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「…大丈夫だ。入ってきていいぞ」
 放っておけばいつまでも壁にへばりついたままでいそうだったジュアンを部屋の中へと呼び寄せた。中の様子を見るなり、彼は「はあ〜」と感嘆するような声をあげた。
「こいつはまた、盛大に散らかしてやがんなあ」
「散らかすってレベルじゃないだろう」
 床に散らばった何かの書類の類は、部屋の入口付近に立つ俺達の足下にまで広がっていた。執務机に積んでいたのであろう沢山の書籍も折り重なるように落下しており、その脇には万年筆が数本、そして家族写真のようなものが収められた写真立てが、本来あるべき場所とは思えない場所に寂しく倒れているのが見えた。
 視線を動かし、改めて部屋の中をゆっくりと見回す。先述した通り、目の前に広がる光景は、単に片付けのできないズボラな男の部屋と称すべき範疇を超えていた。ここで何らかの騒ぎがあったことを、割れて砕け散ったまま床に散乱している花瓶の破片が物語っている。床の上の書類の何枚かには、靴で踏まれた形跡があった。中には踏んづけられてぐしゃぐしゃになってしまっているものもあった。
 ジュアンが遠慮なく床の書類を踏みながら奥へと進んだ。『文字が書かれているものは踏んではいけません』と親から躾けられ育ってきた俺は、一応それらを避けながら部屋の右側に進んだ。床に落ちた写真立ての前で足を止め、無残にもガラス面にヒビが入ったそれを拾い上げる。年齢のばらばらな男女八人が、割れたガラスの向こうで微笑んでいた。右端に一人、華美な法服を纏った初老の男が立っているのが目に入った。人畜無害そうな人相のこの男こそ、悪魔の所業を繰り返している大司教に違いなかった。
「おいおいおい、何だよこいつは」
 と、ジュアンが壁際に設置してあるクローゼットの近くで立ち止まって声をあげた。今度は花瓶の破片を踏まないよう注意しながら執務机を回り込み、そちらへと近付いた。
 そこにあるものを見て、瞠目した。分厚い絨毯に、荒く削った透明な石のようなものが幾つも突き刺さっていた。その正体が何なのか、瞬時には判断ができなかった。ベリルのような透明度の高い鉱石、その先端を鋭利に削ったものを何本も床に突き刺しているかのように見えた。だがその見立てが誤りであることにすぐに気付くことになる。その物体が突き刺さっている絨毯の周りが、やや濃い色に変色しているのだ。それは繊維が水分を含んだことによる色の変化であると簡単に見て取ることができた。
「氷…?なのか、これは…」
 しゃがみ込み、顔を近付けてまじまじと観察してみると、それに赤い血液のようなものが付着していることに気が付いた。絨毯の色が赤いことと、付着量がごく僅かであったため、近くで見ないと分からなかったのだ。
 また、床から筍のように突出しているその物体に触れた指からは、はっきりとした冷たさが感じられた。問題の物体は氷と見て間違いはなさそうだった。だが、それにしても一体何故床に氷が刺さっているのか、まるで見当がつかなかった。昔、ナイフのように削った氷を凶器に殺人を犯す推理小説を読んだことがある。時間の経過と共に個体から液体、そして気体へと変化する氷の性質を利用し、凶器を証拠として残さないよう人を殺すのだ。奴はそれと同じ状況を作り出そうとしたのだろうか。だがそれにしては血液の付着量が少ない。そもそもの問題として、この分厚い絨毯、そしてその下にある床を氷が貫くには、一体どれほどの力量が必要となるのか。
 物理的に考えて、到底生身の人間の成せる業だとは思えなかった。物体を高速で発射することを可能とする何らかの道具を用いたという可能性を検証してみたが、その場合氷は床ではなく壁に突き刺さっている方が自然であると思えた。また、銃弾のような速度で氷を飛ばした場合、床に突き刺さるというよりはぶつかった衝撃で粉々に砕け散ってしまうのではないかとも想像できる。仮にそうはならないのだとしても、氷を飛ばすことを目的にわざわざそのような道具を作るくらいなら、サプレッサーを取り付けた銃を一丁用意することの方が何百倍も手間がないと思われた。一般市民の銃の所持は禁止されているとはいえ、本気になって入手しようとすれば幾らだって裏のルートは存在するのだ。それともやはり証拠の隠滅を最優先とし、氷という凶器に拘り抜いたのか──
