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騎士の述懐

 - 17 -


「あぁ〜あ、暇、暇。どっかに面白え話は転がってねえもんかねえ」
 レイチェルが魔術書から召喚したアトラスの巨体に凭れ、部屋の隅で足を投げ出しだらしなく座り込んでいるジュアンの姿を、俺は冷めた目で一瞥した。連日残業続きで睡眠時間の確保もままならない社員達に喧嘩を売るかのような発言だが、本人には悪気はないのだろう。
 『ジュアンの元気がない』というレイチェルの言葉を検証すべく、その日から二週間ほど意識して彼の顔色や言動を窺っていたのだが、確かに以前と比較して様子が違うなという点は見付けられた。ただし「元気がない」という表現を用いようとは思えない。「やる気がない」のだ、いつもにも増して。
 人から何かを質問されても「ああ」とか「おう」とかだるそうに生返事を返して終わりにしてしまったり、机に座って雑誌を読んでいるように見えても、手が一向にページを捲ろうとしない時も何度かあった。また、外を出歩く頻度が減り、会社に在席している時間が増えたことで、書類整理等をしているレイチェルやクリスにちょっかいをかけてはへらへら笑っている場面にたびたび出くわしたが、その笑い顔とてどこか作り物めいているところが感じられた。総評すると、とにかくあらゆる面においてやる気がないのだ。人と本気で接しようとしない。自発的に何らかの行動を起こすことに、酷く気だるげな様子であったりする。
「でしょでしょ? 何なんだろう…どこか身体の具合でも悪いのかな」
 昼休み、昼食をとりにスピカにレイチェルを誘い、フォークでペンネをつつきながらその話をすると、彼女は大きく頷いた後に心配そうに眉尻を下げた。鉄板皿に載ったハンバーグから立ち昇る湯気が、彼女の顔を薄っすらと覆い隠している。
「体調がどうこうって話ではないと思うけどな。ひとまず顔色はいいし、どこか具合が悪い箇所があるなら遠慮なく休むだろ、あの男なら」
「う〜ん……でも、ちょっと前まではもっと元気だったと思うんだけどな。ここ最近で急激に覇気がなくなった気がする。何かヤなことがあったとか?」
「だとしたら、普通は時間の経過と共に気力を回復していくんじゃないか?」 レイチェルがさりげなくこちらの皿に寄越してきたニンジンを彼女の皿に戻しながら、俺は指摘した。「嫌なことが『あった』んじゃない。あいつにとっての嫌なことが、だんだんと目の前に迫っているってことなら考えられる。それで若干鬱になっている、と」
「目の前に迫っている嫌なこと……」
 差し当たって彼女にとってのそれは目の前に差し戻されたニンジンという名の天敵を自ら咀嚼し、嚥下しなければならないという過酷な試練を言うのだろうが、ジュアンにとっての嫌なこととは一体何を指すのか。
「ひょっとして……フォービドゥン、とか?」
 真っ先に思い付いたことを、先にレイチェルが口にした。俺は口の中に運んだペンネを飲み下してから、「どうだろうな」と曖昧に首を傾げてみせた。
「あいつがフォービドゥンに対する恐怖感を滲ませたのを見たことがないな。肝が据わっているというか、開き直っているというか……けどまあ、着実にその時が近付いているのは確かなことだし、やっぱり死ぬのは嫌だと怖気づいてきても不思議ではない。よく分からないよ、あいつのことは」
 再び口にペンネを放り込む俺に、向かいのレイチェルが「そうだね」とどこか神妙な顔で顎を引いた。
「エリオット、あたしのことだってちっとも分かってないもんね。あたしがどれだけニンジンが嫌いか知らないからこんな非道な仕打ちができるんでしょ」
