『月刊日本語』(アルク、2003年2月号、pp.18-21)

国語と日本語

小矢野哲夫

   国語と日本語
 まず、表題の用語で異なる部分から話を始めよう。「国語」と「日本語」である。
 「国語」と「日本語」は概念上、どんな関係にあるのか? 完全に同義・対称ではないことはある程度、知られているだろう。
 「国語」はある国の公用語、日本語、学校教育の国語科といった意味を持っている。「日本語」は世界に数ある言語の中の一つとしての言語の名称、外国人や帰国児童生徒などが学ぶ科目の一つ、大学の専攻やコースの名称といった意味を持っている。
 このように、「国語」と「日本語」は共通点と相違点を持った用語である。
 日本には、「国語」と「日本語」を同じものだと理解し、両者に区別があるなどと意識していない日本語母語話者が多いと思われる。また、「国語」が教科名であることは知っていても、「日本語」がそうであるとは知らない人も多いだろう。教科名が異なるということは、教科内容、教育目標、教育対象としての学習者の種類などが異なることを意味している。このため、学校によっては国語の授業と日本語の授業が併設されていることもある。

   国語学と日本語学
 ところで、日本語を研究する分野の名称として「国語学」と「日本語学」がある。それぞれ、「国語」の学であり、「日本語」の学である。一見、対称をなしているように思われる。しかし、「日本語」の学の方が範囲が広い。
 現在、国語学会において、学会の名称を変更するかどうかをめぐって議論が行われている。現行のまま「国語」を使用するか、言語一般や外国語との対照といった研究の視点の広がりや外国人研究者の増加といった事情を踏まえて日本語学会とするかという議論である。印象としては改称の方向に動くだろうと思われる。
 国語学会の枠の中に納まりきらないといった意識もあったのであろう、社会言語科学会や日本語文法学会などの学会が誕生した。
 日本語をめぐる、多文化・多言語共生といった今日的状況において、国語学という名称では捉えきれない事柄が、日本語研究には生じていると言わざるをえない。

   国語教育と日本語教育
 このような関係にある「国語」と「日本語」を「教育」と結合すると、どういう問題が出てくるであろうか。
 学校教育における「国語」、通常、われわれが学校で学んできた科目としての「国語」は、主に日本語を母語(第一言語)とする学習者を対象に、日本語が母語であることを前提に、読む・書く・話く・聞くの、言語の四技能と言語感覚の育成を目的に教育されるものである。すなわち、言語の教育としての国語教育である。しかし、長年、文学的な教材を「読む」ことに重点が置かれてきた。
 教科名としての「日本語」は、日本語を母語としない(たとえば日本語が第二言語の)学習者や、日本語は母国語だが、母語としての第一言語のレベルに達していない学習者を対象に、言語の四技能の育成を目的に教育され、特に、話すことと聞くことに重点が置かれてきた。
 日本語教育の教員を募集する際に「日本語・日本事情」といった用語が使われることがある。この意味では、「日本語」は言語自体を表すのであるが、多くは、「日本語」と言えば、日本の文化や社会、歴史や現代事情といった内容も含んでいると思われる。

   日本語学習者の多様化に伴う問題点
 日本語教育の目的は、学習者の学習動機と密接な関係がある。外国人留学生なら、大学の授業を聞いて理解し、ノートを取り、ゼミで発表したりレポートを書いたりするといった能力が要求されるので、それにふさわしいカリキュラムを組むことになる。小学生なら、生活言語より学習言語能力の育成と支援が大事になる。ビジネスマンのばあいには、交渉術といった観点からの日本語運用能力が必要になるだろう。地域で生活している外国人には医者との会話や行政窓口での応対、保育所や幼稚園・小学校とのやりとりなどがもっとも必要な日本語であろう。
 このように、日本語学習者が多様化すると、日本語教育の目的も学習者の要求・要望に沿ったものを準備する必要がある。日本語学習者は生きるために表現し、理解するための日本語を必要としているのである。こういった視点が日本語を教える側には求められる。そして、日本語という言語そのものの構造を理解するだけでは十分ではなく、日本社会における言語行動や日本の現代事情にも通じておくことも大切である。学習者が生活者であるという視点をいつも念頭に置いた教育がこれからの日本語教育及び日本語教育学研究には必要であろうと思う。

