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騎士の述懐

 - 12 -


 何をするにも気もそぞろで、とても心身の休養とは程遠い毎日を過ごした。
 海でトランダイトを回収した日以降、俺は毎日浜辺に出かけて行った。朝、昼、夜、そしてある日は一日中浜辺付近で時間を潰してみたこともあった。理由は勿論、生きている彼女か死んでいる彼女に再会することができるかもしれないと思ってのことだ。
 まるでというよりまさにストーカーそのものの行動に思われてしまうかもしれないが、俺はとにかく彼女の生死が気になって仕方がなかった。一度は無事だと信じたものの、だからといって必ずそうであるという保証はどこにもなく、仮に彼女の身に何か起こっていたのだとしたら、すべての責任は俺にある。俺があんなところまで彼女を引き連れて行ったりしなければ、彼女はつつがなく海岸を立ち去れていたはずなのだ。
 やがて休暇が明け、悶々とした気分を抱えたまま出勤した。机の上には案の定仕事が溜まりまくっていたが、焦るどころかなかなか作業に身が入らなかった。机に向かってペンを握っていても書類は遅々として進まず、見かねた同僚に「もう少し休んだらどうだ」と言わせてしまう始末だった。
「まだ何か塞いでるの? エリオット」
 ペンを置いて伸びをしている俺に、レイチェルが近付いてきた。この会社にアルバイトとして雇われたという彼女は、社内の雑務やおつかいといった用を任されているようであった。
「別に、どうもしない。いつも通りさ」
 上手く作り笑いができたつもりだった。だが、彼女は俺の心を正確に読んできた。
「そう? 例えるなら取り返しのつかない重大なミスをしでかして途方に暮れてるって感じに見えるけど」
「山のような仕事を前に、気が滅入ってるってだけかもしれねえぞ」
 隣の机でパンにかじりついていたジュアンが、へらへら笑いながら会話に割って入ってきた。「あ、それとも腹でも減ってんの? 朝飯食ってねえんだろ。オレの特製魚卵サンドやろうか。美味いぞ、食いかけだけど」
「いい。いらない」
「……けどねえ、あんた。困るんだよ、そんなんじゃ」
 今度は別の声が割り込んできた。首を半分捻って、声の主が近付いてくる方を向いた。腕組みをしたサーシャが、真顔なのだか仏頂面なのだか見分けがつかないいつもの顔で、こちらを見るか睨むかしていた。
「さっきから全然手が動いてないようじゃない。こちとら十分休ませてやった上に金を払ってあんたを雇ってんの。きりきり働かないってんなら減給だよ、減給」
「う〜ん、社長さん、それ発破掛けてるようでちょっとしたパワハラ」
 レイチェルの指摘にも、この会社の最高責任者は全く動じる気配を見せなかった。俺の鼻先に指を突き付け、薄い唇から懲りずに毒を吐き続けた。
「デスクワークで使い物にならないのなら、外に引きずり出すわよ。ちょうど退避観測に連れてく人間を探してたのよ」
「? たいひかんそく、って?」
 この時代の人間でないレイチェルには、馴染みのない言葉であるようだった。小首を傾げる彼女を見て、ジュアンが感慨深げな声を出した。
「そうかあ、退避観測を知らねえのかあ。そりゃフォービドゥンがいない世界に生きてんだもんな、退避観測なんかする必要がねえってことか」
「だーかーらあ、退避観測って何? って訊いてるの!」
「ハイドロメガロゴートって言葉を知っているかい」
 頬を膨らませているレイチェルに訊ねてみた。初耳だ、と俺に向き直ったその顔は言っていた。
「ハイドロ……何?」
「ハイドロメガロゴート。皆『ハイドロ』と略して呼んでいるけど、要は生き物の名前さ」
「ずーっと昔から世界中に生息している、気色悪ぃ軟体生物だよ」 ジュアンが横から説明役を買って出た。「この街の外れに、『土竜の棲み処』って呼ばれているでかい洞穴がある。大昔は本当に体中を岩のような鱗で覆われた竜が棲んでたって話だが、もう少し後の時代になると、今度は戦時中の兵士の隠れ場所として使われていたりもした。そんで今は、大量のハイドロどもが逃げ込む場所になっている」
