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「──どいて!」
 背後で何者かが叫んだ。炎に呑まれんとする恐怖のあまり、誰の声なのだか判別する余裕すらなかった。
 ただ、身体だけはその声の指示に従っていた。考える間もなく、俺は狭い階段の脇へと身体をどかせた。その直後である──物凄い冷気を帯びた吹雪のような強風が、獣の口から吐き出された。
『ダイヤモンドダスト』と呼ばれる自然現象がある。寒冷地で、特殊な条件下でのみ観測される極めて希少な現象だ。細かい氷の結晶が陽の光を受け、虹色に輝いて舞う神秘的な光景。俺はそれを知識としてのみ有していたが、この時見られた光景は、ひょっとするとそれに近いものだったのかもしれない。
 近いといっても、その密度と勢いだけは全くの別物だった。氷が舞う、などという可愛らしい表現では収まらない。何万、いや何億とありそうな氷の結晶が、ごうごうとうなりを上げ、一方で美しい光の粒を散らしながら、迫り来る炎をまき返していく。
「な…んなんだ、一体…」
 気付けば呆然と呟いていた。それ以外に発すべき言葉も見付からなかった。こちらの様子を窺いに戻ってきたのか、獣の背後でジュアンがあんぐりと大口を開けていた。
 獣は時折空気を大きく吸い込んでは、同様の息を吐き出した。鎮火をしつつ階段を上る道すがら、俺は少女に訊ねた。今すぐ訊ねずにはいられなかった。
「こいつは一体何なんだい?」
 彼女は獣の背中の上から、けろりとこう返した。
「だから召喚獣だってば。名前はアトラス。あたしが名付けたの。可愛いでしょ」
「召喚獣…」 またしても飛び出た謎の単語。俺は首を傾げるしかなかった。「普通のスノウ・ベアは、本の中から出てきたり、氷の息を吐いたりはしない。壁に突進して無傷でなんかいられない。だけどこいつは違う。それは何でなんだ」
「何でって言われても」
 少女は困ったように小首を傾げた。そして、件の青色の表紙の本を正面に持ち直した。また突然光り出し、何かわけの分からない生き物が出てくるのではないかと密かに息を呑む。だが、彼女は本の表紙をそっと指で撫でただけだった。
「簡単に言えば、こういう能力を持っているこの子を昔の術者がどこかで捕まえて、使役契約を結んで、それからいつでも召喚できるようにこの術書の中にこの子を住まわせた──そしてその術書の今の所持者があたしってことになるのかな」
「…はあ」
 全く意味が分からない、という気持ちが露骨に現れた生返事を返した。すると、最後尾のジュアンから声が上がった。
「大昔、魔術が使えたのは人間だけじゃねえって話だもんな。鳥が火を吹いたり、雷を操るバカでかいトカゲがいたなんて書いてある古文書もある」
「あっ、おじさんの方がまだ話が通じそうな感じ」 少女が背後を見て弾んだ声を出す。「おじさん…」とまたジュアンが肩を落とす。
「もっと分かりやすく言えば、結局は全部『魔術』の成せる業ってことだよ」 再び俺の顔へと視線を戻し、少女は微笑んだ。「魔術は太古の昔からずっとこの世界に存在してる。それを自由に操る人間がいなくなったとしても、魔術は色んな形になってこの世界に残ってる。例えばあたしが持ってるこの本もその一つだし、それに…」
 少女はここでいったん言葉を切り、首だけを後ろに向けた。いまだ何かぶつぶつと呟いているジュアンに対し、無造作に訊ねた。
「そういえば、さっきこのお兄さんを助けたのって、おじさんだったの?」
「…あ」
 そういえば、と俺はその瞬間のことを思い出した。不可解な現象があまりにも沢山起きていたことで、それが何故起こったのか考えることを忘れてしまっていた。
 大司教が撃ってきた銃弾は、俺の額を撃ち抜くことなく、目の前の床に転がっていた。彼が的を外したというより、俺の顔のすぐ近くに透明なガラスのようなものが存在し、それに弾がぶつかったといったような印象だった。
 だが何故そのようなものが都合良くそこに存在したのか、まるで分からなかった。何もなかったはずの空間に何故。それにそのガラスのようなものとは一体何だったのだろう。確かに砕け散ったはずなのに、破片が一つも残っていなかったのも不思議だ。