 考え込む俺の傍らで、ジュアンがクローゼットを開けようとその把手を引っ張っていた。だが鍵がかかっていると分かると、彼は一つ舌打ちをし、次には執務机の引き出しの中を漁り始めた。彼なりに何か手がかりを探そうとしていたようだ。
 本当に大切なものは、そうそうあっさり探し出せるような場所には隠しておかないものである。自身の逮捕に繋がるものを、鍵の開いている引き出しの中にしまうマヌケは今のところ見たことがない。
「ジュアン、開けてやる」
 腰を上げ、コートの中から針金を取り出した。家具に取り付けられた鍵など、子供の玩具のようなものだった。特別な技術がなくても、多少頑張れば誰でも開けられるのではないかとすら思う。
 ものの数秒で、クローゼットの鍵穴から開錠音が聞こえた。振り向いてジュアンに目配せすると、彼は「どれどれ」と言いながら近付いてきた。
 両手で把手を握り、そして左右に大きく腕を開いた。がちゃん、と扉の開く音が聞こえたその直後、頬をひんやりとした空気が撫でていった。
「──────」
 今まで、クローゼットの中に死体や麻薬の類を隠してあるのを何度か見たことがあった。そのたびに、もっと隠し場所を工夫しろよと呆れたものだが、今回に関してもほぼ同じことが言えた。
 ただ、その中にあったのは少女の遺体ではなかった。扉を開け放った直後、そこには服も鞄も何もないように見えた。あるのは暗闇である。吸い込まれるかのような暗闇がそこにあると脳が認識した直後、家具としての奥行がおかしいことに気付いた。その場に立ち尽くしたまま、更に闇の中へと目を凝らす。
「…な、んだこりゃ」
 先に動き出したのはジュアンであった。狐につままれたような顔で俺の隣に並び、クローゼットの奥を覗き込んだ。
 結論を言うと、クローゼットの中、というよりその奥にあったものとは、階段である。クローゼットの背の部分にあたる板に長方形の大きな穴が開いており、その向こうに下の階へと続く螺旋階段が見えていた。隠し部屋等への入口を家具で塞いで隠すというのは今でも稀に見られる古典的な手法であるが、今回のようにクローゼットの扉を開閉させることによって出入り口を確保するという手口は初めて見るパターンであった。利便性という点から見れば理に適っていると言えるのだろうが、外部に対する秘匿性という点で考えれば本当に隠す気があるのかと言いたいところだ。あのようなちゃちな鍵一つで犯行を隠せると本気で思っているとするなら、ここの親玉は稀代のお気楽思考の持ち主であると断言せざるを得なかった。
「こういう隠し方もあるわけか」 ふむ、と隣でジュアンが腕組みをして言った。「参考にしよう」
「何を隠す気なんだよ」
「んなもん内緒に決まってんだろ。喋っちまったら隠すも何もねえじゃねえか」
「そりゃまあそうか」
 入口から見た限りでは、階段の周囲は真っ暗であった。そこで、部屋の中にカンテラなどの光源となるようなものはないか探してみたのだが、あいにく空のマッチ箱しか見付からなかった。俺とジュアンは暗闇に目を凝らしながら、慎重にクローゼットの中へと入り込んだ。
「これってやっぱ、地下に続いているのかね」 ジュアンが訊ねてきた。
「明らかに隠しているところを見る限り、そうである可能性が高いだろうな」 若干前屈みの姿勢で、クローゼットの奥に空いた穴を潜る。「むしろそうであってくれと祈るばかりだ」
 階段に手摺りがついていたのは幸いだった。真っ暗闇の中、足を踏み外さないよう一歩一歩確実に階段を下りていった。こちらの階段は石でできているようだった。次第に暗闇にも目が慣れてきたが、壁に窓は一つもなく、狭い空間で換気も悪いせいか仄かに息苦しさを覚えた。ぐるぐる回りながらひたすら階段を下り続ける。三階分の高さは確実に下った実感があったため、この階段が探していた地下への入口であることが濃厚になったわけだが、それにしても長かった。いい加減目が回りそうになるほど、延々と続く階段。これほどまでに地下深くに部屋を作らねばならない目的とは何なのだ──そんなことを考えながら足を動かしていたのだが、答えはすぐに見付かった気がした。地の奥底に潜まねばならないとするなら、それは地上世界に破滅の足音が響いている時であろう。金持ちが自宅の地下に避難シェルターを作っているというのは珍しい話ではない。地下のどの程度まで潜れば安全なのかなど、誰にも分からないわけなのだが。