「非道ってそんな……泣くほどのことか?」
 涙ぐみながら自分の皿に戻されたニンジンを見つめていたレイチェルは、信じられない台詞を聞いたとばかりに大きく目を見開いた。フォークに突き刺したニンジンをびしっと俺の口元に突き付け、たじろぐ俺を真正面から睨めつける。
「今エリオットの悪いところ一つ見付けた。あたしとエリオットは全く別の存在なのに、あなたは自分の物差しであたしをはかろうとする」
「いや、別に、そんなつもりは……」
 レイチェルはずいと身を乗り出してきた。彼女の目に暗い光が宿る。
「あたしはね、ニンジンとは決して相容れない運命の下に生まれてきたの。甘く煮たって摺り下ろしてジュースと混ぜたって駄目。あいつがどこにいたって、どんな姿をしていたって絶対に察知できるんだから。もしフォービドゥンが全世界のニンジン畑をピンポイントで狙って徹底的に破壊し尽くしてくれるっていうのなら、あたしは全力でフォービドゥンを応援する立場に回る。それくらい嫌、とにかく嫌、徹底的に嫌ったら嫌なの。分かる?」
 どんな喩えだと心の中では思ったが、俺は反射的に首を縦に動かしていた。彼女の迫力に圧倒されたと言っていい。
「……よろしい」
 レイチェルは満足げな顔で頷いた後、満面の笑みをこしらえ、「じゃ、食べて」と語尾にハートマークを飛ばした。
 俺はげんなりとした顔を作りながら、フォークの先端のそれを見つめていた。しばしの逡巡を挟んだ後、仕方なく口を開けてそいつを迎え入れた。
 いつぞやこの店で見た同じような光景が思い返される。彼らはいちゃついているように見えて、実は巧妙に苦手な食べ物を押し付けられているだけだったのかもしれない。「美味しい?」と可愛らしく小首を傾げてくるレイチェルを見ながら、そんなことを思った。


 きっかり一時間の休憩を終え、会社に戻った。事務室のドアを開けると、社長席の辺りに人だかりが出来ているのが見えた。同僚達が寄ってたかってわいわいと騒いでいるのだ。その中で「くそっ、はずれかよ」と頭を掻きむしっている仲間の姿を見てピンときた。
「くじ引きか。久し振りだな」
「くじ引き……って何の?」
 世界一周旅行でも当たるの?とレイチェルが訊ねてきた。俺は彼女に向かって説明した。
「誰が取材に行くかを決めるのさ。それも普段みたいな危なっかしいやつじゃなくて、美味いタダ飯にありつけたり豪華な部屋に泊まれたりする特典満載の取材だ。王族や貴族の結婚式とか、即位式なんかだな。とかく金持ちってやつは派手好きが多いもんだから、大々的に記事にしてもらうために俺達記者にもお呼びがかかるのさ」
「ふうん」
「といっても各社二、三人ずつだけどな。だからこうして公平にくじで決める。仕事で、それもタダで飲み食いできるラッキーな奴を」
 人だかりの向こうには、五、六枚のトランプのカードを扇状に広げて持ったサーシャがいつもの無表情で立っていた。各人一枚ずつカードを引き、見事ジョーカーを引き当てた者が取材権獲得というわけだ。
 部屋の出入り口に突っ立ったままでいる俺達に、サーシャが気付いた。
「リット、あんたも引く?」
「もちろん」
 即答した俺は、人だかりの間を潜り抜けてサーシャの正面に進み出た。自分にあまりくじ運がないのは自覚していたし、時間をかけて悩んだとて当選確率に影響を及ぼすわけでもないことも承知していたため、俺はさして迷うことなく真ん中付近のカードをサーシャの手の中から引き抜いた。
 どうせ今回もはずれだろう。一片の期待も抱かず選んだカードを裏返して見てぽかんとなった。幸運にも悪運にもあまり縁がなかった男が、まさかの――