 ここまでの一連の出来事を勘案した上で仮説を立てるとするならば、この不思議な少女が何かしらの方法を用いて俺を助けてくれた、と推測するのが最も自然な流れだった。しかし、たった今の少女の言葉がそれを否定していた。だからといって、ジュアンが何かしたのかと思考を切り替えるには、やや強引過ぎる向きがある。
「オレが?いやいやまさか」
 ジュアンも苦笑いを浮かべてそれを否定した。「オレにあんな神通力みてえな力があるわきゃねえだろうが」
「え〜?でもあれは確かに防御壁の魔術が発現した感じだったんだけど、そしたら誰が…」
 少女は、腑に落ちないといった顔付きで大きく首を傾げた。まだ何か言いたそうな雰囲気ではあったが、これ以上彼女がこの話題を続けることはなかった。
 階段を上るにつれ、次第に周囲に立ち込める煙の色が濃くなってきたようだった。俺達は身体を屈め、咳き込みながら急いで出口を目指した。
 予想していたことではあるが、ようやく階段を上りきり、クローゼットの内側へと辿り着いた時、扉には外側から鍵がかかっていた。扉の内側に鍵穴はない。だが獣──アトラスの前にそのような事実は何の意味も成さず、その巨体で軽く体当たりをしただけで、あっさりと扉は蝶番ごと吹っ飛んだ。
「あー、生きて戻って来れたか!神の御加護に感謝だぜ」
 何とか大司教の執務室まで戻ってこれたところで、ジュアンが安堵の息をついた。部屋の中は無人だった。また、クローゼットの入口近くの床に突き刺さっていた氷は、殆ど溶けずに残っていた。背後のクローゼットの中から、黒い煙がもくもくと立ち昇っている。
「ねえ、何か下の方が騒がしくない?」
 少女が言った。言われてみれば確かに、どこか遠くの方からざわざわとした大勢の人の気配が感じられた。
 アトラスの背から降りた少女は、床に散らばる書類等を踏みつけながら窓辺へと近付いていった。がらりと窓が開けられると、新鮮な空気と淀んだ空気が入れ替わるような気流が室内に生じるのが、はっきりと目に見えた。と同時に、人々のさざめきが具体的な、より大きな音となって窓の外から聞こえてくる。
 その音を聞いた時、俺の心に急速に何かが差し迫ってくるのを感じた。吐き気にも近い緊張が喉元をせり上がってくるのを唾を飲んで押し戻し、つかつかと窓辺に歩み寄った。
「ど、どしたの?怖い顔して」
 隣に並んで立った俺の顔を見て、少女がたじろいだ。眼下で右往左往している大勢の人間が彼女の目にも映っていたはずなのだが、彼らが我先にと大聖堂から離れた場所へと逃げ出していく理由を彼女は分かっていないようだった。
「やべえな…」
 いつの間にかジュアンが隣に立っていた。その呟きはこれまでに聞いたこともない真剣な声色だったが、この時俺は彼がどんな顔をしているのか確認する余裕すらなかった。
 死への恐怖に憑りつかれた人間達が、これからどのような行動を起こすのか──かつて目にした凄惨な光景が、悪夢のように記憶の淵から這って出てくる。それが眼下の光景と重なり、あの時に受けた衝撃が俺の身体を石のように硬くする。
「あの小心者どもめ」 ジュアンが唸るような声で言った。「何が『人々の幸福と安らぎのため』、だ。偉そうなこと抜かしやがって。いたずらに市民を怖がらせてるのはてめえらじゃねえか」
「なになに、どういうことなの?」
 少女がジュアンの顔を覗き込んだ。どうやら彼女は本気で状況が把握できていない様子であった。
「下の様子からするに、さっき逃げてった連中が、フォービドゥンが出たっつって騒ぎまくったんだろ。その結果がこのザマだ。ドゥール区の煙突騒ぎの二の舞だぜ」
「煙突騒ぎ?」
「知らねえのか?」 ジュアンは訝し気に眉を顰め、少女の顔をまじまじと見た。「三年前だったか、民家の煙突の煙を誰かがフォービドゥンだと騒ぎ立てて、大混乱になったんだよ。どいつもこいつも『フォービドゥン』って単語にはナーバスになってやがるからな。そりゃもう街のそこいら中が蜂の巣をつついたみてえなえらい騒ぎさ」
