- 7 -


 翌日の新聞の見出しには、『時計台の惨劇』との文字が打たれ、その日俺が見たままの光景が写真と記事とで大々的に報じられていた。
 『節度』という言葉とは無縁になっていると思われた新聞各社も、さすがに時計台の下の惨状を写真でそのまま伝えることは憚られたらしく、どの紙も揃って展望デッキから身投げをする人々の姿で一面を飾り立てていた。
 我が大陸中央新聞社においても同様のスタンスであった。勇者殺しの主犯が大司教であったことや、我が社からの情報提供による警察の捜索の結果、件の地下室から薬品漬けにされた被害者達の心臓が発見されたことなど注目に値する記事も幾つかあるにはあったのだが、フォービドゥン出現の誤報が招いた集団自殺事件が市民に与えた衝撃に比べたら、それほど大きく紙面を割くほどのものでもない。
 それに何より、それらを記事にしづらいという事情もあった。撮影機を持って同行していたジュアンが、あろうことか一枚も写真を撮っていなかったのだ。
 とんでもない大ぽかである。大目玉どころか、減給処分となってもおかしくない怠慢ぶりだ。こいつの身の安全に気を配り続けていた俺の苦労は何だったのかと、軽い眩暈すら覚えたほどだ。
 にも拘わらず、やはりというべきか何なのか、サーシャがジュアンに対して今回の落ち度を咎め立てするようなことは一切なかった。俺が以前重要な場面で撮影機のフィルムを切らしてしまった際に食らった説教や諸々の処分を考えると、彼女のジュアンに対するこの寛容な態度は、不服を通り越して不可解としか思えなかった。
 フランクと話していたように、やはりジュアンはサーシャの何らかの弱みを握っているのだろうか。それとも、サーシャがジュアンに特別な好意を抱いていて、あからさまな依怙贔屓をしているだけなのか。ジュアンがサーシャに賄賂を贈っているとか、実はジュアンこそがこの会社を支配する真の社長だったりするとか、それとも──

 平日の昼下がり、ベッドで仰向けになり天井を眺めているだけの俺の頭の中に、とりとめのない想像が浮かんでは消えていった。これくらいしか考えることもないし、することもない。要するに暇だった。
 会社から突然一週間の休暇を言い渡されて、この日で三日目だった。別に体調が悪いわけでも何でもないのに、皆が口を揃えて「少し休め」と俺に詰め寄ってきたのだ。理由を尋ねると、「自分の顔を鏡で見てみろ」と言う。自分では大したことはないと思っていたのだが、周りから見れば俺の目の下の隈は、相当な寝不足を窺わせる濃さに達していたようだ。勤務には差し障りない旨主張しても、サーシャには説得力がないと一蹴された。
 枕元の時計に手を伸ばした。時刻は午後二時を少し過ぎた頃だった。俺はベッドから上体を起こし、窓ガラスの向こうに広がる青い空をぼんやりと眺めた。いくら休暇を貰ったからといって、立ち所に不眠が改善されるわけもなく、夜の長さはフランクが死んだあの日からあまり変わっていないように思えた。それでも、昼間にベッドで横になる時間が増えた分、うつらうつらするくらいの余裕は少し出てきていた。
 朝からコップ一杯の水しか飲んでいないことに気付いた俺は、とりあえず何か胃に入れておこうと思い立ち、時計を所定の位置に戻してから床に降りた。食欲という言葉が懐かしく思えるほど何も食べる気にはなれなかったのだが、かといってこのまま餓死する気にもなれなかった。
 緩慢な動作でキッチンに向かいかけたその時、玄関のドアを軽く叩く音が聞こえた。吐息を一つつき、玄関の方へと顔を向けた。このような時間に俺を訪ねてくる人種など、他社の新聞の勧誘か質の悪いセールスの類くらいだ。
 居留守を決めようかとも思ったが、俺は身体の向きを変え、首の後ろを掻きながら狭く短い部屋の廊下を進んだ。この三日間はどこにも外出しておらず、誰とも口をきいていなかった。何でもいいから、誰かと会話をしたい気分だった。
 扉を開けると、ドアチェーンの向こうには意外な人物が立っていた。
