素の放出酸化は、半導体工業の中ではとても貴重な80度摂氏以下の低温酸化を可能にして分解速度、量濃度を規制する事(定量発生装置)で酸化膜の厚みと範囲コントロ−ルを可能にしモノリシックLSiでもn-MOSやC-MOS化して複雑な回路でも回路化可能にした立て役者です。 最も、オキシフルの低温酸化で頭髪を焼かないで色素だけ酸化分解する事が一般に知れて『チャパツ(茶髪)』が大流行しましたが。 どちらも消毒液だからと、オキシフルと、赤チン(鉄を含む)を使用するとオキシフルの分解酸化反応が急激に起こって高温酸化となり切り傷だけだった筈が火傷まで負ってしまう結末になり兼ねません。ご注意を。

 今回のタンクロ−リ−の爆発も同類の、起こるべくしておきた爆発というよりは『破裂』なのですが、このタンクロ−リ−は前日にエッチング鉄廃液を運んでをり、翌日急に呼ばれて良く内部も洗わず飛び出していったらしいのです。 鉄液をはこんで良く洗わなければ、オキシフルより10倍も濃い濃度の過酸化水素が急速分解に至るのにそれほどの時間は要しませんが、事前テストは両液を箸の先ほどの棒に着けて混ぜ合わせ数秒観察して何ごとも起こらないからと走って東海村の臨界事故(量が少なければ起こらないことでも多量では起こり得るこれが臨界に達すると云う)も教訓にはなっていずノド元過ぎぬに熱さ忘れて急速な分解反応まで進んで急激な内圧の上昇に耐えられなくなったタンクが破裂したのでした。

 良く冗談めかしてナゾナゾで、1秒間に2倍に増えるバイキンがあったとする。 ある条件で容器に丁度1杯になるのに丁度24時間かかったとすると、容器半分の容積になったのは何時間前だったか?という問題がある。 連鎖反応が2つでこれだ。 その容器の半分に達するのが23時間59分59秒かかり残の半分はタッタの1秒なのです。 この冗談を知っていればタンクの破裂も臨界も少くとも『ウム?アヤシイんでないの?』と反問する気もでたかも。 それに一般に「反応によって水を生じる」および「反応によってガスを発生する」化学反応の速度は、温度が摂氏10度上がるごとに反応の速さが2.3倍になることが知られている。 タンクの中に僅かな鉄液が残っていても過酸化水素の反応は全ての条件に加速されて最後の1秒間でタンクの破壊限界を越える内圧に達し得るのです。 このケ−スではガタゴト走る揺れで撹拌されて約2時間で内圧が限界に達し次の0.何秒かで大きく破壊限界を越えて仕舞ったのでしょう。 500リットル 34%の過酸化水素が全部分解すると2KLのタンクの内圧は75気圧に達し得るのです。 鉄製の容器(ニホン語はステンと云うと鉄でないと思う人をたくさん作ってしまうが、例えば18-8ステン(sus 403)はニッケル18%,クロム8%残りは鉄つまりStainless STEELなのです。)に入れようとしたりすれば一度に発生期の酸素が発生し温度も上がって発生した泡が液面を押し上げて溢流するに至ります。 噴上げです。戦中はステンだのスチ−ルだの敵性語は禁句で『サビナイ』若しくは『不銹鋼』と呼ぶ『鉄』でした。 フランス語では『INOX( イノックス)』です。『oxidation (酸化)をinhibit(抑制)する』から作られた語です。 いろいろ成分系にはありますが、いずれも不純物を入れた合金にして鉄を緊張させてさびている暇がないようにするため緊張の度が過ぎて応力腐食には弱いこともあります。 いろいろな薬液に強いSUS316Lも高温での応力腐食には問題で敦賀の原発でのエルボ部分の応力腐食がかなり早期に進んだことが原因とされましたが、エルボ(L型のヒジの事)部分は鋳込んだ直後から応力の塊ですから他の部分より1桁少ない期間に疲労割れが表面化するのが普通で短期間毎にチェックが必要です。 我々の化学プラントでも316Lは多用しますが、エルボは使う前の探傷検査も厳重にかつ4-7か月毎の結晶模様検査もしやすい配置として十分調べ少しでも怪しければ必ず次の定修時に取替えるように決めていました。 タンクは保っても、下のエルボから液漏れしてはタンクが保つた事にならずやっぱ「洩ッタ」事になるでしょう。 取替えのコストをけちてマ−フィ−の法則を地で行く損害拡大律の上に、工場停止に依る機会損失をモロに被ってはトンだ藪蛇です。急ぐ余り顔を洗わないで出勤するようではオキシフルに仇き取られまっせ−。

 

真空管回顧録余滴:FP54と言う球知ってますか?(未啓発な化学教室での話)