 大勢の死人も出たしな、と俺はジュアンが敢えて伏せておいたであろう事実を胸中で付け足した。ふと、死んでいった人間のうちの一人の顔が脳裏に蘇りそうになったが、何とかそこから追い出すことに成功した。感傷に浸っている場合ではない。
 俺はぴしゃりと窓を閉めた。窓から逃げていく煙をまたフォービドゥンに見間違われては厄介だった。
「とにかく外に出よう」
「下の騒ぎはどうするよ」
 ジュアンがちらりと巨大な獣へと視線を投げた。「あの混乱の中にこんなもんを連れて出るなんざ、火に油を注ぐようなもんだぞ。下手すりゃ誰か銃を持っている奴に即座に撃ち殺される」
「大丈夫だよ。アトラスは普通の銃なんかじゃ死なないから。おじさん達もさっきの部屋で見てたから分かるでしょ?」
 得意気に胸を張って言う少女へと視線を移しながら、先ほどの地下室で見た光景を思い出していた。確かに、この獣に銃を向けられたところで、何も心配することなどなさそうだ。むしろ危惧すべきは、ジュアンの言う通り市民の恐怖と混乱の助長の方だろう。本来永久凍土の地にしか存在しない野生の肉食獣が突然街中に現れれば、誰だってパニックになる。
 自慢の相棒を複雑な目で見つめている俺とジュアンの意を酌んだらしい少女が、「ちょっと待ってて」と言い、自分の手元にある本のページをぱらぱらと捲り始めた。そして目的のページと思しき場所へ至ったところで手を止めた。今度は何を始めるつもりなのかと困惑の目で見守っていると、
「捕獲!」
 鋭く言い放つ少女の声が、部屋に響き渡った。アトラスの足下から、彼の身体全体を囲むような円柱形の光が立ち昇った。光は一気に濃さを増し、獣の身体を白く飲み込んでいく。
 時間にして、ほんの数秒の出来事だっただろう。つい先ほどまでそこにあったはずの獣の身体は、物理的に完全に消えてなくなってしまっていた。
「…どういう仕掛けになってるの、って言いたいんでしょ」
 少女のいたずらっぽい眼差しを受け、俺ははっと我に返った。
「後で一から十まで説明してあげるから、早く落ち着ける場所に移動しよ」
 あたしもう疲れちゃったよ、と言って、少女はひょいと肩を竦めた。


 執務室を出てすぐの場所にある、例の狭い階段を、三人一列になって駆け足で下った。いつ前方から武装した人間が現れるかと警戒しながら進んだが、建物への侵入に使った扉をくぐって外に出るまで、誰とも出会うことはなかった。そもそも、建物の内部に人の気配というものを感じられなかった。大司教というやんごとなきお方が血相を変えてフォービドゥンから逃げようとする様は、真に世界の終わりが訪れたのだと信じるに足る説得力を周囲の人間に与えたに違いない。結果、皆こぞって外へと逃げ出したのだ。
 一人の人間の大いなる早とちりから生まれた恐怖心は、尋常ならざる勢いで人々の間に伝播した。大聖堂の正面玄関に面した通りに出た時、そこには悲鳴や怒号といったものが、大勢の人々の間で攪拌されていた。恐怖と混乱のあまり、あらぬ方向へと逃げ惑う人の姿も少なくはなかった。中には地べたに座り込んでしまっている者もいた。腰を抜かしていたのかもしれない。
 失禁しながらも走り続ける者、何かを喚き散らしながら逃げる者、数歩進んでは足をもつれさせて転ぶ者──街は異様としか言い様のない姿を露呈していた。どの人間の顔も共通して、恐怖と絶望の色で染まっていた。そのような光景を前に、俺達は半ば途方に暮れていた。いくら勘違いだと叫んで回っても、俺達の声が誰の耳にも届かないことは三年前の騒ぎで証明済みだ。こうなってしまってはもう、事態が自然に収束するのを道路脇で大人しく見守ることしかできない。
「リット!」
 ややあって、聞き憶えのある声が俺の名前を呼ぶのが聞こえた。俺をこの愛称で呼ぶ人間は極めて限られている。
 声の聞こえてきた方へと顔を向けた。想像通りのやや小柄な風貌が、人の波をかき分けるようにしてこちらへと近付いてくるところだった。
「社長」