「まだ着かねえのかよ」
 ジュアンがうんざりとぼやいた。俺も心で同じことを思った時、ふいに目の前に壁が現れた。あやうく正面からぶつかりそうになるところを、立ち止まって回避する。ここまで来てまさかの行き止まり──絶望に膝からくずおれそうになった矢先、よくよく見るとそれは壁ではなく扉だということに気付く。
 この扉には鍵はついていなかった。そっと開けると、その先には細い通路が真っ直ぐに伸びていた。突き当りにはまたも扉が一つ。但し真っ暗だった螺旋階段と違い、こちらは周囲を視認できる程度の明るさがあった。
「発光石か…」
 ジュアンが呟いた。何千年もの昔、まだ『魔術』といったものがこの世界に当たり前に存在していた頃、魔術師達が石に魔術を封じ込め生成した自然発光する石である。地下室の壁などによく用いられるが、非常に高価であるためなかなかお目にかかれない。ぼんやりと橙色に発光するその石は微かな熱を帯びており、それは石に炎の魔力が宿っている証なのだという。確かに、ひんやりとした空気で満ちていた螺旋階段とは異なり、この通路には発光石特有の仄かな暖かさが感じられた。
 通路を進み、扉に近付くにつれ、誰かの話し声が聞こえるようになってきた。歩きながら、再び剣を抜いた。
 一つ深呼吸をする。声の内容に耳を澄ませると、会話というよりは押し問答に近いやりとりが複数の人間間で交わされているようだった。はっきりとは聞き取れないが、男達の低い声に交じって、少女特有の高い声も聞こえてくるのが分かった。
「…いた」
 誰にともなく呟いた。それからジュアンの方を向き、彼の目を見ながら小声で訊ねた。
「準備はいいか」
「おう」
 真面目くさった顔で、また例のファイティングポーズで応えてみせるジュアン。肩の力が抜けそうになりながら、ジュアンの胸にある撮影機に人差し指を向けた。
「こっちの方の準備はいいかと訊いているんだ」
「は?ああ、そういやそうか、撮るんだったか」 今思い出しました、という顔を隠しもせずに彼は撮影機を構えた。
「俺が今から扉を開ける。お前は銃声が聞こえないことを確認してから入ってくるんだ。中に入ったら適宜シャッターを切れ。ただしくれぐれも身の安全の確保を第一に考えろ。無茶はしなくていい」
「へいへい、敏腕新聞記者のお手並み拝見といこうじゃねえか」
「敏腕?」 どこからそんな単語が出てくるのだと思った。大して面白くもない冗談に嘆息交じりで言い返す。「三下の間違いだろ」
 だが、軽口をたたいている場合ではないようだった。扉の向こうから聞こえてきた声は、一瞬にして俺の背筋を凍り付かせた。
「銃を持って来い!」
 はっきりとそう耳に届いた。


 もはや一刻の猶予もなかった。突入は中の様子を窺ってから、というマニュアルに従っている余裕などなかった。
「よせ!」
 無意識のうちに叫んでいた。だがその声は、力いっぱい扉を開ける音にかき消された。部屋に入った瞬間、そこにいる全員の視線がいっぺんに自分の顔に集まるのを感じた。驚きの色で統一されていたそれは、瞬く間に敵意の篭った眼差しへと豹変する。唯一、奥の柱に縛り付けられている少女の視線を別として。
「新聞社か!」
 誰かが叫んだ。両手に構えていたフラットエッジが名刺代わりになったようだった。
「大陸中央新聞社、エリオット・ヴァイスディーンです」
「…お供のジュアン・ガーウィックです」 扉の向こうに身を隠したまま、ジュアンが顔だけを覗かせて小声で名乗った。
 思っていたよりも広い、という部屋の印象がまず意識の内に流れ込んだ。地下室、それもこのような地の奥深くに部屋を作るとなると相当な金と労力、時間が必要になるため、ちょっとした小部屋程度の広さを想像していたのだが、実際はそうではなかった。目の前にはダンスホール並のだだっ広い空間が広がっていた。しかも壁一面の発光石。これだけの量の発光石とこれだけの規模の地下室を兼ね備えることを可能とする教会とは、一体どういう組織なのだと疑問に思った。諸々の資金源について探りを入れたいところだったが、目の前の問題を片す方が先だ。
