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 考えてみれば、俺に人を殺すことについて悩む資格などなかったのだ。
 俺は既に人を一人殺している。俺が直接手を下したわけではないにしても、彼女から生きる意味を奪い、死へと追いやったという点では俺が殺したも同然だ。
 三叉路を左に折れて立ち去っていくイネスさんの背中を見送った後、俺はまたゆっくりと会社への帰路を進み始めた。先ほどまでは何も感じなかった風が、やけに冷たく目に沁みた。
 俯き加減で歩く俺の半歩後ろをレイチェルがついてきていたが、やはり何も話しかけてはこなかった。イネスさんに対し機転を利かせてくれた礼を言わねばと思ってはいたものの、俺は会話の糸口が見つけ出せずにいた。それに、自分自身の弱さに打ちのめされてもいた。
 あの場で俺は、やはりイネスさんに真実を伝えるべきだったのだ。俺が彼女の心を弄んだ末、その心は病み、結果彼女は苦痛からの解放を願って死という道を選んだ。エイプリル・ガーランドという人間をこの世から葬り去ったのは俺だ。六年前のあの日、彼女が俺に出会いさえしなければ、自死などという悲劇的な結末を迎えずに済んだ。いや、あの時俺が会社に剣を置いてきていれば……いや、彼女が俺の剣をふんだくろうとした時、もっと力いっぱい彼女の身体を押し退けていれば──
 選ぶべき適切な選択肢は、これまでの人生の中にいくらでもあった。なのに俺はそれを選び取ることができず、結果一人の人間の人生を最悪な結末へと導いてしまった。
 全部俺の責任だ。俺の──
「──なあ」
 時計屋のショーウィンドウの前を通り過ぎた時、ふいにとある考えが脳裏に浮かび、気付かぬうちに声を発していた。声をかけられたレイチェルは、「えっ?」と裏返った声で応じた。
「どういう理屈でかは知らないが、きみは未来から時間を遡ってやってきたという話だったよな」
「うん」
 俺の斜め後ろの位置を保ち続けるレイチェルの顔を振り返ることなく、俺は続けた。何の感情の起伏も感じさせない声で。
「なら俺を、過去に連れて行ってもらうことはできないのか」
 本気で投げかけた質問だった。レイチェルはすぐには返事を寄越してこず、暫くの間俺の背中をじっと見ていたようだった。どのように答えるべき場面なのかを探っていたのかもしれない。能天気に見える彼女だが、意外にもよく人の心の動きを察している部分もある。
「残念だけど、あたしの魔術書に載っている時間転移の術は、一往復分しか発現することができないの」
 何の飾り気もない現実的な言葉をレイチェルは選んだ。「それに、転移の対象を自分以外の人間に設定することもできない。つまりあたしの手元には、あたしが元の時代に戻る分の復路の切符しか残されていないってこと。誰でも自由に時間を行ったり来たりできれば便利なんだろうけど、いくら魔術っていってもそんな都合のいいことはできないみたい」
 都合のいいこと、という彼女の言葉が、胸にちくりと突き刺さった。自嘲的な笑みを浮かべるしかできない俺の隣に、レイチェルがぴょんぴょんと跳ねるような足取りで追い付いてきた。
「……過去に戻って、エイプリルさんって人とやり直したい?」
「やり直す?」
 まさかそういう意味に取られていたとは思わなかった。俺はゆっくりと首を横に振り、そうじゃない、と言った。
「こんな最低な奴とは早く別れて、他にもっといい男を見付けろと言ってやりたかったんだ」
「それって、彼女を振っておけば良かったってこと?」
「そうした方が彼女も幸せになれたはずだ」
「……そうかな」 レイチェルは首を傾げた。「エイプリルさんは、エリオットじゃなきゃ駄目だったんじゃないの?だから最期までずっとエリオットの恋人でいたんでしょ。さっきあのおばちゃんも言ってたじゃん、エリオットにしか彼女を幸せにすることはできない、って」