「やっほー、久し振り。元気してた?」
 快活な声と笑みが、出てきた俺を迎えた。俺はしばし、扉の隙間からひらひらと手を振っているその少女の顔を見つめたまま固まっていた。
「…誰だっけ」
「やだ、忘れちゃったの?レイチェルさんだよ、勇者だと間違われてロープでぐるぐる巻きにされていた悲劇のヒロイン」
「ああ…」
 そういえばそんな名前だった。この近辺では見たことがない、ぱっと見学生服を思わせるやや風変わりな衣装。例の青い表紙の分厚い本には厳重にブックベルトがかけられ、その端は彼女の左手首と繋がっている。
 彼女の存在自体は忘れるわけがなかったが、この休暇中にその名前を思い出す機会はなかった。あの日少女と一緒に会社に戻った後、思考回路がまともに機能していない俺に代わって、ジュアンが彼女の素性を調べていたのだ。それも「お茶でもしながらゆっくり話そうよ」というジュアンのナンパ紛いの誘いにあっさり乗った少女は、ジュアンと一緒にずっとどこかへ出かけてしまっていて、俺が出社している間に再び会社に顔を出すことはなかった。だから俺には、彼女と出会って以来、落ち着いて話をする機会自体が全くと言って良いほどなかった。
「わざわざこんなところまで、何か用でも?」
 少女──レイチェルは、にこにこと俺を見上げていた。彼女が俺の自宅のアパートの位置を知っているわけがないから、おそらく会社の誰かから教わってここまで来たのだろう。しかし俺を訪ねてくる理由が思い当たらない。
 ドアチェーンを外し、扉を更に押し開けると、彼女はひょいと首を伸ばして部屋の中を覗き込んできた。そして、何か意外なものを見付けたかのような声でこう言った。
「…エリオットさんって、奥さんいるの?」
「いや、いないけど…何を突然」
「男の人のわりに、綺麗に片付いてるなーと思って。あ、それとも彼女さんと一緒に住んでるとか?」
「…いや」
 特にこれといった趣味もないため、休日は専ら部屋の掃除や片付けをして過ごしているのだ──などとは答えられるはずもなく、俺は曖昧に口元を緩めて彼女の言葉をやり過ごした。「おっじゃましまーす!」と元気良く挨拶をしたかと思うと、俺の返事を待たずに勝手に部屋の中へと上がり込むレイチェル。
 足取りも軽く鼻歌交じりにリビングへと進んでいくその背中を、しばし呆然と眺めるしかなかった。やがて頭の中に無数の疑問符を浮かべたままリビングに戻ってきた俺に、レイチェルは爛々と輝く大きな瞳を向けてきた。こんなにも明るく、活力に満ちている目を生まれて初めて見たような気がして、まるで彼女が別の世界の住人であるかのような印象を俺に抱かせた。
「社長さんに『リットが野垂死にしていないか見てきてちょうだい』って言われて、お家の場所を教えてもらったの。とりあえず、ちゃんと生きてるみたいだから安心したよ」
「何だそれ。そんなことのためにわざわざ?」
 これには苦笑いが零れた。失意のあまり後追い自殺をするのではと疑われるようなキャラクターでは通っていなかったはずだが。
 すると、レイチェルは突然ぴしりと姿勢を正し、「それとね」ともじもじしながら続けた。
「もう一回、ちゃんとお礼を言っとこうと思って。あの時のピンチから救ってもらったこと」
「何だ、それこそそんなことのためにわざわざ?って話だよ」
「でも、あの時エリオットさん達が来てくれなかったら、あたしの心臓も今頃瓶詰めにされて棚の奥に隠されてるところだったもん」
 ありがと、とちょこんと頭を下げるレイチェルを、俺は面映ゆい心地で見つめた。今回のように、剣を振るうことで誰かから感謝されることもある。だがそういった温かい気持ちを向けられることには、何度回数を重ねようとも慣れそうにない。俺は純粋に人助けをしているわけでなく、仕事として記事を書くための材料を拾い集めているだけなのだ。
「…一つ俺からも話したいことがあるんだけど、いいかな」
