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「ねえ、これ、どうする?」
 砂の中にエイプリルの靴を埋め終え、立ち上がってコートの裾についた砂を払っていた俺に、少し離れた場所でトランダイトを眺めていた彼女が近付いてきた。
 どうする?とは、瓶の中に入っていた石、それに願い事が書かれていた紙のことを言っているのだ。珍しいものを拾ってみたはいいが、どこかの誰かの大切な願いが込められているのだと知ったそれを、彼女はどう扱ってよいのか分からないといった様子だった。
「貰っていったらいいじゃないか」 どうということもないといった風に俺は答えた。「俺達がそれを拾ったことで、願い主の願いはひとまず成就されたってことになるんだ。その後これをどうするかは俺達の自由さ。夢だったんだろう?星を近くに置いて寝るのが」
「小さい頃の、ね」
 彼女はその点を強調してから、困ったように眉尻を下げた。光を受けた碧眼が、改めて手元に戻される。トランダイトは、最初に見付けた時のように紙と一緒に瓶の中に戻されていた。
「でも、これって結局年代物の凄く貴重な石ってことなんでしょう?そう考えると気安く貰って帰るのは何だか気が引けるわ」
「じゃあ、元に戻しておく?」
「砂の中に埋めるってこと?」
 ああ、と頷くと、彼女は首を横に振りながら言った。「それはちょっと可哀想」
「なら、また海に流すか」
 持ち帰るのも嫌、砂に埋め戻すのも嫌となると、残された選択肢はそれしかないと思われた。砂浜に放置しておけば海を見にきた人間に拾われていってしまうだろうし、どこかに隠しておくにしても、いずれ誰かに見つかるのは時間の問題だ。
 しかし、実際瓶を海に流したところで、ゆくゆくはそれがまた同じ浜辺に戻ってきてしまう公算が大きいことを俺は知っていた。海流の関係でだ。この近海は時計回りに渦を巻くような潮の流れが特徴で、きっとこの瓶も、かつてこの浜辺から流されたに違いない、と俺は想像していた。が、それを彼女に教えれば、しぶしぶながらも俺の提言に従うことにしたらしい意思を翻してしまうだろう。
 俺は黙って、波打ち際へと向かって歩き出した彼女の背中を見続けた。歩幅の狭いゆっくりとした足取りからは、仄かな名残惜しさが伝わってくるようだった。
「──ちょっと待って」
 俺の口が、勝手に言葉を発した。思いついたことがあったのだ。
「何?」 彼女は足を止め、振り返った。
「せっかくだから、願い事を書いて流したらいいじゃないか。こんな機会は滅多にない」
「あ……」
 なるほど、といった顔を彼女は見せた。が、次にはかぶりを振っていた。両手を軽く広げて言う。
「でも、紙とペンがない」
「貸してやるよ」
 俺にとっては何でもないことであったのだが、ここで都合良くそんなものが出てきたことに、彼女は軽く驚いたようだった。 「……随分と準備がいいわね。いつも持ち歩いているわけ?」
「まあ、職業柄常時必携といったところで」
「何の仕事をしているの?」
「記者だ」
 それは別に隠すことでも何でもないことのはずだった。だが、俺の職業を明かした途端、彼女の纏う空気に微妙な変化が生じたことを俺はわずかながら察知していた。具体的にどう、と説明するのは難しいのだが、簡単に言うと彼女と俺の中間に、目に見えない拒絶の幕のようなものがすっと降りてきたのを感じたのだ。
 当然、俺は困惑した。別に忌み嫌われるような職業ではないはずだ。だがそれは時と場合による、と言えるのかもしれないと思い直した。記者と距離を置きたい人間というものは、確かに一定数存在する。例えば何か暴かれたくない秘密を抱えているだとか、社会に対して後ろめたい事情を背負っていたりする人種であるならば、記者と無駄口を叩くことなど百害あって一利なしと考えるだろう。
 しかし、彼女のそうした俺に対する拒絶のオーラは、ほんの一瞬で消え去った。彼女は邪気のない笑みへと表情を切り替えると、「じゃ、貸して」と言って俺が立っている場所にすたすたと近付いてきた。