「凄い! ねえ、これ、当たりでしょ?」
 当人が喜ぶより先に、レイチェルがぴょんぴょんと跳ねながらはしゃいだ声を上げた。そして、周囲から溜め息や落胆の声が上がる中、がしっと俺の腕にしがみついてきたかと思えば、きらきらとした目で俺を見上げて言う。
「ねえねえ、あたしもついて行っていい? いいよね、だってあたしはエリオットの……ええっと、そう、助手だもん! 危険な仕事もオイシイ仕事も常に一緒に――」
「助手? あんたね、子供だからって適当なこと言ってどさくさ紛れに恩恵に与ろうだなんて甘いわよ。神聖なるくじ引きの結果は絶対なの。あんたもついて行きたきゃ根性ででも念力ででも当たりを引いてごらんなさい」
 さすがに、レイチェルの無茶苦茶な言い分を看過するつもりはサーシャにはないようだった。たちまちむくれっ面になったレイチェルが「ちぇ、ケチ」と言ってカードに手を伸ばそうとしたところ、部屋の隅から声が上がった。
「まあまあ、いいじゃねえかよ。子供が一人増えるくらい」
 相も変わらずアトラスにだらりと凭れ、寛ぎまくった様子のジュアンである。今目が覚めましたとばかりに重そうに瞼を開き、ぼりぼりと後頭部を掻いている様は、まさに「何様」としか表現のしようがない有様だ。そんな彼の傍には、蔑んだ目で彼を見下ろすクリスが立っていた。
 ジュアンは自分自身に浴びせられる眼差しの冷たさなど意にも介さず、俺達に見せつけるかのように大きな欠伸を一つしてから言った。
「入場券があるってわけでもねえじゃんか。もし門兵に呼び止められたら、『こいつが社会見学をしたいって言って聞かなくて〜』とでも言って誤魔化しときゃ何とかなるって。それでなくとも当日は各種方面のどうでもいい連中共がごまんとやってくるんだ。ゲストが一人や二人増えていたって分かりゃしねえよ」
「そもそも、場所はどこなんです」 俺はサーシャに向かって訊ねた。
「グレバドス」 彼女は言った。「我らがアルバドール王女ベラトリクス様が、お隣さん家の王子に嫁ぎに行くって話」
「暢気な話だよね。フォービドゥンに怯える国民達をほったらかして、隣の国の王子様とちゃっかり愛を育んでいたなんてさ」 そう毒づいたのはトマだった。ふう、と息を吐いて腕を組み、「まあ、こんなご時世だからこそ、ささやかながらも国民に明るい話題をってわけなのかもしれないけどさ」
 正直、誰と誰が結婚しようがどうでもいい、自分には関係ないと考える人間が大多数を占める世の中で、写真でしか顔を見たことがない自国の王家の人間が一人隣国に嫁に行くくらいで世間が祝賀ムードに染まるかというと、答えは否だ。今現在の生活を維持する役目しか果たしてくれない、この先訪れるフォービドゥンの脅威には一切対応する気がない国や王家になど、国民はとうに愛想を尽かしている。国王の娘が嫁に行くからといって「それがどうした」といった所感だろうし、新聞社が記事にしたところで、読者にはざっと斜め読みされて終わりだろう。もし国が今回の祝典で世間に明るい風を吹かせようと本気で考えているのだとしたら、笑止千万と鼻で嘲笑われるのが関の山だと確実に言えることができた。
「もう終わってんよ。この国の王家は」
 ジュアンが立てた膝に肘を置いて頬杖をつき、不味いものを吐き出すようにして言った。全員の視線が声の主へと集まる中、彼はやおら立ち上がり、一歩、また一歩とゆっくりと近付いてきた。
「病床の国王の命はもはや風前の灯火だし、聡明なる王女様は隣国の優男に奪われた。残るは出来の悪い王子様だが、もとより王の座を継ぐ意思も資質もねえって専らの噂だ。世界の終わりが来るよりも、この国の最高指導者がいなくなる方が先かもな」