 早いところ話題を変えるべく、口を開いた。顔を上げたレイチェルに近くにあった椅子を勧め、彼女が腰かけるのを見てから言った。
「色々落ち着かなくてなかなか訊く機会がなかったんだけど…そろそろきみが何者なんだか教えてくれないか」
 虚空に突如現れ、フォービドゥンの居場所を探し、今ではもう誰も操れないはずの『魔術』と思しき現象を俺達の面前で披露した。この事実だけ並べれば大司教らが彼女を『勇者』だと思いたくなる気持ちも分からなくはないが、本人はそれを否定する。だからといって、俺達と同じ凡人という括りに当てはまるわけがない。
「え〜?また説明しなきゃいけないの?おじさんにも根掘り葉掘りしつこく訊かれたのに」
 レイチェルは面倒臭そうに顔をしかめた。おじさんとは言わずもがな、彼のことなのだろうが、聞き流しておくことにする。
「…でも、エリオットさんは命の恩人だから、あたしの口からちゃんと話さなきゃいけないよね」
 自分に確認するかのように一つ頷いたレイチェルは、あのね、と前置きしてから、真っ直ぐに俺の目に視線を定めた。ややあって、覚悟を決めたかのように表情を引き締め、言った。
「あたしね、三千年後の未来から来たの」
「………………」
「あ、ほら、やっぱりおじさんと同じリアクションじゃん。その顔は信じてないでしょ」
 肯定するか、一応否定するかで迷った。だが俺が返事を返すより早く、レイチェルが言葉を続けた。
「王国歴六千年の一月三日、解放祭の日にこの時代に来ようってずっと決めてた。あたし達が享受している今の平和が、どうやってもたらされたのかこの目で確かめるために」
「…平和?」
 違和感しか感じない単語に眉をしかめると、レイチェルはこくりと頷いた。
「そう、千年置きに世界を破滅させてきたフォービドゥンは、あたし達の時代にはもういない。歴史書によると、二九九九年のこの時代に現れたのを最後に、フォービドゥンは姿を消したって言われてる。でも当時の詳しい状況は曖昧にしか書き残されていないし、色々辻褄の合わないこともあるから、フォービドゥンが消滅した理由についてはずっと謎のまま。だからこの時代のフォービドゥンの居場所を調べて、そいつがこの世界から消える瞬間をこの目で見届けようと思ったの。そのために六年もかけて時間軸移動の術文を解読したんだから」
 どこか得意気に語るレイチェルの口元を、俺は何ともいえない心地で見つめていた。正直に言うと、失礼ながらも彼女の精神状態を疑っていた。
 未来からやって来た?フォービドゥンが消滅する?なかなか魅力的な話ではあるが、到底現実味のある内容ではない。それに、彼女の話と似たような妄言を吐く自称『予言者』なる人物に出会ったこともある。こういったご時世、何かに取り縋りたくなる人々の脆弱な心に付け入り、都合の良い御託を並べ立てて民衆を悪事へと扇動する悪党がそこいら中で跡を絶たないのだ。
 彼女がその悪党であるとは思えなかったが、お伽噺のような話を無条件で信じ込めるほど素直な心は、年齢を重ねた俺には残っていなかった。突拍子もない彼女の話にどう対応すれば良いのか苦慮していると、俺の沈黙が長引くにつれ、レイチェルの瞳から徐々に輝きが失われていく様が見て取れた。
「…嘘じゃないもん。本当なんだもん」
 ついにはふてくされたように唇を尖らせて俯いてしまった。そんな彼女に、何と言葉をかけるべきか頭の中を探った。俺に子供のような純粋さはないが、年少者の心を思いやるくらいの大人の嗜みは成長と共に身につけてきたつもりだった。
「きみが嘘をついてるだなんて思ってないよ」
「嘘。その目は絶対に信じてないもん。いいんだよ、別に。おかしな作り話だと笑い飛ばしてくれても」 続いて発せられた彼女の言葉に、俺は軽く目を見開いた。「おじさんと社長さんにはちゃんと信じてもらえたから、それで十分」
「何だって?社長が?」
