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騎士の述懐

 - 16 -


 本名はジュアン・ガーウィック。同じ会社に勤務する同僚だ。歳は俺の一つ下、だから二十四。労働意欲の欠片もなく、いつも飄々とした空気を纏い、机に座っていればゴシップ紙か何かの雑誌を眺めているだけの男。
 当時の俺が彼について知っていることといえば、せいぜいそのくらいのことだっただろう。趣味とか、休日の過ごし方だとか、交友関係だとか、そういったプライベートに踏み込む会話を彼と交わした記憶が殆どない。席が隣同士のくせに普段何を話していたのだと顧みても、それすら出てこない。つまり記憶するにも値しない、何の生産性もない言葉の応酬を繰り返していただけということになる。
 必要以上のことは話さない――彼のそうした態度はあからさまではなかったにしても、徹底されていたようには思えた。迂闊なことを喋らないようあえてのらりくらりとした言動を選び、ろくでなしな人種を演じ、そうしてあいつは周囲の目を欺き続けてきた。あの日俺が食堂で見たあの冷ややかな目は、あいつがうっかり隠し損ねた本来の姿の一端だったのだ。
 翌朝、出社した俺は事務室の入口で足を止めた。ぽかんと口を開けたきり動かない俺をまずレイチェルの目が見付け、「おっはよー!」とこちらに手を振ってくる彼女に次いで振り向いたのが――
「あら久し振り」
 思考停止に陥る俺とは対照的に、彼女は屈託ない笑顔で俺との再会を演出した。あの日と同じロングスカート姿だった。「エリオット……だったわよね」
 どういうことだと真っ先に俺の視線が動いた先は、彼女らのすぐ傍――自分の机にだらしなく両足を乗っけて座っているジュアンの後ろ姿だ。彼は俺の無言の詰問に応じるかのようにくるりと椅子を半転させ、両手を頭の後ろで組んで小憎らしい笑みを浮かべてみせた。
「美人だろ。手は出すなよ」
「彼女は何だ。どうしてここにいるんだ」
「バイトだってさー。あたしと同じ雑用係」 俺の質問に答えたのはレイチェルだった。
「バイト?」 俺は眉を顰めながら彼女の台詞を反芻した。「レイチェルを雇ったばかりなのに? というより彼女はそもそも……」
「騎士っつっても見習いは見習いだからな、城からは小遣い程度の賃金しか支給されんのさ。騎士を目指す連中は皆、幾つかの仕事を掛け持ちしながらその日その日を食い繋いでいる。華やかな職種とは裏腹に、金銭事情は割とシビアだったりするんだぜ」
 初耳だがそのようなことはどうでも良かった。「それでお前が職を斡旋してやったというわけか」
「働きたいっつー申し出を断る理由なんかねえだろ、万年人手不足のこの職場で」
 ジュアンのこの発言は、半分は当たっているが半分はあまり適切と言えたものではない。不足しているのは現場に出る記者であって、社内で細々とした雑務をこなす人間はレイチェル一人で十分間に合う。むしろこれ以上余計な人間を雇うだけ無駄に人件費を食うばかりだとサーシャも分かっているだろうに、何故彼女の雇用を承諾したのかと不思議でならなかった。
 俺は、知らず握り締めていた掌から力を抜きながら、ゆっくりと彼女へと視線を移した。彼女は二つ三つ瞬きをしてから微笑むと、一つに束ねた金髪を揺らしながらこちらへと近付いてきた。そして俺の前まで来て立ち止まった。
「クライティス・J・ティンジェルよ。よろしく」
 そう名乗り、彼女は右手を差し出してきた。俺はその手を数秒眺めてから、よろしく、と呟くように返し、ゆっくりと右手を持ち上げ握手に応じた。
「クリス、って呼んでやってくれよ。昔っからの渾名だからよ」
 そう割り込んできたジュアンの顔へと、俺は再び視線を投げた。彼の顔は笑ってはいたが、その目は「あまり彼女に近付くな」と言っているように見えた。
