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 これは後から分かったことだが、俺達が使った侵入口は、どうやら一種の避難経路として確保された出入り口であるようだった。中に入ってすぐに現れたのは狭い廊下で、そこを進むと左手に二階へと上がる階段が、正面の奥には複数の扉が廊下の壁沿いに等間隔で並んでいる様子が確認できた。そして、ローブや法衣を身に纏った人間が数人、書物や書類といったものを手にしながら各々目的の方向へと動き回っている。なかなか身動きを取るのが難しい状況だと言えたが、入ってすぐに誰かと出くわして騒ぎになるよりはましだった。
「優先順位を確認しよう」
 俺達は壁の影に隠れ、ジュアンはそこから顔だけを覗かせて廊下の奥を眺めていた。
「まず第一に優先すべきは、捕まっている女の子の救出だ。仮に手遅れだったとしても、遺体は立派な殺人の証拠になる」
「そいつを撮れってことか」 ジュアンはこちらへと顔の向きを戻し、首に提げた撮影機を手に持って構えてみせた。「つくづく趣味悪ィな」
「それが仕事だ。嫌なら帰って他の奴を連れてきてくれ」
「つれねえな、やるって」
 拘束されているという少女について、ジュアンから聞いた話はこうだ。
 ジュアンが先ほどの広場にやってきた時、そこには既にちょっとした人だかりができていた。集まっていた人達の話によれば、空から女の子が落ちてきたというのだ。どこかの建物の二階から落下したとかではなく、地上から約三メートルほどの高さの何もない空間に突如として白い閃光が生じ、その光の中心から件の少女が現れたらしい。
 虚空に出現した少女は当然、直ちに重力に従って地面に落下した。着地に失敗した彼女は、痛めた肩をさすりながら立ち上がり、唖然と見守る周囲の人間達にこう尋ねた。
『フォービドゥンの居場所はどこですか』
 虚空から出現するという神秘性、それに加えてのこの発言。彼女のその一言は、一部始終を見守っていた周囲の人間達を沸き立たせた。ついに勇者が現れた──広場は一時騒然となった。この奇妙な現象だけをもって彼女を勇者と決めつけるには些か強引な節もあるが、人々の逼迫した心理状態では待望の勇者が現れたのだと信じたい心が勝ってしまっていたのだろう。たとえその少女が、学生然とした身なりの年端もいかない顔立ちだったとしても。
 その時、一人の男が彼女に近付いた。そして何事かをその少女に伝えたらしい。この男こそまさにたまたまそこに居合わせていた勇者殺しの一味なのだが、彼の言葉を聞いた少女は、礼を述べて何れともなく立ち去った。その数分後、散歩をしていたジュアンがぶらぶらと広場に到着し、それとほぼ同じタイミングで社長がそこにやってきたという話だった。
「しっかし……敵の根城に潜入したはいいが、どう動きゃいいんだ?」
 ジュアンの言う通り、当面の問題として、どのように地下へと続く階段を探すかという問題があった。この点については、運が味方してくれた。廊下の向こうから、二人の男がこちらへ向かって歩いてきたのだ。
 おそらく俺達とほぼ同年代ではないかと思われるその男達は、何やら談笑しながら近付いてきていた。会話の内容を拾うと、誰それが可愛いだとか誰と誰が付き合っているだとか、まるで若い女子のような恋愛談義に花を咲かせているようであった。
 恋バナに忙しい彼らは、こちらの存在には全く気付いていない様子だった。だがその足は真っ直ぐにこちらへと向かってきていた。「どうすんだよ」とジュアンが肘でこちらの脇腹を突きながら囁いてきた。俺はそれには答えず、彼らが俺達の横を通過する瞬間を、壁に隠れて待った。音をたてないように、左手でゆっくり剣を抜く。
 やがて男の横顔が視界に入ってきた──その時。