「そんなことはないさ」
 何故なら俺は、彼女を愛することができなかった。外見も性格も申し分のない女性だったのに、心が微動だにしなかった。であるならば、もっと早くに俺に見切りをつけさせてやるべきだったのだ。心の隙間を埋めるために彼女の好意を利用するなど、たとえ悪意はなかったといえども決して許されることではなかった。
 あと数メートルほどで社屋が見えてくるという位置で、レイチェルが足を止めた。
「ありがと。もうすぐそこだから、ここまでで大丈夫。ごめんね、遠回りさせちゃって」
 俺はコートのポケットに両手を突っ込み、かぶりを振った。
「そんなことは別にいい。けど一人で外をうろつくのだけは危ないから今後は絶対にやめるんだ。街を観光したいなら、誰か暇そうな奴を連れて行け。ジュアンとか」
「うん、分かった。じゃ今度から外に出かける時はエリオットと一緒ということね」
「俺?……あんまり暇じゃないけど、まあ手が空いている時だったら」
 じゃあ、と片手を挙げて立ち去ろうとする俺の背中を、「ねえ」とレイチェルの声が引き留めた。俺は立ち止まり、肩越しに振り向いた。そこにはにこやかに手を振っていたレイチェルの姿はもうなく、真剣な面持ちで真っ直ぐにこちらを見ている彼女がいた。
「あのさ、もう捨てちゃいなよ、あんなの」
「……?」
 俺は瞬きを繰り返した。何のことを言っているのかすぐには分からなかった。するとレイチェルがややじれったそうに声を大きくして言った。
「靴。さっきエリオットの部屋にあった、例の亡くなった彼女さんの。あんなのとっておいたって仕方がないじゃん。大好きだった彼女が忘れられなくて、とかなら分かるけど、そうじゃないみたいだし、だったらいつまでも自分の足枷になるようなものとっておくのやめなよ。そんなんだからいつまでたっても前に進めないんだよ」
 レイチェルは一息でそうまくし立てた。そして呆気にとられている俺に、とどめの一言が突き刺さる。
「そもそも、エイプリルさんって人だって別に喜んでいないと思うよ。自分が死んだ後に、遺品ばかり大事にされたって」
「……!」
 比喩でも何でもなく、本気で息が止まった。長い後ろ髪を翻してさっさと行ってしまうレイチェルの後ろ姿を、ただただ呆然と見続けることしかできなかった。
 その夜はなかなか寝付くことができなかった。目を閉じれば、エイプリルとの出会いから始まり死別に終わる数々の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、俺はそれらを振り切るように何度も寝返りをうった。いつもは全然気にならない時計の針の音が、やたらとうるさく感じられた。
 ベッドの上で悶々と時を過ごすこと約二時間。ついに俺は眠ることをいったん諦めた。目の前でフランクを失ったショックに加え、王城の偉そうな役人からの殺人依頼、そして過去のトラウマまで蘇ってきては安眠など期待できるはずがない。
 カップボードの中に常備してある安酒の瓶を取り出そうとキッチンに向かいかけたところ、窓から差し込んでくる月の光が非常に強いことに気が付いた。青白い光が向かってくる先を見ると、満月とまではいかずともほぼ正円に近い形の月が夜空で存在を主張していた。
 その時俺の頭の中に、一つの単語が浮かび上がった。ちらと時計に目を向けると、針は真夜中と呼べる時間帯を指し示していた。どうするか──と迷ったのはほんの数秒のことで、俺は簡単に着替えを済ませて部屋の鍵を手に取った。いつものコートを羽織り、玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけたところで一度動きを止めた。耳の奥で、レイチェルの声が聞こえた気がしたのだ。
 ──もう捨てちゃいなよ、あんなの──