「逃げ込む……って何から逃げてるわけ? そのハイドロ何とかっていうのは」
「フォービドゥンだよ」 ジュアンは腕と足を組み、小さく嘆息した。「正確にはフォービドゥンの気配から、ってことになるのかね。不思議なもので、奴らはフォービドゥンの出現が近付くにつれて地下へ地下へと生息域を移していく習性がある。元々森や水辺に棲んでいた奴らは土の中や水の中に、洞穴に棲んでた奴らは穴の奥へ奥へって具合に徐々に地上から遠ざかっていくんだ。だから過去フォービドゥンが地上を荒らしまくった後でも、個体数を激減させた生物達をよそにハイドロだけは多くが生き延びることができたと言われている」
 ハイドロが何を感知して地下へ退避しようとするのか、多くの研究者がその不思議な習性の謎を解明しようと試みてきた。ハイドロが感知しているものを突きとめれば、フォービドゥンの出現時期をより正確に予測できるかもしれないという期待があるためだ。しかし、結局は今日に至るまで具体的な研究の成果は上がっていない。唯一、何らかの魔力に反応している可能性がある、というぼんやりとした仮説が立てられている程度である。これは、退避観測などの際に発光石を持ってハイドロに近付いていくと、奴らの凶暴性が増すという現象が見られることからそのように推測されるようになった。
「で、退避観測ってのは、ハイドロ連中が地上からどのくらいの距離を洞穴の奥へ移動したかを計測する作業なんだ。週に一回、各新聞社が持ち回りで行った上で結果を紙面で公表している。一概には言えねえが、過去のデータから見ると計測結果の数値が千を超えた辺りで危険水域ってことになる。そうなると近々フォービドゥンが現れる可能性が極めて高い、ってわけだ。っつっても、さほど信憑性があるってわけでもねえんだけどな。ま、心の準備をするのに一役買ってるって程度のものさ」
「ちなみに、前回の数値はいくつだったの?」
「六百二十一」 レイチェルの問いへの答えは、サーシャが引き継いだ。「けど、今の話のとおり大して参考にはならないわよ。急激に数値が上がる時もあるし、前回の計測から殆ど変わらないって時もあるし、数値が千を超えても一向にフォービドゥンが出てこないって時代もあった。だからこんなのやる意味があるのかって気がしないでもないけどね」
 サーシャの視線が、すいと俺へと戻された。
「それでも国から義務付けられてることだから、面倒でもやるっきゃないってわけでリット、あんた机に座ってボーッとしてるだけなら一緒に来なさい」
「いや、別に何もしていないわけじゃないんですけど……」 常時怠け三昧のジュアンはどうなのだという反論はかろうじて飲み込んだ。「でも、退避観測に行くならスパイクが……」
「スパイクならもう連れてきたわよ。表に繋いである」
 退避観測を行う上で欠かせないのが、洞穴内に漂うハイドロの匂いを嗅ぎ分け、何本にも枝分かれした複雑な道を正確に奴らの元まで誘導してくれる社犬の存在だ。通常、新聞社には退避観測を行うための犬が一匹以上飼育されているのだが、万年人手不足の我が社は犬の世話を担う人員の捻出が困難であったため、普段は別の場所に社犬を預けさせてもらい、退避観測を行う時にだけその家から連れてくるという形を取っていた。
 スパイク、という名前の我が社の社犬。そいつを預かってもらっていた家とは……
「フランクの実家に行ってきたんですか……」
 言ってから、当たり前かと思った。フランクの死からもうそこそこの日数が経っていた。彼の死を、サーシャはどのように彼の両親に伝えたのだろう。また、彼らは自慢の息子の自死という悲報をどのように受け止めたのか。
「もう、今後スパイクを預かることはできないと言われたわ」 肩を竦めてサーシャは言った。「息子の死を思い出して辛いし、遠回しにではあるけど、もうウチの会社とは何の繋がりもないし、ってようなことを理由に挙げられてね。ま、仕方がないわよ。元々持病があって生活に不自由なところを無理して預かってもらってたわけなんだから」
