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騎士の述懐

 - 13 -


「何だぁ、意外と可愛いじゃん、この子」
 とは、退避観測開始後、ハイドロとの初めての遭遇を果たしたレイチェルの言である。
「……生物の進化の歴史から取り残されたかのようなこの原生生物のどこを見ればそんな気持ちを抱けるわけ?」 それを受けたサーシャが、腕組みをしてぼやく。
 俺達大人組としては、年若い少女の感覚を理解することができず、地面に落ちていた木の枝でハイドロを突ついて遊ぶレイチェルを、呆れた眼差しで見下ろすよりほかなかった。無色透明のドロドロの塊であるハイドロは、レイチェルに棒で突っつかれるたびに身体をびくびくと竦ませていた。怯えているようにもくすぐったがっているようにも見えるその動きを眺めながら、俺はこいつがいつ牙を剥いて襲いかかってくるかと気が気でなかった。いや、そもそもこの軟体生物に牙などというものは存在しないから、実際には飛びかかってこられて口や鼻を塞がれたり、物凄い力で手足に絡み付かれたりといった地味な攻撃を受けることになる。
 土竜の棲み処でのハイドロとの最初の遭遇は、ちょうど深度三百地点に到達した辺りの場所だった。つまり入口からおよそ三キロメートル進んだ地点で、一体目のハイドロを発見したということだ。先陣を切って進んでいたスパイクがふと足を止め、短く吠えてそれを知らせてくれた。好奇心の塊のような存在のレイチェルがいの一番に反応を示し、「面白ーい」などとはしゃぎながらハイドロを弄り出したというわけだ。
「可哀想だからそろそろよしてやりなよ」 しゃがんでいるレイチェルの背中に声をかけた。「いい加減にしておかないと、怒って反撃してくるぞ」
「えー、遊んであげてるんだよ、これ。ほら、喜んでるじゃん」
「俺には迷惑がっているように見えるけど」
 俺の見立ては正しかった。しつこくちょっかいをかけられることに業を煮やしたらしいハイドロが、今までの緩慢な動きとは打って変わった俊敏な動作で突如跳躍し、「べちゃっ」という音と共にレイチェルに飛び付いた。悲鳴を上げて仰向けにひっくり返るレイチェルの腹の上にのしかかったそれは、じわりじわりと彼女の頭の方へと這い上がっていき、よく喋るその口を塞ごうとしていた。
「やだやだ、やめてよ! 重いいぃ……服が汚れちゃううぅ……!」
「ほーら言わんこっちゃない」
 ハイドロの何が一番厄介かというと、外部からの刺激に反応して攻撃的になるという点よりは、体表を覆うぬめぬめとした粘液だと多くの者が答えるに違いない。できるだけそいつに手で触れることを避けたかった俺は、剣を抜いてレイチェルに近付いていった。早く取って!と急かす彼女の身体の上にいるハイドロを剣先で引っ掛けるようにして引っ剥がし、ぽいと洞窟の壁際へと放った。
「うえーベトベト〜、気持ち悪いよぅ」 立ち上がったレイチェルが、汚れた自分の服を見下ろして嘆いた。
「自業自得だ。我慢して先に進むぞ」
「うう……エリオット冷たい……か弱き乙女が気色悪い生き物に襲われたショックで必死に涙を堪えてるっていうのに……」
「気色悪い生き物、ってついさっきまで『可愛い』とか言ってたのはどの口だ」
 入口の狭さに反して洞窟の中は意外なほどに広く、床から天井までの高さはゆうに三メートル近くある。俺とサーシャはランタンを、そしてレイチェルは魔術書から呼び出した小さな火球のようなものを宙に浮かべて各々の光源とし、なだらかな下り坂が続く洞窟内を進み続けた。
「……今日はやけにハイドロが元気ね」
 と途中サーシャが呟いたのは、五体目のハイドロが飛びかかってきたところを剣で薙ぎ払ってやった直後であった。『ハイドロに近寄らない』『大きな物音をたてない』といった退避観測における基本動作を守っていれば、通常ならそれほど剣の出番はないはずなのだ。普通に歩いているだけで五度もハイドロに襲いかかってこられたというのは、明らかに通常と呼べる範疇を超えている。
「そいつに反応しているのかもしれませんね」
