秘花伝 ――立原正秋伝説――      吉澤稔雄


      「〈秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず〉となり。この分け目を知るこ
     と、肝要の花なり」と世阿弥は『風姿花伝』の中で書いた。この『風姿花伝』に
     触れて、作家の立原正秋は、「なにが花でなにが花でないか。花とはなにか。私
     は『花伝』一巻を読み終えたとき深い感動をおぼえた」と書いている(随筆『秘
     すれば花』)。続けて彼は、「〈秘すれば花〉実に平凡な言葉であるが、これだ
     け含蓄がある表現はほかにないだろう。この言葉は私の作家としての出発点にな
     ったが、私もまた世阿弥にならって生涯〈花〉を求め続けるだろう」とも述べて
     いる。
      この随筆『秘すれば花』が雑誌「PHP」に掲載されたのが昭和四十二年、芥
     川賞候補作となった『薪能』が「新潮」に発表された三年後のことである。不惑
     を過ぎ、流行作家としての華々しい道を歩み始めた頃に当たる。
      以来、精力的に作品を発表し続けた立原正秋だが、その作家活動の期間は意外
     と短かった。昭和五十五年八月、食道癌のため五十四歳で他界してしまったので
     ある。如何にも唐突なその死に、私は少なからぬ衝撃を受けた。
      あれからちょうど四十年が経とうとしている。もう四十年にもなるのかという
     思いがある一方で、若かりし頃、貪るようにして立原の作品を読み漁っていたこ
     とを鮮やかに思い出す。
      けっして立原の生き方を真似たわけではないが、私自身もまた大学を出て十年
     ほど将来を極め兼ねて、塾の教師をしながら、漠とした不安の中でヤクザな日々
     を過ごしていた。大学在学中からその後の十年間、私は立原の作品を繰り返し繰
     り返し読み続けた。深い思い入れがあるのも当然のことである。
      思えば立原正秋というのは不思議な作家であった。彼は活躍の場を純文学の分
     野にのみ限定することなく、中間小説・大衆小説にも積極的にも取り組んで、数
     数の名作を残した。彼が優れたストーリー・テラーであったことは言を俟たない。
     また、エッセイなどでは、断定的な小気味よい語り口が多くの読者を魅了した。
      本稿では、そんな我が先達を偲んでその人となりを紹介しつつ、彼が求め続け
     た〈花〉について解き明かして行こうと思う。