「ワンちゃんの世話ならあたしがするから任せて!」
 元気良く挙手をしたレイチェルが、次にはその手をぐっと握り締めた。「でもって、その退避観測っていうの、あたしも行きたい!」
「よせよせ、面白いもんでも何でもないぞ。暗くてじめじめしたところをだらだら歩いてくたびれ果てて帰ってくるだけだ」
「それでもいいの! 行くったら行くんだもんってもう決めちゃったんだから」
「退避観測に行くのかい?」
 背後から控えめな声がして振り返った。トマという名の社員が、分厚い辞典を胸に抱えながら立ってこちらを見ていた。ふんわりと緩んだ目元が優しげな印象を与える男なのだが、この時の彼の目にはいつもの笑みは浮かんでいなかった。心配そうな眼差しで全員の顔を見回した後、彼は遠慮がちにこう続けた。
「何か……土竜の棲み処で妙な現象が現れたらしいから、気を付けて行った方がいいよ」
「妙な現象?」 ジュアンとサーシャの声が重なった。
 トマが頷いた。「先週、退避観測に行った社の奴から聞いたんだけど……深度六百地点を過ぎた辺りで変な音を聞いたって言うんだ。剣がぶつかり合うような音と、戦いの最中みたいな大勢の人間の声が、洞穴の奥の方から聞こえてきたって……」
「何だそりゃあ」 ジュアンが胡散臭げに顔をしかめた。「空耳だろ? 風の音とか」
「幽霊じゃないか、ってそいつは言ってた」
「幽霊〜?」
 三者三様の顔が、一斉にトマに向けられた。呆れ顔、怯え顔、驚き顔……俺はさもリアクションに困ったような複雑な顔をしていたかもしれない。
「幽霊……って何でまたそんなのが急にお出ましになるんだよ。今まで一度もそんな話出てきたことないぞ」 俺は言った。
「知らないよ、そんなこと僕に訊かれても。けど、あの場所……昔戦争があった頃、洞穴の奥に逃げ込んだ兵士達が大量虐殺されたって噂があるじゃないか。ひょっとしたら無念のうちに散った死者の怨霊が呼んでるんじゃないかい? 間もなくあっち側に合流する僕らのことをさ……」
「怨霊……」 ごくりと喉を鳴らしながら呟いたのは、レイチェルである。そして、
「はあ〜? くっだらねえ。怪談で盛り上がりてえならもっと凝った話を練り上げろよな」
 こう一蹴したのはジュアンであった。彼はすぐに興味を失ったように椅子に大きくもたれかかり、小指で耳をほじり出した。
「本当に兵士の幽霊が出るってんなら、とっくの昔に心霊スポットとして有名になってておかしくねえはずだろうが。どうせ前回の観測隊の奴らが『土竜の棲み処に幽霊現る!フォービドゥン出現の予兆か!?』的な記事を捏造したくてホラ吹いてんじゃねえの。馬鹿馬鹿しい。んなもん真に受けてられっかよ」
「う〜ん……まあ、確かに僕にその話をしてくれたのはバッカスの奴だけどさ……」 国内最多の購読者数を誇るゴシップ紙を発行している社の名前をトマは告げた。「でも、あれは嘘を言っている顔には見えなかったんだけどなあ。血走った目をして、『本当に気を付けろ』ってしつこいくらいに言ってきて……」
「ま、何にせよオレは待機班所属で決定だ」 大仰な仕草でジュアンは足を組み直し、俺に人差し指の先を向けた。「観測隊としてご指名を受けたのはエリオットだしな。洞窟に肝試しだなんていい歳こいてやってられっか。まあなんか面白い結果が得られたら後で土産話でも聞かせてくれや」
「まさかとは思うが、怖いわけじゃないんだよな」
 さり気なく訊いてみれば、鼻で笑うだけの返事を返された。


 幽霊の存在を信じるか否かと問われれば、俺はいつも「信じない」と答えている。
 暗がりに何かの気配を感じて怯えたり、夜中に一人で用を足しに行けない年代というのが俺にもあったが、幼い少年は年齢を重ねるにつれ、空想と現実の境目を知っていく。絵本の中に出てきた一つ目の毛むくじゃらのお化けも、首のない鎧のお化けも、実際には一度も俺の目の前に現れ出たことはなかった。そうしたお化けと幽霊とは少し性質の違うものだと言われてしまうかもしれないが、存在が証明されていないという点では両者共通だ。そして、目に見えないものがそこに存在すると証明することよりも、そこには何もないと証明することの方がずっと容易い。
