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騎士の述懐

 - 15 -


 猛烈な光量が俺の両目を襲った。網膜が焼けるのではないかと思うほどの光の濁流を受け、俺は顔の前で腕を交差させてただただ眩しさを耐えることしかできなかった。
 やがて、濃い霧が晴れるようにして固く瞑った瞼の内側に闇が戻ってきた。ゆっくりと腕を下ろしながら、まずは片目だけを薄っすら開けて状況を確かめようとした。保険屋の事務所、謎の地下廊下ときて、次は一体どんなシチュエーションが俺を待ち構えているのか。いっそまた『気が付いたら自宅のベッドの上でした』、という状況になればいいのにと望んだが、そう都合の良い展開が何度も訪れるはずもなく。
 しかしそれでも、一応見知った場所に戻ってこれただけありがたかったと言えよう。薄く開いた片目が捉えた景色に、俺はすぐさまもう片方の目をも開いた。目の前には、大蛇が口を開けたような形の穴――つまり土竜の棲み処の入口が存在していたのである。
「戻って……きた、のか……?」
 誰に向けたわけでもない問いかけは、やはり誰からの答えも得られぬまま周囲の森に霧散した。サーシャらと最初にここに到着した時に比べれば、随分と薄暗さが勝るようになってしまったところを見ると、あれから結構な時間が経過したということになるのだろうか。はっとして見た腕時計の短針は、四と五の中間辺りでちびちびと時を刻んでいた。
 俺は改めて辺りを見回した。待機している筈の馬車はそこにはなく、サーシャが洞窟の入口脇の棒に引っ掛けた、退避観測用のフック付きロープも消えている。この二点から言えることは、彼女らは既にこの場所を引き揚げたということだ。
「……とりあえず」 後頭部を掻きながら、呟いた。「帰るか……俺も」
 そう決めたはいいが、そこからがまさに『とんでもない苦労』の始まりだった。視界が確保できるうちにと足早に下山し続けたものの、当然日が沈むスピードには勝てず、あっという間に前後左右が闇、という状況に追い込まれた。野宿という選択肢は、野獣が出没するというこの山の条件上即却下だ。すぐに下山せず、土竜の棲み処で一晩明かしてから出発すれば良かったかとも後悔したが、あそことて夜間は獣の寝床になっている可能性だってあるのだ。安全とは言い切れない。
 月明りも届かない森の中、暗闇に目が慣れるのを待ってから、馬車一台がようやく通れるほどの山道を外れないよう今度は慎重に歩みを進め、歩いて、歩いて、歩き続けた。そうしてやっとこ行く手に人家が見え始めたという頃には、既に空が白み始めていた。
 何時間歩いたか分からない。足は棒になっていたし、喉は水を欲していたし、胃は食べ物を必要としていた。色々と極限状態にまで追い詰められていた俺の脳裏に、あの男──アベルの言葉が蘇る。
 あの場所に戻ったって、激痛と意味不明な状況ととんでもない苦労が待っているだけ──


 虫の息になりながら会社の扉を開けた俺の姿を見て、室内にいた全員がまず一瞬動きを止めた。その後には驚き声や歓声といったものが各所で上がり、最後には一際大きい泣き声じみたものが猛烈な勢いで近付いてきた。
「エ……エリオットおぉ! 良かった、無事だったんだぁ!」
 獲物に飛びかかる猛獣のごとき動きで抱き付いてきたレイチェルの向こうから、唖然とした表情を真顔に作り替えたサーシャが近付いてくるのが見えた。
「生きてたのね。良かった」 やはり安堵など微塵も匂わせない声で彼女は言った。「死体回収と葬式の手間が省けて」
「どうも……」
 気の利いた返しをする気力もなく、俺はふらふらと部屋の隅の応接コーナーに歩み寄り、そのまま長椅子に倒れ込んだ。安物の硬いソファが、この時ばかりは極上の寝心地に感じられた。身体が命じるがままに目を閉じる俺に、サーシャの鬼のような一言が降りかかってくる。
「何勝手に寝ようとしてんの。今は勤務時間よ。出社してきたからには働きなさい」
「……三時間……いや二時間でいい、その分残業しますから、お願いですから少し休ませてもらえませんか……」