 フラスコ・ビ−カ・ビュ−レットが三種の神器の湿式分析万能時代には、真空管で電子的測定をするなら応用物理へ行ってやれ、とばかり破門され兼ねないバケガク教室の雰囲気でした。 質量分光分析(今の、マス・スペクトル)の手造りチ−ムは、一方で『電離真空計』の入手と検知回路でカント・メ−タ−からの10のマイナス12乗レベルで変化する直流発生起電力を直流増幅する真空管としてグリッド電流が、悪くて10の−13乗良ければ10の-14乗レベルの高真空、高入力抵抗、増幅安定な真空管として、アメリカがドイツから巻き上げた戦時中のドイツの技術の結晶PBレポ−トに出現する真空管FP54を探していた。 教室に出入りしていた化学機械屋業者に探してきてと引合が出た。 私は夏休みのサイドワ−クが仕舞残っていて超多忙、先生方やヒマ学生の相手に化学教室に出入りする暇がなく貴重講義だけ出席してノ−トを完成して賃貸しする(その貸賃が高く多くの人に貸せるのが「貴重講義」)だけだった。 秋、学園祭が近付いたが化学部は手造りで装置を作ってコロイドの実験展示をやろうとしていたことは知っていた。 或日登校するとK君がアタフタと駆けてきて『Yがヨ、盲腸で入院しちまってコロイド展示の目玉だあて言ってた何やら電気のもの、材料は揃ってるからヒムロなら、何作ろうとしたかどう作ろうとしたか一目で見抜くだろう、頭下げて診てもらえってさ。頼むちょっと見てくれるだけでいいんだ』と。 3300ヴォルトのネオントランス、ゴム綿巻屋内配線用故銅線約30m、耐圧16kvのチタンデイスクコンデンサ−、蒸留実験用リ−ビッヒの冷却管、…まあ一目で「アイツスゲエや!コットレルの煙収塵機の模型を作ろうとしてたんだ!」なんのかの言い逃れたが逃れ切れず、古電線でテスラ−コイル(径50センチ程空芯)を巻いてネオントランスとの間にコンデンサ−を継なぎ一次側としこれに直列に火花接点を入れて賞圧火1:20程のテスラ−コイルとした。 冷却管の中心に銅線をゴム栓を通して固定し+極の心算り、−極はガラス冷却管の外側に粗−く巻いてそれぞれをテスラコイルに繋いだ。 学園祭当日テスラコイルは快調にスパ−クして昇圧してくれるが肝腎のコットレル収塵機部分が働かない。 そこへ『見掛けない学生がへなこい装置を作って動かなくって弱ってる、と言って来たんできてみたが一体君は電気の学生か、化学の学生か?』後にG.ガモフ著『太陽の誕生と死』(世界で初めて宇宙のビッグ・バンを推論した書)の日本語訳版を出された白井俊明先生だった。 装置を一瞥して、『高圧整流が無いじゃ無いか君!化学の学生だな?じゃ、仕方がない教えてあげよう、ヤスリあるかい?』火花間隙用に銅板と銅板を向合わせてランダムにスパ−クさせていたのを一方を銅線の先を尖らせてタ−ミナルに差し、『これでよし!』というや早くスタスタいってしまわれたこの間数分。 しばらくアっ気とられて見送った一同がフト吾に返ってやって見ると今度はチャチャちゃんともうもうの煙草の煙いっ杯の冷却管に通電一瞬、煙は嘘のように文字通り雲散霧消するのだった。 板平面と対向する尖端とでは明らかな尖端効果で尖った方から電子が飛出し易い事は知っていてもこう簡単に鑢と銅線3プンで高圧整流器の代用を実現するのはボンクラ(盆暗)学生には難しい。 昼休に飯喰に行った時偶然白井先生の部屋の前を通り掛かったら呼び止められた。 『君、電気の事詳しいんだってね、それで聞くんだがFP54という真空管知らないかね?スペ−スチャ−ジグリッドの球らしいんだが、業者に探させたら皆申し合わせた様にマツダのUN-954という超短波用のエ−コンチュ−ブ持って来てこれですって言うんだが違うよね!走書きのPは9の間違いでしょうってね』『2-3日の間に調べて電話します、今朝の恩禮までに。目の鱗が落ちました、有難うございました』と言てとんだ約束したかなと後悔した。 翌日Y君が昼ごろ病院を抜け出して学園祭へやってきた。高圧整流は名案が浮ばなかったんで何も用意してなかったんでどうしたかなと思っていたんだが夜Kから何か旨くやってた様だった、って電話だったんで本当にどうやったのか知りたくなって出て来ちゃったよ』『白井先生が「簡単よ」とこうしてくれたのよ。目から鱗よ』『ところで、FP54って球探す事先生から頼まれちゃって引受けたんだが知ねえか?』『954ってエ−コン管持って来るって話だろ、何だか直流増幅専用管らしいがジャンク屋にも無いんだ。 マツダの国産化アイテムにもFPで始まるのはないのだそうだ』「お祭りす−んで日が暮れて…」仕事先に行ったら運良くマツダの真空管の人が偶店に来ていたので、尋ねたら『それどこの研究所か?特注リストにあるよ。 マツダではUX-54って言うんだがFP-54のアイテム・ライセンスと書いてある。 スペ−スチャ−ジグリッドつまり空間電荷格子4極管でトップグリッドよ、研究用ってあら−、概算納期6ヶ月ってよ。 直だよなこんなのは』でしょうがなく店電借りて白井先生に電話して先生の声で直接発注していただいた。 『タンクさんすげえ先生知ってるんだあ』て事になった。これが決め手になって近くの球ジャンク屋に勤めるのはもうチョット先。 冬休み明けか、「白井先生とY先生が呼んでるから行ってみな、良い話らしいぜ!」と複数の友人から知らされた。 UX-54が入荷して直流増幅回路は旨く出来たが他の業者が一杯置いて行ったUN-954で同様な、但入力抵抗は当然低くていいが、増幅率の整数比の直流増幅回路でリニヤリテイ(直線性)のいいのを作ってみてくれないかということだった。 紆余曲折はあったが、結局空間電荷格子4極管並にグリッドの用向きを変えさせて、ヒ−タ−電圧を控え目にしてスペ−スチャ−ジの抑え方を調節すると結構直線性の良くなる範囲が出来、増幅率1or2の直流電池式の増幅器が可能となることが分かった。 教室に報告した他余技的に某ラジオ雑誌の読者実験室に低圧シグナルトレ−サ−等を投稿採用されている。


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