「その話しぶりからすると、結構古い付き合いになるのか、彼女とお前は」
「まあな〜。もうかれこれ……二十年近くの付き合いってとこか?幼馴染ってやつだろうな。何しろそいつが鼻水垂らしたガキの頃から知ってんし」
「失礼ね。鼻水垂らしながらあちこち走り回って怒られてたのはあなたでしょ」彼女――クリスは左手を腰にあててジュアンを睨んだ。「大人になった今だって人の話をろくに聞かずに勝手なことばかりしては色んな人を困らせて……全然変わらないんだから」
「俺のことはこいつから聞いたってわけか」
 親しげな空気の中に割って入るようにして俺はクリスに話しかけた。だが、返事を寄越してきたのはジュアンだった。
「真夜中に海辺で穴掘りをしていた記者に会ったっつーから、どんな奴かと聞いてみりゃお前だよ。挙動不審にも程があんぞ。何だってそんな時間に一人で砂をほじくり返してたんだ。誰か殺して死体でも埋めてたのか?」
 死んだ恋人の遺品を埋めていた事実を、クリスは黙ってくれていたようだった。俺はジュアンの問いには答えず、隣にいるクリスへと向き直った。突如俺に肩を掴まれた彼女は、びっくりした顔でこちらを見返してきた。
「ずっと気になってたんだ。あの時……星花の場所で何が起きたんだ? 誰かが俺に薬を嗅がせただろ。俺が気を失ってから何が……」
「ちょっ……落ち着いて、落ち着いてよ」
「ホシハナ?」 レイチェルが解説を求めるようにジュアンの方へと顔を向けたが、彼は小さく肩を竦めただけだった。
 クリスは一度唾を飲み込むように喉を動かした。そして俺の目を見たまま話し始めた。
「多分、あなたが想像していた通りのことが起きたのよ。いきなり知らない男が現れて、まずあなたを気絶させたの。死んじゃったのかと思ってどうしようかと思った」
「睡眠薬の類を嗅がされたらしい」 俺は頷きながら言った。そうして気が付いたら何故か自宅に戻っていたわけだが、それを伝える前にまずは彼女の話の先だ。
「刃物を持った、人相の悪い男だった。要するにただのゴロツキね。案の定金を出せって脅してきたから、森の方に走って逃げたわ。缶詰一個買える程度の持ち合わせで満足してもらえるとは思えなかったし、応戦してうっかり殺しちゃっても色々と後が面倒だし」
「男相手によく逃げ切れたな」
「森の中の暗闇のおかげね。道なりに真っ直ぐ逃げないで、道を少し逸れた辺りの木の陰に隠れて、そいつが去って行くのを待っていたの。上手いこと撒けて良かったわ」
「そうか……」 相槌を打ちながらも、俺はどこか腑に落ちない思いを抱えていた。「で、きみはどうやって森を抜けて帰ったんだ。まさか暗闇の中でずっと空が明るくなるのを待っていたのか?」
「私は……何だっけ、あの星みたいに光る石」 クリスは記憶を探るように目を泳がせた。「ト……トラン……」
「トランダイトか」
「そう! それ、トランダイト。その明かりがあったから」
「……なるほどね……」
 俺は、あの日焦燥感に駆られるがままに海辺を歩き回った時のことを思い出した。彼女の話は概ね筋が通っているように思えたが、ある一点においてはどうにも違和感を拭えなかった。しかし、この場でそれを指摘するようなことはしなかった。俺の思い違いかもしれないと思ったからだ。
「森を抜けて、その後は?」
 気を失った俺のことなど放置して終了だと返されたら、暫く立ち直れそうになかった。幸い、彼女の口からその残酷な台詞が紡がれることはなかった。
「勿論、警察に届けたわよ。私はまだ見習い騎士だから、一人でこういう案件を処理できないもの。あなたのことが心配だったけど、警察の人が後のことは任せろって言うからそこから先のことは知らない。でも、ジュアンからあなたのことを聞いて安心したわ。同じ会社の記者だったことにはちょっと驚いたけどね」