「その可能性が高いわね」 レイチェルの頭の横に浮いている火の球を見て言う俺に、サーシャは頷いた。「あるいは、この子の魔術書そのものから放出されている魔力が原因になっているとも考えられる。奴が魔力に呼応するって仮説は有名だけど、こうも敏感に反応されると……」
「『退避地点』に到達した時が厄介そうですよね」
 我が意を得たりといった顔つきで、サーシャは俺にめくばせをした。俺に問うているのだ。『退避地点で待ち構えている膨大な量のハイドロを一人で相手にする自信はあるのか』、そして『その自信がないのであれば、一度会社に戻ってレイチェルを置いてきてから仕切り直すということにするのか』を。
『サーシャがレイチェルと一緒にこの場で待機し、退避地点までは俺一人で行く』という選択肢を選べればそいつが一番効率的で面倒もないのだが、退避観測には社の最高責任者自らが行うという不文律が存在し、そして変なところで律儀なサーシャはそういった決まり事を頑なに遵守するため、『誰も見ていないから分かりゃしないさ』というズルは決して許されない。
 しかし俺に突きつけられた二択は、どちらも腕を組んで唸りたくなるようなものだった。俺一人だけならまだしも、レイチェルとサーシャを守りながら無尽蔵に襲い来るハイドロを片っ端からのしていくだけの体力があるかと問われれば安易に頷くことは憚られるし、だからといって聞き分けのないこの娘を会社に置きに戻るというのも至難の業だと予想できた。
 軽いジレンマに陥りながらも、結果として俺はこのまま進み続けることを選んだ。頑張ればどうにかできると判断できたのがそれであったためだ。たとえ何十匹というハイドロが一斉に襲いかかってこようとも、剣で斬り裂いてやるだけで簡単に奴らを弱体化させることができる。命に係わるほどの危険は薄いだろう──ただ身体中べとべとになるだけで。
「ねえ……お化け、まだ?」
 洞窟の入口から伸ばしてきたロープには百メートル単位で赤い目印が付けられており、サーシャが歩きながらそれを確認していたところ、いつの間にか列の後方へと場所を移していたレイチェルがひっそりと声をあげた。
 彼女は、分厚い魔術書をぎゅっと抱きしめるようにして持ち、上目遣いにこちらを見ていた。その姿は俺に、怯えた兎を連想させた。
「まるで早くお化けに会いたいかのような口振りじゃないか」
「あ、その顔はもしかしなくても面白がってるでしょ、エリオット」 魔術書で口元を隠すようにしながら、レイチェルはむっとした目つきで俺を睨み付けてきた。「あのね、お化けを馬鹿にしてるととんでもない祟りや不幸に見舞われて、下手すると死者に命を持って行かれちゃうんだよ。特にエリオットみたいな警戒感無さ過ぎの人が一番狙われやすいの。もっと気を付けた方がいいよ」
「うーん……死者に命を持ってかれるなんて話は聞いたこともないけどな」
「あるの! ありえるの!」 唾を飛ばす勢いでレイチェルが食ってかかってきた。「原因不明の死とか、偶然起きた不運な事故とか、そういうのっていくらでもあるでしょ。あれは死者の怒りや妬みを買ってあの世に連れてかれちゃったってことなの。あたし達の時代じゃ、長年の研究の末そういう結論にちゃんと行き着いているんだから」
「長年の研究? 未来の学者が幽霊を調べてそういう事実に行き着いたってわけなのか」
「学者……ってよりは、まあ……うちの学校のオカルト研究会の部員が学祭の出し物で発表してたことだけど」
 信憑性としては山の頂から深い谷底にまで落ちたような話だが、とりあえず俺は「そうか」とだけ言って沈黙に戻ろうとした。お化けなんて出てこないから安心しろ、と言ってやっても、この少女の警戒を解くことは無理だろう。
 その時、
「……どうしたの、スパイク」
 先頭を行く社犬の背に、サーシャが声をかけた。これまですました様子で歩いていたスパイクが、急に頭を低くし、唸り声を発しながら進むようになったのだ。
「退避地点が近いんですかね」
 俺が言うと、サーシャは首を横に振った。