 ジュアンはともかく、サーシャの信用を得られたという事実は、俺の中での判断を百八十度転換させた。何事もきっちり白か黒かで判断したがる彼女は、話を進めていく中で、相手に合わせてやるだとか、はいはいと適当にあしらうだとかいう柔軟性を発揮することはない。相手を徹底的に問い詰め、あらゆる情報を引き出し、最終的に真実か嘘かという結論に行き着くのみである。
 そんなサーシャが、素性のはっきりしない少女が語るこの現実離れした話を信じたとなれば、その理由は一つしか考えられなかった。レイチェルの話を真実だと裏付ける確固たる証拠や揺るぎない信憑性を、その発言の中に得られたに違いない。
 俺は、いまだ俯いて何かぶつくさと言っているレイチェルの顔を、まじまじと見た。三千年後の未来から来た──それも、フォービドゥンがこの時代で消滅するとのとんでもない吉報を引っ提げて。
「この世界は…」 気が付けば、ひとりでに口が動いていた。「俺達が今いるこの世界は、滅びることはないのか。勇者が世界を救ってくれるのか、誰一人の犠牲も出さずに」
 レイチェルが顔を上げて俺の目を見た。きっと必死の形相をしていたことだろう。俺にとって…いや、この時代を生きる全世界の人類にとっての最大の関心事は、フォービドゥンが消滅するということよりむしろ、自分達が存在するこの世界が無事であるかということなのだ。
「分かんない」
 レイチェルの返事は、実に素っ気ないものだった。困ったような顔で小首を傾げ、「さっきも言ったけど、フォービドゥン消滅の経緯については分からないことばかりなの。沢山の人が死んだって書いてある歴史書もあるし、街は壊滅したけど一人の死人も出なかったって書いてある歴史書もある。だから…」
「なら、奴はいつこの世界に現れるんだ。何月何日の、何時何分に!?」
 俺の両手はレイチェルの肩を掴んでいた。次第に鼓動が速まっていくのを感じていた。これまで全くの未知の存在とされていたフォービドゥンが、急に具体的な存在へと姿を変えていく感覚が身を包んでいた。
「それは…言えない」 レイチェルはそう言い、俺から目を逸らせた。
「言えない?」 俺は眉根を寄せた。「どうして。いつフォービドゥンが現れるのかが分かれば、何らかの対策を施せるかもしれないじゃないか。その日までにできるだけ安全な避難場所を確保するよう国に通達を出してもらうとか、他にも色々…心の準備みたいなものだってできるだろ」
「う〜ん、そうかもしれないけどぉ〜…」
 レイチェルの歯切れの悪さに、苛立ちを覚える。世界の命運がかかっているというのに、何を躊躇することがあるのか。それともやはり未来から来たという先ほどの言葉は、狂言でしかなかったのか。
「社長さんに、そういうことは他の人には絶対に黙ってろって言われたから…」
「…は!?」
 思いもかけない台詞に、俺は二の句が継げなくなった。と同時にサーシャの真意を忖度し、やがて静かにレイチェルの肩から手を離した。
 少し冷静になって考えれば分かることだった。この世界の全員に、何月何日にフォービドゥンが現れると周知したところで、さほどプラスの効果は生み出さないだろう。人々がその日付を信じればまた大混乱になるだろうし、信じてもらえなければ何の意味も成さない。
「…せめて、どこに奴が現れるのかは分からないのか」
 呻くような俺の声に、レイチェルはゆっくりと顎を引いた。歴史書が遺されているというのにそんな馬鹿な話があるかと思ったが、彼女が街の住人にフォービドゥンの居場所を訪ねていたことを思い出し、反論しようと開きかけていた口を閉じた。歴史書に奴の出現場所が記録されていないとするならば、人里離れた僻地に出現したということなのかもしれない。
 俺は重い息を吐き出した。腕を組んで、背後の壁に寄りかかり体重を預けた。
「ねえ」
 おずおずと、こちらの顔色を伺うようにしながらレイチェルが口を開いた。
「絶対に、誰にも言わないって約束してくれるなら、エリオットさんにだけ内緒で色々教えてあげようか?あなたは命の恩人だし…」
 一拍の沈黙の後、俺は小さく俯いてゆらゆらとかぶりを振った。
