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騎士の述懐

 - 14 -


 その時俺が返した返事は、「はあ」という間の抜けた声であった。
 今自分が置かれている状況を、正確に理解できずにいた。保険会社の事務所というシチュエーションが、死後の世界として抱く一般的な印象と果てしなくかけ離れている点が俺の混乱を引き延ばしていたのだろう。天国でも地獄でもなく、保険会社。
 俺は、アベルなる男から渡された死因報告書に記載されている文言を舐めるように目で追い尽くした後、何ともいえない心持ちのまま顔を上げた。一瞬、これは夢か若しくは、何らかのイタズラを仕掛けられているのかもしれないとも考えてみた。しかし死因報告書に仔細に記された死亡までの経緯を読んでいるうち、自分の死という事実についての現実味の方が次第に勝るようになってきていた。
「死んだ、んですか……俺は」
 呆然と呟いたわりに、気持ちはそこそこ落ち着いていた。もう少し絶望するなりしたらどうかという声が、心のどこかから聞こえた気がした。
「残念ですが、まだ、死んだわけではないようです」
「まだ?」
 残念ですが、という前置きも引っかかるところだったが、眉を顰める俺に彼は小さく頷いた。
「ただまあ時間の問題ですとお話ししておきましょうか。これらの書類は暫定的に作られたものであり、まだ正式に発効したわけではありません。したがって貴方の今現在の状態を正確に表現するならば、『生死の狭間をさ迷っている』ということになりましょうか。とにかく頭を強く打ち過ぎた。即死していてもおかしくなかったはずです。このような状況でまだ持ちこたえているのは奇跡としか言いようがありません」
 ここで彼は眼鏡をくいと指で押し上げ、「まあ、まだ死ねませんよね、貴方は」と独りごちるように付け加えた。そして、再び真っ直ぐ俺の顔を見据えた。
「ですがね、このまま貴方があの場所へ戻らなければ、待っているのは『死』のみということになります。貴方は今ここで一つの道を選択し、決断する必要がある。あの場所へ戻って瓦礫の下から這いずり出るか、このままここに残って一人静かに死を迎えるか――」
 ここで彼は言葉を切り、朗らかな眼差しで俺の顔を見続けた。その顔はどこまで俺の理解が追い付いてきているのかを見定めようとしているかのようであり、同時にまた俺が今の彼の言葉を真実として受け入れているかどうかを確かめようとしているかのようでもあった。
「どちらを選ぶも、貴方の自由です」
 口を半開きにしたまま言葉を発しようとしない俺に、彼はにこりと笑ってそう締めくくった。
 選ぶも何も、答えなど決まっていた。
「――帰ります」
 俺は立ち上がり、部屋の出口へと向かおうとした。生きる死ぬがどうこうというより、とにかくこの胡散臭い男とわけの分からない状況から抜け出さねばというのが一番の目的であった。
 ところが、先ほど室内を観察していた際に見付けた扉は、どういうわけか大きな書棚によって塞がれてしまっていた。これまたいつの間に、と目を剥く俺に、男の感心するかのような声が向けられてきた。
「ほお、即決ですか。潔い。生きてたってなーんもいいことなんてないでしょうに、迷う余地なし、ですか?」
「生きる理由がないのと同じくらい、望んで死ぬ理由も見当たらないだけさ」 俺は座ったままの男を横目で見下ろし、「そんなことより、何だあれは。どうして扉が塞がっているんだ」
 彼は俺の疑問に取り合おうとはしなかった。
「どちらを選ぶも自由、と先ほど私は申し上げましたが、あの場所に戻ったって、激痛と意味不明な状況ととんでもない苦労が待っているだけです。それに、そのうちにフォービドゥンだって現れる。遅かれ早かれどうせ死ぬ。二度苦しい思いをするくらいなら、予定を前倒ししてここらで終わりにしておいてはいかがです。その方がきっと楽だ」
