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騎士の述懐

 - 19 -


 チンピラどもに絡まれているレイチェルを助けんと颯爽と駆け出したジュアンであったが、俺は彼の背中から目を離すことができなかった。「オレに任せろ」とは、一体どうするつもりなのか。口八丁で相手を追い払うならいいが、グーで殴り掛かるのだけは勘弁してほしい。騒ぎが余計に拡大し、挙句返り討ちにあって終わる末路が目に見えている。
 やはり彼に一任するのは不安だと思い、一歩足を踏み出しかけた時にはもう遅かった。ジュアンの拳がチンピラの一人の顔面にめり込むのを、俺は青褪めた顔で見届けた。殴られた男は、巨躯に見合わぬ軽やかさで後方に吹っ飛んでいく。ジュアンは意外に腕っ節が強いのだということを俺が知ったのはこの時だ。
 呆然と見守る俺に、二人目の男も難なく伸したジュアンからちらりと視線を寄越された。立てた親指でくいとある方向を差して、俺に目配せをしてくる。早く行け、という意味なのだろう。
 クリスはこちらの騒ぎには気付いていない様子だった。黙って前を見つめる様は、夜空の下に舞う幾つもの剣の煌めきに見入っているように見えた。かなり近い距離にまで近付いてからようやく俺の姿を視認したらしく、ゆっくりと表情を笑みの形に変えてみせた。
「踊るの?」
 俺の手にある短剣を見て彼女は言った。まさか、と首を振りながら、俺は彼女の隣に腰を下ろした。頭の中ではどのように謝罪を切り出そうかと考えていたが、先にその話題に触れてきたのはクリスだった。
「さっきはごめんなさい。嫌な感じにしちゃったわよね」
「いや、そんなことは……」 言葉尻を濁しながら、とりあえず頭を下げることしかできない。彼女の地雷が何だったのかが未だに分かっていなかったためだ。
「嫌味で言うわけじゃないけど、部屋で休んでいても全然構わないから。無理しないで」
「大丈夫だよ。無理なんてしていない。実のところ十分過ぎるくらい休んで暇してたところさ」
「……あなたのそういう優しいところに、レイチェルは惚れ込んでいるのかもね」
 何と返してよいのか分からなかった。こういう時ジュアンなら器用に立ち回るのだろうと、照れ臭さを誤魔化すようにそちらの方へと視線を逃がせば、もうそこには彼の姿はなく、殴られて気絶したらしい男数人が地べたに倒れているだけである。どこに行ったのだと周囲を見回してみると、踊りの輪の中に楽しそうに溶け込んでいるジュアンとレイチェルの姿が目に留まった。ジュアンといえばどこかニヒルな笑い顔ばかりがとかく印象に残るのだが、この時の彼は子供のような無邪気な笑顔で踊りを楽しんでいた。初めて見る顔と言ってもよい。それは新鮮な驚きをもって俺のジュアンに対する印象の一端を塗り替えた。
「楽しそうね」 クリスも彼らの姿を認めたらしい。目を細めて俺に言う。「あなたも混ざってくれば?」
「きみは踊らないのかい」
「やめとくわ。この間も話したと思うけど、踊りは苦手なの。というより音楽が絡むものはてんでダメ。歌も、踊りも、楽器の演奏も。観たり聴いたりすることだけは大好きなんだけど」
「……俺も一緒、かな」
 クリスは唇だけで小さく笑って、顔を前に戻した。俺もジュアンとレイチェルに視線を戻した。彼は意外と踊りが上手いのだと語るクリスの言を思い出しながら当のジュアンを眺めていると、なるほど確かに剣を握りながら小気味好く舞う彼の身のこなしはなかなかにこなれたものだと言えなくもない。
「フォービドゥンとの戦いを模した踊りらしいな」
 知っているかという意味を込めて横目でクリスを見ると、彼女は頷く代わりに瞬きで応じてきた。
「大切なものを守るために剣を取る、ってことでしょ。この世界に生きる人全員がこうやってフォービドゥンに立ち向かったら、ひょっとして奴に勝つことができるのかしら」
「全人類で総攻撃をかけるってわけか」