 嘆息が一つ聞こえた。衣擦れの音は腕組みでもしたのだろう。
「却下よ。阿呆な寝顔を晒す前にまず報告をなさい。あの後あんたがどうなってどうしたのか」
 声を発するだけでも拷問のような辛さを感じていたのだが、俺は長椅子の上でごろりと仰向けに体勢を変えてから、目を瞑ったままぽつりぽつりとこれまでの経緯を話し始めた。無論、アベルという名の男との意味不明なやりとりについてはごっそりと割愛し、気が付いたら謎の地下廊下で瓦礫に埋もれていたという説明からだ。ただでさえ底を突きそうなエネルギーを消費して、夢の内容まで事細かに話す必要はない。
 サーシャは応接コーナーのローテーブルに足を組んで腰掛け、俺の話に相槌を打つでもなく無言で耳を傾けていた。俺と全く同じ顔の騎士の肖像画を見付けたくだりでは、「はぁ?」と可笑しそうな、小馬鹿にしたような声をあげ、そしてその肖像画に触れた直後、何故か土竜の棲み処の入口に舞い戻っていたと説明した時には、「はぁ?」と胡散臭げな声を発した。
「何それ、ワープしたってわけ? あんたと同じ顔をしたその絵に触れて。どうしてそんな都合の良いことが起きるのよ」
 俺が知るかよ、の意を込めて、俺は黙って首を横に数回振った。
「魔術的な何か、なんじゃないの?それって」 すぐ近くでレイチェルの声。「あたしの魔術書にはそういう術式は載っていないけど、ひょっとするともっともっと大昔には、瞬間的に場所を移動できる術があったのかもしれない」
「原理を説明できない事象は全て魔術ってことで片付けようとしてるでしょ、あんたは」
「そういうわけじゃないけどぉ〜……」 頬を膨らませているレイチェルの顔を俺は想像した。「でも、その絵がいっぱい飾ってあった場所って何なんだろうね。エリオットと同じ顔の絵っていうのは多分偶然っていうか、たまたま似た顔をした騎士がいたって話なんだろうけど……」
「そもそもの話ね、あの退避地点でさえ相当の深さなのよ。なのにその更に地下に人工的な地下通路があるだなんて、到底信じ難いし現実的とは思えないわ。頭を強く打ったせいで夢か幻を見てたってオチなんじゃないの、結局は」
「でも、それならエリオットはどうやって洞窟の入口まで戻ってきたの?」
「知らないわよそんなの。救助隊が穴の底から拾って洞窟の入口に捨てて行ったんじゃないの」
 適当なことを言いやがって、と思いながら俺は二人の会話を聞いていた。途中、レイチェルが例の騎士の肖像画に触れたところでは反論しようかと口を開きかけたが、結局だるさに負けて溜め息を吐いておくにとどめた。
 あの絵を見ていないから、彼女は『偶然』などという言葉で切り捨てることができるのだ。随所随所の陰影まで丁寧に描写したあの絵を他人の空似などと片付けられてはたまらない。俺がいる、とどれだけ戦慄を覚えたことか。
 そんな風に思いながらも、一通り話し終えて報告義務を果たしたことで、俺の身体と意識は急速に眠りの態勢へと傾いていった。
「エリオット? おーい」
 とレイチェルに呼ばれた時には、呼吸が寝息へと完全に移行しつつあった。
「寝ちゃった」 何故か残念そうにレイチェルが呟いた。そして今度はしみじみと言う。「……寝顔、可愛い」
「嘘、冗談でしょ、馬鹿言ってんじゃないわよ。この阿呆面のどこにそんな要素を感じ取れるってわけ」 辛辣過ぎるサーシャの返しも聞こえた。
「ね、ね、社長さん、撮影機貸してよ。元の時代に帰る時にお土産にエリオットの写真持って帰りたい」
「却下。貴重なフィルムを無駄遣いしないでちょうだい」
「えぇえ〜、いいじゃんケチ」
 寝顔を撮影されるなど何のバツゲームだと思いながら深く息を吐き出した俺は、そのまま夢の世界へと旅立っていった。
 そう、また夢を見たのだ。アベルとの契約云々のあれほどではないにしても、やはりどういう状況なのかがサッパリ呑み込めない不可解な夢を。
 もっとも、夢とは本来何の意味も秩序も整合性もないものなのであるから、さほど気にすべきものではないのかもしれない。しかしそれでも目覚めた時の気分は決して良いとは言い難いものだった。その夢の中で俺は地面に尻をつき、目の前に立っている自分自身に剣の切っ先を突き付けられていた。