 靴箱の下に置き去りにされた、彼女の遺品。玄関の暗がりの中、目星をつけてその場所へとゆっくりと視線を動かしていったが、赤いヒールは暗闇の中に溶け込んでしまっていて殆ど視認することができなかった。しかし、そこに存在しているということだけは確かなのだ。決して消えることのない悔恨の念が、俺の心の中にひっそりと存在し続けているのと同じように。
 捨てちゃいなよ、と再びレイチェルの声。
 俺はゆっくりとその場で膝を折り始めた。靴箱の下から微かに覗く赤いヒールの踵を指で引っ掛け、一思いにそこから引っ張り出した。
 一番のお気に入りなのだと語っていた、赤い靴。ならば自分の家に置いておけばいいだろうと彼女に言ったことがある。その時彼女が見せた、困ったような薄い笑み──今にして思えば、とてつもなくデリカシーに欠けた発言だったと思う。
 胸に締め付けられるような痛みが走った。とんでもないことをしてしまったのだという思いが改めて湧き上がってきて、いてもたってもいられなくなった。胸の鼓動が速度を増し、額には脂汗が浮いてきた。
 何をしても死んだ人間に詫びることはできないし、人生をやり直すこともできない。過去を悔やむ人間が唯一できることといえば、ひたすらに後悔し、反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないということだけだ。あの時ああしていれば、こうしていれば……という段になってからでは完全に手遅れであり、そうした後悔を回避するために自分は何をすべきなのかを考え、行動しなければ、また自ら絶望の穴に飛び込むことになる。
 やにわに立ち上がった。カンテラを持つことも忘れ、鍵すらかけずにアパートを出た。右手に赤いハイヒール、という奇妙な風貌のまま、俺はひたすらに真夜中の街を進み続けた。
 街の南端、『星の溜まり場』と呼ばれる海岸を目指して。


 月明かりに照らされる街路を歩く俺の目には、間違いなく危険な光が宿っていたはずだ。手に持っているのが刃物であったならば、殺人犯と見誤れてもおかしくない気配を漂わせていた自覚がある。夜の街を丸腰で歩いていたにも関わらず、ならず者の一匹にも出くわさなかったのは運が味方をしてくれただけでなく、俺のそうした雰囲気によるところも多少なりともあったのかもしれない。
 ディルク・ナルディスを殺そう──俺は固く心に決めていた。俺がそれをしなかったことで大勢の人が死に、救われると言われているはずの未来が消滅し、最悪な結末が訪れてしまうことよりは、十三人もの人間を手にかけた殺人鬼を抹殺することの方が間違いなく正義であるとの思いがその時の俺の心を占拠していた。
 二度と誤ったりなどはしない。今度こそ正しい選択肢を選び取る。俺のせいで誰かが不幸になるほど、もうまっぴらごめんなのだ。
 その晩外は薄ら寒い風が吹き続けていたのだが、俺は寒さを感じるどころか暑くて全身汗ばんでしまうほどだった。ずんずんと大股で、かつ速足で前に進んでいたためだろう。海までは大人の足でも小一時間ほどかかる。だが途中からはほぼ下り坂であることもあり、体感時間としては実際にかかった時間の半分ほどにしか感じられなかった。
 腕時計など巻かず、それこそ右手に持ったエイプリルの靴を除けば着の身着のまま出てきた俺が何故時間を知ることができたのかというと、人に会ったからだ。真夜中のその海岸で。
 大通りを抜けて海岸通りに入ってからはガス灯の明かりが消え失せ、空から降り注ぐ月の光だけが街の輪郭を浮き上がらせていた。土産物屋と思しき建家が連なる一本道を抜けると、目の前はもう砂浜だ。寄せては返す波の音が、少し離れた場所から聞こえてくる。砂浜に入ってから波打ち際まではゆるやかな丘陵状の地形が数十メートルほど続いており、海を見るにはまずその砂の小山を登っていかねばならないのだ。