「いいんだ、余計なお世話だ。とにかく帰らせてくれ」
 首を振る俺に、男はやれやれといった調子でかぶりを振り、尋ねた。「そこまで頑なに戻りたいと仰るなんて、何か現世に未練でも?」
 未練。その二文字と自分とを繋ぎ合わせるものを何か探してみたのだが、「別に何も」という結論を男に返してやることしかできなかった。つまりは自分の人生とはその程度のものだったのだということを再認識し、それならやっぱりこのまま死んでしまっても良いのかもしれないという思いが初めて心の奥底に芽生えた。
「別に何も、ですか」 男は口元だけで笑った。「どうやら貴方は幸福のうちに死ねるようだ。それなのに不幸を背負いに戻りたいなどと、本当に理解に苦しむ」
「幸福に死ねる? 死ぬことに幸せも不幸もあるかよ」
 顔を歪める俺に、男はふふっと笑って返した。そして虚空を見やり、何かを懐かしむかのように目を細めて続けた。
「例えば、幼子を残して死なねばならない母親。呪い殺したいほど憎い相手から、逆に殺されてしまった少年。銀行強盗に成功し、莫大な金をどう使おうかと思案していたところに急病に倒れた悪党。それから……守りたいものを守りきれぬまま悲愴な最期を迎えた騎士――そういった方々は悲嘆のうちに自身の死を泣く泣く迎え入れた。現世に思いを残したまま、朽ちた屍と化していった。どうしてもあれをしたかった、これをしたかった、だが死んでしまったものはもうどうにもならない。それでも、どうしても、せめて最後に一つだけ……苦痛にも似た切実なる願いが、死してなお彼らの心を縛り続ける。これを『不幸な死』と呼ばずして何と呼びます?」
「誰にだって後悔の一つや二つあるものさ。大なり小なり、な」
 俺が言うと、男は「分かってないな」とばかりに肩を竦め、立てた人差し指を左右に振った。
「今、貴方に未練というものが何もないから、そんな澄ました態度でいられるんですよ。いいですか、断言しましょう。貴方がこのまま今の人生を続ける限り、必ずや後悔と絶望にまみれた最期が訪れる。涙に濡れた顔で何かを渇望しながらこの世を去らねばならない時が来る。そうしてまた流転するのです。決して終わることのない、絶望的な結末が用意されている新たな人生の舞台が、終わることなく、延々と、それこそ解けることのない『呪い』のように」
 馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない話であり、普通なら鼻で笑って一蹴してやれば済むものであったが、絶望的な最期を予言する男の笑みは自信と確信に満ち溢れ、無視できない不気味さを感じさせるものだった。
 知らず、ごくりと喉が鳴った。ソファの前に立ち尽くしたまま、俺の視線は男の眼鏡の向こうの深い茶色の瞳に吸い寄せられるがままでいた。
「──貴方は抜け出さなければなりません。この絶望の連鎖から。貴方自身のため、そしてこの世界のためにも」
「? 一体何の話だ」
「いいんです、貴方はまだ何も知らなくとも。それに、私がご説明差し上げようともおそらく貴方は信じない」
 彼は俺にソファに戻るよう手で促した。この部屋から去るつもりで腰を上げたのだが、出口が塞がれてしまっているのでは話にならない。仕方なく、俺は元の位置に腰を落ち着けた。
「私はね、エリオットさん……あなたを助けたいと思っているのですよ。かつて貴方が私を救ってくれたように」
「俺が、あなたを救った? いつ?」
 記憶の中を弄った。しかし助けた記憶はおろか、この男の顔を見た記憶さえ皆無だ。
 男は口元の笑みを深くした。
「貴方がそれを憶えていようといまいと、事実であることには相違ありません。とにかく、私は貴方を助けたい。ですから、考えたのです。どのようにすれば上手く貴方を救えるか、そしてこの歪んだ『秩序』を再構成し、元の通りの世界に戻すことができるのか、を」