 俺は筆記帳の表紙をめくって白紙のページを開き、ペンと一緒に彼女に渡した。彼女は礼を述べてそれらを受け取ると、ペン先を顎にあて、星空を見上げながら「うーん……」と思案に耽り始めた。
「これって、複数のお願い事を書いちゃ駄目なのかしら」
「別に一個じゃなきゃ駄目ってルールはないだろうけどさ」 俺は彼女の真剣な横顔に苦笑した。「欲張ってあれもこれもと書いたって、一つ一つの効果が薄れるかもしれないぞ」
「あ、なるほど。それじゃ困るかも」
 効果が薄れると困る彼女の願い事とは、一体何なのだろうか。『空から星が落ちてきますように』などと本気で書いていてもおかしくはないなと思いながら、彼女が願い事を書き終えるのを待った。
 やがて、筆記帳に何か文字を書きつけたらしい彼女が、そのページを破り取ってから閉じた筆記帳をペンと一緒に返してきた。
「何を書いたんだ?」
 軽く訊ねてみたが、「内緒」と目だけで笑い返されただけだった。
「ねえ、あなたも書いたら?お願い事」
「俺?俺はいいよ」
「どうして?どうせなら巨万の富が得られますように、とか書いてみたらいいじゃない。私だけ願い事するなんて悪いわよ」
「悪くないさ。いいんだ、俺は。特に願いたいことはない」
「本当に?」
 彼女は肩で小さく笑い、願い事を書いた紙を小さく折って畳んで瓶の中へとしまった。瓶に蓋をしながら、しみじみとした声音を俺の方へと向けてきた。
「願いたいことはない、なんて言えるあなたの人生は、きっと素敵なものだったんでしょうね」
「そんなわけがないだろう。そういう意味で言ったんじゃない」
 そんな風に解釈されたことが意外で、俺は一瞬言葉に詰まった。実際には、何かを渇望することなど殆どない、味気ない人生だったというのに。
「……けど、今ここできみにお願いしたいことなら、実は一つだけある」
 わざとらしい仕草で顔の前に人差し指を立てた俺は、片方の手でペンと筆記帳をコートにしまいながら彼女の目を見た。俺の視線を受けた彼女は、きょとんとその目を丸くした。
「? 私に?何?」
「それを……」
 俺は彼女の手元、瓶の中で光るトランダイトへと指先の向きを変えながら、続ける。
「そいつを海に流す前に、ちょっとの間だけ貸してもらえないか」


 この海岸が、『星の溜まり場』と呼ばれる所以は二つある。
 一つは、ビーズの入った缶をひっくり返したような密度で空に星が輝く様を見られることから。そしてもう一つは──
「本当は、あまり人に教えるのは良くないんだろうけどさ……」
 視界の先に見えていた黒々とした木々の塊が、次第に大きくなってきた。トランダイトの入った瓶を光源として持った俺が先頭に立ち、すぐ後ろに彼女を引き連れ浜辺を東に進んできたのだった。
「あの森を抜けた先に、もう一つ別の用があるんだ」
「真っ暗ね……」
 彼女が呟いた通り、濃い月明かりがあっても、森の中はランタンがなければまともな視界を確保できないほどに闇が深い。偶然トランダイトを掘り返すことがなければ、この夜は諦めて家路についていたことだろう。
 俺は歩きながら肩越しに振り返った。
「心配なら、この辺で待っていてくれても構わないよ。用事は俺一人で済ませてくる」
 どこの馬の骨とも分からない男と二人で深夜の森の中へと分け入っていく女性の不安は、相当なものだろうと想像した。しかし彼女は、悠然と微笑みながら首を左右に動かした。
「大丈夫。暗がりであなたが何かおかしな真似をしてきたら、即座に腕を斬り落としてあげるくらいの度胸はあるから」
「……そいつは結構なことで」
「それより、その別の用っていうのは一体何なの?」
 口元を引きつらせる俺に、彼女は上目遣いに問うてきた。警戒心より、純粋な疑問の方が勝っていたようだ。
 俺は、「ついてくれば分かる」とだけ答え、顔を前に戻した。
 森の入口は、波打ち際からやや離れた場所にある。雑木が生い茂り、木々の合間を縫うようにして一本の獣道が出来上がっている状態になっている。