「そんなはずはないわ。前回の退避地点はまだ少し先だもの。ていうよりスパイクがハイドロに警戒して唸るなんてこと今までにはなかったはずよ」
「ハイドロじゃないなら何に……」
「お化け!? お化けでしょ、やっぱり!」
 泣き声に似た声は、当然背後にいたレイチェルから発せられたものだ。
「いやいやまさか」
 俺は苦笑いを浮かべながら耳を澄ました。洞窟内の音を拾おうとしたのだが、何も聞こえてはこなかった。視界の先には相変わらず暗い闇が続いているだけで、少し先の壁際には数体のハイドロが絡み合うようにして蠢いているのが見えた。交尾と思われる行動だが、しかしそんなものは取り立てて珍しいことでも何でもない。
「……っと」
 レイチェルが俺の腰の辺りにすがりついてきた。コートを握りしめてくる小さな手は小刻みに震えており、彼女は声までをも震わせながら俺を見上げた。
「聞こえてるんだよ、多分……スパイクには。犬は人間の何倍も耳がいいっていうじゃん。この先にきっと、トマさんが言ってた沢山の兵士の怨霊がわらわらわらわらひしめいていて、あたし達を黄泉の世界に引きずり込もうと手ぐすね引いて待ち構えてるんだよお……!」
「いや、だからな……」
「わらわらひしめいてアタシ達を待ち構えてるのはハイドロよ、ハイドロ」
 馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりに鼻で息をついたサーシャであったが、彼女は歩きながらもコートの中に隠し持っていた拳銃を右手に取り出した。構えこそしないものの、いつでも発砲できる状態にしておけるところに彼女の警戒が表れているように見えた。
 俺も念のために剣を抜いた。左手にランタンを提げているため右手にしか装備できないが、ないよりはましだ。
「この奥に吸血蝙蝠でも棲みついたとかですかね」
「だとしたらそこら辺に奴らの糞が転がってないとおかしいわよ」
「なら山賊あたりが隠れ処にしたとか」
「武装した記者が週一で退避観測に来ると知っておきながら? そこまで馬鹿な賊なんているのかしら」
 サーシャとそんな会話を交わしながら、そして腰にレイチェルをくっつけながら、俺達は唸るスパイクの後を慎重についていった。大きな二股の分かれ道を左に進みながら、もうじきだろうかと心の中で呟く。問題の『深度六百地点』が、だ。何度か退避観測を行っていれば、入口からの経過時間を見ればおおよその進んだ距離を推測できるようになる。また、奥まるにつれて斜度を増すこの洞窟の構造からしても、なだらかとは言い難い勾配が現在地点の深度の深さを物語っていた。
 突然、後ろにくっついていたレイチェルが立ち止まった。俺はびっくりしながら、彼女に引き留められるような格好で足を止め、それに気付いたサーシャがつられるようにして立ち止まった。と同時に彼女は、構わず前進を続けるスパイクに「待て」と命じる。
「……ねえ……何か聞こえない……?」
「え?」
 呟くレイチェルの声は、まるで幽霊のようにおどろおどろしいものだった。まさかと思いながらも聴覚を研ぎ澄ませたその数秒後、俺は息を止めていた。
 くどいようだが、俺は今でも幽霊の存在を信じてはいない。ただしこの時ばかりは、長いこと貫き通してきたその信念が、一瞬だけ崩れ去りそうになった。理解の及ばぬ現象に直面した心の中には「嘘だろ?」という思いだけが膨れ上がり、金属同士がぶつかるような音に重ねて何者かの雄叫びが聞こえた時には、頭の中が真っ白になった。ひょっとすると何かの聞き間違いかと疑えるような心の余裕が出てきたのは、その少し後になってからだ。
「ねえ、聞こえるでしょ? ねえ……ねえってばあ……!」
 いよいよ涙ぐむレイチェルを励ましてやるどころではなく、俺は背中を冷たい汗が流れ落ちるのを感じながら、ゆっくりとサーシャの顔を見た。戸惑い、疑念、そしてわずかな恐怖──俺の目には様々な色が交錯していたことだろう。それをサーシャは寸分の動揺すら感じさせない人形のような目で受けとめ、そうかと思うと次にはふっと目尻を緩めてみせた。
「確かに聞こえる、わね」
「何なんですか、これ……」