 やがてジュアンはサーシャの前まで来て立ち止まり、へっ、と斜め下の床を見てせせら笑った。
「ま、糞の役にも立ちゃしねえ王家なんぞ、あってもなくても大して変わらんだろうさ。結婚だろうが何だろうが好きにさせとけ」
 そのまま彼の手がサーシャが構えたカードへと伸びた。その手は迷うことなく一枚のカードをすっと引き抜き、そうかと思うと次にはぱっとその場で大きく指を開いてみせた。はらはらと舞うようにカードが床へと落下する傍ら、興味など微塵もないとでもいうようにジュアンは背中を向けて部屋の出入り口へと向かっていく。「どこへ行くのよ」とクリスが彼の背を追った。
 ばたん、と扉が閉まる音の向こうに、クリスの背が消えた。後には、しん、と静まり返った空気がしばし室内を満たしていた。
「……やさぐれてるぅ」 敢えて、のことだろう。おどけた調子でレイチェルが呟いた。
「どうしたんだ? あいつ」
 同僚の一人が肩を竦めながら、誰にともなく訊ねた。全員が「わけが分からない」、という返答を表情で示した後、トマが床に落ちたカードに視線を落として呟く。
「あ、当たり」
 直後、ぱん、と両手を打つ音が合図のように響き渡った。サーシャによる散会の号令だ。
「さ、そういったわけで今回の取材権の当選者はリットとジュアンで決まりよ。全員さっさと仕事に戻りなさい。一分一秒でも無駄にしようもんならその分だけ給料から差っ引くわよ」
 やれやれ、と散っていく同僚達を尻目に、俺はちょうど自分の足元近くに落ちてきたカードをしゃがんで拾い上げた。そして、道化師の絵柄が描かれた二枚のカードをサーシャへと手渡した。
「当たりは二枚ですか」
 ふっとサーシャが唇の端を吊り上げた。「珍しいこともあるじゃない、面倒な仕事にばかり縁があるあんたが」
「ジュアンは何かあったんですか」
「何かって、何が」
「何がって、そりゃ……」 俺は、去り際に彼が残した歪んだ笑みを思い出しながら、こめかみの辺りを指で掻いた。「ここ最近少し様子が変なんですよ。今だって、タダで豪華な飯を飲み食いできる権利を得たってリアクションじゃなかったし……ひょっとして社長なら何か知っているのかと」
 この時俺は、彼女にそう訊ねながらも「アタシが知るわけないでしょ」といった類の返答を想定していた。仮にジュアンが何か問題を抱えていたとて、それを社長に相談するような性格ではないだろうと思っていたからだ。また、逆に彼女がジュアンから何かを聞かされていたのだとしても、社員個人の事情についてそう易々と口を割るような上司ではないということを俺は重々承知していた。機械のように淡々と物事を処理していく彼女でも、心まで鉄でできているというわけではないのだ。
 無駄な質問だったか、と心の中で思いながらも、俺をじっと見据えてくるサーシャの口は一向に動く気配を見せなかった。表情は微動だにしなかったが、俺には何かを思案している顔に見えた。迷っているようにも見えた。彼女の目は俺に向けられながらも、俺ではない全く別の何かを見ているように感じられた。
 やがてサーシャの唇がゆっくりと開いた。そこから声が発せられるまでには、更に数秒の時を要した。
「……知ればいいでしょ」 彼女は言った。
「は?」
「知ればいい」 再び繰り返して腕を組み、「彼のことを。彼がどんな人間で、どんなことを抱えてここにいるのか本気で知ろうとすればいい。そうすりゃあんたにだって分かるでしょ」
「えぇっと……」
 分かる?何が?ジュアンの様子がおかしい原因がか?