 男はこちらの理解などお構いなしに喋ったかと思うと、再びスーツの内ポケットの中から何かを取り出した。今度は名刺のような小さな紙ではなく、事務紙サイズの厚紙を三つに折り畳んだ形状のものであった。
「私と、契約を結びましょう」
 男が言うと同時に、『保険証券』という表題が紙の表面に大きく印字されているのが目に入ってきた。反射的に不快感が胸の中に押し寄せた。会社にも色々な種類のセールスマンがやってくるが、保険の外交員ほど鬱陶しいものはないと経験上思い知っていたからだ。
「この話の流れで何で突然保険なんだ」 不快な思いは声と表情にも現れた。
「こういった形での契約が最も効果的だと踏んだからです」
「どういう理屈なのだか皆目見当がつかないが、とにかく保険ならいっぱい入っている。もうこれ以上必要ない」
 実際には保険など一つも入っていないわけだが、嘘も方便というやつだ。こういう時には、もう何べんと繰り返してきた断り文句が、半自動的に口から滑り出るようになってしまっている。
 男はゆるゆると首を横に動かした。
「この保険は、貴方が想像している保険とは少し性質が違うものです。死亡時に、誰に何を遺してもいい――物でも、想いでも、そして勿論金銭でも、あるいは呪いでも……貴方が望むがままのものを、貴方が望む相手に遺すことができる。おまけに一切の保険料は不要、私と契約をしていただけるだけで効力が生じます――どうです、悪い内容ではないでしょう?」
「何だそれ」
 俺は呆気にとられながらぽかんと口を開けた。そんな保険など聞いたことがない。被保険者が死亡した際などには、あらかじめ指定した受取人に保険金が支払われるのが普通だ。
「新手の詐欺か何かか?」 率直な感想が口を突いて出た。
「と、思いたくなる気持ちも分かりますが、ここはひとつ私を信じていただきたい」
「難しいにも程がある注文だと思わないか」
「ですよねぇ。それでも私は貴方にお願いをするしかない」 男は両手を胸の前で合わせ、「どうかこれこの通り」
 思いきり胡散臭い保険を臆面もなく勧奨された上に信じろと言われても、こちらの警戒心を余計に煽るだけであった。にもかかわらず、男は座ったままずいとこちらへと身を乗り出し、続けて信じられない台詞を吐いてきた。
「貴方から『契約する』の一言を引き出さない限り、私は貴方をこの部屋から出すことができません。これは一つの賭けであり、チャンスでもあるのです。あるいは、貴方を助け出すただ一つの方法になるのかもしれない」
「……強引な勧誘の次は、わけの分からない脅迫か」 頭が痛くなってきた。
「まあそう嫌そうな顔をしないで下さい。この保険を契約したからといって、別に貴方に何らかのデメリットがあるわけでもないのです。ただ契約の証として、この証書を机の引き出しの奥にでもしまっておいていただくだけでいい。簡単でしょう。あとは『その時』を待つだけですから」
「その時……」 というのは無論、自分が死んだ時のことを指しているのだろう。
「エリオットさん」
 この時初めて、これまで柔らかだった男の口調に幾分かの真剣味が加わったような気がした。そしておかしなことだが、今更になってようやくこの男が何故俺の名前を知っているのかという根本的な疑問が心の中に湧き上がった。
 男は身を乗り出した姿勢のまま膝の上で指を組み、ひたと俺の目を見据えて言った。眼鏡の縁がきらりと光ったように見えた。
「どうか想像してみてください。いずれフォービドゥンが現れ、世界の破滅と共に貴方という存在がこの世から消える時がくる。そうして死の淵に立った貴方は、最期に何を思うと思いますか」
「? いや、そんなこと突然訊かれても……」
「繰り返しになりますが、貴方は必ずや絶望のうちに生涯を終えることになる。そう、必ず、です。貴方が最期に願うことは、いつも同じ一つのことでしかなかった。そうして呪われた歴史は繰り返された。しかしもし仮に、その絶望を打ち消すための何らかの力を発動させることができる手段が存在するとしたら……」
 男の表情から笑みが消え、
