ことばの路地裏(6) 小矢野哲夫(大阪外国語大学教授)
『毎日新聞』(大阪本社版)毎週木曜日夕刊に連載。(2006年4月6日からの分)
連載は来年(2006年)3月まで続きます。ご愛読のほど、よろしくお願いします。
2005年1月6日から2006年3月30日までの分は こちら

2006年4月6日 第150回

がせ

 『三省堂国語辞典』は第3版(1982年)から俗語として、「がせねた」の例を示し「にせもの」の意を載せる。辞書はことばを写す鏡であり、かつことばを正す鑑(かがみ)だとする見坊豪紀(けんぼうひでとし)編集主幹の信条に基づいて鏡が写しだした語。
 調べてみると、『警察隠語類集』(56年)に、詐欺犯仲間に使われる、「人騒がせ」を省略した語で、虚偽の申告の意とする。転じて、盗み仲間に使われる、うそ、いつわりの意になったと説明する。
 隠語は仲間内にのみ通用する語だが、外にもれて俗語となり、一般にも使われるようになる。
 この語が先ごろ、公的性格の強い衆院予算委員会の場で首相によって使われた。俗語が公的用語に昇格したとは思えないが、長く議事録に残る「栄誉」を得た。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年4月6日夕刊)

2006年4月13日 第151回

スカンポ

 スイバ(酸葉)、イタドリの別称。両者は別ものだそうだが、子どものころ、サージッポと呼んで、茎を食べていた。酸っぱいがおいしいと感じていた。折るとポンといい音がした。
 「酸模(すかんぽ)の咲く頃(ころ)」(北原白秋作詞・山田耕筰作曲)という歌がある。「土手のスカンポ じゃわさらさ」と、意味も分からず歌っていた。「ジャワ更紗(サラサ)」であることを後年知り、実物も見た。だが、スカンポとジャワ更紗の関係はよく分からないまま。ホタルが出る夏の歌。
 スカンポだけでなく、河原の低木の実や草も食べていた。食用になるかならないかはガキ大将が知っていた。食べ物が乏しい時代の遠い思い出。大学のキャンパスに生えていたスカンポ食べてみたことがある。苦くて吐きだした。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年4月13日夕刊)

2006年4月20日 第152回

ちばな(茅花)

 チガヤの花。つばなとも。子どものころ、つんばなと呼んで、葉に隠れている白い綿のような穂を食べた。甘く感じた。春の田にたくさん生えている。
 万葉集巻8に紀郎女(きのいらつめ)が大伴家持に贈った歌がある。「春の野に抜ける茅花(つばな)そ食(を)して肥えませ」(食べて太ってください)。これに対して家持は、自分は恋をしているらしく「茅花を食(は)めど、いや痩(や)せに痩(や)す」と返している。
 この歌を知ったのは大学時代の万葉集の授業でだった。家持が食べた草を自分も食べたことがあるのがうれしかった。
 道すがら田を見ると、レンゲ、ホトケノザ、オオイヌノフグリなどとともに、穂が葉から出ていた。もう食べられない状態で、やがて耕されて田植えを待つのだ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年4月20日夕刊)

2006年4月27日 第153回

穀潰(ごくつぶ)し

 「飯を食うだけで、何のはたらきもない人」(『大辞林』第2版)。
 この語は16世紀半ばの書物に出てくる。「この穀潰しめ」のように人をののしるときに使うことが多い。『吾輩は猫である』(1905)に「無用の長物とか穀潰しとか入らざる誹謗(ひぼう)の声を立てるのである」の用例がある。
 最近では、インターネットで「穀潰し雑記」「穀潰しブログ」のように自嘲気味に使う例も見られる。類語に「無為徒食」「無芸大食」があるが、穀潰しほどのインパクトには欠けるだろう。
 「働かざる者、食うべからず」という聖書の一節は、正しくは「働きたくない者は、食べてはならない」(『聖書 新共同訳』)と訳されるべきところ。だから一生懸命働けというメッセージにつながる。穀潰し返上。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年4月27日夕刊)

2006年5月11日 第154回

カッターシャツ

 ワイシャツと同じものだと思っていたが、厳密には違うものらしい。ワイシャツはえりとカフスの取り外しができるものだが、カッターシャツはできない。ふだん着ているのは全部カッターシャツだったのだ。
 ワイシャツはYシャツとも書くが、もとはホワイトシャツ。今はカラーワイシャツというものもある。黄色い白墨というようなもの。
 カッターシャツはカッターとも略称され、西日本でよく使われる語のようだ。言葉の東西差の一つ。
 そして、カッターは外来語だと思っていたが、元は商標名だった。今年創業100周年を迎えたミズノ(元は美津濃)の創業者水野利八が考案した名前。第一次世界大戦に「勝った」をもじって命名し1918年に運動着として売り出されたものだそうだ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年5月11日夕刊)

2006年5月18日 第155回

お金をくずす

 1万円札を1000円札などに、または100円硬貨を10円硬貨などに、のように、ある貨幣を、それより少額の貨幣に換えること。物を買って小銭にすることにも使う。自動詞は「くずれる」。
 両替することを共通語ではこう言うが、方言には他の言い方もある。「こわす」「くだく」「めぐ」など。いずれも破壊を原義とする動詞の意味が転じたもの。
 筆者は「めぐ」または「くだく」を使った。「めぐ」はさすがに方言だと思っていたが、「くだく」は共通語でも通用すると思っていた。「お金をこわす」を特に方言だと意識しないで普通に使っている地域の人たちもいる。これらを「気づかれにくい方言」と言う。
 方言だと思わないから、その土地以外で、つい使って、通じないこともある。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年5月18日夕刊)

