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 人は死ぬとどうなるのか。どこへ行くのか。
 当たり前の話だが、そんなものは一度死んだ経験のある者しか分からない。
 天国ないしは地獄へ行くというありふれた説、再び同じ世界に生まれ変わるという説、ここではない別の世界に転生するという説、あるいはもっと現実的に、死んだら終わり──意識が無くなり、それが二度と戻って来ないだけという説。今自分が生きている世界そのものが、死んだ自分がみている夢であるという説を唱える者もいた。確か何かの宗教の教祖だったと思う。
 後に俺は、人類普遍のその謎を知るところとなるのだが、それを経験するのはもう少し先の話である。大司教が持つ凶器から放たれた銃弾は、俺を死後の世界へ導くことはできなかった。
 外せ、という俺の念が大司教の手元に届いたわけではなかった。弾は憎らしいほど正確な軌道を描いて俺の額を目がけてきたと思われる。
 銃声を聞いたその次の瞬間、顔の前で何かが砕け散った──ような音が聞こえた。目を閉じていたため何が起きたのかは分からなかったが、そっと瞼を上げてみて最初に見えたのは、ぱらぱらと下へと零れ落ちるガラス片のようなものである。
 しかし不思議なことに、床には一欠けらの破片も落ちていないのであった。代わりにそこにあったのは、殺人的な速度で飛来してきた筈の黒い弾丸である。目の前の床に静かに転がる小さな鉄の塊を、俺はしばらくの間呆然と見つめ続けることしかできなかった。
「な……んだと?」
 今しがた起きた不可解な現象に理解が追い付いていないのは、彼も同じであるようだった。だがすぐに何かに思い当たったようで、唖然とした顔付きはすぐに怒りの形相へと変わる。そしてその目は拘束している少女へと向けられるのであった。
「貴様、だな……!?」
「えっ?」
 彼女としては、まさか自分に疑惑の矛先が向けられるとは思ってもみなかったようである。ロープにより両手の自由を奪われていた少女は、濡れ衣だと言わんばかりに勢い良く首を横に振った。
「何何何?あたしがやったと思ってるの?違うよ、あたしがそんなことできるわけ……」
「何をぬけぬけと!貴様以外に誰がこのような魔術めいた技を!」
「知らないよそんなの!とにかく今のはあたしじゃないもん!」
 頬を膨らませて抗議する少女の顔に、俺はわけが分からないといった眼差しを向けた。すると俺の視線に気付いたのか、彼女の茶色い大きな瞳が俺の顔へと向いた。そして次のように叫んだ。
「そこのハンサムなお兄さん!」
 ──該当する人物が誰なのか、すぐには分からなかった。とりあえず、背後のジュアンの方へと首を向けてみた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すジュアン。すると、少女から「ちーがーうー!」と抗議の声が飛んでくる。
「向こうのチャラそうなおじさんじゃなくて、そこの……あ〜ん名前何て言ってたっけ。とにかくそこの錆びた鉄みたいな色の髪のお兄さん!」
 それが自分のことだと気付くのに、数秒を要した。人からは黄金色と表現されることが多い自分の髪色だが、錆びた鉄だと評されたのは後にも先にもこの一度きりである。
 少女の忌憚のない物言いは、俺に複雑な思いを交錯させただけでなく、扉の影に佇むジュアンにどんよりとした暗い影を背負わせた。それを尻目に、俺は再び少女の方へと顔を戻した。俺と視線が合うやいなや、彼女は前のめりになって叫んだ。
「お願い!向こうの引き出しの中にあるあたしの本を取って!」
「本?」
 彼女が視線で指し示していたのは、俺が伏せていた位置から約五メートルほど背後の壁際に置いてあったチェストである。続いて意味不明の要求が彼女の口から寄越される。
「その本のページをめくって、五六ページを開けてほしいの!」