 気持ち悪いほどはっきりと憶えている。俺を見下ろす、というよりまさに見下すような眼差しをした目の前の俺。そいつは侮蔑や失望、嘲りといった種の感情を湛えた冷笑を浮かべていた。自分がここまで悪意に満ちた表情を作ることができるのかと軽い驚きすら覚えたほどだった。
「この腰抜けめが」――それが目の前の俺の第一声だ。フラットエッジの刀身がぎらりと光った。息を呑む俺に、本当に自分なのかと思うほどの冷えた声が降りかかった。
「人一人ろくに救うことができない、その上正義を貫くこともできない。そんな腑抜けた男が騎士? 片腹痛い。お前が持つべき剣は騎士剣なんかじゃない。せいぜい薄汚い剣を振るって人の不幸を小金に換えるこの仕事がおあつらえ向きってもんさ。なあ、エリオット・ヴァイスディーン」
 自分の姿をした人間に自分の名前を呼ばれるというのも不思議な感覚だった。何故このような夢を見たのかと後になって考えたが、例の地下廊下で自分と同じ顔をした騎士の肖像画を見たことが影響していたのだろうとその時は考えた。
「諦めろ。お前の望みは未来永劫叶わない」
 目の前の俺は、徹底して蔑んだ目を俺に向けてきていた。しかしどういうわけか、次の瞬間そいつの目の中に微かな悲しみの色が混じり込んだように見えた。
「俺が俺である限り、どう足掻こうとも抜け出せないんだ。どうやっても終わらない。ずっと続く。いつまでも、消えてなくなることもできずに、大勢の人間を巻き込みながら、俺は……」
 エリオット! と自分を呼ぶ声が、そいつの言葉の先を奪う。俺はぱっと目を開けた。心配そうな顔で上から俺を覗き込んでいるレイチェルと目が合った。
「大丈夫?」 彼女は言った。何のことかと目を瞬かせると、気まずそうな顔と声で一言、「泣いてる」
 そこで初めて自分の両目から涙が流れていることに気が付いた。「どうしたの? 何か悲しい夢でも見た?」と問うてくるレイチェルの声を耳に入れながら、むっくりと長椅子から身体を起こした。首や肩の辺りが結構な具合で凝り固まっていて、とても不快だった。
 シャツの袖で涙を拭いながら、俺はまず彼女に訊ねた。「皆は?」
 その時、事務室の中には俺とレイチェルの姿しかなかった。窓からはオレンジ色の夕陽が差し込み、小窓から吹き込んでくる風が近くの机に置いてある本のページを不規則に捲っていた。
「何か、どこかの学校で爆発騒ぎがあったとかいう情報がちょっと前に入ってきて、残ってた人全員出かけてっちゃった」 レイチェルはまだ気遣わしげな表情を崩そうとはしなかった。「あと、社長さんから伝言。今日の七時間分の休憩は、後日三日くらいに分けて残業として請求するからそのつもりで、だって」
「七時間……」 俺は左手で頭を抱えて嘆息した。ほんのちょっと仮眠を取る程度のつもりで目を閉じたのに。
「誰か適当に起こしてくれれば良かったのに」
「起こそうとしてたよ、あのおじさんが」
「ジュアンか。いい加減名前で呼んでやったらどうだ」
「でもね、社長さんが止めてたの。寝かせておいてやりなよって。その毛布をかけてくれたのも社長さん」
 言われてみれば、腹の辺りに薄っぺらい毛布がくしゃくしゃになって縮こまっていた。身体を起こした拍子にこうなったのだろう。あの人も優しいところがあるのだな、と捉えるよりは、風邪でもひいて長く休まれては敵わないとの意図の表れだとしか思えなかった。
 じっと観察するような視線を感じて顔を上げた。彼女は俺が泣いていた理由を知りたがっていたのだろうが、自分としても全く心当たりがなく、説明のしようがなかった。何とも居心地の悪い気分を誤魔化すように耳の後ろを掻き、何か話題をと頭の中を探った。
「そうだ、肝心の退避観測はきちんと終わったのか。数値の計測はできてるんだよな」