「真夜中にやたらと女を連れ回すもんじゃねえぞー」 ジュアンの間延びした声が、鋭い矢のように俺に突き刺さった。「てめぇが人目につかねえような場所に彼女を連れ込んだりしなけりゃ、今回みたいな危ない目に遭わずに済んだんだかんな」
「ちょっとジュアン、そんな言い方……」
「いや、いい。いいんだ」 不服そうに振り向いてくるクリスの目に俺は言った。「その通りだ。俺が悪かった。もう一度きみに逢えたら謝りたいと思っていたんだ。ごめん」
「あなたが謝る必要なんてないじゃない。あなたについて行くと判断したのは私なんだから。それに、実害を被ったのはむしろあなたの方でしょう」
「それでも、一歩間違えれば取り返しのつかない事態に導いてしまったのは俺だ」
 そうだ。結果的に事無きを得たとはいえ、元々は俺の軽率な行動がこのような事態を招いた。
 忘れかけていた罪悪感の波が再び押し寄せ、俺はクリスの顔を見ていられなくなった。また、彼女に顔を見られること自体が苦痛だった。ふいと彼女から顔を背け、逃げ去るように大股で自分の机へと向かった。椅子を引いて席についた俺の横から、「別に、嫌味で言ったわけじゃねえから」と、フォローだか何だか分からないジュアンの声が向かってきた。放っておいてほしかった。
 俺は無心を努めながら、黙々と紙の上にペンを走らせ始めた。そうしながらも、一つだけ考えた。クリスの話からすると、俺を家まで運んでくれたのはやはり警察ということになるのだろう。事情聴収がないことや、コップに星花を活けておいてくれるサービスぶりには多少不自然な感も否めないが、そういったことを深く考察する気力を俺は完全に失っていた。一応の辻褄が合ったのだから、これ以上はもういいと半ば自棄になっていた面もあった。言うまでもなく、 ジュアンに俺の落ち度を真っ直ぐに指摘されたことが尾を引いていたのだ。
 さっさと記事を探しに外に出たいところだったが、こんな時に限って机の上で捌くべき書類の山が俺を放してくれなかった。クリスは部屋の隅の机で指示されたファイルの整理を行っており、ジュアンはどこに出かけるともなくただただ机に座って週刊誌のページを捲っていた。全く仕事に集中できずに苛々し始めた頃、正午を知らせる鳩時計の音に重なって「ただいま〜」とレイチェルが帰ってきた。郵便局にお使いに行っていたのだ。
「……何かさ〜、エリオットっていっつも難しい顔してるっていうか、辛気臭〜いオーラ出してること多いよね」
 俺の顔を下からじろじろ覗き込むなり、レイチェルはそう無遠慮に言い放った。
「そんなことないさ。いつもご機嫌だ」
「ってそんな仏頂面で言われても全く説得力がないんだけどまあいいや、じゃお昼だし一緒にご飯食べに行ってあげるよ」
「よしてくれ、また俺にたかるつもりか」
 俺は表情筋を使って全力で嫌悪を示した。しかしレイチェルはにっこりと笑って応じた。
「嫌だなあ、自分の分は自分で払うってば。そんなんじゃなくて、一人でくさくさしてたって余計に嫌なこと考えちゃうもんでしょ。食後のデザートをご馳走してくれるっていうなら、愚痴でも不満でもレイチェルさんが何だって聞いてあげちゃうけど〜って話」
「やっぱりたかりに来たんじゃないか」
 俺は溜め息をつき、「一人にしておいてくれ」と言おうとしてとどまった。ちらと隣の机を見やったちょうどその時、ジュアンが立ち上がって部屋の隅へと歩いて行った。彼の向かう先では、一仕事終えたらしいクリスが大きく伸びをしているところだった。
「……分かった」 クリスに何事かを話しかけているジュアンの後ろ姿を見ながら、俺は言った。「一緒に飯でも食いに行くか」
「えっ、いいの? やった!」 しめたとばかりにレイチェルは指を鳴らした。「昨日あのお店で食べたプリン、超美味しかったんだよね〜」
「いや、今日はあの店には行かない」