 何だって?と訝しがる俺とは対照的に、大司教の顔に滲んでいたのは明らかに焦りの色だった。「させるか!」と叫んだ後、彼の手元にあった銃口が向きを変えた。
「! やめろ!」
 叫ぶジュアンは、首から提げている撮影機の存在など忘れているようだった。もしここにいたのが社長だったなら、ファインダーの穴越しに冷静にその光景を見つめていたことだろう。
 自分に向けられる銃口を、少女は気丈にも悲鳴一つ上げずにただ見つめていた。ただし、その顔面は恐怖と緊張の形に歪んでいた。半開きのままの小さな唇が何か言葉を紡いだように見えたが、何を言っているのかは聞こえなかった。ただ、この局面において、俺の目には「たすけて」と言っているようにしか見えなかった。
 咄嗟に腰のホルスターへと手を動かそうとした。だが間が悪いことに、動きを止めていた下っ端が今になって攻撃を再開してきた。鋭い槍の尖端が、俺の身体を串刺しにせんと襲いかかってくる。床を転がってその一撃を回避し、立ち上がる勢いに乗って鬱陶しい男の右肩めがけて剣を振り上げた。生暖かい血飛沫を顔面に受けたが、そのようなものをいちいち気にしている余裕などなかった。
 男が仰け反り返って床に尻もちをつくのを見届けた直後、二度目の銃声。鼓膜を破らんばかりの破裂音。
 間に合わなかった──俺はある種の覚悟をもって少女の方へと顔を向けた。年若い少女を落命させてしまった罪悪感と、このような失態を演じてしまった自分の不甲斐無さで心がいっぱいだった。
 しかし、そのような心持ちでいたのもまたほんの一瞬である。
「ッ! くそっ!」
 憎々しげに舌打ちをする大司教。一方で、ほっと胸を撫で下ろしている無傷の少女の姿。
「……?」
 何が何だか、の一言である。弾が外れたのかと思ったが、そうではない。よくよく見ると、少女の足下をころころと弾が転がっているのが見える。
 混乱一色で染まった頭でただ少女を眺めていたのだが、彼女から再び「本!早く取って!」と催促を受けた。一体何のために?と疑問に思う俺の気持ちは、彼女の目に宿る真剣な光と有無を言わせぬ口調により封じられた。
 右手の剣を捨て、今度こそホルスターから銃を抜き取り、構える。射撃の腕については、可もなく不可もなくといった自己評価である。ただ急所を逸らす自信だけはある。
 当然、大司教もこちらへと銃の照準を定めてきた。ただ一つだけ先ほどと違う点について言えば、彼の顔からは余裕というものがきれいさっぱり削げ落ちていた。
 先に撃つか、撃たれるか──緊迫した空気の中、俺の背後を何者かがさっと移動する気配を感じる。よもや下っ端の誰かが復活したかとちらりと視線を動かした刹那、自分の顔からさっと血の気が引いていくのが分かった。
「ジュアン!よせ!」
 怒声に近い声が無意識に喉から発せられる。少女が示したチェストへと一直線に向かっていったのは、ジュアンである。
「やめろ!」
 大司教が叫ぶと共に、ジュアンへと銃の狙いを定めるのを見た。それと同時に、ほぼ何も考えずに銃の引き金を引いていたと思う。俺の手元から鉄の塊が発射され、それは大司教の肩口へとのめり込んだ。彼の手から零れ落ちた銃が床をからからと転がる音と、耳障りな悲鳴とが重なった。
 無事チェストへと辿り着いたジュアンは、手当たり次第に引き出しを開け、やがてどこからか一冊の古びた本を取り出した。「こいつか」と独りごち、ややくすんだ青い色合いの表紙をおもむろに開けた。本は百科事典ほどの厚みがあり、総ページ数からみると少女が指定した五六ページ目はかなり前半の方に位置しているようであった。また、そこに記載されていた内容は、ジュアンの目を驚きに見開かせる効果を持っていた。
「こいつは……」
 本に目を落とし、毒気を抜かれた表情のままジュアンはその場に立ち尽くした。「どうした」と言って近付こうとした俺の視界の片隅で、何かが動く気配が感じられた。見ると、片膝をついて肩の痛みと格闘していた大司教が、血に濡れた手の平で床の銃を拾い上げたところだった。