「怖いなら待ってればよかったじゃないか」
 揺れる馬車の中、隣に座っているレイチェルに話しかけた。『土竜の棲み処』までの足としてサーシャが調達した乗り物は、子供用なのかと思いたくなるほど窮屈で粗末なものだった。ひょっとすると二人乗りの馬車に無理矢理三人で乗車させられていたのかもしれない。いや、向かいの席に座っていたサーシャの隣にはスパイクが悠々と寝そべっていたから、実際に乗車していたのは三人と一匹だ。
 ぎぎぎ……と錆び付いた玩具のようなぎこちない動きで、レイチェルの首がこちらへと動いた。
「こ、怖くなんてないもん」
「……それだけ怯えながらもついてきた根性は立派だな」
「大丈夫、もしお化けが襲いかかってきてもアトラスが守ってくれるもん。あたしには魔術書だってあるもん……幽霊なんてイチコロだもん……」
 ぶつぶつと独り言を呟きながら、レイチェルは膝の上に載せた魔術書をしきりに開いたり閉じたりしていた。
 魔術書──アトラスという彼女の相棒を出したりしまったりできる便利な機能の他に、魔術師が記述した様々な術式を発現し、敵を攻撃したり身を守ったりすることができる本だと彼女から教わった。その仕組みを訊ねると、要は難解な計算式を解くような感覚に近いのかもしれない、というのが俺個人の感想だ。古代文字がびっしりと綴られたそれは単純に文章が書き記されているのではなく、数字や記号なども用いて極めて複雑怪奇な文字列を形成しているらしい。それを正しく読み取り、理解し、答えを導き出すことさえできれば、誰にでも魔術書の不思議な力を扱うことは可能であるそうだ。この時代の人間にそれができるかと言えば、まず古代文字の読み取りの段階で頓挫してしまいそうな気はするが。
「……休んでいる間に、何かあったわけ?」
 サーシャが話しかけてきたのは突然だった。窓枠に肘をついて外を眺めていた彼女の顔が、いつの間にかこちらに向いていた。もしかするとかなり前から視線を受けていたのかもしれないが、車窓を流れる景色を見ながら考え事をしていた俺はそれに気付くことができなかった。
「そういやあんた、勇者の勝利宣言の時、王城の広場にいたらしいじゃないのさ。ジュアンがあんたに会ったって言ってたわよ。その時はあんたに別段変わった様子はなかったってことだけど……その後勇者との質疑応答はどうだったわけ? あんたが行くなら行くで別に構いやしなかったけど、取材報告はきっちりしてもらわないと困るんだけど」
「あ……すみませんでした……」 俺は耳の後ろを掻きながら小さく頭を下げた。「その、特に記事にするほどの内容でもなかったもので……」
「そうね。確かにどの社の記事も勝利宣言の内容にしか触れてなかったわね。勇者にあれこれ質問する機会が得られていたにもかかわらず。何故なのかしら」
「………………」
 想定される質問だったはずなのに、俺は海岸での一件に思考の大半を奪われていたあまりこの問いに対する回答を用意しておくのを忘れてしまっていた。視線を膝に落として黙り込むが、そうすることでサーシャの追求をかわせるとは思っていなかった。案の定、俺の沈黙は時間稼ぎにも何もならず、回りくどいことが嫌いな彼女は真正面から俺に攻めてきた。俺が心の中に隠していた名前を読み上げるかのごとく。
「……ディルク・ナルディス」
「っ!」
「あら素直。あんたのその分かりやすいところ、アタシ好きよ」
 何故、という顔でもしていたのだろう。サーシャの唇が笑みの形に歪んだ。しかし俺を見据える温度のない目は、好意という単語とはおよそかけ離れたものだった。
「あんたなりの思惑なり心遣いなりがあってその名前を隠していたんでしょうけれど、他社の記者から情報をもぎ取るくらいアタシには造作もないことなの。そんなのあんたも十分承知なはずでしょ」
「言ったんですか、会社の奴らに……奴のことを……」 じわじわと自分の顔つきが険しくなっていくのを感じた。
 サーシャは首を横に振った。