「貴方はその契約書にサインをすると思いますか」
 語尾こそ疑問形だったものの、男の言葉には一つの断定的な結論が含められているようであった。
 俺は、男の質問に対する答えを頭の中で考えはしたが、『契約する』とは断じて声に出して言っていないし、心の中でそう結論付けたわけでもない。とにもかくにも、次の瞬間には目の前の男の顔が、突然ぐにゃりと横に歪んだ。驚く間もなく、視界に映る景色全体が大きく歪み、眩暈に似た感覚が俺の意識を別の場所へと連れ去ろうとしていた。
「ありがとうございます」
 男の声がどこかから聞こえたように思う。そしてこうも聞こえた気がする。
「またお会いするのを楽しみにしています」


 ぐるぐると渦を巻きながら闇に飲み込まれていく感覚とでも言うべきか。それは、コーヒーに入れたミルクがカップの中で攪拌される様子に例えられる。
 ソファに座っていたはずが、いつの間にかうつ伏せの姿勢で倒れていることに気付くまでどれほどの時間を要したのだろう。側頭部の激しい疼痛よりも、何者かに頬を舐められているかのような感覚の方が俺には不快で、顔をしかめながら瞼を開いた。
 俺の頬に寄り添うようにして蠢いていたのは、誰かの舌ではなく一体の小さなハイドロだった。やけに息苦しいなと思ったところで、自分が瓦礫の下敷きになっているという現状をようやく認識した。思いきり肺に空気を送り届けたい一心で瓦礫の下から這いずり出て、よろめきながらも立ち上がり、念願の深呼吸を果たす。埃っぽい空気に空咳が出た。
 そこは、薄暗い、石造りの壁の広い廊下のような場所だった。岩肌が剥き出しの土竜の棲み処と違い、明らかに人の手が加えられた建造物の中にいることは分かった。窓も光源も見当たらない通路にいるにもかかわらず視界を確保できるということは、ここの壁の石も発光石ということになるのだろう。前方には下へと続く階段が、そして振り向いた後方には、高く積み上がった瓦礫の山が通路を遮断していた。洞窟の床の崩落に巻き込まれてこの場所に落ちてきたというのなら、これだけの岩と一緒に落下しながら側頭部の強打だけで済んだことは、奇跡というよりも不可解という感覚が先に立つ。どこかを挫いているわけでもない、更に出血も見られない。瓦礫に埋もれながらもこんなに上手い具合に軽傷で済むという幸運があるのだろうか。
 とにかくここでこうして突っ立っていても何の解決にもならない。現在地を把握することも重要だが、それより出口を探さなければ。
 ひとまず俺は歩ける方向――つまり通路の先へと向かってゆっくりと歩き始めた。間もなく辿り着いた階段を下りながら、あれは夢だったのだろうかと考えた。無論、あの男――アベルとの諸々のやりとりのことだ。洞窟から地下に落下した結果として今この場所にいるのだとすれば、その中間にあの部屋での時間が実際に存在していたのだとは考えにくい。男が発する話の内容も支離滅裂かつ意味不明なものであったし、やはり頭を打った影響か何かでわけの分からない夢を見ていたのだとするのが最も納得のいく結論だった。
 階段を下りきると、途端に通路の幅が狭くなった。横に広げた両手がちょうど壁につきそうな分だけの広さしかない。このまま進んだ先に何があるのか、そもそもこの場所が何なのかも全く見当がつかないまま、とにかく地上に戻るという目的だけを持って歩き続けた。殺風景な景色に突然変化が生じたのは、再び前方に下り階段が見え始めた時だった。
 いつぞや大聖堂の中で見た螺旋階段よりもやや大きめのカーブを描き、また比較的なだらかな段差でそれは続いていた。そして右手の壁に何か大きな額縁のようなものが掛けられ、その脇には一本の剣、というより大きさからして騎士剣と呼べるようなものが添えられるような形で壁に固定されているのが見えた。
 何だろう、と思いながらその場所へと近付いていった。やがて額縁の前まで達した俺は、立ち止まってしげしげとそれを眺めた。