 音は洞窟の奥から聞こえてくるようであった。耳をそばだたせなければ拾えないほどの微かな音であったが、出がけにトマが話していたことの真実性を裏付けるには十分なものであると言えた。
「……行くわよ」
 落ち着き払った声でサーシャが言った。「はえ!?」という奇妙な返事はレイチェルからのもので、見れば彼女は真っ青な顔で前歯をがたがたさせるのに忙しく、まともに喋るのが困難な状態に陥っているようであった。それを見たサーシャが深い息をつく。
「胡散臭い音が聞こえようと聞こえまいと、アタシ達の仕事は退避地点までの距離を測ることなの。ここまで来てその仕事を放棄して引き返すなんてプロのすることじゃないわよ」
「でっ、ででででで……」 でも、と言いたいらしいのは分かった。
「嫌ならここで一人で待ってなさい……って言ってやりたいところだけど、ハイドロを攻撃的にしてるのがあなたの持つ魔術書だという可能性を考えるとそうもいかない。腰が抜けかかっている小娘をここに放置しておいて、ハイドロに窒息死させられちゃあさすがに寝覚めが悪いでしょうし」
「おそらくもう少し行けば退避地点だ」 俺はサーシャの毒舌を遮るようにレイチェルの肩に手を置いた。「こんなところに一人で置き去りにされる方がよっぽど心細いだろ。頑張って歩け、ほら」
「でっ、ででででで……」
「帰ったら何でも好きなものを奢ってやるから」
「うえぇ〜ん」
 適当な口約束を交わしたおかげで、後に俺はとんでもない額の身銭を切らされる羽目になるのだが、とにかくレイチェルは半泣きになりながらもしぶしぶと歩を再開させた。といっても、問題の退避地点に到着するまで、そこから一〇分とかからなかった。急カーブを曲がって少し歩くと、ランタンの明かりがぼんやりと照らし出す闇の先に、半透明の壁のようなものが立ちはだかって行く手を遮っているのが確認できた。その場所こそが退避地点と呼ばれるものであり、何十匹という大小様々なハイドロが幾重にも折り重なり、絡み合って、その高さは洞窟の天井付近にまで達しているのだ。
 ある種目を瞠るような光景ではあるが、俺とサーシャにとっては見慣れたものであり、初めて見るレイチェルはというと、目の前のハイドロの山よりも奥から聞こえてきている謎の音の方が気になって仕方がないようであった。洞窟を進むにつれて音は次第に大きくなり、退避地点においてはかなりはっきりと聞こえるようになっていた。途中から両手で耳を塞いでいたレイチェルには分からなかっただろうが、その音は幽霊というより、より物理的で具体的な、それこそ目の前の大量のハイドロを越えて進んだ先で、生きた人間同士が実際に刃をぶつけ合っている様を想像させるものであった。
 ハイドロの山のすぐ手前に立ち、ロープに印をつけているサーシャの後ろ姿を眺めていた俺は、眉を顰めながらその音に耳を傾けていた。武器の音に混じって時折人の声が聞こえるわけだが、それがまた奇妙なのだ。「あっぶねぇな」だの「構えがなってねぇぞー」だの、今一つ恐怖感に欠ける日常会話的な台詞が挟まってくる時がある。そのたびに俺の眉間の皺も数を増した。半透明の壁の向こうを透かし見ようと必死に目を凝らしてみたりもしたが、ハイドロの厚い壁はそれを許さなかった。
「本当に向こう側に人がいるみたいに聞こえますね……」
 俺の呟きに、作業を終えたサーシャが振り返った。その直後、洞窟内に一発の銃声が響き渡った。サーシャが発砲したのだ、天井へ向けて。
「なっ……!?」
 突然だし、その行動には何の脈絡もないように思えた。一体何をしているのかと問いたかったが、それより混乱の方が先に立った。音に驚いたハイドロが大きく波打つように身体をくねらせ、攻撃の体勢を整えようとしている傍ら、洞窟の奥からは全く別種の音、というより声が聞こえてくるようになったためだ。
「ひっ……!」
 レイチェルが引きつったような声を漏らした。おびただしい数のハイドロが、巨大な津波のような形を成して一斉に襲いかかってきたのだが、おそらくそれに恐怖してのものではない。
 ───帰れ、帰れ
 ───呪い殺すぞ、闖入者めが