 素早く腕を前へと突き出した。手前を歩いていた男の口を右手で塞ぎ、そのままこちらへと引き寄せる。代わりに左手に持った剣の切っ先を、向こう側を歩いていた男の喉元に突きつけた。「ヒッ」と彼の口から小さな声が漏れるのを聞いた。
「大陸中央新聞社のエリオット・ヴァイスディーンです」
 本来ならば、社員証の提示と共に社名と氏名を告げるのがルールである。が、今回は両手がふさがっているため、口頭での身分の開示のみに留めた。目の前で目を剥いて固まってしまった男に、続ける。
「この施設内で殺人が行われているとの情報を得て取材に来ました。協力を要請します」
「なっ、新聞社?殺人、だって……!?」
 男は虚を突かれた様子で、あんぐりと口を開いた。片手で拘束している男がどのような表情をしているのか分からないが、暴れようとする気配もなく、俺達のやりとりを黙って見守っている。突然のことで思考がついてきていないか、片割れの男の首元を意識してのことだろう。
「殺人って、一体何の話だ。聞いたこともないぞ、そんな話」
 俺は黙って顎を引いた。最初のリアクションで、この男が事情を把握していないであろうことは何となく予想していた。だが、組織全体の犯行ではないとの確証が得られるまでは油断はできない。
「二、三伺いたいことがあるのですが、よろしいですか」
 別の人間が近付いてきていないことを確認しながら、俺は目の前の男に訊ねた。完全に脅迫するような格好を取っておきながら、おかしなことを言っているという自覚はいつも持っている。だがこれが我々記者の一般的なやり方なのだ。
 男がごくりと生唾を飲み込む音が耳に届く。俺は極力事務的な声音で質問を開始した。
「この施設内でのあなたの立場はどのようなものですか」
「あ……オレか?事務官だが」 首元の剣をちらちらと見ながら、男が答えた。
「事務官……職務的な地位としてはどの辺に該当しますか」
「地位?ただの一般職だよ。いわば下っ端だ」
「あなたもですか」
 俺の胸元辺りにある男の頭が縦に小さく動く。
 俺は、『勇者殺し』と呼ばれている一連の殺人事件についての理解があるかどうか彼らに訊ねた。知らない人間などいないと思ったが、確認の意味での質問だ。男達はとぼけることなく、素直に知っていると頷いた。だが、
「その勇者殺しの主犯がこちらの大司教様だということなのですが、この点について間違いはありませんか」
 この質問については、目の前の男が即座に否定した。いや、否定というよりまるで相手にされていないという手応えだった。「何を馬鹿なことを」と、男の目と口が語っていた。これまでの取材経験から、彼がシラを切っているという風には感じ取れなかった。あくまで個人の見解でしかないが、一連の犯行は組織ぐるみで行われているものではなく、大司教個人、あるいは彼と一部の取り巻きによって行われているものと見て差し支えがなさそうだった。
 施設内の者全員が敵でないことが濃厚になっただけでも、幾分緊張が和らいだのを自覚した。それに伴い、男の首に突きつけた刃を、少しだけ手前に引っ込めた。
「地下に続く階段を探しています。場所を教えていただけますか」
「地下?」 俺が訊くと、男は顔面を訝しげに歪めてみせた。「そんなもの、ここにはない」
「ない?地下室が?」 俺は引っ込めた刃先の位置を再び首元へと戻した。「こんな大きな建物だ。地下室の一つや二つあっても不思議じゃないと思うが」
「本当だ。ねえものはねえ!」
 男がやや大きめの声で断言するので、廊下の先にいる人間に勘付かれはしなかったかと少しだけ焦った。
「……然る情報筋によれば、地下に何らかの殺人の証拠が存在するとの話なのですが」
「そんなもん知るかよ。オレはここで五年働いているが、地下室があるなんてことは聞いたことがない」
 男は頑なに否定した。その顔には、憤りとも呼べる色が浮かんでいた。