 額縁には、一人の人物の肖像画が収められていた。鼻の下に髭を蓄えたその男が誰であるのかは不明だったが、描かれている人物の服装や雰囲気、そして額縁の下に埋め込まれたプレートに刻まれた文字と数字から、相当古い年代の騎士団の人間を描写したものであろうと推測することができた。下り階段を進むにつれて、また同じような、ただしそれぞれ別の人物を描いた肖像画と剣とが等間隔で壁に飾られており、どうやら先に進むにつれて新しい年代のものを飾っていく方式をとっている様子であることが伺えた。
「凄いな……」 思わず独り言がこぼれ出た。「美術館の地下か何かなのか? ここは」
 何にしても、相当な深さだ。地下空間を作るのには、それなりの技術と時間を要する。その上にこの深度、そして大量の発光石となれば、工期も工事費も莫大なものとなることが予想される。
 アルバド近辺の美術館といえばどこだろうと考え、マルガロ地区という場所に有名な建物が一つ存在するのを思い出したが、土竜の棲み処からは場所が離れ過ぎていることにも同時に気が付いた。歩いて行けるような距離かというと、考えるまでもなく答えは否、だ。
 それにしても、画家という人間の持つ技術には改めて舌を巻く思いだった。睫毛の一本一本まで描いた緻密な描写は写真と見紛うほどの出来栄えで、目の前のしかつめらしい顔をした騎士は、今にも瞬きをして不敵な笑みを寄越してきそうな生々しさだった。これらは基本的に、肖像画と剣とがワンセットになって飾られているようであったのだが、時にはそのどちらかが欠けているようなものもあった。主を失った剣、剣を失った騎士――そうしたものには何らかの悲しい逸話が存在するのだろうと想像し、どことなくしんみりした風が心の中を吹き抜けた。
 そして―――問題の肖像画も、そうしたものの一つであった。
 それは、剣を失った騎士というパターンであった。要は肖像画しか飾られていなかったというわけなのだが、その額縁の前に至った瞬間、俺は目を剥いて足を止めた。
 そこにだけ鏡が掛かっているのかと思ったほどだった。しかしそこにいた人物は、明らかに騎士と分かる制服を着ていたし、よく見れば俺には欠片ほども備わっていない貫禄というものが引き締まった表情から滲み出ていた。
 それでも、それらを差し引いたとしても、これは――
「誰だ、これ……」
 あまりに似ている。いや、似ているどころではない。瓜二つだ。気持ち悪いくらいに。錆びた金属だと言われた髪色も、夜の一歩手前の空に似た色だと誰かが言っていた蒼い目も、親からもらったこの顔も、紙の上に描かれた男が全く同じものを持っている。
 心臓の鼓動が速まるのを感じながら、おそるおそる額縁の下のプレートに目を向けた。そこにある文字を見て、俺は頭が混乱するのを止めることができなかった。
 『ディルク・ナルディス』――勇者殺害を企てている男の名が、そこにあったのだ。
「……どういうことだ……」
 呆然と呟かずにはいられなかった。プレートの名前の下には、その人物の生年及び没年が一緒に刻まれているようであったのだが、それを見る限りとうの昔、いや大昔、それも何千年と前にとっくに死んでいるはずの人間であることが読み取れた。
 百歩譲って名前の一致は偶然の産物であったとする。しかしこの顔はどうだ。世界には自分と同じ顔の人間が三人存在するというが、これもその括りに当てはめてしまって良いものなのか。若しくは偶然にも、この人物は自分の遠い遠い祖先だとでもいうのか。
 しばらく額縁の中の騎士と見つめ合い、故人の顔と自分の顔、そしてこの時代に実在する騎士の名前とが一致する理由を模索していたのだが、考えたからといって分かるものではないし、合理的な説明ができないこの状況がとにかく薄気味悪くて仕方がなかった。
 俺はゆっくりとその肖像画の前を離れ、階段を下っていく作業を再開させた。そしてこれまで以上に注意深く壁の肖像画を眺めていったのだが、問題の絵以外に驚きに値するようなものは見当たらなかった。