 ───我らの眠りを妨げる奴は何者か
 俺は咄嗟に持っていたランタンを放り捨て、両方の手に剣を構えた。迫り来るハイドロの巨大津波を見上げながら、さすがに薄気味悪さが全身を支配するのを抑えきれなかった。怖いのは無論、ハイドロなどではない。何十、いやひょっとすると何百かもしれないと思うような人の声が、恐ろしい響きをもって洞窟の奥から俺達を捕えにきている──
「い……い、い、嫌ああああぁあぁ!!」
 とうとうレイチェルの理性が消し飛んだ。刹那、俺の目は大きく見開かれた。あちらこちらの虚空から巨大な氷柱が次から次へと出現し、恐るべき速度で方々へと飛び交いだした。何事かと振り向くと、例によってレイチェルの魔術書から光が発せられ、その光は彼女の真っ白になった顔を幽霊のように浮かび上がらせていた。
 矢のごときスピードで縦横無尽に飛ぶ巨大氷柱は、ハイドロを貫通した後、天井、側壁、そして地面、あらゆる場所へと突き刺さることでその動きを止めた。そのたびに岩肌を砕く音が派手に飛び散り、洞窟全体が小刻みに震えた。
 自分のすぐ足下に突き刺さってきた氷柱を呆然と見下ろしながら、これと同じものを見たことがある、と思った。大聖堂だ。大司教の部屋の床に、これと全く同じものが突き刺さっていた。あれはやはり彼女の仕業だったのか、と心の隅で納得しながらも、新たに訪れた危機が俺の注意を奪い取った。
「…………? 地震、か?」
 俺は、この時になってようやく足下の揺れが小刻みと呼べるどころではない規模にまで発展していることに気付いた。氷柱が岩を穿つ音に地鳴りの音が重なり、天井からはぱらぱらと砂や小石が落ちてきていた。
 どう見ても不吉としか言えない予兆であった。あと五秒早く正しい状況判断ができていれば、俺にはまた違った運命が訪れていたのであろう。
 下がれ、の一言が声になる前に、俺の足下は崩れ去った。天井が崩落することを予想していただけに、こういったパターンで災難に見舞われるとはと唖然としながら闇の中に吸い込まれていった。まさに成す術もなく、だ。深い洞窟の更に地下に、秘密の空間が隠されているとは誰が考えたりしただろうか。
「リットーーー!!」
 どんどんと遠ざかるサーシャの声を聞きながら、どうやら彼女は無事らしい、と安堵した。叫んでいるのが俺の名前だけだというところからすると、一番後方にいたレイチェルも難を逃れたということであろう。そして地面はまだかと祈る一方で、なかなか訪れないそれに、ひっそりと死の覚悟を抱き始める。
 なるほどこういう死に方になるのか、俺は──
 誰かに銃口を向けられた時よりも、不思議と落ち着いた心地でいた。どう足掻こうともどうにもならないという諦めの気持ちがそうさせていたのかもしれない。
 地面との衝突の瞬間は、よく憶えていない。気が付いた時には、見た憶えのないどこかの部屋の中にいた。


 黒の革張り、といういかにも高級そうな見栄えのソファに、俺は一人で腰掛けていた。座り心地も良かったところからすると、おそらく見かけ倒しではない本物の高級品であったのだろう。
 ローテーブルを挟んだ向かい側に対となるソファが一脚置かれていたが、そこは空席となっていた。
 俺は顔を上げて、部屋の中を見渡した。書類が積まれた事務机のようなものが部屋の中央に四つ、向き合う形で置かれており、あとはサイドボードやキャビネットといった収納関係の家具が室内の壁際を占拠していた。そのどれもがいかにも贅を凝らしたデザインで、王室や貴族辺りが好んで選びそうなものに見えた。
 それらの家具の配置や書類の束から勘案するに、この場所はどこかの金持ちの書斎、もしくは何かの事務所だろうという印象を俺に抱かせた。とすると俺が座っているこの場所は応接セットとして拵えられた一角と思われ、部屋の隅の壁際に位置するその場所からは、室内の様子が一望できた。
 俺は無遠慮に部屋の細部までをも観察しながら、この時になってようやく『ここはどこだ』という疑問に辿り着いた。サーシャは、レイチェルは、スパイクは──俺は何故一人でこんなところにいる?
