洞窟を抜けて 漂流旅記


 
・谷あいを縫うトロッコ列車
とある朝、夜行列車を降り立ったわたしは、谷あいを走るトロッコ鉄道の乗客となっていた。今日は午後から野暮用があるのだがそれまでの時間が空いている。それまでの時間つぶしを兼ねて、ちょっと気になっていた温泉に向かうのである。
観光鉄道として休日には満員となるこのトロッコ鉄道も、平日の朝ということもあってがらがらである。わたしの乗る車輛にはわたしのほかには二人しかお客がいない。

…しかし、わたしはこの後の野暮用のため、スーツにネクタイ姿。観光客や登山客、あとは作業着姿の工事関係者の中でひときわ目立ってます!

そんなことを知ってか知らずか、雨上がりの澄んだ青空の元、前日の雨で増水した黒部川沿いに列車は山を登っていく。朝日にきらめく原生林が美しい。

 

・黒薙駅
列車は約25分ほど走り、最初の乗降可能な駅である、黒薙(くろなぎ)駅に到着する。ほとんどのお客さんはこのまま列車に乗ってさらに上流に向かっていくが、わたしはこの駅で下車する。周りを見渡すと、下車したのはわたしだけのようだ。駅の先の深い谷に掛かった高い鉄橋を渡っていく列車を見送る。

と、この駅唯一の駅員がわたしに声をかける。
「黒薙温泉へ行かれるんですか?」
そう、わたしはこの駅の近くにある黒薙温泉に行くのである。

しかし、スーツ姿で何しにきたんだと思っただろうな、あの駅員さん。
 

・洞窟へ
わたしの目的地が黒薙温泉だと判ると、その駅員さんは温泉までの道を教えてくれた。
「あ〜、そのトンネルを400mくらい歩くと、右側に黒薙温泉の看板のある分かれ道があるから、そこ曲がってちょっと行くと温泉だよ」
スーツ姿の不審な客にも親切な駅員さんにお礼を言いつつ、駅員さんの言うトンネルを探す。
駅の構内から分かれた線路がすいこまれている「穴」があったが、見たところそれは「トンネル」ではなく「洞窟」である。剥き出しの岩がごつごつと…。しかも「通行禁止」の札が下がっている。駅員さんを振り返ると
「列車来ないから大丈夫」
もともと、こういうの大好きなんで、それではとずかずか入っていく。
 
右は本線、左が引込み線
内部は一定間隔で照明もあり、薄暗いけれど足元も充分見える。高さは約3mほど、幅は約2mほどのこのトンネルには黒薙駅からの引込み線が敷かれており、レールとレールの間には金網が張られ、歩きやすくなっている。
しかし、岩をそのままくりぬいたトンネルの天井からはあちこちでぽたぽたと水滴が垂れてくる。ひどいところは水道のようにじゃーじゃーと流れ落ちている。このあとの野暮用のためにもスーツは濡らすまいとなるべく水滴をよけながら歩いたが、薄暗いこともあり、けっこう濡れてしまう。
もしも、この道を通ろうとする方がいらしたら、スーツ以外の服装を強くお勧めします。
と、ほどなく右側に枝分かれするトンネルがあった。その枝分かれするトンネルの上部には「黒薙温泉入口」の看板が掛かっている。さきほどの駅員さんが言っていた「看板のある分かれ道」とはこのことであろう。この分かれ道を黒薙温泉に向かうべく、右に曲がる。
この分かれ道は、先ほどのトンネルに比べさらに小さくなり、高さは2m弱、幅も1mほどと、さらに洞窟チックである。しかも天井から落ちてくる水滴の量はさらに増量。もともと湿度も相当高いようで、スーツはもうしっとり。
もしも、この道を通ろうとする方がいらしたら、スーツ以外の服装を強く強くお勧めします。

もうどうにでもして。
 

天井からぽたぽたたれる水滴に、半ば諦めかけたときに、前方に光がっ!<おおげさ
分かれ道から200mほどでトンネルを抜ける。外の明るい陽射しがまぶしい。
ということで、駅から約10分ほどの地底探検でした。
 



トンネルの温泉側出口

・トンネルを抜けると
駅から約600mほどの野趣満点のトンネルを抜けると、そこは秘境の一件宿であった。
この黒薙温泉は約350年ほど前には発見されており、130年ほど前からは温泉旅館が開かれたという、黒部峡谷では最も古い温泉旅館である。しかも、トロッコ列車の始発駅である宇奈月には一大温泉街が形成されているが、実はこの黒薙温泉が源泉であり、その宇奈月温泉のすべての湯量をまかなう分だけの温泉がここからパイプで供給されているというほど、湯量が豊富なのである。
が、実際ここまでは観光バスはおろか道路がないため、この黒薙温泉に来るためにはトロッコに揺られ、あのトンネルをくぐるしかないのである。
そのうえ、この温泉旅館の娯楽は「衛星放送のテレビ(旅館玄関ロビーに1台)のみ」(パンフレットより抜粋)だそうだ。つまり、よくある観光温泉ホテルのような、カラオケやゲームコーナーやらは一切ないのである。まさにやることは湯に浸かるだけ。

しかし今日は野暮用までの暇つぶしで来ているため、残念ながら宿泊するわけには行かない。ぐっと堪えて日帰り入浴の料金500円を支払う。

 

・露天風呂
黒薙温泉名物の大露天岩風呂は旅館の建物から黒薙川を少し上流に上ったところにあった。大きな湯船に無職透明なお湯が滾々とたたえられている。さっそく露天風呂わきにあるテント製の脱衣所でしっとり重くなったスーツを脱ぎ、すっぽんぽんになり、湯船へと向かう。
さいわい湯船に人影はなく、どうやら貸し切りのようだ。

ざぶり。

…く〜っ! いいねぇ。
熱くもなくぬるくもなく、ちょうどよい湯加減である。
ちょっと渓谷の上流に目を向けると小さな滝が見えるし、その先の山肌をよく見てみると、先ほどわたしが歩いたトンネルからつづくトロッコの引込み線が見える。

朝の陽射しの中を露天風呂でまったり。
今日午後に会う連中も、まさかわたしがこんな山奥の露天風呂で汗を流してきたとは思わないだろうななどと思い、ひとりほくそえむ。

がしかし、その午後からの用事のこともあり、あまりゆっくりはしてられない。後ろ髪をひかれる思いで湯船を後にする。温まった体を渓谷を抜ける秋の風が冷ましてくれる。これまた気持ちいい。が、風邪ひく前に服を着て駅に戻ることとする。こんどは泊まりで来ようと決心しつつ。

※大露天風呂は混浴ですが、脱衣場は別れています。また黒薙温泉には女性専用の露天風呂もあります。
 

 

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漂流旅記
2002.10.4 (c)おりじゃ