 再度銃を構えんと、俺は右手を動かそうとした。だがその時俺の目には既に、銃の発射体勢を整え終わった大司教の姿が写っていた。
 まずい。先に撃たれる。二度目の油断に臍を噛む。
 銃口が向かう先にはジュアンの頭があった。万事休すと冷や汗が噴き出すも、真っ先に聞こえたのは銃声ではなかった。
「助けて、アトラス!」
 少女が叫んだのだ。



 先にも少し触れたが、かつてこの世界に存在した『魔術』というものは、基本的に現在の世の中には存在しない。
『発光石』ははるか昔の術者によって発現された魔術の名残であり、石に宿る魔力は時間の経過と共に消失する。そしていずれ訪れる魔力の枯渇に伴い、石の光は消えることになる。身近な物で強引に例えるならば、石に宿る魔力は蝋燭、そしてその蝋燭に火を点けるための媒介となるマッチのようなものが魔術ということになるだろうか。蝋燭が燃え尽きてしまえば火は消えるし、再び蝋燭を用意して火を点けられる人間はもうこの世には存在しない。そういった意味で、『魔術は現代には存在しない』という定説が成り立っている──筈だった。少なくともこの時までは。
「うわあっ」
 驚きと恐怖が入り混じった声をあげたジュアンが、その手から本を放り捨てた。本はジュアンが開いたページを開けたまま、表紙を下にする格好で床に落下した。
 少女の助けを呼ぶ声が部屋に響いた直後、ジュアンの手元にあった開いた本のページから、部屋の天井へ向けて巨大な光の柱が立ち昇った。更にはまるで紙の上から剥がれるようにして宙に浮き出た古代文字の羅列が、光の周りを取り囲むようにして上昇していく。
 どこかから、動物の唸り声のようなものが聞こえた。低く、力強く部屋の空気を震わせるそれは、そこにいる人間の心から本能的な恐怖を呼び起こさせるのに十分足るものだった。
 少女以外の誰もが、強張った顔をしながら事態を見守っていた。光の柱の中から白い巨大な生物が姿を現す様を、呆然と、成す術もなく見つめていた。
 ごくり、と唾を飲み込もうとした。だが、気が付けば口の中はからからに乾いていて、喉を潤す効果は全く得られなかった。
「ひいぃっ、化け物……っ!」
 脛に受けた傷と格闘していた禿頭の男が、腰を抜かすついでにがちがちと歯を鳴らしながら一言そう口走った。しかし俺からすれば、その表現は適切だとは言い難かった。
『化け物』という大雑把な括りにするにしては、あまりにも正体がはっきりしすぎていた。野獣の雄叫びをあげるその生き物の名前は、『スノウ・ベア』だ。東方の国ではシロクマという呼称で通っていたりもするらしいが、その獰猛な性格は万国共通のものだろう。縦に大きく開いた口の中に覗く鋭い牙は、言うまでもなく肉食獣であることを物語っている。
 目測したところだと、体長は約二メートルほどだろうと思われた。純白の短毛に身を包んだその獣は、部屋の中の矮小な生き物達を威嚇するかのように、天井へ向けて再び大きく咆哮した。びりびりと空気が振動する中、そいつは一度身体を低く屈めると、次には一直線に前へと向かって疾駆した。
 獣の鋭い視線の先で、大司教は恐怖に顔を歪める。がたがたと足が震えているのが、俺がいる位置からでもよく分かった。
 だが彼は、己が手にしている武器の存在を忘れるほど我を失っているわけではないようだった。半分は生物としての生存本能が働いてのことだろう、一度は解いた銃の構えを取り直し、即座に引き金を引く。
 弾は獣の右前足の辺りに命中した。大司教がしたり顔を浮かべるも、それはほんの一瞬のことだった。獣の動きが止まったのはせいぜい二、三秒ほどでしかなく、何故か被弾した箇所からの出血も見られない。秒速四百メートルで飛んでくる鉄の塊も、この獣にしてみれば子供が蹴った小石が膝に当たった程度のダメージでしかないように見えた。
 大司教の顔が、恐怖から絶望へと色を変えた。二発、三発と諦めずに撃った弾も一発目と同程度の効果しか得られず、いよいよ大司教の目前に獣の牙が迫った。
「やっ、やめてくれぇっ!」