2006年5月25日 第156回

押し込む

 先日、新聞を読んでいて、「人を車のトランクに押し込む」という表現が目にとまった。他紙も同様だった。個人的な語感では「押し込める」を使うところなのだが。
 「押し込む」には「押し入る」と同様の自動詞の用法がある。また、無理に中に入れる「押し込める」と同じ他動詞の用法もある。
 英語と違って、和語には自動詞と他動詞が同じ形のものは少ない。そんな中、「押し込む」は自他同形動詞だったのだ。
 調べてみると、「込む」を後項に持つ複合動詞が約200語あるのに対して、「込める」が後項のものは20語に満たない。自動詞と他動詞が対応するものはこのうち10語に満たない。「○○込める」は古くから劣勢だったのだ。
 ちなみに筆者の方言で押し入れのことを「押し込み」と言った。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年5月25日夕刊)

2006年6月1日 第157回

焦点を合わせる

 自動焦点機能で素人写真を撮っていても画像がぼけることがある。ピンぼけと言う。ピンはオランダ語「brandpunt」から来た語、ピントの略だ。ピントが合う、ぼける、ピントを合わせるなどと言う。
 焦点は英語の「focus」の訳語だと思われる。焦点が合う、焦点を合わせると言う。ところが、「焦点を当てる」という言い方がかなり多く使われている。インターネットで検索しても、「当てる」が圧倒的に多い。なぜだろう?
 「スポットライトを当てる」との混交が考えられる。スポットライトは一つのものに光を集中させる。レンズが焦点を結ぶイメージと重なる。焦点を合わせた結果、事物がくっきりと像を現す。これを、焦点を当てると言うのだろう。誤用だと思われるが、使用の勢いからすると正用になるかも。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年6月1日夕刊)

2006年6月8日 第158回

くすぐったい/こそばゆい

 どちらも共通語だろうが、「くすぐったい」が関東的で、「こそばゆい」が関西的だと感じる。
 成立は「こそばゆい」のほうが古いようだ。『新潮文庫の100冊』を検索すると、使用例は「くすぐったい」のほうが多い。『楡家の人びと』(北杜夫)では「こそばゆい」だけが使用され、『塩狩峠』(三浦綾子)では「くすぐったい」だけが使用されている。
 方言形は多様だ。こそばい、こしょばい、こちょばい、くつわい、くつばい、こそがしいなど。混交形の「こそばったい」もまれに聞く。幼少時は「くつわい」を使い、後に「くすぐったい」や「こちょばい」を覚えた。
 語感では「こちょばい」が一番好きだ。「こちょこちょする」「こちょばす」という動詞も、幼児を相手に使った。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年6月8日夕刊)

2006年6月15日 第159回

風光明美

 この表記を見て、変だと思う人もいるだろう。「明媚(び)」のはずだ、と。しかし、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送などでは使われないのだ。初めてこれを見たとき、人名だと思った。
 「現代の国語を書き表すための漢字使用の目安」として1981年に告示された「常用漢字表」に「媚」の字はない。もちろん、これの前にあった「当用漢字表」(46年)にもない。文学作品は、この表の漢字と関係なく表記される。『冬の旅』(立原正秋)には5回、風光明媚が使われている。
 インターネットで検索してみると、風光明媚が100万件以上ヒットするのに対して、風光明美は5、6万件にすぎない。個人の表記にも常用漢字表は適用されないから、「明媚」の表記がいかに好まれているかが分かる。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年6月15日夕刊)

2006年6月22日 第160回

考えづらい

 動詞に「づらい」を付けて困難を感じることを表す表現が爆発的に増殖中だ。「にくい」を付けたらいいものを、と思う。
 インターネットでGoogle検索してみると、「にくい」が3080万件、「難い」が59万3000件なのに対して、「づらい」が約3分の1の1030万件もヒットする。
 読みづらい、書きづらい、走りづらいなど、意志的な動作の場合は適切だが、分かりづらい、考えづらい、生きづらいなどには違和感を覚える。
 ネットでは「考えづらい」が12万3000件で、「考えにくい」が144万件、「考え難い」が16万7000件。「考えづらい」はまだ主流になっていないが、「づらい」の増殖ぶりをみると、「にくい」と競り合って、やがて主流になるのではないかと思われる。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年6月22日夕刊)

2006年6月29日 第161回

広告

 明治初年、英語advertisementの訳語として成立。原義は文字通り広く知らせること、公にすること。公告と類義。古くは「広め」と言った。「お披露目(ひろめ)」と当て字される語と同2006年6月29日 第161回源。
 芥川龍之介は『侏儒の言葉』(文藝春秋1923〜25年連載)の中で「こう言うことを広告するのは」「その為(ため)に一言広告します」と原義の用法で使っている。
 日本の商業広告は江戸時代にさかのぼるらしい。看板やうちわ絵などで店名や商品を広めた。
 明治になって日刊新聞が発行されるようになり、新聞広告も活発になった。01年には広告代理店、電通の前身、日本広告株式会社が設立された。
 今や広告は各種多様で、見聞きしない日がないくらい身近だが、賢く付き合いたいものだ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年6月29日夕刊)