 想定していた問答と大きくかけ離れた展開となり、俺は一時言葉に詰まった。
「本人に訊けってことですか」
 考えた末彼女にそう訊ねると、今度の彼女の態度ははっきりしていた。何も言わずに踵を返したのだ。一切の物事を語ろうとしない彼女の背中を部屋の扉の向こうへと見送った後、俺は釈然としない気持ちを抱えたまま自分の席へと戻った。紙を捲る音や何かを指示する同僚の声が響く、普段通りの空気が室内に蘇っていた。
 その空気に溶け込むようにして、俺もペンを取り原稿用紙を引き寄せた。
「知れ、と言われてもね……」
 一言呟いてから、頭の中を目の前の仕事だけに集中させる。


 ジュアンという男は、俺にとって……いやきっと俺だけでなく、社内の人間殆ど全員にとって謎の存在といった人間だっただろう。
 「知れ」と彼女は簡単に、そしてそれがさも簡単なことであるように言ってくれたものだが、自分のことを何一つ語ろうとしない人間を知ろうなどと無理難題に等しい。また、俺はそうした彼の態度をこうも解釈していた。自分のことを知られたくないから、余計なことは黙っているのだと。
 人に話したくないことを吐かせる器用な話術を俺は会得していないし、幸いにしてそういった下衆な根性も持ち合わせてはいなかった。だから俺はもうジュアンのことは放っておくということにした。レイチェルはそんな俺を薄情だと断じたが、これは俺なりの優しさだ。「そっとしておいてやろう」とでも言っておけば、彼女との間に変な齟齬をきたさずに済んだのかもしれない。
 何かの運命に操られるようにして俺が引き当てたグレバドスでの婚姻式典は、その日からちょうど三週間後ということだった。ジュアンの余計な口添えによりついて来る気満々になってしまったレイチェルは、王子様とお姫様の結婚パーティーにさて何を着て行ったものかとそわそわ、うきうきしっぱなしだった。
「王家のパーティーっていったらやっぱり社交ダンスとかあったりするんでしょ? だとしたらフワフワのドレスだと動きづらいかなあ。落ち着いたワンピースの方が無難?でも皆がお洒落してくる中で一人だけ地味なのも嫌だし……」
「……まだ悩んでるのか」
 いよいよグレバドスへの出発を翌日に控えた日の午後。レイチェルは事務室の応接セットでレンタル衣装のカタログを睨んでは、うーんうーんと唸っていた。彼女の向かいの席では、顔の上に開いた雑誌を載せたジュアンがだらりと寝そべり、一人静かに午睡を満喫している。
「何度も言うようだけど、俺達記者は正式な招待客と違って脇役扱いだ。会場でも常時隅っこでこそこそしてなきゃならないのに、あんまり気合入れてめかし込んでいったって浮くだけだぞ。平服でいいんだ、平服で」
 隣国であるグレバドスへの旅路は、馬車で片道約五日間。その間の寝食は街道に点在する街や村にて宿を取ることになる。長距離移動においては荷物は極力少ないに越したことはないわけで、招待客と区別するため普段着での列席が許可されている我々取材組が嵩張る礼服でトランクを一つ増やそうなどと、馬に余計な負担を強いるだけだ。
「ね、ね、クリスは何着てく?」
 俺の話など聞いちゃいないレイチェルは、窓辺の観葉植物に水をやっていたクリスへと話を振った。そう、彼女も今回の取材に同行することになったのだ。ジュアンの意向が裏にあったようだと同僚の一人から聞いたが、「公私混同も甚だしい」「どうしてあいつの我儘が通るんだ」と憤るそいつの目には、どこか嫉妬の炎が燻っているように見えた。
「別に、特別お洒落な格好はしていかないわよ、私は」 クリスは気さくに答えてから、苦笑を浮かべた。「『遊びに行くんじゃねぇんだからな』って、ジュアンが」
「どの口が言ってるんだか」 原稿に向かいながら、俺は小さく肩を竦めた。
「式典の衣装であれこれ悩んでいるより、移動中の荷物の支度をした方がいいんじゃないの? 往復の移動と、現地での宿泊分も足せば全部で十二日分もあるのよ。もう明日には出発だっていうのに、何も準備できていないじゃない。着替えとか揃えておかないと大変よ」
「クリスまでエリオットと同じこと言う」 レイチェルは右手をひらひらと振り、同時にゆらゆらとかぶりを振った。「いいのいいの、大丈夫。身の回り品なんて足りなくなったら現地調達すればいいだけの話じゃん。それに小さな宿場町にだって洋服屋の一軒くらいあるでしょ? お金さえあればちょっとの旅なんて割とどうにでもなるんだから」