 獣に命乞いは通用しない。だが大司教も諦めない。肉付きの良いその太鼓腹からは想像もできない俊敏な動きで、彼はひらりと横に身を躱した。一瞬前まで大司教が立ち竦んでいたその空間を、獣の巨体が駆け抜ける。
 そして、白い悪魔のような獣は、失速せずにそのまま壁へと突進した。一拍置いた後には、物凄い破壊音と共に、部屋全体が細かく揺れた。天井からぱらぱらと細かな砂埃が零れ落ちる。気が付けば、獣の身体の前半分が、砕けた石壁にのめり込む形となっていた。
「アトラス!」 呆れたような少女の声。「何やってんのよ、もう〜」
 獣の前半身は完全に壁に嵌ってしまっているようだった。先ほどの咆哮とは似ても似つかない情けない鳴き声が、破壊された壁の奥から漏れ聞こえてきていた。まるで尻を振るような動作を繰り返している。壁に埋もれた身体を、必死に引き抜こうとしている獣なりの努力が窺い知れる。
「何なんだ、こいつは……!」
 半泣きに近い、大司教の声。これには俺も同感だった。正面から猛スピードで壁にぶち当たって、そのまま地下の分厚い石壁を破壊してしまう話など聞いたことがない。砕け散るのは獣の顔面の骨であるはずだ。
 常識と異常の区別がつかなくなっている俺のすぐ近くで、何者かが床から起き上がる気配を感じた。見ると、先ほど俺が切りつけた男が、口元を戦慄かせながら立ち上がろうとしているところだった。
 そして、悲鳴をあげるかのようにこう叫んだ。
「フォービドゥンだ!」
 ──もし、この時この男がこのような戯言をぬかすようなことがなかったら、この後俺の目の前で起きる悲劇を一つ減らすことができたはずだ。何をもって見当外れなこの台詞を吐くに至ったかは当人のみぞ知るところだが、本の中から獣が現れるという非現実的な現象と、極限まで高められた恐怖感が、フォービドゥンというイメージを彼の中に想起させたのかもしれない。
 初めに断っておくが、無論のこと、この獣がフォービドゥンであるはずがない。フォービドゥンは『黒炎の悪魔』、そしてここに現れた猛獣は『白い獣』である。例えばこの獣が口から火を吹くといった芸当をここで披露していればまだ勘違いの余地もあっただろうが、そのような事実は皆無である。ただ本の中から現れ、壁に突っ込んで身動きが取れなくなっただけだ。
 しかし、この世界に生きる人間にとって、『フォービドゥン』とは死を意味するに等しい言葉だ。また、未知の存在であるがゆえに、想像の幅も広がる。誰かがそれを「フォービドゥンだ」と叫んで一目散に逃げ出せば、真っ当な判断力を失って同じように逃げ出す人間がごまんといる。過去、民家の煙突から立ち昇る黒い煙をフォービドゥンだと誰かが叫び、周囲一帯がパニックに陥った例もあるくらいなのだ。
 そしてまた、ここでも同じことが起きようとしていた。
「神よ!」
 まずは大司教が先陣を切った。部屋の出口へと駆け出しながら、涙目になって喚いている。
「嫌だっ、私はまだ死にたくはない!死んでなるものか!」
 どの口が言うのだと言ってやりたいところだった。引き続き、下っ端の男三人が転がるようにして扉へと向かっていく。その中の一人が、耳を疑うような台詞を残していく。
「勇者様、どうか我らをお助けください!」
 俺は、『勇者』だとして捕らえられている少女の方を見た。彼女は、あっけにとられたような顔をして逃げていく男達の背中を見ていた。
「──大丈夫か」
 少女へと声をかけた。ひとまず当面の危機は逃れたようであるため、早いうちに被害者の救出を済ませておこうと柱に縛り付けられている少女へと近付いた。
 ロープを解いてやると、彼女は「ありがとう」とはにかんだような笑みを見せ、小さく頭を下げた。部屋の出口の方を見ると、もう男達の姿は跡形もなく消えていた。
 俺は再び、少女の方へと向き直った。
「色々訊きたいことはあるけど、とにかくここを出よう」
「うん!」 少女は力強く頷くも、ふと何かを思い出したかのように目と口を軽く開け、「あ、でもアトラスが……」
「アトラス……」