2006年7月6日 第162回

でかした

 動詞「でかす」の過去形に由来する。人が何かをうまく成し遂げたときに発する、ほめる言葉。日常的には使わないが、「勘九郎、でかした」(司馬遼太郎『国盗り物語』)のように、時代ものの小説で見かける。「でかいた」とも。後ろに「ぞ」を付けて言うことも多い。主に男性が使う。
 漢字表記はめったに見かけないが、「出来す」と書く。「出来る」の他動詞なのだそうだ。
 「でかす」の前に「する」が付いた「しでかす」も関係する語。古くは良い意味で使われていたが、現在は「やらかす」と同様、困ったことをする意の俗語。
 ウェブを検索すると、けっこう使われている。相手に面と向かって使う場面は想像しにくい。話し言葉調の書き言葉で生き残っているのではないか。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年7月6日夕刊)

2006年7月13日 第163回

現代っ子

 1959年、阿部進氏がこの新語を使いはじめたそうだ。その著書『現代子ども気質』(61年)、『現代っ子採点法』(62年)が出たころには流行語になっていた。
 現代っ子は戦後生まれの、当時小学校高学年・中学生だ。団塊の世代も含まれる。高度経済成長が始まってしばらくの時期だ。
 地方で小中学生時代を過ごした筆者も現代っ子に入る。自分のことは自分でしましょうと親から言われて育った。くず鉄を拾い集めて売っていた。子供会の廃品回収も自分たちでリヤカーを引いて集めてまわり、重さを量って業者に売った。子供会の運営も自分たちで行い、行事やお金の使い道も話し合った。こういうことも、現代っ子が持っているとされた社会を生き抜く力、社会を変える力だと見られていたのだろうか。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年7月13日夕刊)

2006年7月20日 第164回

電髪

 1939年の造語。これ以前、業界ではパーマネントの語が通用していたようだ。だが、6月16日、ネオンやパーマネント廃止を盛り込んだ生活刷新法案が可決。代わりに業界が考案した語。第二次世界大戦に向かう時局、「贅沢(ぜいたく)は敵だ」(40年)の空気が生まれつつある中だった。
 この語は43年発行の『明解国語辞典』に登録された。だが、60年発行の『三省堂国語辞典』には見えない。寿命が短かった。
 不思議なことに、パーマネントの語は昭和初期に各種出た新語・モダン語辞典の類には見えない。31年の『モダン語漫画辞典』でも、パーマをかけたモダンガールが描かれているのに、語は見えない。
 パーマネント・ウエーブがパーマネントとなり、さらにパーマと短縮されて現在に至る。
(『毎日新聞』(大阪本社)2006年7月20日夕刊)

2006年7月27日 第165回

お目見え

 多義語の記述に二つの方式がある。意味・用法の古い順に並べるものと新しい順に並べるもの。
 方式の異なる辞書で「お目見え」を引いて驚いた。どちらにも最初に「貴人に初めて会うこと」と書いてある。筆者は現代語では「新たに人の前に姿を現すこと」(『大辞林 第2版』)として理解していた。だが、これは2番目の語釈だ。
 語自体は室町時代からすでに最初の意味で使われているが、最近は貴人に会う機会は乏しいから、使用例はまれだろう。
 先ごろ用例を見つけた。「あたいはいってたの、ロンドンに、おめみえしたのよ、女王さまに」。北原白秋訳『まざあ・ぐうす』(1921年)の「ちびねこ、さんねこ」の一節。
 拝謁(えつ)、謁見、お目通り、引見、まみえる、お目もじ、お目にかかる。人に会うのも多様。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年7月27日夕刊)

2006年8月3日 第166回

尾頭付き

 魚料理で尾も頭もついたもの。特に鯛(たい)の塩焼きに使うことが多い。もとは神事の供え物だそうだが、家庭では子どものお食い初めなどの慶事に出る。
 「お頭付き」と、丁寧表現の「お」と思っている人もいるようだ。めったに食膳(ぜん)にのぼらない料理だからしかたがないか。
 そもそも「かしら」という語は現在、聞く機会が少なくなってきている。人形の頭や頭文字が通用しているくらいだろう。
 昔の小学校で、行進するとき「かしら、右!」の号令とともにテントの中の校長先生や来賓のほうを向いた。集団の長は「(お)かしら」と呼ばれる。子沢山の時代には「主人夫婦と十七八の娘を頭に五六人の子供が」(川端康成『雪国』)などと言った。だが、暴走族のリーダーは「族のアタマ」と呼ぶ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年8月3日夕刊)

2006年8月10日 第167回

三種の神器

 元は歴代の天皇が受け継いできたとされる三種の宝物。八咫(やた)の鏡・草薙(くさなぎ)の剣<天叢雲(あまのむらくも)の剣>・八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)。これが三種類の必需品という意味で時代や分野や集団によって取りあげられる。
 1955年にこの語が流行語となって、電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビジョンのこと。わざわざ「電気」を冠しているところが時代を感じさせる。ここから半世紀たった今、デジカメ、大型(薄型)テレビ、DVDレコーダーが新三種の神器と呼ばれる。
 女子高校生の三種の神器はケータイ(携帯電話)、プリクラ、 カラオケ。大学生の就職活動の三種の神器はインターネット、新聞、ケータイ。メディアリテラシーと情勢判断能力は不可欠だろう。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年8月10日夕刊)