「わざわざお伝えする必要もないかもしれませんが」 部屋の様子を見渡しながら前置きし、「勇者殺しの主犯がこちらの大司教であるとの情報を得たため、真偽を確認しにお伺いさせていただきました」
「はっ、お伺いだと?それにしては物騒な手土産を両手に持っているようだが」
 少女の傍らでナイフを持って立っている男が、こちらを見て一つ笑った。その顔は、つい先ほど記憶した写真の中の男と一致していた。やや全体の印象が異なって感じたのは、着ている衣服が法服ではなく、私服と思しきシャツであるせいであったかもしれない。だがその一点を除けば、薄い頭髪も肉のついた腹も写真のままだ。
「勇者殺しの犯人はあなたである、という内容で記事にさせていただきますが、何か異存があればお願いします」
 部屋の中には、大司教以外に三人ほど男がいた。俺の台詞を聞き、彼らの目に一斉に険悪な光が宿った。各々が手にしていたスピアの先が、少女から俺の方へと向きを変えた。
「…そいつで何人もの『自称・勇者』の心臓を貫いてきたというわけですか」 凶器を見据えて言う。
「本物の勇者を仕留めたかどうかは分からんがね」
 よく通る低い声で、大司教はゆっくりと答えた。あっさりと犯行を認めたことに、やや拍子抜けした。
「勇者を殺すなどという異端的思考に至った経緯をお聞かせ願いたい」
 キチガイじみた犯行に真っ当な理由などないであろうことは承知していたが、後々記事にする関係上、相手の主張は聞いておかねばならなかった。かといってメモを取るほどの重要性も感じられなかったため、臨戦体勢のまま相手の言葉を待つ。
 大司教は肩を揺らし、またも笑い声で応えた。「異端?心外な」と両手を広げる仕草をし、ひょいと肩を竦めてみせた。
「私を誰だと思っている?すべては人々の幸福と安らぎのため、大司教としての職責を果たそうとしているまで。それを異端呼ばわりされては敵わんな」
「勇者が死ねば世界は完全に滅びる。人類は滅亡する。人々の幸福とは真逆の結末になるであろうことは明らかだ」
「うん、そうだな」 大きく頷いてから、彼はゆっくりとかぶりを振った。「だがきみが予測している未来と私が予想している結末は、少し違うようだ」
「? どういう意味です」
「世界を救うのは勇者だとは限らない。むしろ勇者を消すことによって得られる幸せがきっとあるということだよ」
 話しながら、この相手とまともな会話をすることは望み薄であると感じ始めていた。頭の中に独自の正義が出来上がっている相手に常識を語ろうとも意味を成さないことは、経験上知っている。
 大司教の隣で、柱にロープで縛り付けられている少女と目が合った。ざっと観察した限りでは、出血を伴う怪我をしている様子はなかった。無事かどうか訊ねようと口を開いた矢先、大司教の声に先を越されてしまう。
「若き記者よ、きみに一つ訊ねても良いだろうか」
「何でしょう」
「きみはこの世界に生きていて幸せかね」
「…?」 眉を顰めて大司教の顔を見返す。
「きみは毎日幸せか?楽しいか?街中…いや世界中で犯罪が横行し、秩序は崩壊し、人々の顔から笑顔というものが消え、皆が迫りくる世界の終わりに怯えて過ごしている。こんな世界に生きていて幸せかね」
「質問の趣旨を測りかねます」
「私はね、疑問に思うのだよ」 彼はわざとらしく吐息をついた。「勇者が世界を救う──果たしてそれは真の意味で叶えられるものなのだろうか。千年前、二千年前、三千年前…勇者はこの世界に現れフォービドゥンを消し去った。だが千年後、二千年後、三千年後、世界から消えた筈のフォービドゥンはまたしても姿を現し、世界中を蹂躙した末例によって勇者に倒される。歴史はずっとその繰り返しだ。何度も何度も世界は崩壊し、そのたびに膨大な数の命が天に召され、そして生き残ったわずかな人間が再び文明を築き上げ、そうかと思えば再びフォービドゥンが現れ全てを無に帰す。きみは疑問に思わないかね。勇者という奴は一体何のためにこの世界に現れ、我々にどういった恩恵をもたらしているのかと」
 淀みなく喋る大司教の口元をただ見つめた。話の先を促したというより、単純に返すべき言葉が見付からなかった。