 口元が引きつるのを感じながら、彼女の言葉を反芻した。アトラスとは言うまでもなく、壁に突っ込んだまま身動き不能となっているスノウ・ベアのことである。
「あの猛獣は、きみのペットなのかい?」
 ちらちらと獣の方を見ながら、おっかなびっくりといった様子で近付いてきたジュアンが、少女に訊ねた。彼女はうーんと首をわずかに傾け、腕を組んだ。
「ペット……っていうより、あたしの相棒よ。家族みたいなものかな」
「オレの記憶が正しければ、ああいった猛獣は一般家庭での飼育は禁止されているはずなんだけど」
「うん」 少女はしれっと頷いた。そして、またも意味不明なことを言う。「でも、アトラスは召喚獣だもん。ちゃんと市に使役者登録もしてあるから大丈夫だよ」
「召喚獣?使役者登録?」
 聞き慣れない単語に、俺とジュアンは顔を見合わせた。互いが互いに「何のことだ?」と目で問いかけていたのだが、両者ともその答えは持ち合わせていなかった。
「あ!」と少女がふいに声を上げた。顎に手をあて、ぶつぶつと独りごちる。「そっか。この時代だとまだ魔術言語の解読がそれほど進んでいなかったりするんだっけ。そうすると使役契約っていう概念自体が存在してないってことなのかな……」
「??」
 何か少しおかしなことを言う少女だな、と思った。俺としては、何より本の中から獣が出現した仕組みについて解説を求めたいところだった。が、それ以前にこの場所からの脱出が最優先事項であったことを思い出す。
「話は後だ」 俺が言うと、少女に何かを訊ねようとしていたらしいジュアンが、開きかけた口を閉じてこちらを向いた。「早くここを出るぞ。大司教らが騒ぎ立てて王城から討伐隊でも寄越されたら厄介だ」
「じゃあ、おじさんとお兄さん、悪いけどアトラスを壁から引っこ抜くのを手伝ってくれない?」
 少女はいまだ後ろ半身だけでもがいている獣に駆け寄り、太い後ろ脚にしがみついてよいしょよいしょとその巨体を引っ張り出した。やはりこの獣も一緒に外に連れて行くつもりでいるらしい。その点について俺の心に諸々の懸念が押し寄せる一方、ジュアンはジュアンで別の憂い事に目元を暗くしている。
「……なあ、オレとお前ってそんなに歳が違ってるように見えるか?ってかお前の方が歳くってたはずじゃねえかよ」
「そうだったかな」
 実際、俺の方が彼より一つ歳が上なのだが、ここはあえてとぼけておいた。というより、会社とも社員とも希薄な関係を貫いているジュアンが、俺の年齢を把握していたことについては意外である。
「あの子には、お前の方が俺よりずっと貫禄があるように見えてるんじゃないか」
「心にもないお世辞と慰めの言葉をどうも」
 はあ、と溜息をつきながら、とぼとぼと壁へと向かっていくジュアン。哀愁が漂う、とはまさにこの時の彼の背中を形容するにぴったりな言葉であっただろう。
 かくして、地下室からの脱出の前に、何百キロとありそうな獣の巨体を壁から引っ張り出すというとんでもない重労働が課されることとなった。獣の身体が自由になった途端、俺とジュアンがすぐさまこいつの捕食対象として認識されるのではないかという不安もあったのだが、少女曰く、「あたしの命令しか聞かないから大丈夫!」とのことらしい。どこまで信用できる話なのか分からなかったが、アトラスという獣を救け出さないことには少女をここから連れ出すこともできない雰囲気であるのは確かだった。
 仕方がなく、三人で獣の両脚を引っ張り続けた。ようやく壁から解放された獣の顔は、まるで恐縮しているかのような表情を湛えているように見え、先刻とは打って変わったその大人しさに些か拍子抜けしたりもした。
 地下室を出て、発光石の灯りを背に再び螺旋階段へと足をかける。無限とも感じられたここまでの段数を思い返すと、うんざりした気持ちが胸へと込み上げる。
「はあ……下りの反対は上りってわけか……」