     【隠された出自】

      作家立原正秋について語る場合、まずはその出自に触れないわけにはいかない
     だろう。
      半ばエッセイ風に綴られた自筆の略年譜には、「昭和二年一月六日朝鮮慶尚北
     道大邱市の母の生家永野家で出生。戸籍上の届け出は大正十五年一月六日。父は
     金井慶文、母は音子。父母ともに日韓混血で父は李朝末期の貴族李家より出で金
     井家に養子にやられ、はじめ軍人、のち禅僧になった」と記されている。この自
     筆の年譜は昭和四十四年五月に刊行された講談社の現代長編文学全集第四十九巻
     「立原正秋集」の巻末に付されたもので、彼の書いたいくつかの作品の背景を示
     唆する内容を多く含んでいる。
      例えば、昭和四十年「新潮」四月号に発表された『剣ケ崎』。〈混血〉を中心
     テーマとして書かれたこの作品の主人公石見兄弟が二代にわたる日韓混血ののち
     に生まれたことになっており、しかも朝鮮貴族の末裔で、父親は大日本帝国軍人
     という設定である。
      また、引用した自筆年譜後半部分からは、晩年に書かれた自伝的色彩の濃い作
     品『冬のかたみに』を想起するのは容易であろう。自筆年譜は次のように続く。
     「三月(昭和二年)、大邱の北東にある安東市郊外の父の寺鳳仙寺に母と帰る。
     家は寺の麓にあり、父は週に一度のわりで山からおりてきた。昭和六年春より寺
     にのぼり、老師から漢文の素読を受ける。本院より東の方にある山に僧堂があり、
     老師はそこに棲んでいた。週のうち三日は家に戻らず老師の部屋で泊まり、雲水
     達と生活をともにした。屈折したその後の生のさなかで、この僧堂の記憶はもっ
     とも鮮明である。この年の冬、父没す」……これはまさに『冬のかたみに』第一
     章の設定そのものと言ってよいだろう。
      これ以外にも他の作品の逸話として描かれる事柄がこの自筆年譜には含まれて
     いる。
      同人誌〈犀〉の時代から立原とは長く深い付き合いのあった作家の高井有一は、
     立原が亡くなるまで、この年譜の記述が多少の修飾があるにしても大筋では事実
     だと信じていたという。
      ところが、比較文学研究者の武田勝彦早稲田大学教授が中心となって調査が進
     められ、実体が明らかになると、この自筆年譜には多くの点で脚色が施され、故
     意に幾つかの事実が曲げられていることが判明した。これを知った高井有一は立
     原の自筆年譜について、「立原正秋がこうありたかったと願う自身の姿を描き出
     した一篇の小説だと言った方が、むしろ適当かも知れない」と述べている(評伝
     『立原正秋』)。私自身は一種の創作ノートではなかったのかとも感じている。
      ここで少し事実関係に触れておこう。武田勝彦のまとめた年譜によれば、生年
     月日は大正十五年一月六日とある。父は安東金氏の出の金敬文、母は安東権氏の
     出の権音伝。ともに純粋な朝鮮人である。立原はこの両者の長男として生まれ、
     胤奎(ユンキュウ)、通名正秋と名付けられた。父親が李朝末期の貴族李家の出
     だというのは事実ではない。
      また、武田を通じて金敬文の履歴調査を托された国文学研究家の越次俱子氏に
     よれば、金敬文が軍隊に在籍した形跡はなく、またその死も自裁ではなかったこ
     とが明らかになっている。
      金敬文が禅僧であったかという点についても、武田編年譜には「正秋出生の頃
     は、安東市郊外の天灯山鳳停寺の禅僧となり、要職にあった」と書かれているが、
     高井有一や評論家の尹学準からは疑義が出されている。当時の朝鮮では禅僧が妻
     帯することは禁じられていたらしいのである。尹学準は、「朝鮮では、坊主とい
     ば今なお賤民扱いしているむきがある」とあからさまに述べており、結局のとこ
     ろ、金敬文は「鳳停寺に出入りしながら寺の雑事などをしていた人だったのでは