「それに、何度も言うようだが殺人なんてもっての外だ。ここがどこだか分かっているのか。神に最も近い場所だぞ。腐りきった外の世界とは別次元の場所だ。神にお仕えするオレ達神職の人間が人殺しだなんて、もっとましな冗談を言えって話だ」
「ではこちらに少女が一人拘束されているという情報については……」
「くどいっ」 いよいよ苛立ちを露わに、その男は俺の言葉を遮った。「記者だか何だか知らないが、いい加減にしろ。大体な、教会の人間がこともあろうに勇者を殺すなんて馬鹿げた話があるわけがないだろう」
「……あなたはどうですか」
 俺は胸元へと視線を落とした。そこにある頭が、何度も横に細かく揺れた。
 内心舌打ちをしたい気分だった。彼らが地下の存在を把握していないとなると、考えられることとして、下っ端の人間の立ち入りが制限されているような場所、あるいは容易には見付けにくい場所に地下への入口があるということになる。そうなれば、目的の場所に達するまでに余計に手間と時間を食うばかりか、ただでさえ危うい少女の生存確率も下降の一途を辿るのみだ。
 地下への階段が望み薄なら、せめて親玉──大司教の執務室の場所だけでも聞き出しておきたかった。だが男達二人は揃って口を閉ざしたままだった。彼らにとって俺達は、手助けすべき味方ではなく、単なる粗野な闖入者でしかないわけだ。おいそれとこちらの要求に応じる気にはならないのだろう。
 であるならば、このような場面において選択すべき手段は一つしかない。
「答えてください」
 刃の先をひたりと男の喉元にあてがう。彼は動揺すまいと努めているようだったが、口元が引きつるのを抑えることはできないでいた。
「私達は警察に協力を仰がれ動いています。事態が一刻を争うため今は手元にないですが、後ほど正式な協力依頼の文書をお見せすることも可能です。それでもご協力をいただけないというのなら、犯罪捜査法第五十四条の適用により、あなた方を拘束した後然るべき罰則を受けていただくことになります」
 無論、こんなことはただのハッタリだ。犯罪捜査法云々の件は事実だが、今回は警察からの協力依頼など受けていないため、法律の適用外である。そもそも警察の後ろ盾があるならば、初めからこんなまどろっこしい真似はせず、正面を切って取材に訪れている。
 だがこんな安直な虚言でも、相手を脅すという意味においては一定の効果を発揮したようだった。忌々しそうに舌打ちをした男は、呻くような声を発した後、ぼそりと何事かを喉の奥から発した。よく聞こえなかったため訊き返す。
「最上階だっ」
 今度は破れかぶれになった様子で、男がぶっきらぼうに吐き捨てた。「そこの階段をてっぺんまで上ってすぐ左側にある部屋がそれだ。部屋の入口にプレートが出ているから、行きゃあすぐに分かる」
 俺は一つ頷いた。「警備の人間などは……」
「いるわきゃねえだろ、そんなもの。関係者しか立ち入れない場所で何に警戒しろってんだ」
「そうですか」 頷き、刃を男の首から遠ざける。「良かった。若干難易度が下がりそうだぞ」
 これはジュアンに向けて言った台詞だったのだが、相槌の声はなかった。先ほどから一言も声を発しないのでどうしたのかと視線を横に向けると、置物のように固まってしまっているジュアンの姿がそこにあった。また後になって、「記者ってやつは……」と文句を垂れてくるであろう様子がまざまざと想像できた。
 これ以上この男達を問い詰めたところで、何も有益な情報を引き出すことができないのは明らかだった。俺は、コートのポケットから小さなアトマイザーを取り出した。男達の鼻孔付近で中に入っている液体を噴霧する。その数秒後には、彼らは廊下に俯せになる形で倒れ込んでいた。
「お前、それ……」
「大丈夫だ。ただの睡眠薬だ」 案の定、突っ込んできたジュアンの言葉を途中で制し、その正体を告げた。「即効性がある反面、持続時間は少ない。もって三十分といったところだ。こいつらが起きて騒ぎ出さないうちにさっさと事を終わらせるぞ」
