SWL歴50年:1952年7月末ジッゲーボウは日本人局用プリフィックスになった。

 JA(アメちゃん達のフォネチックスでは、ジッグ・エイブル ではなくジッゲーボウと聞こえたのです、今時の人には、アンビリ-バボウでしょうが) 局がKA(キンゲ-ボウ)に移って、1ヶ月余りで、日本人局30局に対して「アマチュア無線局の予備免許」が官報に告示されたのは 日米講和条約に代わる日米行政協定なるモノが、1952年2月調印されて約半年の後の、同年7月30日でした。当時の電波行政は、アメリカナイズされる予定で、立法は、電波審議委員会、(今も形だけは残っている。)行政は、電波管理委員会の、委員会形式だった。皆、これはキットアメリカのFCC(Federation Communication Committee)(連邦通信委員会)の様に開かれた電波行政になると期待したもんだ。(だが実際は,アンチ・アメリカナイズ、の波に飲み込まれて1959年の行政改悪の一つとなって、官僚利権の百鬼夜行の巣の森と化すのです)

 それはさておき((閑話休題と言います))、今の人には、文字どうり「アンビリーバボウ」な当時の「アマチュア無線局」((現在のは1959年の法改正により、「アマチュア局」と呼称))はどんなモノだったか一寸その一端を書き残しておきましょう。

$1---局と無線従事者とは別物、但しアマチュア無線局は二重人局格、然しこの為に局の操作に従事する無線従事者資格を持つモノを選任して局の免許申請に際して「無線従事者選任届」なる書類を必要とした。が、アマチュア無線局の申請は、アマチュア無線技士にしか許されず、現今の様に他の無線通信士資格者には許されなかった。

$2---「電波」と言うモノを出す、無線局だから、免許申請に当たっては、空中線の位置は最重要事項として指定事項であり、緯度と経度を何度何分何秒の更に十分の一まで地図から読みとって指定事項申請書に記載しなければならなかった。理の当然として固定局だけしか視野にはなかったのです。電波監理局側は、地理調査所発行、5万分の一(2万5千分の一の縮尺図がある地区については25千分の一)の地図の経緯線補間法による読み出しで十分の一秒のスクエアを地図に記入して落成検査にもってきて空中線の位置と四捨五入の誤差範囲であればOKだが、地図を買ってきて測って計算が面倒とばかりいい加減な経緯度を記載したり、10分の一は00としたりすると、落成検査の技官と事務官は、申請書の「空中線の位置」に行き空中線が設備されてない指定事項不履行として、対応を誤ると予備免取り消し、で再申請を必要とした。JA2エリアでは実際にええいー面倒とばかり秒十分の一を00として申請したため、検査官の見に行った位置とその局の空中線の建っているところ が1里((3.75km))以上離れて居たので再免許申請となり試験電波発射中のコールと全く別の2文字コールで出て来た局を知り、JA2RMの落成検査に際して、事務官殿に訪ねたところ、その人のこととは限らないが一般論だと前置きして、空中線の位置の記載は重要指定事項である旨の説明があった。(当時のde田舎で、そんな地図を入手するだけでも大仕事なんだ)

