子供時代 軍隊 日体 安芸中学 攻玉社 戦後 オヤジ あとがき

大田先生からの聞き語り小伝。
大田先生1

 我等が居合の師、大田次吉先生は明治25年(1892)4月13日、土佐(高知県)宿毛の小筑紫村に生まれた。軍隊生活の後に、長く旧制中学校の体操と国漢(国語と漢文)それに書道の教諭として勤めた。戦後は柔道整復師として名倉堂経営のかたわら、居合を教えた。昭和59年10月23日、東京で亡くなるまでの92年間は実に波乱万丈の人生だったといえる。
現在の宿毛市小筑紫

その武道歴は居合(10段範士)はもとより、柔道(七段教士)・剣道(七段教士)の他、弓道(五段)・銃剣道(五段)更に書道の先生でもあり、昭和の古武士然たる人であった。その性格は豪壮頑固にして、権勢をを嫌い、しかもユーモアーと人間味を持ち合わせた、魅力の人であった。

高知県の方言に土佐の「いごっそー」という言葉がある。広辞苑には”いごっそう、”「気骨があること。信念を曲げない、頑固者。」とある。正に”いごっそー”そのもので、後半生の50年余りを東京で暮らしながら、その土佐弁が変わることが無かった。我々には何とも懐かしく耳に残る。

教師生活が長かったせいか大田先生は話が上手だった。我々当時の若手は、居合の話を聞かせてもらいによくお宅に伺った。でも、居合の話もそうなのだが、その長い人生の中でのエピソードの数々を聞く方が面白かった。同じ話を何度か聞かされることもあったが、それまでには聞いていなかった、新しいエピソードがヒョイと飛び出すのである。

1、子供時代
 次吉は大田格次とイシとの間に、5人兄弟姉妹の長男として生まれた。男の子の誕生に父の格次と祖父は大喜びして、名前を自分の格次の次の吉だという意味で長男であったが、次吉(つぐよし)と命名した。大田家では初めての男の子なので、大層大事に育てられた。小学校には、赤シャツと袴を着せられ下駄で通学させられた。明治時代には赤色が体に良いという俗説があり、赤シャツが流行ったのだ。そのうえ髪も坊主頭ではなく、親がハサミで切ったおかっぱ頭だった。走ると髪の毛がパッパと跳ねるので参る。当人は「俺はもうイヤでイヤでしょうがなかった。」という。近所の子供と同じように普通の着物と草履を履き、坊主頭で学校に通いたかったそうである。

しかも大変な弱虫・泣き虫で、周りからは「泣き虫吉坊」呼ばれていた。後年の姿しか知らない我々には想像が付き難い話だ。



<実家すぐ近くの「伊与野の大いちょう」>
推定樹齢800年の県内屈指の大いちょうの樹、夏にはこの木の下で盆踊りが行われる。


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2、軍隊

 明治43年、次吉は18歳の時に、村の友達と2人で軍隊に志願をした。当時は、長男が軍隊に志願するためには親の承認が必要だった。両親の目を盗んで印鑑を持ち出し、判を押して志願書を隠れて送った。この行動はおそらく「泣き虫吉坊」が、その過保護の状態から逃げ出したかったのだろう。又泣き虫・弱虫の陰に隠れていた、芯の強さが現れたのだろう。

両親や村の人達は、あの泣き虫の吉坊のことだ、すぐに泣きながら帰ってくるに違いないと話し合っていた。しかし、次吉は泣いて土佐の家に帰ってくることはなかった。新兵教育を満州で送り、その後十年余に及ぶ軍隊生活を高知朝倉歩兵四十四連隊で送る事になる。

次吉
は好き嫌いが多いので、軍隊では食べるものには苦労した。子供の頃魚の食べ方が悪いと祖父にしかられて以来、特にナマ物がダメで刺身は70代を過ぎるまで食べられなかった。豚肉もダメだ、豚肉を見ると先ず豚の姿が目に浮かんできて、「あんな物は食えん。」となる。あの豪放さとは裏腹にこんな具合だ。
又、写真に見るように後の
次吉は見事な禿頭だ。シベリアでも羅紗の軍帽は暑くて、訓練から帰って来ると汗が滝のように流れる程だ。そのお陰で俺はハゲたと話す。これを聞いた弟子達は「本当かな?」と首を傾げたり、「先生も髪の毛を気にしているのかな?」と頭をひねるったりする。

曹長に昇進した次吉は、大正7年の日本軍のシベリア出兵に参加している。
ウラジオストックでのある日、討伐から帰ってきて兵舎に戻った時、そこに隠れていたゲリラに銃剣で突かれて、危うく九死に一生を得た話がある。その銃剣は、次吉の腰のブローニング拳銃の革ケースに当たり、止った。そばにいた兵隊が小銃の台尻でそのゲリラを殴り倒し、事なきを得た。「○○上等兵は、俺の命の恩人だよ」、と次吉は話している。後に、この話を人に話すと信用しない。そこで拳銃ケースに残る銃剣の傷跡を見せると、皆がやっと納得して驚いた。