「うん、大丈夫だって。計測自体はエリオットが落っこちる前に済んでたから……あとは無事に戻ってくるだけだったんだけど」 レイチェルは俯き、上目遣いで俺を見た。「ごめんね。あたしはエリオットを放って帰るなんてやだったんだけど、社長さんが『一度戻ってちゃんとした助けを呼んだ方がいい』って言うから……。あたし達が戻って来てすぐ、警察の人とか騎士さんが救助に向かったって聞いたんだけど、どこかで会わなかった?」
「いや、会わなかったな」 ひょっとすると洞窟の奥にはいたのかもしれないと思ったが、外に馬車も馬もなかったところを見ると、やはりその可能性はなさそうだと思い直した。諦めて引き返した後か、到着前だったのかもしれない。
「別にいいんだ、俺のことなんか放っておいてくれても。気にする必要はないさ、全然」
 これは強がりでも何でもなく、本心から出た一言だった。しかしレイチェルにはそうとは受け取ってもらえなかったようだった。「ホントにごめんね」と、彼女らしからぬしおらしい様子でしゅんと項垂れてしまわれては、そわそわしながら必死に空気を変える言葉を探すことしかできなかった。
 やがて俺は、苦し紛れに陳腐な話題を引っ張り出した。
「……腹減らないか」
 腹が減ってるのは俺だろ、馬鹿が、と心の中で自分を罵倒したものの、思いの外彼女の食いつきは良かった。「うん」と相槌を打ってこちらを向いた目は爛々とした輝きを取り戻しており、満面の笑み、と評しても良い表情へと切り替わっていた。
「そういえばエリオット、言ってたよね。洞窟の中で、頑張って進めば美味しいご飯をしこたまご馳走してくれるって」
「え? 嘘だろ、俺そんなこと……」
「言ってた。言ってたよ、絶対に。憶えてるもん」 レイチェルは腰に両手をあててジト目を作り、「それとも何? あれは急場凌ぎの適当な口実だったとでも言うつもり?」
「いや、そんなことは……」
「はーい決定! 今日の夕食はエリオットの驕り〜ってことで善は急げ急げ、さあさあ!」
「ちょ、待……分かった、分かったから服を引っ張るな、袖が伸びる!」
 ああ、そういえばそんなことを言ったか、と思い出したのは、スキップしながら会社を出たレイチェルの後ろ姿について大通りを歩き出した時である。


 瓦礫の下からの脱出、そして徒歩での下山を経て会社に戻るまで一回もシャワーを浴びていなかったので、せめて一っ風呂浴びてから外出させてくれとレイチェルに頼み、汗や埃を流してから腹ごしらえに出かけた。
 何が食べたいかと彼女に問えば、「美味しいものなら何でもいい」という助かるような困るような抽象的なリクエストが返ってきた。そういえばかつて恋人というものがいた際にもこのように悩んだ場面が幾度かあったことを思い出した。
「どこに連れてってくれるの?」
 カフェ? 海沿いのレストラン? 地下の隠れ家的なバー? と期待の眼差しが容赦なく横から突き刺さってくるのを感じながらも、俺は前を向いたまま素っ気なく答えた。「少し先の大衆食堂だ」
 途端にブーイングの声が上がった。
「えぇえ〜? それってワンコイン定食とかパスタ大盛無料とか安くて美味い! が売り文句だったりするお店ってこと? 酒飲みのおっちゃんとかが好んで行きそうな?」
「良く分かってるじゃないか」 そしてそれの何がいけないのだと横を向いて目で問う。
 レイチェルは傍目に分かるほど大袈裟に、がっくりと肩を落とした。ついでに大きな溜め息。「楽しみにしてたのに……」
「大丈夫だよ、味は保証する。俺らもよく行く店だし、品数も豊富だ。ハンバーグもオムライスもピザもエビフライもアイスもケーキもプリンもちゃんとあるし、好きなだけ食っていい、約束だからな。あ、でも腹は壊すなよ」
「そうじゃなくて」 とレイチェルは横目で俺を睨んできた。「エリオット、あたしのこと完全に子供だと思ってるでしょ」
 子供じゃないか、と反射的に返しそうになって、何とか喉元で止めた。言わない方が身のためだ、ということが判断できるようになったのは、大人になった俺が身につけた数少ないスキルの一つだった。