$3---移動局や移動体の免許が許可になるのは3年後の1955年5月。だからそれ以前は固定局だけ。

$4---当時のアマチュア無線局に許された無線事項は、当時の部品や真空管に取って厳しいモノであった。
4-1) 1.9メガはなかった:
4-2) 3.5と7メガは周波数測定器の有無に関わらず、CWとA3-Foneと別々の僅か2,3個の周波スポットで許可された。誤差が厳しかったので専業のメーカーに周波数を指定して注文するか、目的周波数より低い軍ジャン水晶発振子を自分で磨いて、周波数をゼロインする必要があった。
1952年7月具体的に指定された3.5/7メガのスポット周波数は、
  3.5メガ-----A1 忘れた。 しかし2波。(第一級のみ) A3: 3525kc/s 1波(第一,二級全局)
  7メガ-----A1: 7032.5;7065;7075Kc/sの3波:(第一級のみ)
A3: 7050;7087.5kc/sの2波:(第一,二級全局) 合計しても5波でした。
((但し予告された周波数は 7087.6kc/s))
これらのバンドは、警察無線 ((BC611ウオーキートーキー使用)) と米占領軍JA局のCWバンドだったのだ。アマチュア無線技士にしかアマチュア無線局は申請できず年二回の国家試験、2アマも一期に第一次と第二次と二度の試験に臨まねばならなかった。私は、雪の大根畑を昇って丸山の、中野無線で第一次を第二次は神田錦町の電機大学で受験した。((二級はCWなしのいわば電話級で3.5/7メガの3スポットのみと50メガから上))
 4-3) 14メガサイクル以上も、法第81条(旧法)及び37条の要件を満たす、精度、確度のヘテロダイン周波数測定器を所有稼働測定できる局は有周測、それ以外は例え舶来のBC-221吸収型波長計であろうとテスト・オッシレーターであろうと、無周測であった。有周測と無周測では、出力上限が制限され ((無周測は10W)) たのみならず、ガードバンド幅が著しく異なった。 ((14メガ以 上)) 例えば・・・
 14メガ:無周測: 14.080--14.270Mc/sに対し、 有周測:14.010--14.340Mc/s ((1級局上限500W))
 21メガ: ” 21..120--21.330Mc/sに対し、有周測:21.013--21.437Mc/s ((1級のみ上限500W))
 28メガ: ” 28.200--29.500Mc/sに対し、有周測:28.025--29.675Mc/s ((1級局のみ、50W))
とIARUの規定に従い、CWの入門者クラスは、8メガ以下,50メガ以上が守られた。
 4-4) 50/144/1200メガ・バンド:50は今と変わらないが、144は144--148と広かった。430メガバンドはなく144の上は直ぐに1200メガという、真空管では到達できない雲の上であった。50/144はヘテロダイン周波数計が効かず、レッヘル線測定で、かなり精度良く波長が測れるので、無周 測でも上限の50Wまで許可にはなったが、落成検査でのTVIテストで「処置」されて10Wに制限される局が相次いだ。
 4-5) その他の検査:無線設備基準に規定される諸設備、特に:
   a. 高圧部の絶縁と保護
   b. アンテナ避雷切り替えスイッチとアース。
   c. 電源スイッチの纏めとナイフスイッチ化。
   d. 3.5/7メガマスターオッシレーターのVFOのついていないことの確認。
e. 3.5/7メガ水晶の誤差測定。基準に入らねばその場で処置させられそれで入らねば、そのスポットは不合格オミットされた。
   f. 免許状の掲出/常備すべき免許書類の控え、電波法規集、無線検査簿(通しページ数が全ページに亘ってインク又は墨書で記入されていることの確認。)業務日誌、その抄録、(6ヶ月毎の運用時間届け用の集計紙)等々の、必要書類。
   g. 正確な時計。なるべく、オペレートする位置から見易いところに掛けるか置くタイプ。腕時計は、はずして隣の部屋に脱ぎ散らかしたズボンのポケットに入っていたりする可能性あるので不可。事務官と技官が、必ずセットで検査に来た。これら指定事項、検査事項、の検査に当たっての要領が事前にほぼ正確にラジオ雑誌に予報された。これがなかったら、何人たりとも、落成検査準備と検査までの不安は大魔人を迎え撃つ寄りも甚だしい恐怖に曝されたに違いない。

 

SWL歴50年:本免許第1号は、1952年8月、JA1AB局でした。

 「ラジオ技術」誌この年の8月号に「2級局に最適な通信型受信機」の紹介として、市川洋さんの製作記事がでました。てっきり、じゃ市川さんは2級局かと思っていました。JA1ABは国内に相手が居ない状態(つまり第一号は相手がない。)で本免許になり、勝手が違ったことでしょう。私は、8月の末、7032.5kc/sでCQを叩くJA1AB局を聴いてあっ市川さんは1級局なのだと慌てた鮮やかな記憶があります。

 当時の手続き順序としては、予備免許が来たら、設備と備える物を完備し、「工事落成届」と[試験電波発射届」を提出、/~こちらは、JA4HL・・・・試験電波発射中本日は晴天なり、只今試験電波発射中。」、とやって、自作のリグ周波数が間違ってないこと、高調波が基本波より強くないこと、音が歪んでないこと、電灯線に自分の電波が乗ってないこと,短波コイルをつけた鉱石ラジオなどでモニターして、確かめたようでした。予備免許中は他局との交信は御法度でしたが、一方が自発的に他方にRSレポート等の情報を送ることは大目に見られていました。又試験電波発射中に限りレコード音楽など、自局の電波と識別しやすい変調を掛けてBCI調査などを行うことも許されていました。工事落成届けを出すと,何時何日に検査に行くが都合どうか。と電監から問い合わせが来て、落成検査の運びとなるわけですが、初めは電監側にも様子が分からず、大勢の事務官と技官が検査に来たと言います、JA1AG局は初め50メガA3のみの免許だったそうですが、運転手を入れて7人の人が検査の為に来たそうです。何しろ戦前の超短波は、私設無線電信電話実験局が統合されて報国無線隊になって56メガで水上警察のモーターボートを使って陸上の固定局と数キロメートルの距離の交信が行われただけで、電監の人たちも超短波局、それも「本邦初演の」落成検査に特別の思い入れがあったとしても、無理無いことだったでしょうね。