 一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、くたびれた革靴が砂に沈んだ。はあはあと呼吸を乱しながら進む俺の傍ら、「早く早く」と急かしつつひょいひょいと登っていくかつてのエイプリルの幻影を見た気がして、余計に胸が苦しくなった。ここに来るたび、いつも俺はそうやってみっともない姿を晒していたものだ。
 ようやくの思いで丘を登りきった。空一面を彩る星の海、月光を反射して煌めくカザノーク海。世界の破滅を目前に控えているなど嘘であるかのように思わせる絶景が俺を迎え入れる。
 さっさと用事を済ませて帰宅するつもりでいたのだが、俺はしばらく輝きに満ちた目の前の世界から抜け出すことができなかった。丘のてっぺんに独り佇み、自分という存在の小ささをこれでもかと思い知らされていた。この世界にとって、俺が抱えている悩みや苦悩、そして殺人者になると固めた決意でさえもが些末な事に過ぎない。腹の中いっぱいに蜷を巻いていた陰鬱な感情が吸い取られ、晴れ晴れとした気持ちが胸いっぱいに広がっていくのが分かった。それだけでも、ここに来て良かったと思った。
 さて、と気を取り直し、辺りを見回した時だ。俺はこの時初めて、その存在に気付いた。波打ち際から少し離れた浜の上に、人が倒れているのだ。
 初めは死体かと思った。溺死して浜に打ち上げられたか、あるいはどこかで殺されて海に捨てられたかだ。特に後者のケースは珍しくない。
 だがゆっくりとそれに近付くにつれ、そうではないことが徐々に明らかになっていった。そこに仰向けで寝転んでいるのは、生きた人間だ。白銀に見えていた髪色は、距離が縮まるにつれて金色が月光を受けてそのように見えているのだと分かった。凛とした双眸、綺麗な顔立ち、そして何より腰に据えられた剣──まだ記憶に新しい上、見覚えがあり過ぎる。
 何故こんなところに。それもこんな時間に、たった一人で。
「……何をしているんですか」
 俺は彼女の頭の上の位置まで来て立ち止まると、思わず声をかけていた。「危ないですよ、こんな時間に女性一人で、こんな場所に」
 それに、打ち寄せる細波はもう少しで彼女が投げ出した足元にまで届きそうだった。それを見て、まさか自殺をするつもりだったんじゃないだろうなという考えが脳に浮かび、胸がざわついた。波打ち際付近に寝そべったまま眠りにつき、そのまま潮が満ちてくるのを待つ。強力な催眠薬を服用しておけば、途中で目を覚ますこともなく楽にあの世へ行ける。
 幸いにも、そんな俺の不吉な予感は杞憂に過ぎなかった。彼女は、突然目前に現れた男に驚く素振りすら見せず、薄闇の中でもはっきり分かる碧眼だけをこちらへと動かして微笑んだ。
「こうして待っていれば、一個ぐらい空から落ちてくるんじゃないかと思って」
「何が?」
 彼女は砂浜に寝そべったまま、すっと右腕を天に突き出した。立てた人指し指が、夜空に輝く数多の星々のどれか一つを指し示し、「ほら、あの大きいのとか」と続ける。
「星……がですか?」
 冗談だろ?という俺の思いは、「そう」とあっさり首肯してみせた彼女によって打ち砕かれた。どのような言葉を返すべきなのかという難題に直面している俺に、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「星があのままきらきら落ちてくるわけがない。落ちてくるとしたら、大きな岩が燃えながら降ってくるだけだ……って言いたいんでしょ」
「いや、そんなことは……」
「いいのよ、別に。そんなことは本で読んだことがあるから分かってる。でも、もしあのまま小さな粒が光りながら落ちてきたら素敵だと思うでしょう?全部落ちてきて、空から星がなくなっちゃっても困るけど」
「はあ……」
「お星さまをベッドの枕元に置いて眠ることが、子供の頃の夢だったのよ」
 少しずれたことを言う人だな、というのが、彼女が俺に最初に与えた印象だった。昼間、王城の中庭にいただろうと切り出そうかとも思ったが、相手は俺のことなど憶えてはいないだろうと考え直し、やめた。あの時目が合ったのはたまたまだ。彼女が何気なく見ていた先に、偶然俺の姿があっただけ。