「言ってないわ、まだ。けど、アタシやあんたが黙っていたところで早晩あいつらの耳に入るのは避けられないことだと思うわよ。それにね、あの男の存在を知った上で厄介事に首を突っ込むか否かは個人の判断に委ねるべきであって、アタシがあれこれ指示を出すつもりはからっきしない。どこかであの男と遭遇したとして、逃げ出すも知らん振りするも剣を抜くも返り討ちにあうもあんたらの自由よ」
「……っ、自分のところの社員が死んでも犯罪者になっても構わない、ってことですか」
「そういうことじゃなくて、要はしたいようにしろってことよ」
「ねえ、何の話?」
 会話に置いてけぼりにされていたレイチェルから声があがった。俺とサーシャはまだ話し足りないという顔を残しながらも、いったん口を噤んだ。無垢な少女の前で殺しに関する会話を続けるほどサーシャも無神経ではなかったということだ。ふう、と溜め息をついて、彼女は再び窓の向こうへと視線を投げた。その隣では、素知らぬ顔をしたスパイクが大きな欠伸をしていた。
 あの晩、意識のない俺を自宅へと連れ帰したのは誰なのか──馬車が土竜の棲み処に到着するまでの間、俺は考えるのを先延ばしにしていたその謎に頭の中で取りかかっていた。だが決定的な答えなど得られるはずがなく、あくまでも可能性の域を出ない幾つもの空想だけが脳内の隙間を埋めていくだけだった。最有力かと思えた候補として、星花の群生地で倒れている俺を偶然通りかかった誰かが見付け、警察に通報したという流れだ。あるいは、例の彼女が警察に届け出てくれたのかもしれない。
 あの晩はいつものコートを引っ掛けていたから、ポケットの中には社員証が入っていたはずだった。そうなれば身元の特定は容易いし、居住地の割り出しも造作ないだろうと思えた。
 しかし、その想像を推すにしてもどうしても違和感を拭い去ることはできなかった。もし本当に警察のご厄介になっていたのだとしたら、彼らはただ黙って俺を家まで届けて終わりにしたものだろうか。外で人が倒れていたのだ、何らかの事件性を疑って事情聴取くらいはしておくものだろう。それとも、倒れていた場所が場所だっただけに、どうせ星花の花粉に当てられて眠りこけてしまっただけだろうとの判断が下されたのだろうか。
 その他の可能性としては───
 俺は、瞬き以外にぴくりとも表情を変化させないサーシャの横顔をちらと見た。俺を自宅へ運ぶためには、その場所を知っておく必要があったわけだが、そう考えると該当する人間は片手で数えるほどしか存在しないことに俺は気付いていた。その一人が、俺の上司である彼女だ。
 サーシャは俺の視線に気付いたらしい。何?とでも言うように片眉を上げ、顔は窓の方に向けたまま横目で俺を見返してきた。
 ──もし、俺に薬を嗅がせたのも目の前のこの上司だとしたのなら──
 俺は、下を向いてサーシャの視線から逃げながら、たった今浮かんだばかりのこの考えを打ち消した。まさかそれはないだろうと思った。理由がさっぱり分からない。
「着きましたぜ」
 がたんと一度大きく馬車が揺れて停止した後、御者台の方から声が上がった。俺達は順番に狭い昇降口を降り、湿った大地を踏みしめた。
 一言で場所を説明するなら、山の中と言っておけば間違いはないだろう。鬱蒼と生い茂る木々に守られるようにして崖下にぽっかりと開いた穴、それが土竜の棲み処の入口である。窮屈な上に固い椅子に長時間腰掛けていた不快感から解放され、ベルトの両側に剣を取り付けた俺は、自由を満喫するかのごとく大きく伸びをした。
「うわ……いかにも何か出そうって感じ」
 蛇が大きく口を開けたような形をしている洞窟の入口を覗き込み、レイチェルが呻いた。
「出るわよ、ハイドロが。暫くゼリーを見るのも嫌って思うくらいに」
「って、何してるの? 社長さん」
 振り向いたレイチェルが首を傾げたのは、洞窟の入口の端に立てられた一本の棒に、持参してきたフック付きロープを引っ掛けて外れないよう固定しているサーシャの行動である。ロープはかなり細い造りで長さがあり、巻いて束ねたそれをサーシャが肩に担いでいた。