「私に言わせれば、勇者とは物理的にこの世界を存続させる仕事をしているだけに過ぎない。そして世界が存続する限り、千年ごとに絶望の嵐が吹き荒れ、世界は死屍累々として見るも無残な姿へと形を変える。果たしてこの終わらない連鎖は人類にとってどういった利となる?千年ごとに終わる歴史を繰り返さねばならない理由は何だ?我々人類は、フォービドゥンと勇者のいたちごっこに翻弄され、恐怖と絶望という名の檻の中に捕われ続けてしまっている」
「なーるほどな」
 扉の影に身を隠したまま、ジュアンがおもむろに声を発した。「だからフォービドゥンの宿敵である勇者を殺して、この世界から人類が一人残らず消え失せるまで奴を暴れさせようって筋書か。世界が完全に終わっちまえば、もう恐怖や絶望に駆られることなど決してない──そういった感情を持てる人間というものが、この世界からいなくなっちまうわけだしな」
 大司教は、肯定の返事を返す代わりに悠然と微笑んでみせた。あほくさ、と吐き捨てるジュアンの声を耳に入れつつ、ただ正面で口元に弧を描いている男の顔を見続けた。
 いや、違う。正確にはただ視界の中に彼の顔が入っていただけで、何を見ていたわけでもない。決して彼の言葉に共感したわけではないのだが、頭の中で強烈な存在感を放ったまま残る言葉が一つあった。
 ──勇者は一体何のためにこの世界に現れ、人々にどういった恩恵をもたらすのか。
「…人類の存続こそが俺達にとっての最大の恩恵であり、そのために勇者はこの世界に現れる」
「ははは、まるで教科書を読んでいるだけのような回答だな」
 彼の口元の笑みが、嘲笑と呼ぶべき性質を湛えたものへと変化した。彼の指摘はもっともであるし、そもそも初めからそのようなつもりで発した台詞であった。この人間と真向から意見を戦わせる意義などどこにもない。所謂『正論』を語って聞かせてやるだけで十分だ。
「勇者を殺すなら、全世界を対象に人類存続の是非を問う世論調査を行ってからにしていただきたい」
「もはや生きている目的を見失っている人間どもの意見など参考になるものかね」
「あなたの独り善がりな正義で人類の歴史に終止符を打たれるわけにはいかない」
 そう反論した次の瞬間、今まで笑みを絶やさなかった大司教の顔から、表情というものが消えた。
「ならどうするかね。私を殺すか」
 淡々とした口調でそのように言葉を紡ぎ、ナイフを握った右手を真っ直ぐに突き出してみせた。
「誰に何と言われようと、私は戦うと決めたのだ。私が信じる未来のために。こんなクソのような世界に生きねばならない人類の悲劇を、死という形でもって終わらせてやるために。それこそが私がこのクソのような世界に生きている意味であり、そして──」
 それこそが私にとっての正義だ──彼は高々とそう宣言した。そして、突き出した右手のナイフをさっと頭上に掲げた。


 それが攻撃の合図だったのだろう。槍を構えたまま待機していた男達が、突如こちらへと突進してきた。三対一の構図、しかし相手の得物がリーチの長い槍となればさほど不利な立ち回りとは感じられなかったが、背後にはジュアンがいた。男らの目標を、丸腰のジュアンへと変えさせてはならなかった。
 左手から向かってくる禿頭の男に向かって駆け出した。相手が槍を突き出してきたが、スライディングの要領で身体を低く落として男の足下へと滑り込んだ。そのまま脛を剣で切りつける。男は苦悶の声と表情でその場へと倒れ込んだ。
「いいぞエリオット!その調子でちゃっちゃと雑魚どもを蹴散らしちまえ!」
 依然扉の影に隠れているジュアンから応援の声が飛んできた。直後、『雑魚』とレッテルを貼られた男達の怒りの温度が上がったのが、彼らの表情から読み取れた。余計なことを…と思ったが、ジュアンの見当もあながち間違っているものではなかった。お世辞にも強敵と呼べるような相手ではない──出血した足を手で押さえ、痛え痛えと情けない声をあげながら地面でのたうち回っている禿頭を一瞥して思う。
 残り数、二。あっさりと地に倒れた男を見ても、残る二人に怯む様子は全くない。ある意味果敢とも言えた。真正面から真っ直ぐに突きを繰り返してくる彼らの攻撃手段からは、どこか生真面目な性格すら窺い知れるようだった。
 暫く彼らの稚拙な攻撃を避けながら、何とかこの二人の戦意を喪失させる方法はないものかと考えていた。血は極力見たくない。いつだって専守防衛をモットーに戦うのが社則の一つでもある。
 だが、この時俺は忘れるべきではなかった。『油断大敵』というその言葉を。