     なかろうか」(高井有一著『立原正秋』巻末解説)という結論に至らざるを得な
     いようなのだ。
      それにしても、いったい何故立原がこれほどまでに己れの出自を粉飾しなけれ
     ばならなかったのか。「それは、彼の貧しい生い立ちと、惨めな家庭環境からき
     た激しい劣等意識からではなかったかとわたしは思うのだ」と尹学準は同族の視
     点から書く。確かにそういう面はあったかもしれない。その反動で、見栄っ張り、
     強がり、一流好みという性格が形成されたとも考えられる。立原は、こうありた
     い、こうあらねばならないという意識が人一倍強かった。
      一般に年譜が個人の履歴・経歴を表すものだとすれば、立原の自筆年譜は確か
     に粉飾だらけということになってしまう。純粋な朝鮮人であることを隠していた
     という点では、尹学準のような同族からの批判も免れ得ないだろう。
      しかし、視点を変えて自筆年譜が一種の創作ノートだったとしたらどうだろう。
     そこに虚実が問われる道理はない。批判すら見当違いということになりはしない
     か。実際、この自筆年譜からいくつかの作品が紡ぎ出されている点を考えれば、
     こうした見方もあながち間違いとは言えまい。昭和四十四年の十月初め、鵠沼海
     岸に転居して間もない立原の借家を高井有一とともに訪れた「新潮」編集長の坂
     本忠雄は、この自筆年譜を初めて目にした際、「この中からずいぶん小説の材料
     が採れますね」と立原に言ったという。つまり、それだけ作為性を感じさせる内
     容だったということだ。
      それでは、これだけ念入りに作り込んだ年譜を立原が書かねばならなかった理
     由とは何だったのか? 考えられる理由は二つある。
      まずは朝鮮人だという己の出自を隠しておきたいという気持ちがあった。十一
     歳で母国を離れ、日本に移り住んだ立原が周囲からの偏見や差別に苦しめられて
     きたであろうことは想像に難くない。言葉の不自由だった少年時代はもとより、
     作家として名が知られるようになってからも、文壇においてさえ心無い差別的な
     言葉を投げかける者もいたという。そんな偏見による無用な軋轢を避けたいとい
     う気持ちが、やはり立原の中にもあったのだろう。
      そしてもう一つの理由として、日韓の混血をテーマとする小説『剣ケ崎』を書
     いたことにより、折に触れて立原は自身が日韓混血であると公言してしまってい
     るから、それを曲げるわけにはいかなかったということが考えられる。
      かくして立原正秋は己の出自を創作しなければならなくなったのである。大枠
     は事実をベースとしながらも、細部に脚色を施し、文士立原正秋の像をつくりあ
     げていった。その過程で物語性をも盛り込んでいった。したがって、出来上がっ
     た年譜は通常我々が考えるそれとはまったく異なるものとなった。
      これ即ち文士立原正秋の年譜であって、この年譜を書いた当時の彼の戸籍上の
     氏名だった米本正秋の年譜ではないと考えられる所以である。因みに〈立原正秋〉
     という筆名が初めて使われたのは丹羽文雄の主宰する雑誌「文学者」の一九五一
     年十月号に発表された『晩夏 或は別れの曲』(現存する処女作)においてだっ
     た。これが彼の作品が活字になった最初である。立原正秋二十五歳の時のことで
     あった。
      以来、米本正秋は〈立原正秋〉を演じ続けなければならなくなった。ある時、
     彼は「あなたの性格の主な特徴は?」と問われ、「性は剛にして才は拙。即ち愚
     鈍」と答えている(新潮社刊「立原正秋選集」カタログ)。もちろん、これが彼
     一流の演技であることは言うまでもない。時としてこうした演技が過剰とも見え
     ることはあったが、これが所謂立原スタイルというものなのであった。