この軍隊生活でも、権威を振りかざし威張る奴が嫌いだった。次吉の隊にやたらに威張り散らす評判の悪い大尉がいた。酔っぱらったその大尉が、酒保(売店)の管理責任者だった次吉のところに来て、「オイ酒を出せ」と言う。すると「員数が足りなくなるので、出せません。」と絶対に出さなかった。しかし酒が無いなどということはない。実際の戦闘では突撃の前に、兵隊に酒を飲ませて半分は酔っぱらわせて突撃をさせたそうである。当時の軍隊には、本当は酒が沢山あった。”いごっそー”の真骨頂発揮だ。
反対に次吉が非常に尊敬していた玉川大尉という上官がいた。士官学校出ているが昇進が遅くて、兵隊たちは陰で、「桃栗3年・柿八年・玉川大尉は十何年」と大尉が何度も陸軍大学を受験していることを少し嘲笑していた。
しかし自身も努力の人である次吉は違った。大尉が何度でも悪びれずに陸軍大学を受験し努力をしている姿に感銘したのである。数十年後の晩年に次吉は「玉誠」と号している。「玉」は玉川大尉から、「誠」は居合の師の山本宅治が号を「守誠」とするのでそこから貰い、自身の号を「玉誠」としたのだ。これを見てもどのぐらいこの上官のことを尊敬していたかがわかる。
しかしこのまま軍隊に残って職業軍人を続けても大尉止まりだ、と大正11年に特務曹長(準士官)で軍隊を辞めたした。約10年の軍隊生活であった。
 
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3、日本体育会体操学校
 軍隊を辞めてから何をしようかと考え、教師を目指した次吉は、日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)に入学した。当時は軍隊経験が長いと、中学を卒業していなくても受験資格が与えられた。30歳を過ぎた新入生だが、当時は更に年長者の同級生が2・3人はいた。学校では「上級生が頭を下げるので困った」と
次吉は笑う。確かに卒業アルバムを見ると、学生服を着て坊主頭だが立派な髭を蓄えて、学生には見えない人が何人か写っている。

次吉は鉄棒が得意であった。それは軍隊では鉄棒をよくやったので大車輪から、ポンと砂場に降りることが出来た。そこで体操部から選手として出てくれと、応援を頼まれて体操の試合にも出場した。つまり日体大の体操部の大大先輩で、ロス・オリンピック金メダルの森末慎二も大大後輩ということになる。

武道の授業では剣道を高野佐三郎から、柔道は三船久蔵という、当代最高の第一人者の名人から教えを受けた。次吉はガッチリとした体格だが背丈の大きい方ではない。専門の柔道では「三船先生と講道館に稽古に行くと、海軍の大きい奴とばかりと当てられて往生したヨ」と話す。「三船先生は澄んだ実に良い目をしていた」と印象を述懐する。次吉は三船の晩年まで、師として訪ねている。

在校中に関東大震災に遭遇している。次吉は学校の寮に住んでいたが、地震の後暫らくすると寮の食料も乏しくなってきた。俺が外の様子を見てくる、と一人で外に出た。門の近くに、いつも寮に中華ソバの出前に来る朝鮮人の少年が斬殺されていた。「可哀想なことをする。まったく馬鹿なことをしゅおる」と顔をしかめて話す。さらに歩いていくと日本刀を腰に差した男達に取り囲まれた。学生がこんな危ない時に一人でウロウロして、怪しい奴だという。
次吉は学生服のポケットから、例のブローニング拳銃を取り出して「これよ、これよ」と見せると相手は後退りして納得した。騒然とした当時の様子がわかる。

当時の日体の校長は陸軍中将だった。時は軍縮の時代で、前年にアメリカで大学の予備将校訓練制度を視察して帰ってきていた。日本でも是非同じ制度が必要だ、ということになり日体が中心になって学校教練のカリキュラムを作ることになった。
陸軍中佐が責任者で進められたが、彼が実際の教練の仕方などに精通しているわけではない。そこで次吉に白羽の矢が立った。同級生には短期志願という制度で少尉の資格を持つ者も何人かいた。しかし次吉はついこの間までの現役バリバリである。中佐から「大田、お前に全部任せるからやれ。」と指示されて結局、教練の内容は実質は次吉が全部作った。
一年後、その発表会でまたもや「大田、お前がやれ。」、と中佐の軍装一式を渡された次吉がそのいでたちで、発表披露の分列行進を指揮した。
 