2006年8月17日 第168回

セコハン

 英語のsecondhand(セコンドハンド)の略。『訂正増補新らしい言葉の字引』(服部嘉香・植原路郎著、1919年)に「セコンド・ハンドSecond-hand(英) 二度人手に渡つたといふ意味。古物(ふるもの)、中古(ちうぶる)。略してセコハンといふ」と出ている。これより古い例として『社会百面相』(内田魯庵、02年)の中の「新学士」に例がある(米川明彦『日本俗語大辞典』)。
 物や人について使う。笠置シズ子の「セコハン娘」(46年)は、着物もドレスもハンドバッグもハイヒールも恋人も姉の「お古」、だからそう呼ばれるのだと歌う。
 現在は中古の語は好まれない。中古車展示場にU−carとこじゃれたプレートがついていたり、ネット上で古本を探すとユーズド(used)価格とあったりする。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年8月17日夕刊)

2006年8月24日 第169回

「ご苦労様」と「お疲れ様」

 これらはともに相手の労をねぎらうことばだ。だが、両者のあいだに立場の差があるとされる。
 文化庁の「国語に関する世論調査」の結果概要が発表された。下から上に対して「ご苦労様(でした)」と言う人が15.1%、「お疲れ様(でした)」と言う人が69.2%だった。一方、上から下に対して「ご苦労様(でした)」と言う人が36.1%、「お疲れ様(でした)」と言う人が53.4%だった。
 調査に疑問点がある。「でした」の有無で相手の上下に差が出るだろう。上に対して決して「お疲れ様」「ご苦労様」とは言わないが、「でした」を付けるとどちらも上に対して使えるだろう。その区別がこの調査では不明確。
 ご苦労、ご苦労様、ご苦労さん、ご苦労様でした、ご苦労様でございます、など、かなり差がある。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年8月24日夕刊)

2006年8月31日 第170回

「言わはる」と「言いはる」

 関西弁で有名な敬語表現、ハル敬語。親愛語とも呼ばれる。
 五段活用動詞には未然形接続のイワハルと連用形接続のイイハルの2種類の言い方がある。
 『大阪府言語地図』(岸江信介・中井精一・鳥谷善史、2001年)は大阪府全市町村の生え抜き(調査当時70歳以上)の人を対象に1990年から92年にかけて行われた調査に基づいている。
 これによると、イイハルとイワハルとでどちらを多用するかで地理的な分布に特徴がある。大阪市は西部がイイハルで東部がイワハル。イイハルはさらに堺市から府の南部で見られる。一方、イワハルは大阪市の北、東、南東にある市に分布する。地図で知ったのだが、大阪府でも特に南部、いわゆる泉州にはハルを聞いたこともないという回答が目に付く。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年8月31日夕刊)

2006年9月7日 第171回

「ゼロ」「レイ」「マル」

 数字には数量用法と順番用法がある。「0」は数量が無であること、または順番が起点や終点を表す。場合により複数の読み方がある。
 ゼロは英語のzeroに由来する外来語、レイは漢語「零」の音読み、マルは符号「○」との形の類似性に基づく読み方である。
 戦時中の戦闘機、いわゆるゼロ戦は零式艦上戦闘機の通称だ。「れいせん」の呼称があったのか。ゼロには語感の強さがある。
 電話番号に「0」を含むとき、放送ではゼロ、レイの両方が聞かれるが、NHKは一貫してレイだ。
 110番は特別で、「ひゃくとおばん」。所番地の10番10号は「じゅう」。ところが部屋番号403は「よんまるさん」と呼ぶことが多い。1035は「いっせんとびさんじゅうご」のように、表記上、無であるとみなして飛ぶことがある。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年9月7日夕刊)

2006年9月14日 第172回

おととい来い

 先日、男子高校生の会話が耳に入った。「『おととい来やがれ』ってどういう意味?」確かに高校生は知らない言い回しだろう。
 「おととい」は過去で、「来やがれ」は未来だから不可能な要求だ。意味は「二度と来るな」。
 前田勇編『近世上方語辞典』(東京堂出版、1964年)に、女性は「ごんせ」「ござれ」「おいで」「おじゃれ」というとある。秋永一枝『東京弁辞典』(東京堂出版、2004年)は「おとというせろ」も載せる。
 『近世上方語辞典』の「おとついこい」の項に「蜘蛛(くも)を追い払う時に言う文句」と書いてある。なぜ蜘蛛なのか? 近世の上方には蜘蛛がたくさんいた?
 「おととい来やがれ」と相手に言っても意味が理解されなければ効果がない。高校生はマンガでも読んで知ったのだろうか。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年9月14日夕刊)

2006年9月21日 第173回

「おざなり」と「なおざり」

 この2語を、なかなか使いきれないでいる。語形と意味が類似しているからだ。自覚的に使った記憶がない。もちろん見たことはあって、意味もだいたい分かるし、口から出たこともあるのだが。
 起源はまったく異なる。
 「なおざり」は平安時代からあって、「等閑」と書く。「なおざりにする」「等閑に付す」の形で使うことが多い。すべきことをしないで、放置しておくこと。
 「おざなり」は「お座なり」で、近世の語。一応行うのだが、不十分、いい加減なさまを表す。「おざなりな対応」などと言う。
 「おざなりの返事」はあっても、「なおざりな返事」はない。教員が授業を「なおざり」にすることは職務怠慢にあたるし、「おざなり」な授業をすると学生から厳しい評価を受けることになる。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年9月22日夕刊)