 俺にジュアンというハンデを押し付けた上でこの仕事を命じてきた張本人、大陸中央新聞社の発行責任者であるサーシャ・ドライバー。俺とさほど歳は違わないというのに、大陸中央新聞社二代目社長として辣腕を振るう人物だ。
 この仕事が終わったら一言文句を言ってやろうと決めていたのだが、もはやそのようなことはどうでもよかった。サーシャは俺達三人の前まで来て立ち止まった。肩口で切りそろえた見事な銀髪が、陽の光を受けて艶やかに煌めいた。
「どう、いい画は撮れた?」
 この騒ぎを前に、開口一番訊ねてきたのは仕事の首尾である。何を差し置いても仕事第一な彼女の姿勢は決してぶれることがなく、俺の口元に仄かな苦笑を浮かべさせた。
「写真はジュアンに任せました。奴らに捕まっていた少女もこの通り、無事です」
「ふぅん。で、この騒ぎは一体何」
 サーシャは少女にはちらりと一瞥をくれただけで、すぐにそのアイスブルーの瞳を往来の人混みへと移してしまった。何から説明すれば良いものか迷ったが、ひとまず地下室での出来事を掻い摘んで説明した。
 彼女はいつもの無表情で俺の報告を聞いていた。話がアトラスの件に及んだ時、何を馬鹿げた話をと鼻で笑われることを覚悟していたのだが、予想に反して彼女からは何の反応も得られなかった。表情の変化といえば、時折ぴくりと眉を上げたり顰めたりする程度のもので、引き結んだ口元や気だるそうな目からは何の感情も読み取れない。常に冷静沈着、淡々として物事に動じない彼女は、社員達の間でしばしば『アイスクイーン』と渾名されていたりもする。
「──なるほどね」
 俺の話を聞き終えると、彼女は腕を組み、鼻で一つ息をついた。
「要するに、そこのお嬢ちゃんがわけの分からない怪物を呼び出したことが原因でこういった状況になっているというわけね」
「怪物?ひっどーい、アトラスは怪物なんかじゃない、れっきとした召喚獣だもん!」
 少女が顔を上げ、不満をあらわに頬を膨らませた。十六、七歳くらいの外見のわりに、言動はやや幼い。
 だが、そんな少女にもサーシャはまるで容赦がなかった。まさにふんぞり返ると表現するに相応しい姿勢のまま、少女に氷のような視線を投げつけた。
「あんた、少しは自分の責任ってものを自覚してる?化け物だか召喚獣だか知らないけど、そんなものが本から出てくるなんていう非現実的な現象が目の前で起こってごらんなさい。フォービドゥンっていうのは殆ど未知の存在であるわけなの。過去の文献がこうだと記している姿で現在の世に現れるとは限らない、そんな風に思っている人間も大勢いる。正体が分からないからこそ皆恐れてびくびくして、何のことはない些細な刺激にでも過剰な反応をしてしまうんじゃない。それをあんたは何を得意気に…」
「社長」
 次第に少女の首が下へと向いてくる様子を見かねて、俺はサーシャの言葉を遮った。遠慮という言葉を知らないサーシャのこの性格は、改善をしてもらいたい個性の一つである。そしてそのような性格だからこそ、彼女には俺の抗議の声を受け入れる気はないようであった。
 俺は溜息を押し殺し、極力安心させるような声を作って少女に言った。
「大丈夫だよ。きみが気にすることじゃない」
「うん…でも」
「だーいじょうぶだって、こんなの放っときゃそのうち収まんだからよ。誰か一人がフォービドゥンだと騒いだだけでつられて逃げ出しちまう連中が馬鹿なだけさ」
 ジュアンが殊更暢気な声で言いながら頭の後ろで両指を組むのを、俺は黙って見つめた。少女を安心させるためにわざとおどけた調子を演出しているのは分かっていたが、三年前、俺の目の前で死んだ人物も彼の言う『馬鹿な連中』に含まれているように聞こえてしまい、複雑な気持ちが胸の中に広がるのを禁じ得なかった。
「リット、あんたらはもう社に戻りなさい」
 サーシャの平淡な声が耳に届いた。彼女は再び、混乱の収まらない通りへと顔を向けた。
「あたしはこの騒ぎを少し取材してく。あたしが帰社するまでに、写真の現像と記事の下書きを終わらせておいてちょうだい。それと…」
 ここでサーシャはいったん言葉を切り、少女へと顔の向きを戻した。反射的に気を付けの姿勢を取る少女に、「あんた、名前は?」とぶっきらぼうに訊ねた。