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4、高知県立安芸中学

 大正13年、日体を卒業した次吉は高知県立・安芸中学校の体操教諭となる。
今、学校の荒廃が言われるが大正末期から昭和初期の当時も、中学の生徒達は何処でも手に負えなかった。5年生(今の高校2年)ともなると体も大きく教師の言うことなど聞くものではない。

そんななかでも安芸中学は特別荒れていた。学校行事の式典で教師を胴上げして、そのフロックコートをビリビリに破るなどということが茶飯事だった。そこへ次吉は請われて赴任した。相手の生徒がいくら大きくても、剣道・柔道は元より相撲でも生徒に負けることはなかった。柔道部や相撲部の一番大きい次吉よりズット体の大きい生徒を相手にして、締め技を掛けて落として気絶をさせてしまう。そして柔術秘伝の活を入れ息を吹き返えらせる。流石の暴れる生徒もこれには敵わない。大田には歯が立たなかったわけである。
まるで夏目漱石の「坊ちゃん」のような世界だ。しかし漱石の坊ちゃんとは違い、こちらの新任教師は腕っ節が滅法強かった。
ある日、安芸中学を訪ねてきた他所の中学の校長が校庭を見てタマゲタ!!何と5年生達が校庭の草むしりをしているではないか。その校長も生徒にはホトホト手を焼いていたのであろう、あの生徒たちに草むしりをさせているのは誰ですか?私の校長の俸給より高い給料を出すのでその先生に、我校に来てくれないかと申し出た。嘘のような本当の話だ。

でもただ怖いだけではない。鉄棒がどうしても出来ない生徒がいると、その手のひらを見て豆が出来ていると合格とした。つまり上手く出来なくてもその生徒の努力を認めるというわけである。今も昔も中々こういう先生が少ない。

この頃、次吉は道路の橋の欄干に書かれた字の見事なのに魅せられた。人に聞くとあの字を書いたのは石職人の親方だという。早速その親方を訪ね「私は高知県・立安芸中学の大田という者です、あなたが橋に書かれた字に感動しました。是非、私に習字を教えて下さい。」と弟子入りを頼んだ。しかしその親方は、私は弟子などは持たないので教えられないという。さらに懇願すると、親方はそれでは今日から半紙100枚に毎日字を書いて、1週間後に持って来なさいという。当時は中学校の教師と言えば町の名士だ。ムッとしたが半紙を買って帰りその日から毎日100枚の字を書いて、親方の元に持っていった。その熱意が通じたか教えてもらえることになり、毎週字を習いに通うことになる。その先生はただ字を見てくれるだけで、実に面白味のない人だった。三年近く通ったがその間に「大田君、一緒に酒でも飲もう」というようなことは一度もなかった。でもその字は立派だった。

又、安芸室戸警察署の武道嘱託として警察官にも柔剣道を教えてもいる。そしてこの時期に、次吉は居合を始めている。安芸中学に大江正路の弟子で剣道教師として長尾景房がいた。かねてから居合を習いたいと思っていたので、同僚の柔道教師と一緒にお願いした。すると思いの外簡単に長尾先生は「どうぞ、どうぞ」と承知してくれた。次吉は後年「その時の嬉しさは今でも忘れません。」と書いている。長尾先生の紹介状を持ち最晩年の大江正路の元を尋ねた時、大江先生は「ここにいられる方は高知県立安芸中学教諭の大田次吉先生である。山内、抜いて見せよ。」と弟子の山内子爵に居合を抜かせて見せてくれた。次吉は後に同じく大江正路の弟子、山本宅治の元へ通い、山本先生から無双直伝英信流の免許皆伝を授けられている。
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5、攻玉社中学

 昭和3年、次吉は体操に加えて国漢の教師免許を取得する為に、安芸中学から東京の攻玉社中学に転職する。日本の敗戦で軍隊経験の長い者を教職から追放するというGHQの命令が出て、攻玉社を辞するまでの十数年を引き続き教師としておくる。在職中に立正大学に通い国漢教諭の資格を取り、体操の他に国漢と習字も教えるようになった。

生徒の付けたあだ名は”いっさん”だった。
”一再(いっさい)”は土佐の方言で”もう1回”の意味だ。鉄棒などの体操の授業でうまく出来ない生徒に対して、「それ!もういっさいやってみろ」と励ます。当時の攻玉社には生徒監で髪が薄く、後ろ姿を見て”ザ・サン”とあだ名される加藤というコワイ先生がいた。そこでもう一人の”サン”という意味があだ名の元となった。これら生徒の中には後に居合の弟子となり共に事務局長として次吉を助ける、落合忠男と小林幹もいた。