 9月10月と十数局宛が、落成検査合格本免許になって、7メガは24時間どのスポットも誰かの信号がいつも聞かれるようになったのでした。宵の口には14メガA3のラグチュウが始まり延々深夜に及ぶこともありました。やる方も方だが、これをじっと聞いてる方も相当の玉よ。私当時はSWL JA1-1024。木枯らしの吹く頃になって7メガA3スポットが夕方騒がしくなった。7070付近に59+のA3でLU4DJJと言う局がCQハポンを連呼したのでした。7メガ雀達特にCWには出られない、2級局にとってはこれぞアマチュア無線の本分と、7087.5や7050からここを先途とコールする。アンテナの高い人から拾っていったようだった。10ワット局下も殆どQSO出来たようでした。1週間ぐらいの間毎夕聞こえていました。その内に廻りも気着いたのかその時間になると、CE2CO;CX1FB;CX2CO;CX1GB等が、思い思いの周波数で、A1にもA3にも出てくるようになり冬の夕方の7メガはさながらDXバンドの様相を呈しましたが不思議に見えるのはJA局の呼ぶところは同一周波数で団子コール、と言うことでした。LU4DJJは翌年冬もその特徴ある野太い声で毎夕現れ正月(1954年の)過ぎまでセークー・ハポン・クワレンタ・メトロスを叫んでくれました。このシグナルだけは、2mほどの室内アンテナでも受信できたのは、今考えても一寸不思議です。

 国内でも、今考えると却って不思議な事が起ってました。或休み続きの日の朝でした。7メガ、A3、「アーアー本日は晴天なり」少し弱いがクリヤーな電波、やがてコールサインが入り、JA2WA・・・。北陸の円間さん。JA1ALの竹沢さんが呼んだ。円間さんの驚いた声。「どなたでしたか?私今ダミーロード代わりの電灯を負荷にしてアンテナが繋がってないのですが・・・?」当時は今のJA9AA相当の北陸地方はJA2WAからのコールサインの発給だったのでした。それと、ダミーロード代わりの電灯で、北陸と東京と交信出来たのです。((マツダの2重コイル白熱電球?)) 早速私は円間さんにSWLレポートを送って、一隅に赤い蟹のイラスト入りのJA2WAのQSLカードをせしめて、悦に入っていたことでした。7メガの、ずっと上の方、アメリカン・フォンバンドが騒々しくなるのはしかし1953年の暮れ辺りからでした。初め数日は、アラスカのKL7PYとアンカレッジの管制塔勤務のKL7BVYの2局。やがて本土も気図いて・・・でした。大体この7メガのアメリカンフォンバンドには、特に昼間は A*\AA(但し *=アルファベット、H,I,J が多い、 又 \= 数字、1,2,4,7 が多かった。)なるコールサインの、MARS ((軍用補助無線局)) が跳梁跋扈していた。7メガで昼間聞こえるのですから先ずは日本国内、国外としてもそう遠くには行くまいと思われました。AI2AA;AJ7AA;AI4AA;等が聞かれることが多かったでした。今ならこれらはみんな米本土のアマチュアのコールサインですね。

 ジッゲーボウ時代には、JA0IJ(IouJima=硫黄島)やJA0JIはキンゲーボウの時代には、それぞれKA0IJとKA0JIになっていましたが、これらとAI2AAやAI4AAがクロスバンドでQSOするのを聞いたことがありますが、内容は、ハムの交信ではなく、エイボーアイテム2エイボーエイボウ並の"make gavadgecan empty within a few day signiture,Carby"調の決まり文句式の符丁暗号でして、KA0IJ等は、アマチュア局格と、MARSの局格との2重局格を持っていたのではないかと思われます。7メガや3.5メガの水晶ならヨロシ、に依る、バンド解放は確か1954年夏、(但しVFOや、VXOは駄目)しかし、人の世にインチキは、横行する物、・・・”柔らかい石"(水晶発振子のことを、”石”と言った。)と称してVFOを使い出す局は次第に増えた。1955年アマチュア無線局には漸く雪解けがやって来たのでした。


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