「こうやって入口にロープの先端を固定して、ロープを伸ばしながら先に進んでいくの。この子に道案内をしてもらいながらね」 彼女の足下で毛繕いをしているスパイクを、サーシャは顎で示した。「で、そのうち『これ以上先に進めない』ってところまで辿り着いたら、手に持っているロープに印を付ける。その印とロープの先端のフックまでの長さが、今回の計測結果ってことになるわけ。退避観測なんて大仰な名前が付いていたって、やることはこんな単純でつまらないものよ」
 そうだそうだと内心頷きながらも、俺は出掛けにトマが言っていた話のことが全く気になっていないわけではなかった。怖かったのではない。洞窟内で本当に謎の声や音が聞こえたというなら、それは一体何なのだろうと不審に思っていただけだ。
「リット、あんた馬車の中でボサッとくつろいでるだけだったけど、剣はきちんと研いであるんでしょうね」
 ロープの固定を終えたサーシャが、ランタンに火を灯していた俺にじとりと据わった目を向けてきた。
「前にあんたとここに来た時は、ホント散々な目に遭ったからね」
「まだ蒸す返しますか、その話……」
「何何? 何かあったの?」 例によってまたレイチェルが教えてオーラを放出させた。
「剣を研いでくるのを忘れたんだよ」 サーシャに過去の失態を尾鰭を付けて暴露されないうちに、俺は話の主導権を奪い取った。「剣の研ぎが甘いと、ハイドロを斬れないのさ。で、奴を斬れないとなると、襲いかかってこられた時に素手で対応しなきゃならなくなる。……手で引き千切るとかな」
「あんたのせいでアタシは、頭のてっぺんから爪先までハイドロまみれのドロドロになりながら帰ってくる羽目になったのよ。服の下まで奴の粘液でベッタベタのグッチョグチョになってね」
「もうそれ、百回くらい謝ったような気がするんですけど」 おまけに減給までくらった。
「何べん謝ってもらったってあのトラウマは消せないわよ。第一ね、あの時あんたが先頭に立って歩いていれば、あの規格外のサイズのハイドロだってあんたの頭に落っこちてきていたはずでしょうに。か弱い女性であり上司であるあたしを盾にして進もうなんて一体どういう神経をしているわけ?紳士ってやつはもっとこう常に──」
「ね、ね、ちょっと気になったんだけどさ」 くどくどと長引くサーシャの愚痴に辟易している俺の袖を、ちょいちょいとレイチェルが軽く引っ張ってきた。「ハイドロって、危ない生き物なの?」
 俺はレイチェルに向き直って答えた。「基本的には大人しい。けど身の危険を感じた途端、狂暴になって襲いかかってくる。だから洞窟内ででかい音をたてるのはご法度だ。ビビったハイドロどもが一斉に襲いかかってくるからな」
「……あんたそれ、アタシに対する当てつけよね?」
 サーシャが凄むような目をして俺を睨めつけてきた。俺は、前回同行した退避観測で、天井から落ちてきた巨大ハイドロに顔面を覆われた彼女が窒息寸前になりながらがむしゃらに銃を撃ちまくった末に起きた大惨事を思い出していた。命の危険を感じたのは、四方八方に飛び交う銃弾を恐れながら襲い来るハイドロどもを相手にしなければならなかった俺も同じだ。
「とにかく! これは入口から退避地点までの距離を測って出てくるだけの単純な仕事であるはずだ。粛々と進めてさっさと終わらせて溜まってる仕事をやっつけるぞ!」
 場を取り纏めるように俺が言うと、「おー!」とレイチェルが天に腕を突き出した。そうした空気を感じ取ったのか、お座りの姿勢で待機していたスパイクがすっくと立ち上がり、洞窟の入口に向かって軽快に歩き出した。
 ハイドロを刺激しないよう気を付けながら、先導するスパイクについて行って戻ってくるだけの単純な仕事──そうであるはずだった。俺は今でも幽霊の存在は信じていない。だが、洞窟の奥では背筋も凍る体験が俺達を待ち構えており、そして俺の身には冗談では済まされない本物の災難が降りかかることになるのだ。
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