 <昭和4年、前列左から二人目大田先生>
後ろのガラス戸の中から1年生らしい生徒が覗いている。この少年達も今は多くが物故されているのだろう。


         体操部                       書道部

攻玉社は海軍兵学校の予備校的な性格を持った中学で、海軍に進む生徒が多かった。その為、生徒の中には海軍大将や中将と言った所謂提督の子弟も沢山いた。その中には学校に自動車で通ってくる者までいた。(当時は中学生の運転が可能だったらしい??)。お前達に出来るのならそんな物は俺にも出来る、「チョット貸してみろ」とその車を近くの空き地で走らせた。いくら次吉でもイキナリ上手に車を動かせるわけではない。案の定、車をその空き地に建っていた小さい社にぶつけて倒してしまった。どう後始末をしたか知らないが、「あの時は参ったヨ」と苦笑いしながら話す。だから次吉の運転歴は永い。
この「参った」話しが我々には面白い。

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6、戦後
 マッカーサーの命令で教師を続ける事が出来なくなった次吉は、しばらくは時間がタップリとあったので、趣味である刀剣の鑑定をしてあちこちを歩いた。ある日千葉の農家からその家にある刀の鑑定をしてくれと頼まれた。その家に出かけて鑑定が終わるとその家の人が、お礼にと当時は大変貴重な米を持たせてくれた。その米をカバンに入れて列車で帰ってくる途中で、警察の闇取引の摘発にあった。米を持っているということで警察まで連れていかれた。

「馬鹿者!知人がお礼にくれた僅かな米を持って帰って、家で食うのがヤミ商売か?」と取調べの警察官を怒鳴りつけたが埒が開かない、「署長に会わせろ」と言った。すると署長がお呼びですから行って下さいと言われ部屋に行った。「大田先生ですね。私は安芸中学で先生の教え子だった○○です。私は先生が署に来られた時から大田先生だとわかっていました。」というではないか。次吉もその教え子の署長のことを思い出した。結局「今日はその米を持ってお帰りください」と無罪放免となった。教師生活が長いので教え子は沢山いるが「初めて教え子に助けられたヨ」と話していた。 

昭和23年頃に蓮沼名倉堂を開院し柔道整復師として以後治療に当たっている。
 
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7、我等がオヤジ
 70歳を過ぎても元気で、若い頃のガッチリした体格は痩身になった。これは長命の元でもあったろう。そして居合・剣道・柔道の稽古はもとより、「70歳を過ぎてキャバレーから電話が掛かってくるのは、うちの親父ぐらいだろう。」、と次吉の御子息の賢一氏は話す。次吉自身も、「俺は酒は飲むしタバコも吸う。山本先生のような聖人君子のようにはヨウなれん。」という。

外を歩く時は背筋を伸ばしてとにかく早足で歩く次吉を、お供の我々は駅のホームなどでも小走りで後を追う。京都の市電で座席に座った老人の前に立ち、「貴方はお幾つになりますか?」と問い掛ける。そのお年寄りは「今年で73歳になりますー」京言葉で答える。「ホーそれは大したものですなあ、私は72歳です。貴方の方がお元気だ」。そうですかと、その老人は背中をピンと伸ばして座席に座り直す。次吉がこちらをみてニヤリと笑う。本当の歳は77−78歳の頃だ。こんなひょうきんなこともヒョイとする。

また、子供が好きで自分の育った宿毛市小筑紫の小学校に、本や教材を送るようなこともしている。

82歳までは整骨師の仕事の他、引き続き元気に武道の指導と稽古に励んでいた。日課のランニングなどは近所の名物でもあった。
昭和49年のある日、次吉は右手が利かなくなり刀を握ることが出来なくなった。頸椎からくる神経の傷害が原因であった。他に体の異常は無いので、八方治療を尽くし自身もリハビリと回復につとめた。努力の人である。自宅の座敷で木刀を落としながらも、弟子達には隠して刀を振る練習などもした。しかし努力の甲斐は筆が握れる程度の回復でしかなかった。そして完全に右手が直り、次吉が刀を握れるようになることはついになかった。
その性格からして、以後居合などを自身で出来なくなった悔しさは、察して余りある。

最晩年の91歳まで、毎年5月に京都で開催される居合の全国大会へ出かけていた。しかしその後に次吉は体調を崩し、それまでの記憶を失う時があった。東京大田区の自宅に見舞いで訪れた我々弟子達に向かって、座り直した次吉はこう挨拶した。「貴方達は私が東京で暮らしていた時に知り合った方だと思います。」「しかし私は東京での事を忘れてしまっているので、色々失礼があったかも知れないが許して頂きたい。」と、ビックリして我々は顔を見合わせて返す言葉につまった。
多分その時、次吉の頭の中では土佐・小筑紫の生家に居たのであろう。

その時に「先生はヤット、土佐に戻られたのだな」と私は感じた。先生はしばしば東京から高知を訪れてはいたのだが。

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あとがき


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