「って、何だよ、こいつは」
 俺がジュアンに渡したのは、床で眠りこける男達から脱がせた黒色のローブだ。疑問の声をあげたジュアンだったが、すぐに合点がいったという様子で首を縦に動かした。
「……成る程。こいつで変装して地下への階段を目指すって寸法か」
「察しがいいな」
「ここまで色々見てくりゃ、お前が考えそうなことくらい想像できるっての」
 やれやれ、と言わんばかりにゆっくりとかぶりを振ったジュアンは、長いローブに袖を通し、独りごちた。
「ピッキングに追い剥ぎ……次は殺しじゃねえだろうな」
 彼の発言は聞こえなかったふりをして、俺も同じようにローブを羽織った。足首付近にまで丈が及ぶローブは、コートの上から着たため若干窮屈に感じるものの、腰の両サイドの武器の存在を隠すのには一役買ってくれていた。あとは上手いこと新参者を装いつつ、いかに短時間で目的の場所まで辿り着けるかの勝負だ。
 取材にご協力いただいた男二人を、先ほど通ってきた扉から外へと運び出し、俺達は再び元の場所へと戻ってきた。ジュアンが腕を組み、俺の方へと向き直った。
「で、このでかい建物の中をどうやって探す?まさかそこらをウロついてる奴らに手当たり次第に聞いて回るとか言うんじゃねえだろうな」
「そんな悠長なことをしてられるか」
 というより、先ほどの男達の様子から察するに、ここで働いている人間の殆どは地下室の存在を認知していないと思われる。当てずっぽうに尋ねていっても、無駄などころか下手をすれば不審がられて終わりだ。関係者との接触は、必要最低限に止めたい。
「まずは、念の為彼が言っていたことが本当かどうか確かめよう」


 俺とジュアンは、職員達が行き来している方向へと向かって廊下を進み始めた。本当に見える場所に地下への階段はないのか。また、一階の構造はどのようになっているのか。この場所から穏やかに辞去できるわけがないから、逃亡用の脱出口の位置を前もって知っておく必要がある。それからもう一つ、確認しておきたいこともあった。
 俺は、やや疲労感を滲ませた体で、時折あくびなどしてみせながら一階のフロアを歩いて回った。あたかもこの場所が自身の生活の一部分であるという風情を装うことが目的だった。ジュアンはジュアンで鼻歌を歌いながら歩いていたが、これは暢気さを演出してのことなのか、それとも単に素のままであるのか俺の目には判断に難しかった。ひょっとすると後者であったのかもしれない。
「意外とバレねえもんだな」
 八人目にすれ違った職員の足音が聞こえなくなった辺りで、ジュアンはどこか楽しそうな調子で声を弾ませた。イタズラが成功した子供の声音そのものだった。
「誰もオレ達の存在を気に留めようともしねえ。ちょろいってなもんだぜ」
「気を抜くのはまだ早いぞ」 早くも頭を楽天モードに切り替えようとするジュアンを横目で制する。「本格的に動くのはこれからだ」
 一階を一回りするのに要した時間は五、六分といったところだった。一通り歩ける場所を見物した後、俺達はまた男達を捕まえた最初の位置へと戻り、壁の影に身を潜めた。
 分かったことは三つある。まず、男達が言っていた通り、廊下を歩いた限りでは地下への階段は見付からなかったということ。二つ目は、敷地面積に占める関係者用のスペースは、思っていたよりも広くはないということ。これは、この建物のメインである聖堂が建物中央に位置しており、それをぐるりと取り囲む形で職員用の事務室や休憩室といった部屋が設けられているためだ。聖堂の天井の高さを考えると、最上階である四階部分まで同じような構造になっていると思われた。
 そして三つ目。現在俺達がいるこの場所以外、比較的頻繁に職員達の行き来がある。侵入に選んだのが先ほどの扉で正解だった。そうでなければ、扉を開けた瞬間、出会い頭に剣を抜き放っていたなどということにもなっていたかもしれない。