 トランダイトで足元を照らしながら森の中に入ると、三歩先は闇という状況だった。トランダイトの心許ない明かりより、自身の土地勘と方向感覚の方が頼りになるくらいだった。
 地面に落ちた枯れ枝を踏む音と、微かな波の音だけが響く中、俺はすぐ後ろをついてきている彼女に話しかけた。彼女が自分の肩書きを『騎士見習い』と明かした時から、ずっと訊ねるタイミングを見計らっていたのだ。
「なあ、ディルク・ナルディスという名前の騎士を知っているか」
 知らないはずがないだろうと睨んでいた。彼女の返事は俺の予想した通りのものだったが、その声音にはわずかな敵意が混在していた。
「……彼の名前を知らない騎士なんていない」
「だろうな」 俺は肩を竦めた。「仲間を殺しまくった反逆者だ。勇者を殺すために王城を出奔し、今もどこかで勇者の命を狙っている」
「やっぱり、知っているわけね。あなたが記者だって聞いた時から、薄々そうじゃないかとは思っていたけど」
 ぱきっと枝が折れる音が背後の足下から響いた。
「殺すの?彼を」
 俺はやや意外な思いで彼女のこの言葉を受け止めた。王城が記者に奴の始末を依頼したことは、彼女のような末端の騎士にまで広く知れ渡っているということか。
「奴の命と勇者の命を天秤にかけて、どっちに傾くかなんて考えなくたって分かるだろう」
「間違ってるわ、それ。まず秤に掛けるべきは自分の命でしょう?」
 これには苦笑いを禁じ得なかった。
「奴の強さは尋常じゃないって話だな。話を聞く限りじゃ化け物だ」
「それを分かっているなら、返り討ちにあう前に勝ち目のない勝負から手を引くことね」
「別に、死んだって構わないさ」
 一瞬だけ、背後から届く足音が止まった気がした。
「勇者が殺されてしまったら、それこそ本当にこの世の終わりだ。フォービドゥンに蹂躙された末成す術もなく死ぬくらいなら、勇者を守るために命を賭した方がよっぽど納得して死ねる」
「勇者……」
 口の中で呟くような小さな声が聞こえた。
「……あなたは、勇者がこの世界を救ってくれると思ってる?」
「この世界を救えるとしたら、勇者しかいない。俺はそう思っている」
「でもだからって、勇者を守るために死んじゃったら意味ないでしょう?」
 今度は完全に彼女の足音が止まった。俺は立ち止まって振り返り、トランダイトの灯りを翳して彼女の表情を闇の中に浮かび上がらせた。光が照らし出す顔から読み取れる感情は、一言で言えば『怒気』だった。
「勇者を守って死ぬのとフォービドゥンに殺されて死ぬのと、何の違いがあるっていうの?どんな経緯だろうと、死は死でしかない。それに、死ねば結果は皆同じ……もう二度と会いたい人には会えない、星を見上げることもできない、気持ちの良い風に吹かれることもできない……この世界にいられなくなるのよ。そんなの悲しいって思わない?」
 俺は、射るように真っすぐ向かってくる彼女の視線を受けとめ続けた。が、彼女が期待するような返事は到底返してやれそうになかった。この世界に、とりわけ愛しさは感じられない。かといって躊躇なく死ねるほどには嫌えない。曖昧なその気持ちは沈黙という形となって彼女に返され、それを受けた彼女は微かに俯いて吐息をついた。直後、小さくかぶりを振る。
「何というか……勇者って気の毒ね。皆がそれほど生きたいというわけでもない世界を守るために、命を捨てなきゃいけないなんて」
「………………」
 返す言葉を探したが、見付からなかった。
 彼女はここで、ふと思い出したようにロングスカートのポケットから懐中時計を取り出した。蓋を開けて時刻を確認すると、俺の手からトランダイトの入った瓶をもぎ取り、俺の横をすり抜けて前へ進んでいってしまった。
「さ、陰気な話はここまでにして、早く前に進みましょ。実は私もこの後用事があるのよ」
「えっ……」 闇に溶けようとする彼女の背中に顔を向けた。「用?こんな夜中に?」