「レイチェル」
 やや緊張の面持ちで、だがはっきりと少女は答えた。「レイチェル・ヴォゼッグ」
 サーシャは鷹揚に頷いた。そして早口で俺に告げた。
「それと、この子の身元を調べなさい。どこから、どういった経緯であの広場に現れたのか。それからその子が持っているその本についても、仕組みから何まで全部洗い浚い吐かせるのよ。不明な点がはっきりするまでは何があっても逃がすんじゃない。分かったわね」
「いや『逃がす』って、そんな言い方…」
 俺の言葉が終わらぬうちに、サーシャの視線は少女の顔へと戻されていた。
「レイチェル、あんたはこの男らの質問に包み隠さずすべてを答えること。命を救ってやったのだから、そのくらいの恩は返してしかるべきってものよ」
「すべて?って言われても、う〜ん…あたしにも喋っていいことと駄目なことが…」
「嫌だっていうなら、誰か別の殺し屋にあんたの身柄を引き渡してやるだけのことね」
 サーシャがすげなく告げると、少女は血の気の引いた顔を激しく横に振った。
 ジュアンがぽんと俺の肩に手を置いた。
「よし、じゃあ行こうぜエリオット。これ以上騒ぎがでかくならないうちによ」
「あ、ああ…」
 通りに溢れる人の数は、着々と増えている様子が窺えた。正気を失った人間でごった返す通りを進んで帰るのは、相当骨が折れるだろうなとかなり気が重たくなった。どこからこんな大勢の人間が湧いてくるのだと疑問に思う。そして、全世界を滅ぼすとされるフォービドゥンを前に、彼らは一体どこに逃げて隠れるつもりなのかとも。
 その時、どこからともなくひときわ大きな悲鳴が上がった。通りの人の流れに変化はなかったが、声に混じる恐怖の色は、この周辺に響いているものより相当濃度の高いものであった。明らかに何らかの異常事態が起きていることを俺達に察知させた。
「…何かあったのか?」 ジュアンが怪訝そうに呟いた。「まさか、マジでフォービドゥンがお出ましになったとか?」
「まっさかあ、都合良くこのタイミングで?」 少女が軽い調子で応じる。
「ジュアン、あんたの撮影機のフィルムの残りは?」
 サーシャからの質問に、ジュアンは撮影機を手に取り残りのフィルムの数を確認し始めた。やがてまだ十枚以上は撮影可能であるとの返答を受けたサーシャは、「行くわよ」と悲鳴が上がっている方向へ顎先をくいと向けた。
 ジュアンと少女がすかさず駆け出した。通りの人の流れへと彼らの姿が飲み込まれていくのを、俺はただその場に立って見届けた。
「…リット、あんたは一人で社に戻ってても構わないけど」
「え、…」
 気が付けば、サーシャが腕組みをしてじっと俺を見据えていた。俺の返事を、いや、「俺も行きます」と言って動き出すのを待っていたのだろうが、俺の脚は石膏で固められてしまったみたいに硬直し、自分の意思では動かすことができないでいた。何のリアクションも返そうとしない俺に見切りを付けたのか、やがてサーシャはふいと俺から顔を背けたかと思うと、ジュアン達が消えていったのと同じ方向へ走り去ってしまった。
 この近くで、とんでもないことが起きているのは確実な状況といえた。また、ここにいる人間で、それを記事に書き起こすことができるのは俺しかいないということも分かっていた。いくら社長の許可があるといえど、この場を放り出してのこのこと一人帰社するような無神経さを俺は持ち合わせていない。俺がもしそのような性格であったならば、もっと楽にこの世界を生きることができただろうに。
 独りその場に取り残されたまま、どのくらいの時を過ごしていただろうか。皆の後を追わねば、という職務的な責任感のみが、どうにか俺の脚をのろのろと前へと動かすことに成功した。
 ただしその足は、足枷でも引きずっているのかと思いたくなるくらいの重みを感じた。銃口を向けられる時とはまた違った怖さや緊張感が、胸の中を隙間なく埋め尽くしているのを自覚していた。
 何人もの肩にぶつかり、ぶつかられ、悲鳴を頼りに前へと進み続けた。間もなく辿り着いた先は、地区ごとに設けられている大きな時計台の前であった。