 えっ? と訊き返してくるレイチェルに、俺はコートを羽織りながら続けた。「昨日色々リクエストを言っていただろう。あの中の一つだけ聞いてやろうと思う」
「え?」
「海辺のレストランでランチと洒落込もうか」


 途中、銀行に寄って金を下ろし、俺とレイチェルは乗り合い馬車に乗って海辺の方面へと向かった。海岸通りの手前で降りてからは、例の土産物屋が連なる一本道を進み、砂浜に出る手前に開いていた屋台に立ち寄った。俺はサンドイッチと水を、レイチェルはチキンサンドとオレンジジュースを買ってから、砂の小山を上る。そしてそのてっぺんで二人並んで腰を下ろした。好天な上に風もなく、海を眺めながらパンを齧るにはうってつけの日和だった。
「で、これのどこがレストラン?」
 俺が銀行で金を下ろしたことで、レイチェルに余計な期待を抱かせてしまっていたらしい。夕べどっかの誰かが俺の金でドカ食いしたせいで財布の中がすっからかんだったんだと教えてやっても良かったのだが、屋根のある小洒落た店を連想させるような言い方をしてしまった自覚はあったため、俺はジト目を向けてくるレイチェルに素直に詫びた。
「単純に海を眺めながら飯を食いたい、って話だと思ったんだ。悪いな、女心が読めなくて」
「別に、もはやエリオットには何の期待もできないっていうのは学習済みだからあたし的にはさして問題ないけど……こんな調子じゃジュアンに勝てないよ?」
「勝つ? ジュアンに? 何で」
 レイチェルは目と唇の端に意味深な笑みを乗せながら正面へと顔を戻した。「ふぅん……そらっとぼけておくってわけか、了解了解。やだやだ、人のこと子供扱いするくせに、自分だって大人げないとこあるじゃん」
「……何だよ。言いたいことがあるならハッキリ言えよ」
 別に何も〜、と歌うように言って、レイチェルは二口目のパンに齧りついた。
 この海辺で彼女――クリスに出会った一部始終を、乗り合い馬車の車中で俺はレイチェルに伝えていた。
「ふうん……お城の中庭で見付けた人と偶然海で出会って、その人が偶然おじさん……ジュアンと知り合いで、そんでそのジュアンのつてでクリスはウチで働くことになった、ってこと」
 事実を一通り述べてから、「色々と偶然が重なるもんだねえ」とレイチェルは締めくくった。一つ一つの偶然を驚きをもって迎え入れた俺としては、彼女の淡泊と言える感想にどこか物足りなさを感じたのだが、第三者から見ればその程度のことなのかと肩の力が抜けた部分もあった。
「そんなことよりさ、あたしはそのジュアンのことがちょっと気になる」
「ジュアンがどうかしたのか」
 う〜ん、と唸りながらレイチェルは顎に拳をあてた。
「何か、ここ最近急に元気がなくなったっていうか……妙に大人しいっていうか……とにかくいつもと少し様子が違う風に見えない?」
「いや、いつもと一緒だろ」 いつも通り、自由に怠惰に生きている。むしろあのお気楽極楽野郎をどのように見れば『元気がない』などと感じることができるのか。
 レイチェルはまたも唸った。「そういえば、夕べ食堂でクリスと何か言い合ってたよね、彼。彼女と痴話喧嘩でもしてなかなか仲直りできずに凹んでるのかな」
「さっきの様子からすると、別段仲違いしてるような雰囲気には見えなかったけど」 俺を責めるジュアンの目を思い出しながらそう答えた。「というかそもそも……」
「? そもそも、何?」
「……いや、何でもない」
 風が少し出てきた。背中を心地良く押してくる風を感じながら、俺はマスタードの効いたサンドイッチの最後の一口を放り込んだ。エイプリルの靴を埋めたのはどの辺りだったかと当たりを付けつつ白い砂浜を見渡すと、ちょうどその辺りでは小さな男の子が二人、手にした棒を剣のようにぶつけ合って遊んでいた。「覚悟しろ、フォービドゥンめ!」という勇ましいかけ声が聞こえてくる。子供の戯れとはいえ、化け物に立ち向かわんとする彼らの姿は、端から戦意の欠片もない大人達よりよほど勇敢で、頼もしかった。