「そう。人と会う約束をしているの」
 夜中に女性一人で外出させるような常識外れはどこのどいつだ。彼女の後について歩き出しながら思ったが、俺が深入りするようなことではないと思い直した。諸々の雑念を振り切らんと、少し速足になった彼女の背を追うことに専念した。
 俺達はその後、黙々と暗闇の中を歩き続けた。やがて前方にぼんやりとした明るさを視認できるようになってきた。更に進むと、非常に小さく細かい光の粒が空中を漂うようになり、森の出口へと近付くにつれて、その量は増していった。
 彼女はその光の正体を知らないようだった。緩んだ歩行速度に、彼女の困惑が見て取れた。上下左右へと顔の向きを変えながら、「何?これ」とついには不安げな声を漏らす。
「そいつをあまり吸い込まない方がいいぞ」 俺は言った。「大量に体内に取り入れると、意識を失う」
「毒、ってこと?」 彼女は左手で口元を覆って俺を睨んだ。「私を騙したの?」
「あ、いや、悪い。言い方が悪かったか」
 今にも剣を抜き放ちそうな勢いの彼女に掌を向けて、俺はすかさず言葉を選び直した。
「毒じゃない、花粉だ、これは。月の明かりを受けて輝くという不思議な性質を持っている。それから催眠作用があるんだ。花の香りを嗅ぐと、ちょっとだけ眠たくなる」
「花……」 どこにそんなものがあるのかといったように、彼女はトランダイトの明かりを色々な方向に翳した。
 森はさして広くはない。暗闇の中を歩いていたのは、十分足らずのことだっただろう。この森は海岸を東西に仕切るような形で南北に細長く伸びており、俺達は西の浜辺へと出るために森を横断してきたのだ。
 その森を抜けた直後、彼女は突然その場に立ち竦んだ。横に並んだ俺が横目で見たのは、毒気が抜かれたように目を見張る彼女の横顔だった。視界が開けた俺達の目の前には、腰の高さ辺りで咲き誇る白い花が、淡い光を放ちながら大量に風に揺れていたのだ。
「凄いだろ」 自分の功績でも何でもないくせに、やたらと得意げな声が出た。「星花だ。近くで見ると分かるんだけど、一つ一つが星のような形をして咲いているんだ。おまけに星みたいに光っているってこともあって、星花って渾名が付いている」
「……すごい……」
 呆然と呟く彼女の目には、はっきりと感激の色が窺えた。俺は満足げに両手を腰にあてた。そして、アルバド随一の劇場の広さほどはあろう星花の群生地を見渡した。
 言わずもがな、これがこの浜辺が『星の溜まり場』と呼ばれる第二の理由である。ただしこの場所は知る人ぞ知る隠れた景勝地であり、俺は今までこの場所で人に出くわしたことがない。
 星花は、正式な学名をクラリガネット・フルージリアという。先にも述べた通り、この花の花粉には催眠効果をもたらす成分が含まれており、特殊な製法を用いて成分を抽出、濃縮することによって強力な睡眠薬の精製を可能とする。俺が大聖堂で下っ端の男に使ったのがそれだ。悪用されるのを防ぐために製造方法は極秘とされているが、花粉を体内に取り入れるだけでも微弱な催眠効果が得られてしまうため、国としては花の採集を取り締まるとまではいかずとも、できるだけ群生場所をおおっぴらにしたくないという本音があるようだ。
 そこで、この群生地に人を寄りつかせぬ策として、国は浜辺から通じる森の入口に『吸血蝙蝠生息地につき、立入禁止』と書いた木の札を立てた。彼女は森に入る際、その立て札の存在に気付いていなかったようであるが、大体の人はその嘘っぱちの警告文を鵜呑みにし、恐れをなして回れ右をする。
 国が講じる対策としては、何とも古典的で稚拙な方法と言えるだろう。だが、吸血蝙蝠に噛まれた際の激痛は想像を絶するものだと言われており、その危険を冒してまで森に侵入しようとする人間はいないだろうという国側の読みが窺える。俺もいつぞや追っていた誘拐犯が森の中に逃げ込んだりしなければ、素直に立て札の忠告に従い続けていたはずだ。
 俺は、星花が揺れ光の粒が舞う中へと踏み入っていった。