     【名前の変遷】

      近代から始まった我が国の戸籍制度の下では、通常、人の名前が変わることは
     ほとんどないと言ってよい。変更が考え得るのは、せいぜい婚姻・離婚・養子縁
     組で姓が変わる場合くらいだろうか。その他老舗などで営業上の理由により先代
     の名を襲名して戸籍上の名を変えるとか、性別変更により名を変える場合などが
     考えられるが、これらはいずれも特殊なケースにすぎない。
      立原正秋の場合、最初の戸籍には金敬文・権音伝の長男金胤奎(キム・ユンキ
     ュウ)として入籍されたことは前述のとおりである。純粋な朝鮮人ではあったが、
     通名を正秋と称したのは、大日本帝国統治下の朝鮮で生まれた所為であろう。そ
     の後母親の再婚、日本への移住、時代や情勢の流れの中で、彼は何度か名前を変
     えることになる。以下にその変遷を追っていくとしよう。
      父を喪ったのが昭和六年七月。翌年三月には彼は母と弟とともに父の寺鳳停寺
     のあった安東市郊外から安東市内に移り住んだ。大邱の母親の実家が近かったた
     めだろう。しかし、そこでの生活は三年ほどしか続かなかった。昭和十年の春に
     は母が再婚し、弟の院奎(インキュウ、通名正徳)を連れて横須賀に移住してし
     まったからである。残された正秋は、慶尚北道の亀尾町で医院を開業していた母
     の実弟権泰晟(通名永野哲秀)に預けられ、そこで二年半あまりを過ごす。正秋
     が母を追って横須賀に移ったのは昭和十二年の年末のことだった。その年、叔父
     の永野哲秀が九州帝大医学部で研究生活に入ることになった。それを機に正秋は
     母の婚家先に引き取られることになったのである。横須賀には叔父に連れてきて
     もらった。
      母の再婚相手は、母より四歳年下の王命允、通名野村辰三という男だった。そ
     こで、翌年一月に衣笠尋常高等小学校尋常科五年に転入した際には、正秋は野村
     震太郎を名乗ることになった。高井有一の調査では、当時の友人たちからは「震
     ちゃん」と呼ばれていたという。ただし、野村家の戸籍には入らなかったから、
     本名が変わったわけではない。
      この小学校で一学年下に、後年正秋の伴侶となる米本光代がいた。この女性の
     存在もまた正秋の姓を変える要因となったが、これについては改めて後述すると
     しよう。
      さて、昭和十四年の春、小学校を卒業して横須賀商業学校に進んだ正秋は、入
     学と同時に金胤奎と名乗ることになる。横須賀商業では戸籍に記載された通りの
     名を名乗らせる方針だったらしい。同じ小学校から同校に進学した親しい日本人
     の友人は、「震ちゃん」が難しい名に変わったことを知って驚いたという。
      ところが、昭和十五年十月、横須賀商業二年次に金胤奎は金井正秋に変わった。
     この年の十一月・十二月に発布され、翌年の二月に施行される創氏改名令に備え
     てのことだった。この法令について当人の言及は見つかっていない。その少し前
     くらいから日本の近代文学に親しみはじめ、次第に読書の幅をひろげ、のめり込
     んでいっていることから、あるいは当時既に彼の中では日本人に同化する気持ち
     が芽生えはじめていたのかもしれない。
      次に彼が名前を変えたのは、結婚して長男が生まれた時のことだった。結婚相
     手は衣笠尋常高等小学校で一学年下にいた米本光代である。   
      小学校を卒業してからはしばらく会う機会のなかった二人だが、彼が四年次に
     進級した折、彼の弟正徳と光代の弟和昭が同じ商業学校に進学して同級生となり、
     親しく互いの家を行き来するようになったことから、光代もまた時々彼の家を訪
     れるようになった。そうして光代はあらためて正秋とも知り合い、「兄さん」と
     呼ぶようになって次第に親情を深めていった。正秋もまた彼女に惹かれていった。
      武田勝彦の手になる年譜によれば、二人が同棲生活に入ったのは昭和二十二年
     の四月初旬のことだった。正秋が米本家に押し掛けるかたちで、光代の使ってい
     た部屋に住み込んだのである。この時正秋二十一歳。まだ早稲田大学専門部法科
     の学生であった。法科に籍を置きながらも文学部国文科の聴講生となり、熱心に
     文学部の講義に通っていたという。この頃既に彼は小説家になる志を固めていた
     らしい。
      それにしても無茶な話である。正秋はまだ二十一歳の学生で、稼ぎもなければ
     将来も定まらず、しかも朝鮮籍だった。光代にしても、その年の三月に小学校教
     員の職を辞し、収入の道が絶えていた。いかに戦後混乱期のドサクサの中とはい
     え、そんな二人の結婚が祝福されるはずはなかった。後年、光代はその当時を振
     り返って、「今考えますと何とも無鉄砲で、若い二人がただただ一緒にいたいと
     いう強さとでも言いましょうか、それだけで行動していたように思います」と述
     懐している(角川書店版「立原正秋全集」月報)。
      その翌年の昭和二十三年七月九日、二人の間に長男潮が誕生している。これを
     機に正秋は米本家の籍に入ることを決めた。生活上の制約を受けなければならな
     い在日朝鮮人として生きるよりは、帰化して日本人となることを選んだ結果であ
     る。こうして婚姻届と出生届とが同時に提出され、金井正秋は米本正秋となった。
      何やら戸籍ロンダリングのような話になっているが、最後にもう一回彼は名前
     を変えることになる。
      姓を〈立原〉にすること……これは彼が長いこと抱き続けてきた悲願であった。
     文壇に登場して以来、日常の生活においても、行政が絡まない限り、彼はすべて
     立原正秋で通してきた。公共料金や新聞代の領収証なども立原名義になっていた。
      ところが、最後の最後に築地のがんセンターに入院した際、病室入口には〈米
     本正秋〉のネーム・プレートが掲げられていた。これに気づいた立原正秋は激怒
     して、すぐさま「立原に替えさせろ」と言ったという。高井有一はその時の立原
     の心中を察して、「彼にしてみれば、文士立原として遇されたい気持が強く、ま
     た〈米本〉は夫人の籍を借りているのだという意識がいつもあったのに違いない」
     と自著(評伝『立原正秋』)の中で述べている。結局、この一件は看護婦に頼ん
     でネーム・プレートを取り外してもらうことで落着した。それほど彼には立原姓
     へのこだわりがあったということが、この一件からもおわかりいただけるだろう。
      実は、この十年ほど前、彼は一度改姓の手続きを検討したことがあったらしい。
     しかし、調べてみると条件があまりにも厳しく、その時は手続を断念せざるを得
     なかった。
      しかし、このネーム・プレート事件がきっかけとなり、事態は大きく動きはじ
     めた。高井に同行してその現場にいた武田勝彦が立原の悲願に心を動かされ、立
     原を見舞ったその足で中学の先輩の弁護士事務所に駆け込み、改姓手続を依頼し
     たのである。
      果たして昭和五十五年六月十一日、弁護士の尽力により横浜家庭裁判所より改
     姓の許可が下りた。米本正秋はやっと戸籍上も立原正秋になれたのである。亡く
     なる二箇月前のことであった。