 大聖堂のちょうど裏手に存在する時計台は、大聖堂に次ぐ第二の地域のシンボルとして長年街の住民に愛され、親しまれている。塔のてっぺんの屋根の下には大きな鐘がぶら下がっており、塔の管理人が一時間ごとにそれを打ち鳴らして時を知らせる他、塔全体が街の展望台としての役割をも担っている。塔の内部には階段が設けられていて、それは展望デッキへと直通しているのだ。
 天気が良ければサウスコースト沖に浮かぶ旧アルバド城を望むことができ、その見晴らしの良さから定番のデートコースとしても有名な街のランドマーク、時計台。ただし、入口で所定の料金を支払わなければ、塔の中に入ることはできない。割に合わない高額な入場料は、区の貴重な財源の一つでもある。
 しかし、秩序を完全に失ったこの状態では、入場料もへったくれもあったものではなかった。その場に足を止めた俺はまず、塔の入口に沢山の群衆が押し寄せている光景を目にした。街の住人達が、狭い入口に我先にと身体を押し込ませ、おしくらまんじゅうさながらの様相を呈している。
 小さな郵便ポストの脇に立ちながら、一体何をしているのだろうと彼らの様子を観察した。安全な場所を求めるのなら上ではなく地下へと潜るべきなのに、その程度の合理的な判断力さえ失われてしまっているのだろうか。そんな場所に上ったところで、一体何の得になるというのだ──
 疑問に対する答えはすぐに返ってきた。どさっという重く鈍い音が、少し離れた場所から俺の耳へと届いた。一拍遅れて、再び周囲から湧き起こる泣き声にも似た怯え声。
 ──嫌な予感しかなかった。しかしそれを確かめないわけにもいかなかった。新聞記者としての使命だけに支えられてここまで来た。たとえその音の正体が分かっていても、この目で見届けなければいけないのだ、この世界の現実を。
 そんな風に自分に言い聞かせながら、ゆっくりと、音のした方へと視線をずらしていった。時計台のすぐ横の石畳の上に、何人もの人が俯せになって、あるいは仰向けになって倒れているのを見付けた。
 いや、倒れているのは人ではなかった。『かつて人間であった何か』、だ。いくら死体を見慣れている市民であろうと、凄惨という言葉でさえ生易しく思えるであろう惨たらしい有様がそこにはあった。もはや一切の考える能力というものを失った俺の視界の中に、次から次へと潰れてぺしゃんこになった肉の塊が増え、地面に広がる血の海はどんどんとその面積を広げていく。
 俺は殆ど無意識に、視線を上へと移動させていた。時計台の展望デッキを巡っている柵に足をかけ、躊躇なくそこから身を投げる人々の姿が、俺の網膜に焼き付いた。
 絶望に似た冷たい風が心の中に吹き込んだ。危惧していたことが現実になってしまった。またか───またなのか。死の足音に追い詰められた人間というのは、どうしてもこういった衝動に駆られてしまうものなのか。
 三年前は、灯油をかぶって火を点ける形での集団自殺。今度は投身自殺だ。どれくらいの人間が無駄な死を遂げてしまうのだろうと考えた。死者数が三桁の大台に乗る前に、騎士団あたりが駆けつけてくれると助かるのだが…
「ついに、この腐った世界が終わるようだな」
 すぐ近くの背後で、突然声がした。驚きと共に自我を取り戻した俺は、勢い良く振り向いた。聞こえてきたのは、よく知っている声だったのだ。
 そこに立っていた男を見て、まず俺の中に疑問が生じた。何故こいつがここに、と思った。しかし今となってはもう、それを確かめる術はない。腰にフラットエッジを提げていたところからすると、取材でたまたまこの近くに居合わせたのかもしれない──そんな風に雑な想像を働かせてやることしかできない。
「オレは一体、何のためにこの世に生まれてきたんだろうな」
 彼は言った。この日会社を出る前に、「死ぬなよ」と俺に声をかけてきた時とは別人のような、張りのない声だった。視線はまっすぐこちらを向いていたが、光を失い空洞のようになってしまっている瞳に、果たして俺の姿は映っていたのだろうか。