「上手く寝付けない時、こいつを一本だけ失敬して帰って枕の傍に置いて寝るんだ。そうすると気が付けば眠っている。自然の睡眠薬ってところだな」
 そう言って、手近にあった花を一本手折り、くるくると茎を回して弄んだ。
「持って帰っても、ずっと光っているの?これ」 彼女が訊ねてきた。
「月明かりが届く場所に置いておけば、な。空気に触れるだけでいいトランダイトと違って、こいつはそういう条件が必要になる。あとは当たり前だけど、枯れてしまったら終わりだ」
「そうなんだ……」 彼女が少しだけ肩を窄めたように見えた。「じゃあ、窓のない部屋では光らないってことね」
「まあ、理屈でいけばそういうことになるか」
 空中を舞う花粉の量から、この場所に留まっていられるのはせいぜいあと五分かそこらだろうと感じた。仮にこんなところで睡魔に襲われて眠ってしまったとしたら、花粉の吸い込み過ぎで昏睡状態に陥ってしまう。ぼんやりと発光する美しい態様とは裏腹に、摂取する量によっては、彼女の言っていた通り毒にもなりうる物質なのだ。瞼が重くなってくる前に立ち去るのが望ましい。
 彼女を見ると、星花を踏まないようにと、慎重に草の根を分け入ってきているところだった。「そろそろ帰ろう」と声をかけると、案の定「もう?」と不満げな返事が返ってきた。
「今来たばかりじゃない。もう少しここにいたい」
「気持ちは分かるけど、あまり長居すると眠くなって帰れなくなる。この後誰かと会うんだろ?うつらうつらしながらお喋りしなきゃならなくなるぞ」
 また来ればいいじゃないか、という俺の一言で、彼女はようやく戻る気になったようだった。もう彼女と一緒にここに来ることはないだろうと考えると名残惜しいのは俺も一緒だったが、そんなことは口が裂けても言えなかった。
 帰宅の意志を固め、森へ向かって二、三歩歩き始めた時だった。
「ねえ、ちょっと待って」
 俺の進路を遮るように、彼女が目の前に立ち塞がった。まだ駄々をこねるつもりかと思う俺に、彼女は「違う」とでも言うかのように首を横に振った。
 彼女は何か言いたげな顔をしていた。一度小さく俯き、再び顔を上げた彼女の瞳には、明らかに迷いの色が滲んでいた。
「あなたに……聞いてほしい話があるんだけど」
 そう言いながらも、その口調はまだ言おうか言うまいか決着がついていないような様子だった。視線も泳いだままで、俺の顔を見てはいない。
「とりあえず、場所を移してからにしないか」
「ううん、ここがいい、明るいし。……あなたに見てもらいたいものもあるから」
「見てもらいたいもの?」
 彼女は小さく頷いた。
「あなた、というよりあなた達記者は、ディルクを探して殺そうとしているわよね。彼が勇者を殺そうとしている、って話を聞いて」
「ああ」
 それだけ話したところで、彼女は再び下を向いて黙り込んだ。今ここでその話を蒸し返す意図は何なのだと思ったが、俺は黙って彼女が顔を上げるのを待ち続けた。
 いたずらに時間だけが過ぎていった。俺がしびれを切らすのと、彼女が顔を上げるのと、ほぼ同じくらいのタイミングだっただろうか。
 ちょうどその時、彼女の目がたまたま上空の何かを捉えたようだった。流れ星でも見たのかもしれない、「あ」と声を上げて俺の頭の向こうの空を指差すので、俺はついつられてそちらの方を振り向いてしまった。
 その次の瞬間───


 気が付いた時、俺は自室のベッドで仰向けになって寝ていた。目が覚めた直後は、いつも通りの朝を迎えたという認識しかなかった。
 見慣れた天井に、普段通りの固い寝心地のベッド、自分の頭の形に窪んだ枕。
 しかし、ベッドを降りる時になって違和感に気付いた。何故俺はコートを着たまま寝ていたのか。シャツもスラックスもそのまんま。かろうじて靴は脱いでいた模様だが、外から帰ってきて着替えもせずにベッドに倒れ込んだかのような装いをしている。
 酷く酔っ払って帰宅した時など、ごくたまにそのような状態で寝てしまうこともあるのだが、吐く息は酒臭くないし、頭痛や胸焼けといった二日酔いの症状もない。むしろ頭の中はひどく澄んでおり、深い眠りから気持ち良く目覚めた爽快感すら覚えていた。