「じゃ、デザートのご馳走は見込めなさそうだけど、昨日のお礼にエリオットさんの愚痴を聞いてあげるとしますか!」
 隣でジュースを一飲みしたレイチェルが、にっと歯を見せてそう言った。
「愚痴? ないよ、そんなの」
「愚痴じゃないなら不平? 不満? それとも自己嫌悪? 何なら恋の悩みでも何でもいいけど」
「相変わらず好きだな、そういうの」 呆れを含んだ目で彼女を見た。「ゴシップ紙の記者にでもなったらどうだ」
 目でにやりと返してくるレイチェルにこちらも苦笑で応えると、俺は正面の空へと視線を移動させた。
 海の上を悠々と旋回する、沢山の海鳥達──地上で破滅を待つ人間達とは違い、何の悩みもなく、与えられた命をのびのびと謳歌しているかのように見える彼ら。
「……未来の世界じゃ、人類は空を飛んでいるのか?」
 ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。何の脈絡もない唐突な質問に、レイチェルが首を傾げるのが分かった。
 俺はちらとレイチェルの顔を一瞥して、
「去年くらいのことだったかな。ツェーベという村に取材に行ったんだ。その村自体は別にどうってこともない普通の農村なんだけど、そこに少し変わり者の爺さんが住んでいてね。『フォービドゥンから逃げるには空しかない』と言って、彼は五年ほど前から人間が空を飛ぶための手段を考え始めたというんだ」
「へえ、なるほど、空に」 レイチェルはぽんと右の拳を左の掌に載せた。「確かに、フォービドゥンが破壊するのは地上だもんね。目の付け所はいいかも」
「地下に逃げる、という既存の概念の逆の発想だな。地下室を作ろうにも相当な資金が必要な上に、個人の住宅となると地盤の関係上掘れる深さにも制限がある。しかもさほど深く掘れないから、でかい化け物に思いっきり屋根を踏んづけられでもしたら、地下室ごとぺしゃんこにされる可能性もある。その点、空は逃げ場に困ったりはしないからな。雲くらいの高さまで逃げられれば、フォービドゥンの破壊行動のとばっちりを食う危険も低いと言える――彼はそう思いついたんだろう。で、一念発起した。これまで担いでいた鍬を捨てて、畑から家の中に籠もり、大量の学術書を漁り始めた」
 牛乳瓶の底をくり抜いたかのような分厚い眼鏡をかけ、禿げ上がった頭頂部以外をもじゃもじゃの白髪で覆った背の低い爺さんだった。やたらと甲高い声で、且つ何でもかんでも早口でまくし立てるのものだから、俺は話をよく聞き取れずに何度も訊き返していたものだ。
 俺は、ある種愛嬌があると言えなくもなかった彼の姿を記憶の中に蘇らせた。知らず、溜め息に苦笑いのようなものが混ざった。
「まあ次から次へと色んなものを作ってたよ。俺が最初に見せてもらったのは、子供の玩具かと思うようなちゃちな乗り物だったな。木箱に車輪を取り付けて、ゼンマイ式で回転する羽根のようなものを動力として浮遊するという胡散臭いシロモノだ。当然のことながら、そいつは最初の飛行実験でものの見事にゴミ屑と化した。一ミリも浮かなかった。速度を制御するような装置もついていなかったもんだから、下り坂で思いっきり助走をつけたその箱は、真っ直ぐ走った先にあった納屋の壁に激突して大破したんだ。で、そいつに乗っていた爺さんはというと、全治二か月という大怪我を負う羽目になった。両手足を包帯でぐるぐる巻きにされて、村の子供達の格好の笑いの的さ」
「誰か止めてあげれば良かったのに」 膝を抱えながら話を聞いていたレイチェルが、呆れたように声を挟んだ。「そんなの無謀だって、皆分かってたんでしょ」
「止めたさ、村の皆が。馬鹿なことはよせって」
 絶対に無理だ、そんなちんけな乗り物で空を飛べるわけがない――しかし。