     【武勇伝】

      「昭和十四年春、神奈川県立横須賀中学校の入試を受けて合格せしも、三月末、
     四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷を負わせ入学をとり
     消さる」と立原正秋は自筆年譜に書いているが、これは事実ではない。もし本当
     ならこれは傷害事件であり、警察沙汰になっていたはずである。しかし、年譜の
     記述は「六月、横須賀市立商業学校に編入を認められる」と続いており、そこに
     は事件の片鱗など窺うべくもない。
      この上級生刺傷事件は、のちに『猶修館往還』の中で主人公国東重行の中学校
     在学中の出来事として語られることになるが、事件の虚実は別にしても、立原自
     身の激しい性格をよく表している。行動は直情径行のようにも見えるが、意識は
     明晰でどこか一点で冷めているのである。謂わば確信犯なのであり、その行動は
     倫理に裏打ちされている。高井有一は、この『猶修館往還』の主人公国東重行に
     ついて、「彼は作者に代って、〈下衆〉な人間に懲罰を加える。彼には味方がい
     ない。味方を求めるのでもない。そして〈勝目〉がなくとも闘わなければならな
     いという美意識を、作者と共有している」と自著『立原正秋』の中で書いている。
      ところで、『猶修館往還』の主人公は剣を学んでいたとされているが、立原自
     身も剣道を習っていたことがあるらしい。自筆年譜には、「この年(昭和十四年)
     より剣を習う。剣の師は木村七段。木村師は、おまえは有段者になるとあとが面
     倒だ、と言って有段試合に出場させなかったが、昭和十七年春、三段の人二人と
     三本勝負をし、六本全部勝った」とある。高井有一の話によれば、立原は親しい
     仲間には、俺は剣道三段だと言い、時に五段だなどと言っていたらしい。一方、
     立原が第七次「早稲田文学」の編集長を務めた際、その下で編集に携わった鈴木
     佐代子は自著『立原正秋 風姿伝』の中で「剣道四段」と書いている。ある時、
     鈴木の友人で師範代をつとめる剣道家が彼女の家に来て、木刀を大上段に振りか
     ざした立原の写真を見た。その友人は、「これは、相当できる人ですよ」と言っ
     たという。構え方を見れば、力倆は分るというのだった。
      立原は家に木刀を用意していて、必要な時にはすぐに使えるようにしていたと
     いう。「そのユイショある木刀に、私がお目にかかれたのは、梶原山のてっぺん
     に新築された家を訪ねた時だった。玄関を上ったら、人目につかぬ隅に、木刀が
     立てかけてあった」と鈴木は書いている(同書)。
      この木刀については、次のようなエピソードがある。随筆集『秘すれば花』の
     中で立原は、「むかし、まだ五歳だった娘が寺の境内で遊んでいたとき、ある男
     が飼犬の秋田犬を散歩につれてきて、悪戯半分に娘のスカートを犬に噛ませたこ
     とがあった。私はその男を容赦できなかった。警察に訴えるより先に私はその秋
     田犬を殺そうと決め、木刀を持ってその男の家を訪ねて行き、繋いである犬の頭
     と首を撃って殺した」と、さも事実であるかのように語っているのである。
      また、随筆集『夢幻のなか』には次のような話もある。鎌倉から三鷹に急遽引
     っ越した理由について、立原は、「藤沢のまちで刺身包丁と匕首を握った二人の
     やくざと果しあいをやり、木刀で一人の肩甲骨を割り、いまひとりは肋骨を数本
     折ってしまい、彼等の仲間からねらわれ、鎌倉にいられなくなり、三鷹にいる友
     人から、こっちにこないか、とさそわれ、鎌倉から逃げたのであった」と書いて
     いるのだ。
      そして最後には、「私はながいこと自分が剣がつかえることを秘してきた。理
     由は、剣がスポーツではないからである」と立原は嘯くのである(随筆集『秘す
     れば花』)。大した役者である。親しい仲間には、俺は剣道三段だと言いふらし
     ていたというが……。
      この外にも立原の武勇伝は多々あり、随筆の中でしばしば語られているが、大
     半は作り話あある。小説ではなく、随筆の中で書かれているのだから、読者はつ
     いそれを事実だと思いがちだが、立原は故意に虚構を織り交ぜて書いている。そ
     うして描かれた凶行の場面は簡潔だが、あたかも映画のワンシーンのように映像
     的であり、演劇的である。つまり、彼はそこで〈立原正秋〉を演じているわけだ。