 俺達が向かった先は、『スピカ』という名のレストランというよりはまさに食堂と呼べる場所だ。会社を出て一〇分ほど大通りを進んだ先にあり、俺も普段から会社仲間とよく食べに、あるいは飲みに行く。星の名前を意味した店名からは想像もできないような髭もじゃの筋骨隆々とした男が営んでいる店で、料理の腕は間違いなく折り紙付き、加えて貧乏な庶民の味方の価格設定ときているから、平日・休日を問わずにそこはいつも客でごった返しているのだ。
 その日も店の扉を開けた途端、大勢の客の声と料理の匂いが俺達を迎え入れた。「あらエリオット、いらっしゃい」と顔馴染みのウェイトレスが両手に盆を載せたまま白い歯を見せて笑顔を向けてきた。直後、「あら」と目を丸くする。
「初めて見る顔ね。彼女?」
「まさか」 と一笑に付したのはレイチェルである。「こーんな小娘が彼女なわけないじゃん。ねー? エリオット」
「いい加減機嫌を直してくれよ……」
 テーブルの数はそこそこ多い店なのだが、いかんせん人気店ということで空いている席は二つ三つあるかどうかといったところだった。その数少ない空席にしても、前の客の食器がまだ片付いていないという理由で、俺達は店の入口のすぐ真横の席につくよう案内された。
「えぇっとお、まずチーズハンバーグでしょ、トマトパスタとカニのドリア、それから野菜も食べなきゃだからペール貝のサラダとバロ芋のスープと紫蛸のカルパッチョと、デザートは……」
「いやいや、食べ過ぎだろ。食えねえよそんなに」
「何言ってるの? こんなの朝飯前なんだけど」 彼女は再びメニューに顔を戻し、「あとパンプキンパフェとマロンパンケーキと……」
「嘘だろ……」
 呪文のようにメニュー表の中の料理名を羅列していくレイチェルにぞっとしながら、俺は運ばれてきた水に口をつけた。それから何ともなしに店の中を見回した。荒んだ世にあっても美味しい料理は人に幸福を運ぶのか、どのテーブルの客達も朗らかに談笑していた。奥のカウンター席に視線を移すと、身なりからして若い男女と思しき二組のアベック客の背中が見える。右端のスツールに腰掛けている黒いロングヘアの女が、すぐ横にぴったりと詰めて座っている男の口にスプーンで何かの料理を運んでいる様を見て、羨ましいというより尊敬の念を抱いた。俺には恥ずかしくて到底あんな真似はできない。
「お待ちどうさま。何にする?」
 先ほどのウェイトレスが注文を取りに来た。再びレイチェルが呪文を唱え始めるのを呆れた眼差しで眺めていたところ、どういった拍子か突如俺の目が別の人物の姿を捉えた。あっと声を上げそうになった。
 物凄い偶然だった。あれだけ大勢の客がひしめく中、たった一人の人間に焦点があったのだ。それも――
「……彼女だ……」
 間違いない、という以前に忘れるはずもない。エイプリルの靴を埋めに行った先の海岸で出会った騎士見習い。彼女がいたのだ。トランダイトに願いをかけ、星花に目を輝かせ、俺に何かを伝えようとしていた彼女――
 無事だったのか。しかしまさかこんなところで。彼女がアルバド城の騎士である以上、同じ街のどこかでいつか偶然出会うという可能性は十分にありえたが、それにしてもこんなにも早くその機会が訪れようとは。予期せぬ邂逅に瞬きを忘れ、声を失う。
 周囲の温かな雰囲気にそぐわない不機嫌そうな横顔が、ここから幾つものテーブルと人とを隔てた遠くの壁際を歩いていくのをただただ目で追った。彼女が向かって行く方向から見て、手洗いに立ったような様子だった。
「で、あんたは?」
 ようやくレイチェルの呪文を聞き取り終えたウェイトレスが、ペンと伝票を構え俺に声をかけてきた。俺は安い日替わり定食を注文し、再び目を手洗いに繋がる通路の辺りに固定させた。
 一刻も早く彼女をとっ捕まえ、あの後――星花の群生地で俺が気絶した後の経緯を聞き出したかった。勿論、俺に薬品を嗅がせた人物が誰であったのかも、だ。何か乱暴なことはされなかったか、怪我はなかったか――
 程なくして通路の奥から彼女が姿を見せた。俺は席を立ちかけて、一センチほど椅子から浮かせた尻を再び元に戻した。「ねえ、あれ、おじさんじゃない?」というレイチェルの声が、俺の動きを制止したのだ。