2006年9月28日 第174回

だらしない

 「だらし」は「しだら」の倒語かと言われる。「しだら」は秩序の意の梵(ぼん)語に由来するとの説がある。「ふしだら」の語に形が残っている。
 三島由紀夫『金閣寺』に口もとの様子を「だらしない」と形容した表現が4例ある。「冷たい高い鼻」「冷たく尖った」鼻と対比して、「いつものように、薄くあいてい」る様子を不釣り合いだとする。
 ぼさぼさの髪や衣服の着こなし方、寝姿、姿勢など、一時的な状態について、気持ちの緩みを象徴している。また、持続的な性質としても家庭や人物、生活態度をマイナスに評価する。
 古い例だが「しだらない」が隣接して使われている。「ダラシなく伸びた洋袴(ズボン)」「シダラなく酔ふたる良人(おっと)」(内田魯庵『社会百面相』1902年)。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年9月28日夕刊)

2006年10月5日 第175回

 漢字は意味を表す点で仮名やローマ字とは機能が異なる。しかし、一文字では意味が特定できないことがある。旧字体を現行の字体にした結果、同じ文字になったものは、それだけを見ても意味の区別ができない。熟語になってはじめて、全体の意味を理解する。
 「弁」には元になる旧字体が3種類ある。辨、瓣、辯。
 辨は区別する、わきまえる意で弁証、弁別に使われ、用にあてる意で弁当、弁償の語に使われる。
 瓣ははなびらの意で花弁、管の出入り調節をするものの意で安全弁に使われる。
 辯はものを言うこと、方言の意で、弁論、弁解、大阪弁などに使われる。
 どうして弁当、弁解、弁舌などに同じ文字が使われているのに意味が違うのか。元の字が違うのだ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年10月5日夕刊)

2006年10月12日 第176回

ひともしごろ

 夕方、暗くなって火をともすころ。火だから常夜灯、あんどん、ちょうちんなど。墓の灯ろう。皿に入った菜種油によりあわせた糸をひたし、マッチで火をともしたことがある。家路を急ぐ薄暮の中に障子紙を通した明かり。
 今は電気。部屋が暗く感じられるころ電気をつける。家々の明かりが次々にともる。外から見るといろんな形が点々と並ぶ。「ひともしごろ」という語はほとんど忘れていたが、つるべ落としの秋や冬にふさわしいと感じる。
 似たことばに、夕暮れ、夕まぐれ、おおまがどき(大禍時、逢う魔が時)、たそがれ(黄昏)などがある。人家の多くない小さな村のイメージだ。
 古い歌の一節で覚えた語と思い出して調べると「谷間のともしび」(西原武三訳詞)にあった。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年10月12日夕刊)

2006年10月19日 第177回

ジェンダーフリー

 国立国語研究所が外来語定着度調査を行った。2002年12月から03年10月にかけての調査では、ジェンダーフリーという語は認知率14.6%、理解率9.2%、使用率3.9%と低い率だった。これは全体の数字であり、60歳以上の人に絞ると、どの率ももっと低い。
 内閣府は男女共同参画社会の実現に向けて施策を展開中だ。ジェンダーフリーの語が一部で意味を曲げて使われている。それに対して声高に攻撃が行われる。このフリーは性別による束縛や強制からの解放であり、差別をなくすことであって、内閣府の「男女共同参画の形成に関する解説パンフレット」(05年)が示すように、男女が中性化することではない。
 用語自体がほとんど知られていないのだから、もっときちんと広報するべきだと考える。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年10月19日夕刊)

2006年10月26日 第178回

小春日和

 小春は陰暦10月の異称。小六月とも言う。立冬が11月8日ごろだから間もなく小春になる。このころ、暖かくなることがあり、これを小春日和と呼ぶ。
 実感としてコスモスの咲くころが似合う。山口百恵の「コスモス(秋桜)」(さだまさし作詞・作曲)の歌詞によって作られたイメージが筆者には大きい。
 子どものころ、大人がこの言葉を使っているのをよく聞いた覚えがある。なぜ小春なのだろう。小さな疑問は辞書を調べたらすぐ分かるのに、当時はそんなことをしなかった。英語に訳すとインディアン・サマーが当たりそうだが、背景にある日本の風土や生活人の気持ちまでは伝えられない。
 暮らしの中で、割と天候を気にかける。寒さに向かう時期、ほっとするぬくもりを感じる言葉だ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年10月26日夕刊)

2006年11月2日 第179回

五里霧中

 いわゆる四字熟語は2字と2字に分解できるものが多い。弱肉強食、針小棒大、大胆不敵、質実剛健など。
 だが、反体制派、太平洋上などの4字の語は3字に1字が加わっている。五里霧中も「五里霧」に「中」がついている。語のアクセントは「雨あられ」と同じ頭高型だが、つい高低・低高高と言ってしまう。「夢中」の影響か。
 困ったことに「霧中」という語もある。これだと五里+霧中。
 ただ、三里霧というのもあるそうだから五里霧+中が妥当。五里霧というのは五里にわたって立ちこめている霧のこと。視界がきかず、ものが見えない、そんな深い霧の中にいること。
 周りが見えなくて途方に暮れている、また、解決策がなく前に進めない状態である。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年11月2日夕刊)