 ただ、街中に多く見られる普通の女性らしい風貌の中、唯一異彩を放つその剣の存在だけは、やはりどうしても気になっていた。
「ひょっとしてあなたは、王城の騎士か何かですか。それともそれは単なる護身用?」
 俺は、彼女の腰の辺りを指し示しながら率直に訊ねた。また妙な受け答えをされたらどうしようと不安だったが、返ってきた答えは実に単純なものだった。
「騎士、だけど見習いなの、まだ」 彼女は躊躇なくそう即答した。「騎士として正式に登用されるまでは制服を着ることができないから、こんな格好でいるってわけ。だけどちゃんと王城所属の人間よ。って言ってもこんな小娘じゃ説得力がないのでしょうね、たまに信用してもらえない時もあるけど」
 すると彼女はむくりと身体を起こして立ち上がり、背面についた砂を簡単に手で払って落とすと、革張りの鞘からすらりと剣を抜き放ってみせた。「ほら」と言って俺に見るよう促してきたのは、刀身の根元部分に刻印してある文字と数字だ。目を凝らしてよくよく見なければ分からないほどに小さいが、そこには確かに『アルバドール』を意味する古代文字と剣の登録番号とが表記されている。つまりそれは、剣を不法に所持しているわけではないという証だ。
 「なるほど」と俺は頷いた。どうということのない真実に拍子抜けしているのを悟られないよう努めた。
「で、あなたの右手のそれも新手の武器なのかしら。それとも誰かとの戦いの戦利品?」
 今度は俺が、彼女から素性を訊ねられる番だった。はっとして右手に持ったままの靴へと視線を移した。本来の目的がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。が、それよりも彼女に何やらあらぬ疑いをかけられているらしいことが判明し、まずは慌てて釈明の言葉を口にした。
「違う、俺は怪しい人間じゃない」
「怪しい人間の典型のような自己紹介ね。真人間はとっくに夢の中にいる時間よ」
 次の瞬間、白銀の軌跡を描いた剣が、俺の心臓を真正面から貫こうとする位置で静止した。俺は頬の辺りの肉を強張らせつつも、きりりと眉を引き締め剣を突き出してくる彼女を、真正面から見返した。やましいことなど何一つないということを主張するためにだ。
「その靴の持ち主はどこ?まだ息をしているの?死んでいるの?」
「誤解だ、俺は……っ!」
 剣の切っ先が数センチばかり俺の心臓に近付く。無駄な言い逃れはよせという意味らしい。
「あなたが少しでも不審な動きをしようものなら、私は職権によりあなたにこの場で適切な処罰を下すことができる。事によっては死刑と判断させてもらうかもしれないわ。そうなる前にさっさと自分の罪を認めた上でしかるべき機関へ自首することね」
「違うって言ってるだろ。俺は何もしていない。きみを襲いに来た悪党でもない」
「ならこんな時間にこんな場所へ何をしに来たっていうのか説明なさい。そんな可愛い靴をぶら下げて、まさかあなた自身にそういう趣味があるとでも言うわけ?」
「これは……」
 再び右手の靴に視線を落とした。彼女の俺に対する認識は、真っ当なものと言えた。真夜中の浜辺に女物の靴だけぶらさげて現れた男など、不審以外のなにものでもない。
 ほんのわずかな逡巡の後、俺は向けられている刃を敢えて無視するようにして、くるりと踵を返した。俺が何を目的にこの場所へ来たのかは、彼女にその目で見て理解してもらうのが手っ取り早いと判断したのだ。
 俺は波打ち際を背に立ち、ざっと周囲に視線を巡らせた。左前方に流木が幾つか転がっているのを見付けると、真っ直ぐにそちらへ向かって歩いて行った。これも彼女の言う『不審な動き』に該当するのかと思ったが、彼女が俺を追って斬りかかってくることはなかった。拾った棒切れを武器に襲い掛かってくる男など恐れるに足らないという余裕が、彼女をその場に留まらせていたのだろう。