「一階の部屋数は十四、五ってところだったな」 ジュアンが腕組みをしながら俺の目を見てきた。「さあ、どうする」
 できれば一部屋一部屋中を確認したいところではあった。だがそれにはやはりリスクが伴う。
 俺は、すぐ近くにある二階への階段を見つめた。上に上る階段は他に二か所存在するのを確認しており、ここにあるものよりも幅が広く、赤い絨毯が敷かれるなどしてそこそこ立派な造りになっていた。対して目の前の階段は人が一人通れる程度のスペースしかなく、上り下りの途中で人とすれ違うのもやっとといった感じだ。人が頻繁に行き来することを想定しての造りだとは思えない。火災時等の緊急避難用に設けられた階段だろうかと推測した。
「ジュアン、お前ならどうする」
「は?」
「もし、今お前がここに女の子を連れてきて殺すとするなら、どうやって地下まで連れて行く?」
「はあ?何が言いてえんだ」
 階段の前に立ち、下から上を見上げた。最上階のすぐ真横に、殺人鬼の仕事部屋があるという先ほどの男の話を思い出していた。
 背後にいるジュアンの方へと振り返る。
「ここで働いている下っ端の人間は、大司教の裏の顔を知らない。となると奴は、というよりおそらく奴の放った手下は、例の女の子と一緒にいるところをそこらをウロついている職員達に見られたくはないはずだ。殺された人間の顔写真なんか、新聞でいくらでも拝めちまうからな」
「まあ、そうとも言えるが」 ジュアンは鼻の横を掻いた。「するってーと、何だ、例えばさっきお前さんが使った睡眠薬みてえなもんで眠らせて、木箱の中か何かに隠して運搬したってことか?」
「その可能性も考えられる、が……」
 俺は再び階段の上を見上げた。壁に設えられた小窓から、明るい陽の光が差し込んでいる。上の階からは物音らしき物音は聞こえてこない。小窓の向こうから聞こえる鳥のさえずりだけが、唯一の音として辺りに存在している。
「……もし俺がそれをするなら、あまり目立つような真似はしたくない。地下への階段がどこにあるかにもよるが、なるべく人目につかない場所を選んで運びたいと思う」
 いや、と頭の中で考えた。地下に運ぶことが目的なのではなく、人目を避けて進んで辿り着いた先が地下だったのかもしれない、と。
「あ、おい、どこに行くんだよ」
 おもむろに階段を上り始めた俺の背後から、困惑の滲んだ声と慌てて追ってくる靴音とが聞こえてきた。狭い階段を上る足を一度止め、肩越しに振り向いた。
「人に知られたくない何かを隠すとするなら、自分の部屋のどこかに隠すのが一番安心だとは思わないか」
「大司教の部屋に地下への階段があるっつーのか?」 そんな安直な、とでも言いたげな顔つきでジュアンが返してきた。
「何も一階に地下へ続く階段があるとは限らないだろう。怪しそうな場所から一つ一つ潰していくしかない」
「えれぇ単純な消去法だな……」
「それがゴールへの最短ルートだということもある」
 一段一段階段を上るごとに、ぎしりぎしりと床が軋む音がした。外壁は石で覆って内部は木造というのは、この街でよく見られる構造だ。その方が建築費が安く上がる。
「いつもこんな、ざっくりとした調子で動いてんのかよ」
 再びジュアンの呆れ声。俺は前を向いたまま苦笑いを浮かべた。
「いや、そもそもこんな曖昧な情報しか手元にない状態で動くことはあまりないな」
「不安じゃねえのか。成功するっつー保証もねえのに」
「不安に決まってるだろ」
 こういった仕事に出る際、俺が両手にグローブをはめるのには理由があった。剣を握る手が汗で滑らないようにするためだ。緊張による心拍数の増加についてはある程度抑えられるようになってきたが、掌に滲む緊張の証については何年経験を積もうがどうにもできないでいた。平然とした顔を作ることはできても、握った手の中は汗でぐっしょりというのはよくあることだ。それはこの時にしたって例外ではなかった。