2006年11月9日 第180回

ぽんこつ

 仮名垣魯文『安愚楽鍋』(三編上・1872年)の「当世牛馬問答」。食肉としてもてはやされるようになった牛いわく「四足(よつあし)をくひへゆはひつけられてポンコツをきめられてヨ人間の腹へ葬られて実にふさいでしまふわけサ」。
 現在の意味での使用が一般に広まったのは阿川弘之『ぽんこつ』(1960年)からと言われる。廃車を解体してスクラップにしたり、中古部品として売買する「ぽんこつ屋」を描く。タガネとハンマーで叩(たた)き壊す「ぽん、こつん。ぽん、こつん」の音から来ているらしいと書いている。
 60年前後に放送されたニュース・ドキュメンタリー「話題の目」にも「ぽんこつ屋」が取り上げられている。この映像では車を解体してカーマニアがほしがる部品をそろえる作業が映っている。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年11月9日夕刊)

2006年11月16日 第181回

昔こっぽり

 「昔むかし、あるところに」で始まる昔話。幼少のころ、祖母の布団に入ってせがんだ覚えがある。題名も話の筋も忘れたが、怖い話を聞くのが楽しみだった。
 一つの話は「昔こっぽり、ごんぼのは」という文句で閉じられた。意味は分からないが、どきどきしながら聞き終えた安心感のようなものを覚え、眠りに落ちた。夢に見ることもあった。
 今、読み聞かせや朗読がさかんだ。口承文芸としての昔話も優れた語り手に語り継がれているだろう。テレビはもちろんラジオを聞く習慣もない幼少期。暗がりの布団の中の劇場で、絵も文字もない世界に、イメージを作っていた。
 「めでたし、めでたし」とか「とっぺんぱらりのぷう」とか、年配の人にはそれぞれの昔話の結語が記憶の底にあるだろう。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年11月16日夕刊)

2006年11月30日 第182回

声援する

 名詞の「声援」は多数使われるが、動詞化した「声援する」は少ない。辞書には動詞の用法も載っているのだが。
 ある日「声援」をネットで検索してみたら655万件ヒットした。「声援する」はその中の約3%だ。ある新聞の記事に「候補者を声援する」という政治家の談話があった。読んで、強い違和感を持った。
 「声援を送る」「声援にこたえる」「声援が届く」などの形が頭のなかに基本形としてある。
 「候補者を応援する」の例は普通だが、「応援」を声援に換えると、ごくまれな使用例になる。「候補者に声援を送る」を「候補者を応援する」が混交した結果か。
 少数の使用例だから一般化する可能性は乏しい。辞書には名詞用法と動詞用法が比重の差の注記なしで書いてあるので要注意。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年11月30日夕刊)

2006年12月7日 第183回

風呂を立てる

 動詞「立てる」は多義語だ。多数の意味が、用法とともにある。「風呂を立てる」のは風呂の湯を沸かして入れるようにすること。風呂を沸かす、とも言う。
 徳冨健次郎『みみずのたはこと』(1913年)に「農家は毎夜風呂を立てる」の例、石川淳『処女懐胎』(47年)に「風呂をたてる手数をはぶくために温泉にはいりに行く」の例がある。あまり見かけない言葉だが、松谷みよ子の連載自叙伝で最近見た。
 少年時代、風呂を沸かすのが日課のひとつだった。新聞紙に火をつけて枯れ松葉を燃やし、まきを燃やし、だんだん火力を強くする。ごえもん風呂だった。
 こんな光景は、自動給湯でお湯はりする風呂がある家では見られない。「お湯を張る」「お湯を入れる」と言う。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年12月7日夕刊)

2006年12月21日 第184回

ねんねこ

 「ねんねこ半纏(はんてん)」の略。綿の入った半纏。赤ちゃんを背負った上から防寒のために着る。衝撃から守る効果もありそうだ。冬の季語。ファッション性を重視するからだろうか、おんぶより抱っこのほうが好まれるようになっただめだろうか、最近はめったに見かけなくなった。
 ねんねこという響きがかわいい。赤ちゃんがすやすやとねんねする姿と、そのぬくもりを背中で感じる温かさ。
 歩いている人を見ると、おんぶひもで背中に結わえつけている人より、抱っこしているほうがはるかに多い。1970年代後半あたりから抱っこスタイルが流行したそうだ。ゆりかご抱っこ、カンガルー抱っこ、たて抱っこ、寄り添い抱っこ、腰いす抱っこなど、様々な抱っこ法がある。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年12月21日夕刊)

2006年12月28日 第185回

冬来たりなば春遠からじ

 木枯らし1号が吹くと冬が近いことを感じる。立冬を迎えると暦の上では冬。天文学上の冬は、冬至から春分の前日までと定義されている。二十四節気では立冬から立春の前日まで。
 南北に長い日本列島。冬の思いも地方によって異なる。雪に閉ざされた中で暮らす人々も多い。四季は春に始まり冬で終わり、また春を迎える。現金なもので、冬が来ると春を待つ気持ちになる。
 「冬来たりなば春遠からじ」。「じ」は否定の推量で「ないだろう」と訳す。イギリスの詩人パーシー・シェリーの「西風に寄せる歌」(1819年)の最後の一節。人口に膾炙(かいしゃ)している名句だ。明けない夜がないように、人生における冬も、やがて春になる。毎年、この時期になると、この句が思い出される。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2006年12月28日夕刊)

2007年1月4日 第186回

傘かしげ

 雨の日、傘をさして歩いて人とすれ違うとき、相手に雨がかからないように反対側に傘を傾ける動作。これは「江戸しぐさ」(越川禮子著『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』講談社+α新書)と呼ばれる日常のマナーとして最近、話題になっていることの一つだ。
 狭い道ですれ違うと、傘が触れたりする。道を譲るのと同じ、相手に対する配慮。当たり前のこととして身につけているしぐさも、年代が下がるにつれて受け継がれていないと感じることがある。
 「傘かしげ」は『日本国語大辞典』にも登録されていない語だが、動作はある。親が子に注意して教えることもあるし、人の振りを見て学ぶこともある。語として形を与えられると動作を自覚することができる。ことばとともに残したいしぐさである。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年1月4日夕刊)