「いや、いいよ」
「何で?知りたくないの?」
「俺に喋ったことが社長にばれたら、きみはこの世の地獄を見ることになる」
 それに、と俺は続けた。自嘲的な響きを帯びないよう気を付けながら。
「それを知ったところで、俺には何をどうすることもできないからさ」
 俺に世界を動かす力などない以上、何をする気にもなれない。仮にその運命の日がいつ訪れるのかを知れたとしても、一人安全な場所に退避する気すら起きない。
 また、こうも考えられた。国が、世界がフォービドゥン出現のその時に備え、軍事・行政等あらゆる方面で万策を講じたとしても、大きく運命を変えるほどの効果は生み出せないのではないか。仮にそれができる存在があるとすれば、それこそフォービドゥンを討ち取ることができる世界でただ一人の人間、勇者に限られるのではないか。
 この時俺は気付いた。今まで何の期待も希望も抱いていなかった勇者という存在に、微かではあるが心が歓迎の動きを見せ始めている。レイチェルが言う通り、この時代でフォービドゥンが消滅するというなら、それは勇者の何らかの働きによるものに違いない。また、勇者がそのような大業を成し遂げられるとするなら、ひょっとすると本当の意味で世界を救うということも可能なのではないか。
「…だといいけどな」
「えっ、何?」
 何でもない、と苦笑いを返してから壁から背を離し、テーブルの上に広げっぱなしだった新聞を畳んだ。そして、テーブルの椅子の背に引っ掛けたままだったシャツを手に取り、振り向いた。
「せっかく訪ねてきてもらったばかりで悪いんだけど、ちょっと出かけてもいいかな」
 レイチェルはきょとんとこちらを見たままだった。軽く肩を竦め、俺は言った。
「世界を救う予定の勇者様に、一目お会いしたくてさ」


 安普請のアパートを出て通りを東へと進めば、徒歩二十分ほどで王城に着く。アルバドール城という呼び名が正式名称だが、市民からはアルバド城と略されることが多い。国王アラム・ハドラー・アルバドールの居城にして、国内政治の中枢を担う場所だ。
「三時から、王城の中庭で勇者による勝利宣言が行われるらしい」
 今朝の新聞の一面に書かれていた情報を、隣を歩くレイチェルに伝えた。一緒に行くと言って聞かなかったので連れて家を出たのだが、通りに出てまず真っ先に道端の屋台へと腕を引っ張られた。やたらごてごてとトッピングの施されたクレープを右手に持つことに成功したレイチェルが、俺に疑問の目を向けてきた。
「勝利宣言?まだ戦ってもいないのに?」
「フォービドゥンに必ず勝つ、ということを国民にアピールしておく趣旨でそういった表現になったんだろう」
「ふうん」 気のない口調で相槌を打ってから、レイチェルはクレープへと噛り付いた。「勇者かあ…どんな人なんだろ」
 この日、王城へと続く大通りは、いつにない活気で満ち満ちていた。『勇者、現る』──我が紙ながらもう少し気の利いた見出しは付けられなかったのかと思ったが、欠勤している俺の穴を埋めてくれている他の社員達に文句を言える立場ではない。それに、王城へと向かう人々にとって、見出しのセンスの良し悪しなどどうだって良いのだ。ついに勇者が現れた──その情報こそが最も価値あるものなのだ。
 これまで勇者を自称する人間は掃いて捨てるほど現れてきたが、国が公式に勇者だと認めた人間がついに登場したとのことで、街はちょっとした騒ぎになっていた。この年に入ってから通行人の減少が特に顕著に見られるようになった大通りも、王城へと向かうのであろう多くの人出で賑わっていた。
 幸せそうな顔でクレープを頬張り続けるレイチェルの横顔を、俺はしみじみとした思いで眺めた。通りに屋台が出ることなど何年ぶりだろう。道の両側に軒を並べる商店が、次々と店を畳むようになってから久しい。特にこの数年は人々の勤労意欲の減退が目に見えて加速し、その日の食い扶持だけ稼いだところで一日の営業を終えるという店も珍しくなくなった。二年前には市の予算の関係で街の清掃員が姿を消し、以降路上にはゴミが散らかり放題だ。『王都』という肩書を返上すべきだと思えるほどに商店街の過疎化は進み、治安の悪化がそれに更に拍車をかけた。