「ほら、あの、カウンターの一番左に座ってる人」 言いながらレイチェルがそちらの方へと人差し指を向けた。釣られて見ると、確かにくたびれた黒のコートに身を包んだ男の横顔はジュアンだった。食事の時くらい上着は脱げよと思ったが、この局面でジュアンが同じ店で飯を食っていようがどうでもいい。今用があるのは彼女だ。
 しかしその数秒後、無視できない事態が起こった。
「え、まさかあの人おじさんの彼女?」
 レイチェルのその台詞を、俺は唖然としながら聞いた。手洗いから戻ってきた彼女は、当然のようにジュアンの隣の椅子に腰を下ろしたのだ。視界の片隅では先ほどのアベックが仲睦まじく同じグラスのジュースを二本のストローで飲んでいたが、ジュアンの隣に戻ってきた彼女は両手で頬杖をつき、何やら説得を試みているかのようなジュアンの語りかけには一切の反応を見せず、じっとこちらに背を向けたまま動かなかった。
「……おじさん、あれナンパしてるの?」
 そのように見えなくもなかった。しかしもしナンパから逃げたいのなら、しつこく口説いてくる男の真横に律儀に戻ってきたりはしないはずだ。根気強く話しかけるジュアンに彼女がようやく横を向いて何か言葉を返したのが見えたが、その顔は嫌悪というより不貞腐れているといった気配が強かった。ヘソを曲げた彼女、そして彼女の機嫌を取り戻そうと、あれこれ言葉を尽くしている彼氏――そういう表現がぴったりくる。何にせよ、二人の間に漂う空気は他人同士のものとは思えなかった。ある程度親しい間柄であることが、彼女らのちょっとした表情や仕草から垣間見ることができたし、その点はレイチェルも同様であるらしかった。
「綺麗な人」 感心したようにレイチェルが言った。「おじさんったら結構やるじゃん。普段はぐうたらの怠け者のくせに、ちゃっかり美人な彼女さんはべらせちゃってさ」
「恋人同士と決まったわけじゃないだろう」 俺は即座に反論していた。大人げなくも若干むきになってしまった。「友達かもしれないし、親戚なのかもしれない……まあ兄妹ってことはないだろうけどさ」
 その後も何事かを話しかけてくるレイチェルに適当に返事を返しながら、暫くそのまま二人の様子を窺っていた。やがてテーブルの上に料理が運ばれてきたが、味など全く伝わってこなかった。ジュアンのことなど放っておいて彼女に話しかけに行けばいい――頭ではそう分かっていても、どうにもそれを実行に移す気が湧いてこない。彼らの元に行き、お互いを彼氏、彼女だと紹介された時、自分がどんな気持ちになるのかをぼんやりと認識していたからだ。嫉妬というものも勿論あったが、それ以上にろくに働きもしない給料泥棒が彼女の唯一の相手として認められたことが理不尽に思えて仕方がなかった。また、悔しくもあった。明日、俺はどういう顔をしてジュアンに会えばいいのか。
「あ、帰るみたい。こっちに来る」
 口の周りをケチャップだらけにしたレイチェルが、居住まいを正した。席で勘定を済ませたジュアンが、隣に彼女を引き連れてこちらへと歩いてくるところだった。
 俺は口に運ぼうとしていたフォークを皿の上に戻した。ジュアンと彼女はなおも何か言い合いを続けており、じっと凝視している俺の視線になど全く気付く気配はなかった。そのまま俺達のテーブルの横を通り過ぎ、店の扉を開けて外に出て行く。「まいどありー」とウェイトレスが彼らの背に声をかけたが、それすら聞こえていない様子だった。
 二人の立ち去り際、彼女がジュアンに向けてこのように言うのが聞こえてきた。
「あの人を殺すって言うのなら、私も死ぬから」
 本気よ、と続ける声に、「やれるもんならやってみな」と応じる声が続く。
 駄々っ子の我儘を軽くあしらうかのようなジュアンの目は、微笑みの形を保ちながらもこれまで見たこともないような冷ややかな雰囲気を感じさせた。外を吹きすさぶ風の力も手伝って、ばたん、と派手に閉じた木の扉を、俺はレイチェルに声をかけられるまでずっと見ていた。
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