2007年1月11日 第187回

団塊

 堺屋太一氏が1976年に『団塊の世代』で使った造語。47年から49年の3年間に生まれた日本人を指し、この前後の人口より2割も多く、特異な人口構造を示す。
 ハイティーン、ヤング、ニューファミリー、ミドルなど、いろいろに呼ばれてきた。大学卒の人たちの多くが70年代からずっと働き続けてきた。この世代の先頭を切る47年生まれが今年、多くの企業や公務員の定年である満60歳になる。2007年問題である。
 日本の人口は04年をピークに減少傾向にあり、労働人口の不足が深刻な問題になりつつある。団塊の世代の技術や知識を活用することも必要だ。事業主は高年齢者雇用安定法に従ってほしい。
 12年にはこの世代が全員、老人になる。人口の25%を老人が占める超高齢社会。筆者も仲間入り。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年1月11日夕刊)

2007年1月18日 第188回

一分(いちぶん)

 映画「武士の一分」が好評だという。江戸時代のキーワードとして義理や人情がよく知られているが、一分はそれほどでもない。
 「その人の面目」(大辞林)と説明される。義理は対人的な約束で果たすべきことがら。人情は対人的な愛情や思いやり。
 一分は、世間で生きていくために個人が自覚し守るべき自分自身の誇りと言える。武士の一分、女の一分などと言い、一分が立つ、立たぬ、廃るなどと言う。一分を省いて、侍が立つなどとも言う。
 近松門左衛門の浄瑠璃作品にも出てくる。「わたしや子供はなに着いでも男は世間が大事。請け出して小春も助け。太兵衛とやらに一分立てて見せてくださんせ」(心中天の網島)とおさんが夫の紙屋治兵衛に言うくだりがある。妻が夫に求める男の一分だろう。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年1月18日夕刊)

2007年1月25日 第189回

ビロードとかコールテンとか

 小学校2、3年生のころだったと思う。授業で繊維のことを学んだ。人絹とかスフとか。まだ養蚕農家があった時代のこと。ナイロン、テトロンといった合成繊維も脚光を浴びていた。
 同じころ、ビロードとかコールテンという生地の名前を知った。だが、今ではこの名称を使う人は高齢者に限定されるだろう。
 ビロードは天鵞絨とも書くがポルトガル語由来の外来語。綿のビロードのことを、ベルベティーン(英語velveteen)が転じたベッチン(別珍)とも呼ぶ。今ではベルベットのほうをよく聞く。
 コールテンはコール天とも書き、corded velveteenの略語。今はコーデュロイ(仏語corduroy)という呼称に高級感を持つ。コールテンのズボンよりコーデュロイのパンツのほうがかっこいい。

(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年1月25日夕刊)

2007年2月1日 第190回

土性骨

 江戸時代以前に「ど性根」という語があった。「ど」は接頭辞。より強調するために「どしょうぼね」の形になり、土性骨の表記が当てられたのではないか。
 江戸時代の使用例があるが、接頭辞「ど」が示すように、マイナスの評価を伴い、人の性質や背骨をののしる語だったようだ。
 高校1年のとき、文学好きの同級生に教わった。読めなかったのを教えてくれたのだ。以来、ほとんど忘れていたのが、ふと思い出された。花登筐『あかんたれ』は土性骨を副題としている。
 相手をののしるニュアンスはほとんど感じず、謙そんの気持ちを伴って、自分の心意気や気骨を示すように感じるのは間違いだろうか。めったに聞かなくなった語だが、気持ちの片隅にでも置いておきたい語だ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年2月1日夕刊)

2007年2月8日 第191回

顔がさす

 「顔」を含む慣用句は多い。中に「顔がさす」がある。「顔」も「さす」も当たり前のことばだが、初めて知った。大阪出身の人が書いた本に出てきた。
 「さす」は差し障りがあるという意。「ぐあいが悪くて、その人に会うことができない」(日本国語大辞典)と説明されている。「うわさをすれば影がさす」の「さす」と同源かと考えたが、違うようだ。
 使用例を調べてみると、顔を知られていて、人目につくことを避けるといった使い方のようだ。芸能人が濃いサングラスをかけて歩くのは、顔がさすことを避けるためもあるだろう。
 うかつなところで、うかつなことはできない。世間の目が気になるということ。近所の人に知られたくないからと遠くまで行って用を足すのも、顔がさすから。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年2月8日夕刊)

2007年2月15日 第192回

しょげる

 子どもがうち沈んでいる様子が浮かぶ。しかし、古くは大人が意気消沈するさまを表した。
 江戸時代には五段活用と下一段活用の両用法があったが、今は下一段のみ。「悄気る」は当て字で語源は未詳。方言に「しおげる」という語があることから、青菜に塩のような様子を連想する。
 気分が沈むことを「がっかりする」と言うが、これは自分自身のことにも使い、「がっかりした」「がっかりだ」と言える。だが、「しょげる」は自分以外の人物の様子に使う。室町時代から使われてきた「しょんぼり」と似ている。
 落胆や意気消沈に比べて失意の度合いが小さいように感じるが、当人にとっては、はたから見るより大きな問題なのかも。そんなことでくよくよするな、元気を出せと軽々しくは言えない。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年2月15日夕刊)