     【素顔の立原正秋】

      立原と身近に接したことのある人々は、口を揃えて彼のことを白か黒かの決着
     をつけなければ納まらない性格の人だったと言う。
      高井有一は、「彼は真当過ぎるほどの潔癖症であったが、同時にその種の人に
     有り勝ちな早嚥込みのあげくの独断癖も多分に持合せていたから、揉め事がしば
     しば起った」と評伝『立原正秋』の中で書いている。
      鈴木佐代子もまた第七次「早稲田文学」時代を振り返って、「立原さんは、白
     か黒か、右か左かで決めつけてしまう。中間まで歩み寄るということが不得手ら
     しかった」と書き、「彼は怒り出したら、前後の見境がなくなる」として、編集
     室の手伝いの学生たちの間では彼の名は〈立腹正秋〉と書かれていたと述べてい
     る(『立原正秋 風姿伝』)。
      とにかくよく腹を立てる人だったらしい。加えて電話魔だったから、しばしば
     怒りの電話をかけてきては、相手の言い分などは一切聞かずに言いたいことだけ
     を言ってしまうと、一方的にガチャンと電話を切ってしまう。ところが、しばら
     くすると必ず電話をかけなおしてきて、「俺、無茶なこと言ったな」と謝ったと
     いう。
      そんな立原に長年連れ添った光代夫人は、立原が「家族が生き甲斐」で「寂し
     い人」だったと後年高井有一に明かしている。「家族以外に心を打明ける相手が
     いなかったんでしょう。だからこそあたしに怒ったり、悪態ついたりしたんです
     ね。あたしに〝当る〟なんていうものじゃありません。なんでこの人はこんな風
     にしなくちゃならないのかと思ったくらいです。気に入らないとお膳を引繰り返
     したりするのは年中でした。でも、激情が去ったあとは、本当に素直になって優
     しいんです。ちゃんと解っていて自分を抑えられないんですね」と彼女は語った
     という。
      荒ぶる神のように怖い人という印象を世間一般には持たれていた立原だが、本
     質的には素直で優しい人だったのであろう。「気を許した友人知己と向き合った
     ときの立原正秋は、実に人なつこい優しい表情を示した。彼を率直で面倒見のい
     い愛すべき人物として記憶している人は尠くない筈である」と高井有一も言って
     いる(評伝『立原正秋』)。
      それでは、自分自身の性格を立原はどう見ていたのだろうか。これについては、
     昭和四十三年五月、初めての新聞小説『冬の旅』が読売新聞に連載が開始された
     直後に、朝日新聞に掲載された野坂昭如の人物評の中で、「動にして静、躁にし
     て鬱、賑やかにして寂、曠達にして融通が利かず、即ちこれが彼である」と立原
     は書いている(朝日新聞 昭和四十三年五月二十六日)が、これはそのまま自分
     自身に向けられる言葉でもあっただろうと思われる。因みにこの人物評のタイト
     ルは『にぎやかにしてさびしき男』というのだった。