「爺さんは聞く耳を持たなかったよ。何度も研究を重ねた末の試作品に絶対の自信を持っていたってわけじゃない。彼は危なっかしい飛行実験を繰り返すたびにこう言っていた。『この原理で、この装置で空は飛べないということを誰かが証明しなければ、人類はいつまでたっても空には行けない。だから私がそれをする。そのためなら死んだっていい。私は人類が空を飛ぶことなど不可能だと実証されるその時まで、この研究を諦めるつもりは毛頭ない』」
 説得する村人達を睨みながら、唾を飛ばし、怒ったようにそう主張していた。また、こうも言っていた。『私は、お前達のためにしているのだぞ』、と。お前達に死んでほしくないから、何とかしようと知恵を絞っているのだぞ、と。
「結論から言うと」 俺は大きく息を吸い込んだ。「何回目かの実験で爺さんは死んだよ。即死だ、首の骨を折って。変に苦しまずに死ねた分辛うじて救いだったと言えなくもないが、村の皆は悲しんでいた。いや、悲しむというよりは憐れんでいたかな。だから言わんこっちゃない、いつかこうなることが分かっていたはずだろうに、ってさ」
「うん、まあ、志は立派だと思うけど」 レイチェルは複雑な顔で頷いた。「ちょっと、色々と勿体無いよね」
「でも」
 俺は再び空を見上げた。空を飛ぶなど容易いことだと言わんばかりの海鳥達の姿を、はるか下から眺めながら。
「でも、爺さんは最期まで諦めなかった。大切な村人達をフォービドゥンから守るために。フォービドゥンを倒す力がないのなら、せめて奴から逃げてみせようと考えた。誰もがどうにもできないと諦めているフォービドゥンと、ある意味本気で向かい合ったんだ。小さな農村で鍬を振るっていただけの人間が、途方もない敵を相手に、どうにかして生き延びようとした」
 葬式の日は雨だった。生前彼が愛用していた眼鏡やステッキ、また研究のためにと愛読していた学術書などが、柩の中で眠る爺さんの傍らへと次々と収められていった。
 彼が命の次に大切にしていた研究ノート。背中を丸めた彼の妻が、それを持ってよろよろと現れた時のことだ。
 村の青年の一人が、彼女が柩に収めようとしたそれを、突然横からひったくるようにして奪い取った。驚く村人達の視線を一身に受け、彼は傘も差さずにずぶ濡れになりながら、宣言するかのように高らかに叫んだ。『僕が皆を空に逃がしてみせる』――
「……飛空船」
「えっ?」
 首を横に向けた時、レイチェルの目は海に向けられていた。
「あんまり細かいことまで教えられないけど、あたしが生きてる時代では船みたいな乗り物が空を飛んでる。残念ながら、その乗り物が出てくるのはこの時代よりもずっとずっと先のことだけど」
「本当か。凄いな」 俺は目を見開いた。「きみもそれに乗ったことがあるのかい」
「うん、一度だけ。海の向こうの国に魔術研修に行った時にね」 彼女はどこか自慢げに顔を上向かせた。
「そうか」
 見たこともない未来の乗り物をが空を飛んでいる様を想像しながら、俺は地平線を眺めるように海の上へと視線を戻した。海鳥が何羽か、波の上をたゆたいながら羽を休めている。
 どんな気分なのだろう、鳥のように空を飛ぶというのは。フォービドゥンの手の届かない場所に行けるというのは。命をなげうってでも守りたい、大切な存在があるというのは──
 爺さんが心の中に抱いていたその気持ちを少しでも知ることができたら、この世界を見る自分の目が変わるのではないか。諦念一色で塗りたくられた、淀んだ色のこの世界に立ちながらも、この場所で生き続けたいと強く思える時が来るのかもしれない。
 何かを促すかのように背中を押し続けている風が、少し強くなってきた。波間に漂う海鳥が、海流に乗って西の方向に流されていくのを、俺は黙って見ていた。
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