「ねえ、この時代の人達は、どの程度フォービドゥンのことを知ってるの?」
 レイチェルが、口の端にクリームを付けたままの顔を俺へと向けてきた。
「世界を滅ぼす化け物、と答えるくらいが関の山といったところかな」
 答えてから、俺はレイチェルの左手に新たにホットドッグが追加されていることに気付いた。「っていつの間に買ってきたんだ?」
 直後、もっと重要な問題に気付いた。
「いや、そんなことより金は…金はどうしたんだ。持ってないんじゃなかったのか」
 右手のクレープは、「ねー、買ってよ買ってよ〜」と駄々をこねる彼女に根負けして俺が身銭を切ったものだ。そんな様子なものだから、てっきり無一文でここに来たのだと思っていた。
 レイチェルは悪戯っぽくウインクしてみせた。
「大丈夫、実はちょっとだけなら持ってるの。社長さんに頼んでバイト代を前借りさせてもらえたから」
「バイト?」
「うん。あたし、大陸中央新聞社に雇ってもらえることになったんだ。雑用係としてだけど、こう見えて何かと気が利くんだから」
 何と、社屋の三階の社員寮の空き部屋まであてがってもらえたという。会社と同じ建物になど誰も住み着きたくないため、常時空き部屋は多いのは確かだが、身元不明の人間に仕事と住居を提供するなど、あの社長にしては破格の待遇だ。結局は、レイチェルが外で勝手な行動を起こさないよう監視する目的でこうなったのだと知ることになるのだが。
「それにしても、あの会社って社長さん以外に女の人っていないんだね。あっちこっち散らかってるから、片付けるのがホントに大変。しかも綺麗にした傍からまたどんどん散らかってくし、やんなっちゃうよもう」
 眉根に小さな皺を刻みながら早速職場の愚痴を吐くレイチェルに、俺は小さく笑った。
「何せ規模の小さい会社だからね。求人を出そうにも事務員を雇う余裕なんてないし、かといって記者なんて危ない仕事をやりたがる女の人なんてなかなかいない。何でもいいから職が欲しいという人間が寄り集まった結果がアレだ」
「それは別にいいけど、皆あたしに色々仕事頼み過ぎだよ。いくら雑用係っていったって、床に落ちた消しゴムくらい自分で拾えばいいでしょ。あたしは召使いじゃないんだから!」
 誰がそのような馬鹿な要求をしているのか、おおよその見当はついた。「彼女が欲しい」が口癖の、モートンという男だ。腕っ節の良さを買われ、二年ほど前に会社に採用された。まだ十八歳という年若さながら、数多くの修羅場をくぐり抜けてきている。
「珍しく職場に女の子が来たから、皆きみと仲良くなりたいんだろう、きっと」
 あいつは女性との距離の縮め方が分からないんだ、というのを、多少言い回しを変えて伝えてやった。するとレイチェルは、ひときわきらきらと輝く瞳でこちらの顔を見上げてきた。
「あたしは、エリオットさんと仲良くなりたい」
「え?」
「あ、でもエリオットさんってやっぱり彼女いるっぽいもんね。負け筋かな、こりゃ」
 彼女のにこやかな表情は、たちまちにしてつまらなそうな顔色へと変化してしまった。何か重い荷物でも背負っているかのように肩を落とし、はあ…と溜息を繋げる。彼女の言うことには全く身に覚えがなく、俺としては黙って首を傾げるしかなかった。
 やがて、再び俺を見上げてきたレイチェルの目には、明らかに恨めしそうな光が宿っていた。
「あたし、見付けちゃったんだもん。さっき、エリオットさんの部屋を出てくる時に」
 何を?と目で問う俺に、レイチェルは続けた。どうやら、機嫌を損ねると唇を突き出すのは彼女の癖であるようだ。
「玄関の靴箱の下に、赤いハイヒールが隠してあったでしょ」
「…!」
 ぎくりと身体を硬くした俺の反応を、レイチェルは見逃してはいないようだった。半眼で俺を見やり、「やっぱりね」と溜息混じりに吐き出した。