 重そうに肩を落として言うジュアンの声を振り切るように、俺は無心で階段を上り始めた。泣いても笑っても帰路はこれ一つのみである。それに、二人を怖がらせてはいけないので口には出さないでおいていたが、先ほどからずっと懸念していることが一つあった。
 地上へと逃げた大司教が王城に討伐隊の派遣を要請するだけならまだしも、最悪上階からこちらに灯油を流し込んで火を点けることで、逃げ道を封鎖されるおそれも否定できない。この階段は石造りだ。窓もなく、いわば縦に細長い煙突に似た造りになっているとも言える。仮にここから出火したところで、建物全体に火が回る危険性はないだろう。逆に考えると、闖入者を袋の鼠にすることを想定して、地下室へと至るこの階段をこのような材質、構造にしたのではないか。もし俺が大司教の立場で、冷静な判断力と闖入者に対する殺意が残っていたとしたら、迷うことなくこの構造を利用する。
 むくむくと胸に膨れ上がる不安は肺をも圧迫し、疲労による息苦しさを余計に助長させた。
「お兄さん、大丈夫?だいぶ息が上がってるみたいけど」
 すぐ後ろから訊ねてくる少女の声は、疲労の欠片も感じさせない気楽なものだった。何故なら彼女は、移動の間中ずっと獣の背に跨っているからだ。「俺も乗せてくれ」と言いたいところをぐっと堪え、黙々と暗い階段を上り続ける。
 またも時間との勝負だった。負ければ後はない。役に立たない視覚より嗅覚を研ぎ澄ませながら、幸運の女神に祈りを捧げ続けた。この状態では銃も剣も全く何の役にも立たない。火攻めにされてしまえば、文字通り消し炭になって終わりなのだ。
 蓄積した疲労を少しでも緩和しようと、大きく深呼吸をしたその時だった。思い切り吸い込んだ空気の中に、恐れていた『それ』の気配をわずかに感じ取った。
 俺は思わず足を止めた。背後の少女……というより獣の鼻先が、ごつんと俺の背にぶつかったまま静止した。
「どしたの?」
 きょとんと尋ねてくる少女にどう返答すべきかとも思ったが、迷っている場合ではなかった。俺はその場ですぐさま踵を返した。
「下に戻るぞ」 出てきた声は、なかなかに鬼気迫る響きを帯びていた。
「はあ?何か忘れ物でもしたのかよ」
 呆れを含んだジュアンの声にかぶせるように言う。「灯油の臭いがする。奴らに上から撒かれたのかもしれない」
「……何だと?」
 それがつまり何を意味し、その後どのような結果が待っているのか──瞬時に察知したジュアンの動きは素早かった。
「冗談じゃねえよ!こんなところでスルメになって死ぬなんて御免だぜ!」
 ジュアンは回れ右をし、脱兎のごとく階段を駆け下り出した。だがここで一つ、致命的な問題が生じた。階段と壁との幅の狭さが仇となり、俺とジュアンの間に挟まれる形で進んでいた少女……というより巨大な獣の方向転換に困難が生じたのだ。
 獣が回れ右をするスペースなど、とてもじゃないがありそうになかった。狭いスペースにやっとのことで身体をねじ込みながら進んできたようなものなのだ。
「身体はそのままでいい、とにかく可能な限り速く後ろ向きに進むんだ」
 そうは言ってみたものの、ただでさえゆとりの少ない空間で、尚且つ螺旋状にうねる階段を後ろ向きに進むには、獣にとってかなりの難題であるらしかった。窮屈そうに身体を捩りながら、少しずつ後退を始めたが、その速度はお世辞にも速いとは言い難い。
 急げ、との声が喉元まで出かかった。だが、結局それはどこかへと消えてしまった。俺は分かっていた。急いで階段を下ったところで、逃げ道などどこにもない。何か変わるとするならば、死に方くらいになるだろう。炎に焼かれて死ぬか、そうでなければ煙を吸って窒息死するか──
 空気に混じる不吉な臭いが、殊更に強くなってきていた。いつの間にか、今自分が立っている足下が何らかの液体で湿っているのが分かった。そして───
「──!」
 心臓が凍り付いた。渦を巻くようにして階段を下ってきた真っ赤な炎が、目の前に迫ってきていた。

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