 ただ、ジュアンの言っている『不安』と俺の抱えるそれとは少し違っていた。与えられた仕事を完遂できるかという不安や緊張というより、何より『人に武器を使う』という場面に遭遇する不安が心の大半を占拠していた。剣やら銃やら物騒なものを持ち歩いているが、何も好き好んでそれらを振り回したいわけではない。この仕事に就いて初めて人を剣で斬った時に得た感触は、今も右手が忘れられずにいる。頬に飛んできた返り血の生暖かさも、銃弾が肩を掠めていった時の痛みも恐怖も、思い出そうとすれば鮮やかに脳裏に蘇る。この仕事を選んで良かったのかと苦悩し、眠れずに過ごした夜の長さも──
「けどまあ、多分大丈夫さ」
 三階に到着し、いよいよ最上階へと続く階段に足をかけた。それでもここまでやってきた、という自負心と、一つの予想が俺にこの言葉を紡がせた。
「社長が他の仕事を優先させてお前をこっちに寄越してきたのは、これがさほど困難なタスクではないと踏んでのことなんだろう。定石を踏んだ手順で進めていけばクリアできるはずだ」
「本当かぁ?気休めにもならねえぜ」
「さっきまで鼻歌歌って歩いていた人間が気休めも何もあるかよ」
 上り階段の終わりが見えてきた。確かに左側に部屋の扉があり、その取っ手には『大司教執務室』との文字が刻まれた金色のプレートがご丁寧にぶら下げてあった。
「ここか」 背後でジュアンが呟いた。「中に奴はいるのかね」
「いてくれた方が手っ取り早い」
 階段を上りきる手前でいったん足を止めた。壁に隠れて、四階の廊下の様子を覗き見た。比較的人の行き来があった一階と異なり、真っ直ぐ伸びた廊下はがらんとしていて、人影は存在していなかった。よし、と心の中で呟き、左側の扉の前に立つ。
 果たしてこの扉の向こうに大司教はいるのだろうか。扉に耳をつけて中の様子を窺う。音はしない。次に施錠の確認。仰々しい扉の取っ手をゆっくり捻り、ほんの僅かな力を込めて前後に小さく動かしてみる──動かない。
 仮に大司教が在室であったとして、ここで武器を構えて強攻突入するか、それとも関係者を装ったままノックをして中に入るかの二択を迫られた。俺はさほど迷うことなく前者を選択した。下手に偽名を名乗ったところで、聞き慣れない名前だと警戒されては敵わない。人を呼ばれた挙句に記者だとばれ、外へ摘み出されてしまえば一巻の終わりである。
 扉の前でローブを脱ぎ捨てる俺の背後で、ジュアンが同じ動きをしている気配が伝わった。俺は片方の剣だけを抜いて、ジュアンへと振り向いた。そこにいた彼は、両手をグーの形に握り、ファイティングポーズとでも呼ぶべき腰を軽く落とした姿勢で前方を睨み据えていた。小さく跳ねながら、威嚇するかのようにジャブを放っている。
「準備オーケーだぜ」
「……扉を開けた瞬間弾が飛んでくるかもしれないが、それに対する準備は大丈夫か」
 即座に壁にへばりつく格好へと体勢を変えたジュアンの姿を確認し、扉の鍵穴へと向き直って開錠の作業に入った。廊下は無人だとはいえ、いつ、どの部屋から突然人が出てくるか分からない状況だった。もし、このような姿を誰かに見られようものなら百パーセント言い逃れはできない。祈るような気持ちで針金を動かし続ける。
 思っていたより大きな開錠音が手元より響いた。すぐさまもう片方の刀身も鞘から抜き放ち、扉の脇へと移動した。
 右足を使って扉を蹴り開けた。派手な音が響くと同時に、素早く扉の横の壁に身を隠した。一拍置いて、そっと顔を出して中の様子を窺う。そして小さく吐息をついた。
「……残念」
 四方八方を本棚に囲まれている部屋の中央に、大きな執務机が鎮座しているのが見えた。しかし、そこに主の姿はなかった。

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