 無論のこと、俺が流木を拾ったのは、彼女と一戦交えるためなどではない。ずっと右手に持っていた靴を砂浜の上に置き、代わりに持ち替えた流木で柔らかく堆積する砂を一心不乱に掘り返す俺の姿は、彼女の目にさぞ奇異に映ったことと想像する。
 突如しゃがんで穴を掘り始めた俺の視界の片隅に、ブーツの爪先が入り込んできた。
「何をしているの?」
 もっともな疑問だとは思った。俺は作業の手を休めず、次第に深さを増していく穴に目を向けたまま答えた。
「見れば分かるだろう。穴を掘っているんだ」
「そんな、身も蓋もない言い方されても」 彼女が肩をすくめる気配が伝わってきた。「殺した女の靴を埋めて、証拠隠滅を図ろうとでもするつもり?」
 言い得て妙と言えるような言えないような彼女の言葉は、俺の唇の端に何とも言えない微苦笑をもたらした。どう説明しようか考えた末、俺は結局無難な表現を選んだ。
「死んだ恋人の遺品整理ってところさ」
 頭上で彼女が息を呑んだのが分かった。彼女が何か言葉を発する前にと、俺は続けた。
「いくら何でも、彼女の遺品をゴミ箱に捨てるほど薄情な男にはなれない。こんなところに埋めたら立派な不法投棄に当たるのかもしれないが、ここしか考えつかなかったんだ。いつか俺と二人でここに来たいと言っていた彼女の願いを、『いつか』のまま終わらせてしまうのは忍びなかった」
 我ながら聞こえの良い言葉に逃げたものだ。自分に嫌気が差したが、本音でもあった。暫くの間砂を掘る音だけが周囲に響いていたが、やがて頭上から彼女の神妙な声が聞こえた。
「……ごめんなさい」
 常識外れの時間に現れた不審な男であるはずの俺の言葉をあっさり信用してしまうのもどうなのだろうか。だがひとまず敵でないことだけは分かってもらえたようなのでほっとした。
 俺は黙々と地面を掘り続けた。手持ち無沙汰だったのか、俺の斜向かいに立っていた彼女が、突如すとんとその場にしゃがみ込み、俺が掘る穴の底をじっと眺め始めた。こんな作業を見守っていたところで、何一つ楽しいことなどないだろうに。
 寒いからもう家に帰れと言おうかと思った。しゃがんでじっとしているうちに、風の冷たさが蘇ってきたのだ。
 だが結局俺はそれを口にせず、彼女の好きにさせておくことにした。正直なところ、この女性とこうして一緒にいられることに、心地良さに似たようなものを感じていた。美人が黙って自分の傍にいてくれれば、男なら誰だってそう感じるはずだ。それに──自分が死へと追いやった恋人の遺品を埋めようとしている手前不謹慎極まりない話だが、彼女の顔を盗み見るたび、胸の鼓動が速まるのを抑えることができなかった。単純すぎるだろ、と心の中で自分を嘲笑うも、彼女の容姿や凛々しさ、それに一風変わった言動までもが俺を惹き付けてならなかったのだ。俺には誰かを好きになる資格などないというのに──
 早くこの場を立ち去らねば。そんな焦りが芽生え始めた頃、それは起きた。
「……?」
 スコップ代わりに使っていた棒切れの先が、穴の底で硬い何かに当たった。石が埋まっているのかと思ったが、そうではなかった。更に砂を掻き出すと、驚くべきことが起きる。穴の底から、光が漏れ出てきたのだ。
「何、これ……」
 彼女が目を見張った。俺も驚きで言葉を失いながらも、この不思議な現象をまじまじと観察した。おそるおそる、更に砂を掘り返す。すると、謎の光の正体はすぐに知れた。
「ああ……こういうことか」
「凄い……どういうこと?どうして砂の中に星が埋まってるの?」
 彼女は真顔で訊ねてきた。真剣そのものといった様子の顔を見て、俺は軽く吹き出した。「星がこんなところに埋まってるわけがないじゃないか」
「でも、光ってる、この石」
「そういう石だからさ。見たことない……ってより知らないのか?」