2007年2月22日 第193回

蛮カラ

 野蛮とハイカラを結合した語。カラ(collar、えり)の意味はほとんど残っていない。時代研究会編『現代新語辞典』(1919年)に「ハイカラに対する語。身のまわりに無頓着な人のこと」と記してある。この当時の旧制高等学校学生の風体は、例えば伝統のある高校の野球部応援団長の格好で想像できる。弊衣破帽。
 夏目漱石『彼岸過迄』(12年)の須永の話21にある。「暑くったって脱ぐ訳に行かないのよ。上はハイカラでも下は蛮殻(ばんから)なんだから」。要約すると「レインコートの下に、じかに半そでの薄いシャツを着て、変な半ズボンから余ったすねを丸出しにして、黒足袋にまないたげたを引っかけた」身なりだったのだ。同じ漱石の『門』(11年)には「バンカラ喜劇」という語も見られる。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年2月22日夕刊)

2007年3月1日 第194回

弥生(やよい)

 陰暦3月の異名。陰暦ではまだ2月だが、あわただしく過ぎる1月と2月のあとに3月の声を聞くと春を感じる。東京ではこの冬まだ初雪を記録していない。
 「やよい」の語源は「いやおい」が変化したのではないかと考えられている。「いや」は「いやさか」(いよいよ栄える)、「いやまし」(ますます増える)の「いや」。「おい」は「生う」で「生い茂る」「生い立ち」の「生い」。草木が生え、生長する意。冬の間、表向きは葉を落としたり枯れたりしていた植物が芽吹き花をつけ葉も広げる春を象徴する名称だ。
 「梅は咲いたか 桜はまだかいな」。端唄(うた)の一節を口ずさみたくなる気分。
 大暖冬と言われる今年。冬はどこへ行ったのかと思われるが、陽暦3月には桜も咲くかも。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年3月1日夕刊)

2007年3月8日 第195回

全然

 「打ち消し、または『だめ』のような否定的な語を下に伴って」(『大辞林 第3版』)使うのが「全然」の正しい本来の用法だということはよく知られている。だが、これは「迷信」である。
 国立国語研究所の新野直哉さんが論文「『“全然”+肯定』について」(1997年)の中で、調査の結果、明治から昭和戦前にかけては否定とも肯定とも呼応して用いられていたことを証明した。
 ただ、戦前までの「全然+肯定」が「まるっきりそういう状態であるさま」を表すのに対して、現在の用法は程度強調であるという違いがあると指摘している。
 「全然+肯定」の用法の成立には、今では完全に認知された「とても+肯定」の成立が関わっていると考えられる。程度強調語は革新的な語法の旗手だ。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年3月8日夕刊)

2007年3月15日 第196回

あがり

 動詞「あがる」の名詞形だが、意味は動詞の場合より大幅に限定される。移動や経過といった一連の過程の最終局面、目的地、ゴールに到達することを表す。
 子どものころから知っている使い方はすごろくの「あがり」だ。反対語の出発点は「振り出し」。最初にあがりになるとうれしい。進んだり戻ったり休んだりしながらした結果だ。大人になってから知ったのは仕事が終わることを表す「あがり」。一人仕事がほとんどの筆者はめったに使わない。
 すごろくも仕事も最後になると動詞の「あがる」を使う。
 お茶のことを「あがり」という通人がいる。食事の最後に出てきて飲むから、同源かと思ったが、違うようだ。昔、せん茶のことを「上がり花」と言ったそうだ。お茶には「あがる」を使わない。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年3月15日夕刊)

2007年3月22日 第197回

しんがり

 永井路子『歴史をさわがせた女たち 日本篇』に「殿軍」と書いて「しんがり」とルビが打ってあった。原義を知らずに理解していた語だ。「古来攻めるよりは守るほうがむずかしく、中でも敗(ま)けいくさの殿軍をつとめることがもっともむずかしいとされている」と書いてある。
 『大辞林』(第2版)に「〔『しりがり(後駆)』の転〕軍隊が退却するとき、最後尾にあって、追ってくる敵を防ぐ役」とある。
 現在は戦の光景が身近にないので、しんがりを実体験できないが、派生義は日常的に使われる。列や順番の最後、またその人だ。
 「しんがりを務める」のような使い方をする。最後をきちんと処理するという主体的な意志がこめられている。けっして単なる順序の最下位ではない。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年3月22日夕刊)

2007年3月29日 第198回

かしこ

 女性が書く口語調の手紙に使われる結語の一つ。手紙の作法書には、お悔やみやお見舞い以外は使えると書かれているが、現在も生きて使われているのだろうか。
 茗荷円さんが「近代の女性書簡文の結語」(『表現研究』第84号、2006年)で大正期の検証を行っている。規範としては「かしこ」系が主流だが、明治期に比べて減少傾向にあるとする。田村俊子、野上弥生子、宮本百合子の書簡を調査している。ほとんどが口語文体で、結語が使われないことが多く、「さようなら」系のほうが多い。
 ことばの規範は保守的だ。実態とかけはなれても、生き続けることがある。手紙もそうだ。だが、「かしこ」は縦書きが似合うし、手書きの、変体仮名を使った続け字が見た目にもしっくりする。
「ことばの路地裏」は終わります。
(『毎日新聞』(大阪本社版)2007年3月29日夕刊)

2005年1月6日から2006年3月30日までの分は こちら

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