「どうりで部屋が綺麗だったはずだよ。何も隠さなくたっていいのに。別に彼女の一人や二人いてもおかしくないもんね、エリオットさんなら」
 いや二人いるのはおかしいだろう。心の中で突っ込みながら、どのように説明すべきか迷った。咄嗟に頭の中に浮かんだのは、『妹のものなんだ』という弁明だが、そもそも一人っ子である俺には妹などいないし、分かりやす過ぎるくらいに純粋な好意を寄せてくれているらしいこの少女に、嘘をつくのも憚られる。
「…もういないんだよ、彼女は」
 考えた末、当たり障りのない表現を捻り出した。だがこの一言でレイチェルが引き下がってくれるはずはなかった。
「別れちゃったの?」
 喧嘩して?浮気して?と追撃の手を緩めないレイチェルに、とうとう俺は観念した。
「死んだんだ」
「…えっ」
 今度はレイチェルが表情を固める番だった。真っ直ぐに向いたままの視線の先、通りの前方には、王城の建物が見え始めていた。屋上にはためく無数の赤色の国旗を見つめたまま、俺は淡々と続けた。
「三年前にも、この間と同じようなフォービドゥン出現騒動があったとジュアンが言っていたのを憶えているかい。彼女はその混乱の最中、自害してこの世からいなくなった」
「…何で…」
 茫然とした声で向けられてきた質問に、一瞬だけ戸惑った。どこまで正確に話すべきかの境界線を頭の中で引くまでに、数秒の時を要した。
「あいつ…フランクと一緒だよ」
 俺は無理矢理微笑を作り出し、隣でこちらを凝視しているレイチェルに横目を向けた。「絶望したんだ、この世界に生きていくのに」
「どうして?フォービドゥンが怖いから?」
 まだ訊くか。わずかにうんざりしながらも、この子にはこれだけは言っておいた方がいいだろうとも思った。
 俺が、本当は最低な人間なのだと知らしめておく必要がある。靴箱の下の彼女の遺品は、別に隠していたわけではない。捨てられないわけでもない。ただの自戒のために、今も自分の近くに置いてある──もう二度と、気持ちの伴わない言動で人を傷付けたりしないための。
「恋人だと思って付き合っていた男が、実は自分のことなど何とも想っていないっていう事実に気付いたら、きみならどうする」
「…何それ、どういうこと?」
 案の定、レイチェルの顔が不快げに歪むのを見て、俺は奇妙な満足感すら覚えていた。俺という人間に対する適切な評価がその表情に見て取れたからだ。
「彼女に一緒にいたいと言われて、ただ何となく首を縦に振って、恋人という肩書を与えただけで俺は何もしなかった。向けられてくる好意を受け取るだけ。彼女の瞳を真剣に見つめたことすらない。そんな状態を四年も辛抱してくれば、心が疲弊してこないはずがない」
「どうして途中で別れなかったの?そこまで彼女が追い詰められちゃう前に」 憤慨を露わに、レイチェルは俺を詰った。「その人のこと好きでも何でもなかったんでしょ?それなのに恋人でいる意味なんて何もないじゃん」
 その質問に明確に答えることができるならば、あのような悲劇は起きなかったのではないかと思う。どうして、と問われても、心に薄ぼんやりとした形しか形成できないのだ。強いてそれに名前を付けるとするならば──得体の知れない寂寥感、か。
 しばらく無言で歩を進めた。レイチェルの刺すような視線を、右の頬に感じたまま。
 気付けば、王城の巨大な正門が視界の先に迫ってきていた。大きく開け放たれた門の両側に、巨大な槍を携えた門兵が厳めしい顔を作って立っていた。その間を、大勢の市民が中庭へと向かって進んでいく。
 俺は、さりげなさを装って腕時計に視線を落とした。
「もうすぐ時間になる。急ごう」
「あ、待ってよー!」
 数歩後を追ってくるレイチェルに速度を合わせながら、小走りで城門へと駆け出した。

←BACK TOP NEXT→



Copyright (c) Azuma Kirigaya, All rights reserved.