「夢も、希望も、何もかもフォービドゥンにぶっ潰された。憧れの仕事に就けば前向きに生きていけると思ったんだが、現実は違った。惨たらしいものばかり見て、怯えた声ばかりを聞いて、ペンを持つ時間より剣の柄を握る時間の方が多い人生だった。ははっ、せっかく爺ちゃん譲りの思慮深さと文才を持って生まれてきたってのに、何の役にも立ちゃしなかったな」
「何を言ってるんだ?」
 俺は笑おうとしたが、頬の筋肉が引きつっただけだった。「しっかりしろ。フォービドゥンが出たなんていうのは流言だ。ドゥール区の時と同じことになっちまってるんだよ」
 彼は唇の端を歪め、ゆらゆらとかぶりを振りながら俺の言葉を聞いていた。そして、「現実を直視しろ」と俺に言い返した。
「ハックビーク山の向こうで、炎と同時に黒煙が上がったらしい。炎は山の標高と同程度の大きさの人型を成して、こちらへ向かって歩いてきているそうだ。辺り一帯を焦土へと変えながらな」
「ハックビーク山?何の話だ?」
 面食らうよりほかなかった。何故ここで突然火山の名称が出てくるのだ。
「噴火でもしたのか。情報源はどこだよ」 困惑の滲む声で訊ねた。
「オレが知ったのはセンチュリー紙の記者からだ。さっき、道路の真ん中で真っ青な顔して喚き散らしていた。奴らのもとに情報が届いた時には、既にアッペルモント街道までが壊滅状態だったとも言っていた。残念ながら、今度こそ『勘違いでした』では済まなさそうだ」
 センチュリー紙とは、大陸中央新聞社などとは比べる余地もない、紛うことなき大手の新聞社だ。読者数は桁違いに多い。また、大陸のあちこちに支社を構えているため、情報収集力においても抜群に長けている。
 だがこの状況下で、その情報の信憑性は怪しいにも程があった。混乱の最中、情報が錯綜し、ありもしない事実が勝手に一人歩きを始めてしまう現象が三年前にもやはり起きている。
 俺は目の前で心を失ったような状態になっている同僚へと、正しい事態の説明を試みた。彼はまるで聞く耳を持っていない様子だった。彼にすれば、俺の言葉こそが『ありもしない事実』であったのだろう。本の中から獣が出てきて…などと説明されたところで、先ほどのサーシャのようにすんなり受け入れてくれる方が珍しい。鼻で笑って受け流す、という彼の対応は、ある意味仕方のないものだった。せめてジュアンや少女が一緒に説き伏せてくれたのであれば説得力も増したのだろうが、周囲の人だかりが邪魔をして、近くに彼らの姿を見付けることはできないでいた。
 ふと、彼の視線が俺の顔を外れ、上へと向いた。その瞳に何が映っているのか、容易に想像がついた。
「ああいう終わり方も、悪くないよな」
「…どういう意味だ?」
 しみじみと言う彼の意が全く理解できず、俺は心からの疑問を呈した。いまだ身投げが続く時計台からなるべく視線を逸らしている俺とは違い、彼の目は展望デッキへと釘付けになっているようであった。
「この歳まで生きてきて、ずっと生きた心地がしないでいたよ。オレ達は皆、いつか奴に殺されるために生きてきたようなもんじゃねえか。だけど最期の時くらい、奴の呪縛から解放されたいって気持ちがどこかにある。自分の死に方くらい、自由に選ばせてくれと思いたくもなる。多分あいつらもそういう気持ちなんだろうよ」
「お前…俺の話を聞いてたのか?真実を追う記者がデマに流されてどうする。この混乱は教会の連中の早とちりから生じたもので…」
「いいんだよ、もう!」
 今まで聞いたことのないヒステリックな彼の叫び声が、俺の声を喉の奥へと押し戻した。ごくりと唾を飲み込む俺に、彼は再び「いいんだ」と呟いた。声に震えが混じっていた。
「もう、どっちだっていいんだよ…デマだろうが、事実だろうが…。散々なんだ、明日死ぬかもしれない、いや、十秒後には死んでるかもしれないなんて怯えながら生きていくのは…」
 だんだんと充血していく彼の目は、俺の視線を捕らえて放そうとしなかった。次第に目元が赤く染まっていく様子にどきりとしたが、涙が滲んでくる様子は見られなかった。