 顔を洗おうと洗面台の前に立った時だった。コップに水を注ごうとして、おやと首を傾げた。いつも蛇口の脇に置いてあるはずのコップがそこになく、探すとそれは何故かリビングのテーブルの上に移動していた。しかも、透明なコップの中には半分ほどの位置まで水が張られており、そこには白い花が一輪だけ、ぽつねんと挿されている。
 それを目にした瞬間、雷に撃たれたかのような衝撃が俺を襲うと共に、堰を切ったように昨夜の記憶が脳の奥から溢れ出してきた。雪崩のごとき勢いで押し寄せる様々な情報に、記憶の整理が追い付いていかなかった。
 俺は軽く混乱をきたした。かなり長い時間、夢と現実の区別がつけられずにいた。
 真夜中の浜辺。そこで出会った騎士見習い。星のように輝くトランダイトに、月明かりを受けて光る星花──
「星……花……」
 昨夜の出来事が夢でないということは、現に目の前に存在している星花が物語っていると思えた。また、念の為にと玄関の靴箱の下も見に行ってみた。奥までしっかり覗き込んだが、赤いハイヒールは確かに消えてなくなっていた。
 やはり昨夜の出来事は現実だ。だが、それにしても──
「どういうことなんだ……」
 呆然と独りごちながら、再びリビングへと引き返した。テーブルの椅子を引き、がくんとそこに腰を落とした。
 思い出せる最後の記憶は、彼女の指と視線の先を追って背後の星空を見上げた数秒後、何者かの手によって口元を布で覆われたところまでだ。そこで一度意識が途切れ、目覚めた時には自分の家に戻っていた。
 テーブルに肘をつき、片手で額を支えて考え込んだ。まず意識を失った原因としては、口にあてがわれた布に何らかの薬品が染み込ませてあった可能性が強かった。例えば睡眠薬の類だ。俺が大聖堂で使ったものも、少量を吸い込むだけで卒倒できる。
 しかし一体誰が──そう考えて真っ先に候補に上がったのは、勿論賊や暴漢といったならず者だ。気付かぬうちに後をつけられており、一瞬の隙をついて眠らされたというわけだ。その後所持品を漁られただけだというのならまだいい。仮に犯人の目的が婦女暴行や殺人だったとしたのなら……
「──……っ!」
 俺は、昨夜と同じように、殆ど衝動的に家を飛び出していた。早朝の薄い陽の光を浴びながら、昨夜通った道をひたすら走り続けた。しかし走りながら、こうも考えていた。
 俺を眠らせたのが彼女だったとしたら?何せ俺が見たのは犯人の手元だけだ。何か物言いたげにしていたあの姿はただのフェイクで、彼女は俺が隙を見せる瞬間を狙っていたのではないか。あるいは彼女の仲間がこっそりと俺達の後をついてきていたとか。
 だがその仮説は殆ど成立しなさそうなことに気付いた。彼女と通った森の中で、俺は殆ど隙だらけだったはずだ。覚束ない明かりだけを頼りに彼女に背中を向けて歩いていたのだから、彼女が俺に薬を嗅がせたかったのならば、絶対にあの好機を見逃すはずがない。
 それに、俺を眠らせる目的も判然としなかった。一度立ち止まって所持品を確認してみたのだが、ポケットの中の小銭を含めて、何かが盗まれたという形跡は一切なかった。もし俺を殺害する意思であったのなら俺はこうして無傷ではいられなかっただろうし、そう考えるとやはり犯人は彼女以外の人間だとするのが妥当だろう。
 それはそれで、俺を憂鬱な気分に陥れた。俺は眠らされただけで済んだ。だが彼女はどうか。俺が意識を失った後、あの場で何が起きたのか。
 そして、まだ最大の謎が残っていた。星花の群生地で眠らされた俺は、一体どのようにして自宅まで戻ってきたのか──
 この疑問については後でじっくり取りかかろうとひとまず思考の脇に据え置き、とにかく彼女の無事だけを祈って走り続けた。途中、何度か立ち止まって息を整えるたびに、悲惨な想像が脳裏をかすめた。そしてその想像を払いのけるようにしてまた走り出すのだ。