   帰国児童生徒・年少外国人に対する日本語の教育
 近年、日本語の能力が母語並みでない帰国児童生徒や年少の外国人が居住校区の小学校や中学校に入ってくることが目立ってきた。しかし、教育行政がこのような状況に十分に対応できていないために、日本語を母語とする学習者と同じ教室で、国語や算数、理科、社会科などの授業を受けるといった光景が見られる。授業者の側も、外国人や帰国児童生徒に対する対応の仕方についての専門的な知識を十分に持ち合わせないまま、その学習者の対応に追われる日々を送っている状況もある。学習者の側からすると、いわばお客様扱いを受けていることになり、とても幸せとはいえない環境である。
 低年齢の学習者のばあいは、生活言語に不自由がなくても学習言語の獲得が行われないために、学習の理解が不十分になることもある。これが、上級学年にまで尾を引きかねない。
 このような状況において、「国語教育」「日本語教育」といった現行の枠組みにとらわれない、言語の教育としての「日本語の教育」といった視点が必要である。そのばあいの「言語」、「日本語」は運用面において、文化を基底に持ち、社会で暮らす人間と一体になるものである。

   日本語教育と国語教育の連携
 以上、述べてきたように、もはや、国語教育とか日本語教育とかいう領域の内部だけでは解決できない問題が出てきている。日本語教育と国語教育が連携しなければならない。この問題については、甲斐(1998)の提言や「国語と日本語の連携を考える会」の活動が有益である。
 学校における教科間の連携について、国語科と算数・数学科、理科、社会科などの連携は、言語の面で当然、行わなければならない。言語教育としての外国語との連携も有益である。
 このように、日本語母語話者ばかりで構成された教室においても、国語教育が国語科の枠を超えて他の教科と連携を取る必要がある。それにもかかわらず、現状では不十分だと思われる。
 日本語教育と国語教育の連携について、甲斐(1998)は、平成9(1997)年度文化庁日本語教育大会の第一分科会「日本語教育と国語教育の連携」で出た問題点を踏まえて、「日本語教育の研究者や教師は国語教育を強く意識して問題点を指摘しているけれども、逆に国語教育の研究者や教師は日本語教育に関心を寄せていないという一方通行的な状況が認められる」と述べている。現在でもこの状況はほとんど変わっていないと思われる。
 長年にわたる教育研究と実践の蓄積を背景に持った国語教育の教師に対して、佐々木(1998)は「異なる文化的背景を持つ人々とコミュニケーションを行う時に、相手のコミュニケーション・パターンを見きわめつつ自己のパターンとの調整をはかれるような能力を育てる」ことを要望している。自分の領域にとどまっているだけでは気づかないことではある。しかし、現場には新しい状況が生まれている。この要望は、教師が自己の言語コミュニケーション・パターンを自覚し、日本語母語話者に対しても言語の教育を行う者として対応する姿勢の育成も含まれている。自己を知るためには他者を鏡として見る事が大切なことである。教師は学習者には常々指導していることと思われるが、自分自身のこととしての自覚に欠けるのではないだろうか。
 日本語教育の現場では教師と学習者、学習者同士のインターアクションが、ごく当たり前の光景として見られるが、国語教育においては教師から学習者への一方通行的な通達行為が目立つということも指摘できるだろう。
 国語の教師と日本語の教師が互いの授業を参観し交流するということを、まず始めてみることが、日本語教育と国語教育の連携を実りのあるものとする第一歩ではないかと思う。
 できるだけ早い学習段階から実行し、継続することが望まれる。というのも、今や、日本人大学生の「日本語」教育(注)といったテーマも論じられるようになってきている。大学生の日本語表現能力が衰えているのである。
 「日本語」の教育の充実・発展を切に願うものである。

(注) 「第8回 国語と日本語の連携を考える会」(2001)東洋大学・三宅和子氏の発表。「『日本語』というふうに括弧でくくったのは、いわゆる国語教育で語られている枠組みを超えて、日本語を第一の言語として使い、自己表現するための日本語の教育」という意味である。

参考文献
甲斐睦朗(1998)「連携からとらえ直した国語教育─日本語教育との連携を中心に─」『日本語学』1月臨時増刊号(明治書院)
甲斐睦朗・田中孝一監修(1999)『高校国語教育─21世紀の新方向─』(明治書院)
国立国語研究所(1997)『第3回 国立国語研究所国際シンポジウム報告書 世界の言語教育・日本の国語教育』(凡人社)
新プロ「日本語」研究班4・教育チーム編(1997)『第4回 国立国語研究所国際シンポジウム・第3専門部会 これからの国語教育を考える』(国立国語研究所)
佐々木倫子(1998)「これからの国語教育─日本語教育の立場から─」『日本語学』1月臨時増刊号(明治書院)
「第8回 国語と日本語の連携を考える会」(2001)
http://faculty.web.waseda.ac.jp/hosokawa/knr010728a.pdf
細井勉(1998)「数学教育と国語の教育─数学語と日常語との間の混乱の解消を願って─」『日本語学』1月臨時増刊号(明治書院)

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