 唐突に背後に凍てついた殺気を感じた。と同時に、聴覚が聞き憶えのある音を拾った。微かに耳に届いたその音は、紛れもなく撃鉄を起こす音に他ならなかった。
 咄嗟に床に身を伏せた。その判断は正しかったようで、耳を劈くような破裂音が響いた直後、俺の真向かいにいた男が太い悲鳴をあげて地面に倒れ込んだ。腕から鮮血が流れ出ていた。
「おっと、すまんな。生きているかね」 肩がぶつかったのを謝るかのような気楽さで大司教は言った。続いて薄情な台詞を吐く。「貴重な弾を一つ無駄にしてしまったな」
 彼はいつの間にか部屋の隅へと場所を移動していた。すぐ近くに小さなチェストが置いてあり、その引き出しの一つが開いていた。そこに拳銃がしまってあったのだろう。こちらを向いたままの銃口から、白い煙が細く立ち昇っているのが見え、その煙の向こうでは銃を構えたままの大司教がこちらを見ながら不敵な笑みを浮かべていた。
「この一発を待っていたのではないのかね、ヴァイスディーンくん」
「…よくご存じで」
「記者は銃の携帯が認められている…が、相手が発砲してこない限りは撃てないルールだと聞いたことがある。ということは私の今の一発で、晴れてきみに銃の使用許可が下りたわけだ」
 だからといって、俺がホルスターから銃を取り出すのをこの男が黙って見守ってくれているわけがなかった。彼の顔から余裕の笑みが消えなかったのは、そういった戦局の優位性をよく認識していたためであろう。俺が少しでも怪しい動きを見せたなら、引き金にかけた指にほんの少し力を加えてやればいい。
 俺は地べたを這うような姿勢を崩せぬまま、向けられた銃口の先を睨み続けることしかできなかった。このような状況になる前に剣で何とかするのが鉄則なのだが、油断していたとしか言いようがない。流れ弾に当たる危険を予測してか、残る下っ端の動きも止まっていたのだけは幸いだった。
「折角だが、勇者を助けたくばその危なっかしい剣と銃を放棄していただこうか」
 大司教のこの言葉は、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがなかった。苦笑いすら浮かべながら言葉を返す。
「私の武装解除を条件に、彼女をこちらへ引き渡してくれるとでも?」
 彼からの返事はない。そのようなことは百パーセントあり得ないからだ。
「ふん、まあいい」 再び撃鉄を起こす音。「今すぐ死んでもらえれば済むことだ」
 ごくりと喉を鳴らした。人類最高の殺傷能力を誇る道具を手にする者とは、これほどまでに余裕に満ちた顔をするものなのかと感じていた。
「私の射撃の腕が最悪であるのを祈ることだ」
 そんなものはとうに念じている。
「エリオット!」
 切羽詰まった様子で俺の名を叫ぶジュアン。
「最期に何か言い残しておくことはあるかね」
 大司教が言った。そう言われてみても何の言葉も見付からなかったし、何かを伝えておくべき相手の顔も思い浮かばなかった。ほんの少しだけ虚しい気持ちが胸中を去来する。
「きみは幸せ者だよ。痛いのは一瞬だけだ。そして数秒後にはフォービドゥンという絶望の支配から心が解放される。こんなクソのような世界から一足お先におさらばできる。何と素晴らしい」
 だったらあんたが先にあの世へ行けよ──この時の俺にできたのは、そう胸中で毒づいてやることだけだった。情けない話だが、仮にここで射殺されて終わる運命だとするなら、せめて即死できる場所に当ててくれよと祈った。苦痛にもんどりうちながら絶命するのを待つことだけはごめんだ。どうせ死ぬなら少しでも楽に逝きたいと願うのは皆同じだろう。そしてそのような心中であったということは、取りも直さず死を覚悟していたということだ。
 先ほど放たれた弾の弾道から読む限り、この男が次発の弾を外すことはあまり期待できなかった。勿論まぐれの一発であったという可能性もあるが、だとするなら彼もこれほどまでに余裕綽々の体ではいられなかっただろう。
「さらばだ」
 さすが大司教とでも言うべき厳かな声が響いた。知らず奥歯を噛み締めた。睨み続けていた銃口からついに目を逸らし、きつく両目を瞑った。
「きみの新たなる旅路に幸多からんことを」

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