 そう言いながら、俺は持っていた棒切れを砂浜に突き刺し、砂の奥深くに埋もれていたそれを穴の中から取り出した。問題の石は、透明な硝子の小瓶の中に収められていた。直径一センチほどの、小さな石だ。
「トランダイト……って名前だったかな」 掌に小瓶を載せ、記憶の中を弄った。「石に含まれる何かの成分が、これまた空気中の何かの成分と反応して自然発光する、という現象が起きているらしい。昔、チェーブル地方の渓谷には掃いて捨てるほどこの石が転がってたって話だけど、強大な魔術の源になるとかいうことが判明して以来、殆どが魔術師達に採集されていってしまったんだ。今じゃもう博物館とか学校の資料室とかでしか見られない……はず、なんだけどな……」
 その希少な石が、何故砂の中に埋まっているのか。不思議に思ったが、俺の手の近くに顔を寄せ、小瓶をじっと凝視している彼女の興味は別のことに移っているようだった。
「ねえ、石と一緒に瓶の中に何か入ってる」
「え?」
 言われて初めて気がついた。美しく光るトランダイトにばかり目を奪われていたが、よく見れば小さく折り畳まれた紙が小瓶の中に封入されているのだ。
「ボトルメールってやつかしら。ザックス旅行記で読んだことある。本当にやる人がいるんだ」 彼女がうきうきと言った。
「いや……ひょっとすると、中に入っているのはただの手紙じゃないのかもしれない」
 えっ、と俺の顔を見てくる彼女の目を見返した。「思い出した。そういやトランダイトには魔術資源として以外にも使い道があったんだ」
 と言っても昔の話だが、と注釈を入れてから、
「太古の昔から、人は空に浮かぶ星に願いを託してきた。で、トランダイトが星に似てるってことで、いつの時代か願いを書き記した紙をこいつと一緒に瓶に詰めて海に流すって風習が流行り出したんだ。大海を漂流し続けた瓶がどこかの陸地に流れ着いて、拾った人間に自分の願いを知ってもらえたらその願いが成就する、っていう言い伝えさ」
「へえ……」
 彼女は目を瞬かせてから、「変わったことするのね」と呟いた。てっきり「素敵」と目を輝かせるかと思っていた俺としては、やや期待外れな反応だった。
「でも、そうするとこれでこの瓶を海に流した人の願いは叶うってことになるのよね」
 ぽん、と手を打って彼女は言った。俺は苦笑しながら答えた。
「そうなるにしても、残念ながら願い主はもうとっくの昔にいなくなってると思うよ」
「願いの内容によっては有効なものになるかもしれないじゃない」 視線に疑問を込める俺に彼女は言った。「例えば、『フォービドゥンがいなくなりますように』とか書いてくれたとしたらどう?それなら願い主が亡くなった後の今でも、願いを叶えることができるわ」
「……なるほど」
 まあ、何だかんだ言っても所詮はただの古い慣わしだ。仮に本当にそのようなことが書いてあったとしても、その『願い石』の効果で都合良くフォービドゥンが消え失せるとは思えなかった。
「で、肝心のお願い事は何なの?」
 期待に満ちた彼女の目に急かされるようにして、俺は小瓶の蓋を開け、中から石と紙とを取り出した。絶えず光を放ち続けるその石を左手に握り、畳んであった紙を右手で慎重に開いていった。丁寧に作業を進めねばたちどころに破けてしまいそうなほど、その紙は著しく劣化が目立っていた。そこに遠く過ぎ去った時の長さを窺わせる。
「何て書いてあるの?」 彼女が横から俺の手元を覗き込んできた。
 書かれていたことは、たった一言だった。決して綺麗な字ではないが、丁寧に書かれたことが分かる筆跡だった。一文字一文字に願いを込めた、願い主の切実な想いがしっかりと伝わってくるようである。
 俺は心の中で、その文字列を読み上げた。
 ─── 『彼女の願いが 叶いますように』
 今この瞬間、誰かの願いが叶ったのだろうかと思いながら。

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