「働き出してまだ間もないバイトが、一端の金満家みたいな口きくな」
「世渡り上手なのだ、レイチェルさんは」 彼女は得意げに胸を張り、えっへんと両手を腰にあてた。「社長さんに媚びまくって給料を前借りしまくるくらい、チョロいもんだもーん」
「案外腹黒だってのはもう分かったから、つべこべ言わずに早く荷造りをしろ。間に合わなかったら置いてくぞ」
「腹黒じゃないもん。世渡り上手なんだってば!」
「あと、そのゆるゆるな金銭感覚を明日までに矯正しておくようにな。さもなくば三日で路銀が尽きる」
 俺の置いてくぞ発言が響いたのか、レイチェルはずっと手にしていたカタログをぽいとソファの上に放ると、溜め息を一つ残して部屋を出ていった。その様子を横目で見送った俺は再び原稿へと意識を戻そうとしたが、隣の机に誰かがやって来た気配を感じて顔を上げた。見ると、昼寝から目が覚めたジュアン……ではなく、彼の机の椅子を引いて、クリスがそこに腰かけたところだった。
「ねえ、さっきレイチェルが言ってたのって本当?」
「何が?」
「社交ダンスが、あるとかないとか……」
 神妙な表情で訊ねてくるクリスを見て、俺は原稿へと顔を戻しながら口の端を緩めた。
「さしもの騎士様も踊りは苦手ってわけか」
「騎士だからって万能だとでも思ってるわけ?」 むっとした様子で言い返された。「そういうあなたは得意なの? ダンス」
「いいや。得意じゃないし出来もしない。社交界なんかには仕事以外全く縁はないしな。記者連中はホールの端っこで貴族が優雅に舞ってるのをぼんやりと眺めているだけさ」
「そっか……見てるだけなのね」 あからさまにほっとした声でクリスは胸をなでおろした。「良かった。ジュアンに馬鹿にされるのももうウンザリだもの」
「ジュアン?」
 俺はペンを止めて再び顔を上げ、隣にいるクリスを見た。「あいつは踊れるのか」
 特に深い意味はない質問だった。だがこの瞬間、クリスはとんでもないミスを犯したかのような表情ではっと息を呑み、そのまま数秒間動きを止めた。頭の中を引っ掻き回し、この窮地を切り抜ける術を必死に探しているのが手に取るように分かった。俺としては、彼女がここまで動揺する意味が分からず、ただただ目を瞬かせながらその様子を見守っていた。
「趣味で……踊ったりすることもあるみたい」 
 ぎこちない笑みを作りながら彼女が返した言葉がそれだった。クリスはつい胡散臭げに眉を顰めてしまった俺を見て、狼狽えたように目を泳がせた。その視線は特に応接セットの辺りを行ったり来たりしている。ジュアンが起きて聞き耳を立てていないかを確認しているのだと思われた。
「へえ……意外だな。あいつにダンスの嗜みがあるなんて」
「そうね、私もそう思う。でも、意外と、上手だったり……するのよ」
「それはまた何というか……驚きを通り越して信じ難いような事実だな」
 うだつが上がらないろくでなし会社員と、華やかな社交界における儀礼的しきたりとを結びつけるにはどうしても困難が伴う。あのがさつな男が女性をエスコートしながら軽やかにステップを踏んでいる様を想像しようとしてみても、ちっとも頭の中にその姿が描けないのだ。
「まあその話が本当だっていうなら、一度見てみたいもんだな、あいつが颯爽と踊っている姿を」
 ペンを置き、とんとんと机の上で原稿を束ねながら俺は言った。「そうね」と隣から返事が聞こえたが、クリスはその一言を言い終えるより早くそそくさと席を立ち、離れた席の同僚のところへと行ってしまった。
 一人になった俺は、ちらと横目で応接セットの方を見た。そこでは相変わらず雑誌で顔を覆ったジュアンが、眠りながら職務放棄に徹している――ように見えた。
 ひょっとして、実はこの男には貴族の血が流れているのか?と疑ってみたのはほんの一瞬のことだ。彼が狭いソファの上で寝返りを打った拍子に、ずれた雑誌の下から現れた締まりのない寝顔を見れば、そんな想像は全くの見当外れであると思い直さずにはいられない。『高貴』という表現を宛がう場所が、この男には何一つ見付からないのだから。
 何者なんだよ、お前は――
 幸せそうな寝顔を晒す男を見て、俺は心の中で呟いた。
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