     【 結 語 】

      「文芸春秋」の昭和四十三年三月号に野坂昭如との対談が掲載されている。題
     して『対談・われら少年院の卒業生』というのだが、その中で、「感化院を出た
     のちどうしたか」と野坂に問われて、立原は次のように答えている。少し長くな
     るが、引用をお許し願いたい。

       ぼくは社会へもどったら、オレが刺した相手と対等になろうと考えていた。
      ところが、出てみると、相手は向う側だ。社会対ぼくなんです。感化院の中で
      考えたことが、社会では通用しない。
       これは内部で燃焼させるよりしかたがない。つまりおのれに勝って、そこに
      自分自身を見出すよりしかたがない。これは苦しい経験でね。つまり、周囲の
      眼を問題にせず、完全に内側へ眼を向けて消化していこうとした。それがなか
      ったら。いま、小説家でなかったでしょう。むこうの視線に反応し、反撥する、
      ということを続けていたら、いまごろ刑務所に入っていますよ。自分が強けれ
      ば、相手の眼を突き伏せていける。弱ければ負けます。それをどうやって克服
      していくか。

      こう語る立原に少年院に収容された経験は実際にはない。しかし、それはそれ
     として、語られている内容は極めて真摯である。おそらく、彼はかつて自身の置
     かれていた過酷な境遇を少年院に仮託して己の内面を語ったのに違いない。この
     葛藤を経なければ、作家立原正秋は誕生していなかった。『剣ヶ崎』のなかで、
     主人公の石見太郎は狂信者の従兄に竹槍に刺されて死ぬ間際に、「あいの子が信
     じられるのは、美だけだ」と弟の次郎に言い残して息を引き取る。この言葉は葛
     藤を経たのちの立原自身の思いでもあっただろう。
      二十歳を過ぎた頃から立原は日本の古典の世界に沈潜していく。そうした中で
     世阿弥に傾倒するようになり、中世に対する思いを深めていく。立原が小説を書
     き始めたのはこの頃からだった。
      言ってみれば、世阿弥に巡りあわなければ小説家立原正秋は存在していなかっ
     たかもしれないのだ。その世阿弥の書いた『風姿花伝』について、彼は、「私が
     もっとも感心するのは、この書が単なる理論家からうまれた書ではなく、能役者
     である人が書いた点である。自作自演の上、さらに深い芸術論を展開しているの
     が世阿弥の生涯である」と述べ(『秘すれば花』)、その文章の美しさ、世阿弥
     の学識の広さと深さに感嘆している。そして、ここがいちばん重要なところだが、
     「世阿弥は〈美〉以外のものは容赦なく切り捨てた」と断じるのである(同書)。
     立原はこの『花伝書』を小説作法の手本として用いていると述べていた。かなり
     飛躍のある表現だが、これを私なりに敷衍して言えば、小説を書く際、虚構を構
     えて登場人物にはまり込んでいき、そこで美を表現する方法論を『花伝書』に求
     めていたということになろうか。要するにこれは世阿弥のいう「物狂い」であろ
     う。
      〈花〉とは美であり、芸術である。「世阿弥は決して思想を語ろうとしなかっ
     た。彼が語ろうとしたのは〈花〉であった。そして生涯をかけて〈花〉を語り終
     ったとき、花そのものがひとつの不抜な思想となり得たのである」と立原は述べ
     た。
      さて、はたして立原正秋は〈花〉を語って己れの思想を確立することができた
     のであろうか。                (二〇二〇年六月二十九日)

        【参考文献】
        角川書店版「立原正秋全集」全二十四巻
        新潮日本古典集成『世阿弥芸術論集』
        高井有一『立原正秋』 新潮文庫
        鈴木佐代子『立原正秋 風姿伝』 中公文庫

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