 まずは記憶の整理から取りかかった。退避観測の途中で洞窟の崩落に巻き込まれたところまでは思い出した。しかしそこから先は、どんなに努力しようとも記憶の欠片を拾い上げることはできない。
 次に俺は、自分の両掌へと視線を転じた。どこも全くの無傷だった。服も肌もどこも汚れていないし、破れていない。出血している場所も痣もなければ、痛みを感じる部位もない。また、ここで俺は腰に提げていたはずの剣が鞘と革ベルトごとなくなっていることにも気が付いた。
「予想外に早くお目にかかれましたね」
 声は突然聞こえた。ぎくりとして顔を上げると、事務机の一つに一人の男が腰かけていた。いつの間に、と俺は目を瞬かせた。無人だったはずのこの部屋に、一体いつこの男は現れたのか。
「こんにちは、お久し振りです。お元気でしたでしょうか」
 事務机から腰を上げ、にこやかにこちらへと近付いてくるその眼鏡の男を、俺は怪訝な眼差しで迎え入れた。皺一つ見当たらない焦げ茶色のスーツは、やや童顔と呼べる彼の顔とあまりマッチしてはいなかった。また、俺は絶えず口元に微笑みを湛えるその男の顔に、全く見覚えがなかった。
「……? どちら様でしょうか」
 男は俺の向かいの席に音もなく腰掛けると、軽く会釈をするように目を細めた。「ですよね」と一人勝手に納得したように頷いたかと思うと、懐から一枚の名刺を取り出し、こちらへと差し出してきた。
「わたくし、こういう者です」
 受け取ってそこに目を落としてみた。『アベル・フォートナー』という名前の上に、聞いたことのない会社の名前が印字されていた。
「フェルトナール保険会社、ですか……」
 生命保険会社というと、ここ数年でバタバタと倒産が相次ぎ、もはや業界全体の存続が危ぶまれている斜陽産業の一つだ。何故ならどんなに沢山保険金をかけようと、いざ支払いの段になって受取人がこの世に存在している可能性は限りなくゼロに近く、また壊滅直後の荒廃した世界において、保険会社そのものがまともに機能した上で保険金支払い能力を有しているかと問われると、どんなに口が上手いセールスマンでも「大丈夫だ」と客を安心させ、納得させることはできないだろう。そんなわけで、『かけても意味がない』と顧客離れが加速し、解約に伴う返戻金の支払いなどで会社の経営が回らなくなるという破滅のパターンに陥っているのだ。
 とまれ、名刺の文言をそのまま信用するならば、ここはやはりその会社の事務所ということになろうか、という思考に至った。しかし何故自分がこのような場所にいるのかについては、依然として不明なままだ。
「あの、ここは……」
「どこ? と問いたいわけでしょう」 男が俺の言葉を横取りした。「私の事務所です。こちらに訪れてくださったお客様に、弊社の保険商品をお勧めしております」
「ちょ、ちょっと待ってください」 俺は慌てて顔の前で両手を振った。「俺……私は保険に入りにここに来たわけではありません。そもそも自分でも何故ここにいるのかよく分からなくて……」
「何故、ですって?」
 男がひょいと眉を上げた。彼は手に持っていた書類をテーブルの上に広げてから、ふむ、と鼻で一つ息をつき、指で顎を掻いた。
「憶えていらっしゃらないのですか。まあ、相当強く頭を打ったようですしね。その瞬間の記憶が飛んでいても不思議ではないのかもしれませんな」
「頭を? 打った?」
「ええ、そのようです」 男はにこりと笑い、テーブルの上から摘み上げた一枚の書類を目でなぞりながら続けた。「私の手元の死因報告書には以下のように書いてあります。『土竜の棲み処においての退避観測の最中、レイチェル・ヴォゼッグの行使した第四級魔術によって洞窟内の岩石及び岩盤が著しく損壊、結果足下の崩落に巻き込まれる形にて当人は地下に落下。頭部を激しく打ち付け死亡』……わあ、こりゃまた痛かったでしょうねえ、憶えてないようですが」
 俺は五秒ほど言葉の意味を咀嚼してから、「はい?」と訊き返した。発すべき言葉がそれ以外に見当たらなかった。
 死因報告書。その単語の意味は分かる。しかしそれは一体誰のものだというのだ。
「エリオット・ヴァイスディーンさん」
 男は改まった調子で俺の名前を呼ぶと、たった今読み上げた書類を俺の方へと差し出した。
「あなたの人生、どうやらここらでおしまいということになりそうですよ」
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