 延々と続いた螺旋階段は、行き止まりという形をもって突然の終了を迎える。目の前に立ちふさがる壁は整備されたものではなく、ごつごつとした岩が自然の形で晒されており、真横の壁には五年前に没したとされる禿頭の騎士の肖像画と剣が飾られていた。
 俺は行く手を阻む岩肌に手をつき、下を向いて溜め息をついた。そしてその場でがっくりとへたり込んだ。ここまで通ってきた道に、扉や脇道といったものは一切見当たらなかった。スタート地点の背後は瓦礫によって塞がれてしまっているし、とても一人で撤去できるような量ではない。つまりは俺はこの場所に閉じ込められてしまったということになる。
 この状況を打破できなければ、待っているのは餓死ということになろうか。不吉な末路が脳裏に浮かび、たちまち胸の中に暗い雲が立ち込めた。水と食糧を渇望しながら、絶望のうちに死んでいく──やはりあの男の予言は当たっていたのかと思いながらも、例えば落下地点まで戻り、瓦礫の向こうへ大声で助けを求めたらどうかと一縷の望みを抱いてもいた。あの向こうには誰か人がいるかもしれない。通路が塞がれてしまったことに誰かが気付き、瓦礫の撤去作業に取り掛かってくれるかもしれない。
 極めて都合の良い希望としか言えなかったが、この状況下で縋れるものといえばそれしかなく、のろのろと重い腰を持ち上げた俺は、下ってきたばかりの階段を今度はゆっくりと上り始めた。またあの肖像画の前を通らなければならないと思うと若干憂鬱ではあったが、再びその場所に辿り着いた時、額縁の中から呼び止めるようにして向かってくるそいつの視線を無視して素通りすることなどできなかった。
 まるで「止まれ」と命令されたかのような心地になりながら、俺は件の肖像画の前で足を止めた。そしてもう一度、自分と同じ顔をした『ディルク・ナルディス』と対峙した。
 最初に見た時の衝撃が幾分和らいだ状態でそれを眺めると、妙な言い方だが、本当に絵に描いたような騎士といった男だなという印象を俺に抱かせた。全く同じ顔ではあるのだが、俺が真面目くさった顔を作ったところで、絵の中の男の決意に満ちた表情は到底再現できないだろう。画家による多少の補正が加えられているのだとしても、やはり騎士という立場や経験といったものは、雰囲気として顔付きに現れるものなのかもしれない。そんなことを考えていた時だ。
 突然、それはやってきた。心に直接何者かが話しかけてくるかのような、奇妙な感覚が俺に訪れた。
「えっ……」
 俺はきょろきょろと前後左右を見回した。誰もいない。しかし今、間違いなく自分以外の第三者からの呼びかけのようなものがあった。
 実際に声が聞こえていたわけではないので、発信者が誰なのかもどういった経路でそれが伝わってきたのかもいまだ全くもって不明だ。しかし、そいつが俺に言わんとしていることだけは何故かはっきりとその場で認識できた。
 「望め」、と。ただそれだけの単純な意思が、言葉を介さず、俺の心なり頭の中なりに直接流れ込んできたのである。
「……は?」
 俺は面食らった。しかし状況を呑み込めない頭とは裏腹に、自分の右手だけは全てを理解したかのようにひとりでに前へと動き出していた。
「!? な……」
 自分の意思とは無関係に動く右手に、言葉を失う。それが他人のもののように思えてきて、俺は何とも言い難い気味悪いさに背筋を凍らせた。やがて真っ直ぐに前に突き出された右手は、俺の拒絶の心に反してディルクの肖像画にその指先を触れさせようとしていた。
「や、やめろ……っ」
 無様な怯え声と共に後退を試みようとも、両足が言うことを聞かない。見えない力に動かされるがままに、俺の指先はディルクのこめかみの辺りに触れ―――
 その瞬間、俺の視界の全ては眩い光に包まれた。
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