 ゴールはまだかと理不尽な苛立ちを覚え始めた頃になって、ようやく浜辺に辿り着いた。息も絶え絶えになだらかな砂の起伏を乗り越え、森を抜け、ある種の覚悟をもって白色の花弁が群がるその場所を見回した。
 月が太陽に空を奪われた時刻、当然星花は光を失い、静かに大地を覆っていた。俺は、昨晩立ち入った辺りにおそるおそる近付いていった。草の根に彼女の変わり果てた姿が横たわっていたとしても、極力冷静に事態を受け入れようと気構えていた。あんな真夜中に外をうろついていたのだ、蛮行に見舞われたとしても文句を言える立場ではない。そう自分に言い聞かせながら。
 その後、俺は一通りの確認を終えて西側の浜辺に戻ってきた。先ほどまで無人だった浜辺には、朝の散歩を楽しむ近隣住民達の姿がちらほらと見受けられるようになっていた。年配の人間が殆どで、森の入口に一人佇んでいた俺はその何人かから訝しげな目を向けられた。
 俺は大きく溜め息をついた。星花の中には、彼女の遺体も、血痕といったものも残されてはいなかった。とはいえ扼殺などの方法で殺された後に海に遺棄された可能性も捨て切れなかったため、念の為東側、つまり星花の方面にある浜辺の波打ち際を歩いてみたのだが、結局はただの散歩に終わった。一つだけ、拾い物をしたことを除いては。
「………………」
 左手に握っていた小瓶を見下ろし、それを胸の前辺りに持ってきた。ガラスの中で輝く小さな石に、小さく折り畳まれた紙が二枚。一枚は酷く黄ばんだ色をしており、もう一枚は真新しい白い紙だ。
 遺体が打ち上げられてはいないかと波打ち際を歩いていた時に見付けた。ひときわ大きく打ち寄せてきた波に、そいつが一緒に乗っていたのだ。
 海の方へと引き戻されていく小瓶を慌てて追った時、靴の中に海水が入り込み、ズボンやコートの裾まで濡らしてしまったが、そんなことを気にしてなどいられなかった。とにかく引っ掴むようにして小瓶を攫った。
 彼女が願いを込めたトランダイトが波間をたゆたっていた──それを俺は敢えて楽観的な解釈しかしなかった。つまり彼女は俺が気を失った後、波打ち際からこの小瓶を海へ向かって投擲する余裕があったのだ。しかし飛距離が伸びず、潮の流れに乗りきれなかったため、着水したはずの小瓶はあっさりと波打ち際に戻されてきてしまった。そういうことなのだ、きっと。曲がりなりにも騎士である彼女は、あの後何らかのトラブルに巻き込まれたのだとしても、自力で解決してこの場所を立ち去ったのだ、きっと。そうに違いない。
 再び海岸に打ち上げられ、そして再び俺に拾われたトランダイトの小さな光を見つめた。少し迷ったが、俺は瓶の蓋を開けてみることにした。拾い主に願い事を読んでもらわねば意味がない、だから俺がそれをする必要がある。
 それはただの好奇心を都合良く正当化しているに過ぎなかったわけだが、心の片隅には、彼女の願いが叶うといいという思いも確かに存在していた。トランダイトが願いを叶えるなど迷信でしかない。しかしひょっとすると、俺が彼女の願いを知ることで、何らかの運命の巡り合わせというものが生じる機会もあるかもしれないではないか。
 好奇心と些かの緊張が入り混じった心地で、瓶の中から取り出した紙に書いてある文字を読んだ。もっと他に願いたいことはなかったのかという感想をまず抱いたが、光るものが好きそうだった彼女の様子を思い出すと、彼女らしい願いではあるのかなと知らず口元が緩んだ。
 俺は紙を畳み直し、トランダイトの入った瓶と一緒にコートのポケットの中に突っ込んだ。
 彼女が無事生きていて、この街に留まり続け、かつフォービドゥンの脅威とタイミングが重ならなければ、きっと近いうちにその機会はやってくる。
 遠くから一瞬だけでもいい、彼女の願いが叶うその瞬間を見届けられたら──浜辺をゆっくり歩き出しながら、俺はそんな思いに捕らわれた。

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