「もう疲れちまった、この世界に生きていくのが。憧れの職業に就いたって、オレを満足させたのは結局は『記者』っていう肩書だけだ。理想と現実は違う。何一つやりがいのねえ仕事をしながらいたずらに毎日を過ごしていたって、生きていく希望なんざこれっぽっちも生まれやしなかった。やりたくもねえ仕事をして、金を貰って、飯を食ってただ生き長らえるだけの生活…結局はフォービドゥンに殺されるって決まってるのに、無為に生きて過ごさなきゃいけねえ道理がどこにある!?」
 ここで彼は、突然目元を綻ばせた。『微笑む』とは到底表現できない、弱々しい苦笑いのような表情だ。
「でも、ある意味オレは正しい職業選択を出来たのかもしれねえな。武装できるっていう記者の特権も、悪いことばかりじゃねえ」
 初めはその言葉の意味が分からなかった。だがその次の瞬間、すべてを理解した。
 彼の右手が、ゆっくりと腰の後ろへと回った。再びその手が前に戻ってきた時、どうして彼を止めるべくすぐに行動を起こさなかったのだろうと、返す返す自分の反射神経の悪さを呪いたくなる。
 愚かにも、俺はただ見ているだけだったのだ。
「…オレはきっと、こうやって楽に死ねるように新聞記者になったんだ」
 そう言って彼が、自分のこめかみに静かに銃口をあてがう様を。


 信じられなかった。何かの冗談のようにも思えていた。フォービドゥンへの恐怖をおくびにも出したことがなかった人間が、これほどまでに闇に心を蝕まれ、あろうことか自害せんとしていることが。
 まさか本当に引き金を引くなどとは、その瞬間が訪れるまで思いもしなかった。聞き慣れた発砲音が響いても、彼の頭から鮮血が飛び散っても、現実ではないどこか別の世界での出来事のように感じていた。
「──エリオット!?どうした、何があった!」
 やがて、どこからかジュアンの声が近付いてくるのが分かった。この時になって初めて、自分達の周囲から人が遠ざかっていることに気付いた。近くにいた人間には、俺が彼を撃ったのだと思われていたのかもしれない。だがそんなことはどうでもよかった。
 俺の目は、石畳の上で血を流して倒れているだけの、同僚であり親友であった者の姿を映していた。当然のことながら、即死だった。思い出としては最悪の部類に入るため、あまり思い出さないようにしていたのだが、今でも時折夢の中で蘇る。生き物から物体へと存在を変えてしまった、この時の彼の最期の光景が。そして、すべての苦痛から解放されたかのような、晴れ晴れとしたその死に顔が。
 彼の名前はフランク・リージェンスといった。二十六歳だった。祖父から受け継いだという万年筆を、後生大事に机の中にしまっていた。会社に入社したばかりの頃、「すぐにいっちょまえの記者になって、でかい記事を書いてやるんだ」と誇らしげに語っていた。誰よりも真面目で、誰よりも誠実な人柄だった。それなのに───
「…フランク…」
 最後に彼の名を呟いたところまでは記憶がはっきりしているのだが、そこから先はどのような流れで帰社したのかよく憶えていない。突然の事態に脳の処理能力が追いついていかず、いわゆる頭の中が真っ白な状態に陥ってしまっていたのだ。
 それでも、混乱に満ちた街の喧騒だけは、常に鮮明に俺の耳に届いていた。悲鳴、泣き声、怒号、時には狂ったかのような笑い声。それらの音を聞いていると、まるで本当にフォービドゥンがこの世に現れたかのような錯覚を俺に抱かせた。
 ついにこの世界が終わる。この腐った世界が。人々から生きる希望を根こそぎ奪い、社会の秩序を崩壊させ、老いも若きも関係なく、大勢の人間が絶望のうちに死んでいく。
 いや、それだけでは終わらない。奴──フォービドゥンという名の悪魔は何度でもこの世界に現れ、まるで平和な世の中など許さないとばかりに、未来永劫人々の心を恐怖で支配し続けるのだ。
 一向に鎮まる気配を見せない騒動の中、立ち尽くす俺の背後で、誰かがぽつりと呟いた。
「呪われているんだ、この世界は」、と。

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