「力だけで挑もうとしなくてもいい。どうすればいいのかを考えるとか、奴について調べるだとか、小さなことでもいいから何かの行動を全員が起こせば……ただあっさり殺されるだけじゃない違った未来が待っているかもしれないのに、殆どの人はそれをしようとしない。勇者が何とかしてくれるのを、何もしないで待っているだけ」
「……ごくごく一部、だけど」 俺は空を飛ぼうとした爺さんを思い出しながら、「守りたいもののために、命がけで何かをしようという人間もいるにはいる」
「あなたも、そうなの?」
「え?」
 彼女の横顔を凝視した。だが、その視線は俺へと動いてこなかった。ジュアンらの姿を目で追ったまま、
「あなた以前、言っていたわよね。『ディルクを殺す――そのためには死んだって構わない』……勇者を生かして、世界の命運を勇者に託して。それって何か守りたいものがあるからってこと?」
「そんなものがあれば、多分俺が狙って殺しにかかるのは人殺し騎士なんかじゃなくフォービドゥンそのものさ」
 命がけで守りたいとはそういうことなのだろう、きっと。あくまでも想像の域を出なかったのだが、クリスの同意は得られたようだ。「そうね」と頷く彼女に、ふと興味が湧いて訊ねてみる。
「きみはどうなんだい。きみにはあるのか、死んでも守りたいと思えるものが」
「あるわよ」
 クリスは頷きながら即答した。そして自分の身体を両腕で抱きかかえるようにして縮こまり、小さく俯いた。
「ある。大切なものは沢山ある。だから守りたいと思う、けど……できたら私は、『命をかけて』なんてしたくない。一生懸命何かをして、足掻いて、どうにかして生き延びたい」
 寒いのか、彼女は更に身を縮めた。
「だから私は騎士になったの。単純なものよね。生き残るために何かをする、って考えた時、自分に戦うための力をつけることしか思いつかなかった。実際、それくらいしかできることもなくて」
「いいじゃないか、それでも」
 騎士などという狭き門をくぐり抜けただけでも尊敬に値する。本心からの賛辞だったのだが、彼女の心には響かなかったようだ。クリスはゆっくりとかぶりを振った。
「駄目なのよ、それだけじゃ。中途半端に強くなったって、目的を達成できなければ何の意味もない。ただの自己満足でしかないの。剣を扱えるようになったからって何? 今守るべき人すらろくに守れていないじゃない。そんなので騎士を名乗ろうだなんてちゃんちゃらおかしいわ」
「守る? 誰を」
 すると、これまで流暢だった彼女の喋りが突如途絶えた。はっとした表情から察するに、喋るつもりがなかったことをうっかり口走ってしまっていたことに今気付いた、といったところだろう。ややあって、「……彼を」と控え目な声で言うのが聞こえた。
「……彼?」
「……」
 クリスは再び黙り込んだ。そんな辛そうな顔をするならわざわざ答えてくれなくてもいい、という俺の念は、やはり彼女には通じなかった。クリスは観念したかのように自ら重い沈黙を破った。
「どうしてこうなっちゃったんだろう。最初はただの憧れでしかなかったのに。強くて、仲間想いで、優しくて、出会った時から彼は同じなのに、どうしていつの間にかそういう気持ちに変わっちゃうのよ」
「……」
「彼がこの世界に生きているのなら、私もずっと一緒に生きていたい。フォービドゥンなんかに……誰にも殺されたくない。でも……」
「要するに」
 俺は独白ともとれるクリスの話の途中で割り込んだ。声が擦れた。
「恋人を守りたいって意味の話か」
 冷たい風が心の隙間から入り込んで熱を奪っていくような感覚とでも言うべきか。無言になった俺が味わったのは、そうした仄暗い気持ちだ。とはいえ彼女の口からいずれそういった言葉が紡がれるであろうことをある程度予見していた部分もあり、さほど驚きはしなかった。
 あの日、レイチェルと行った食堂でクリスを見付けたあの時、彼女が発した台詞を俺ははっきり憶えている。
『あの人を殺すって言うのなら、私も死ぬから』
 脅しなのか本気なのかは別としても、要は自分の命と同じくらい大切と思える『あの人』がいるということだ。
 誰なんだ? と訊きたい気持ちが半分、そしてこれ以上深入りしたくはないという気持ちが半分。それらが心の中でせめぎ合いを始めた。どちらかというと『あの人』が誰なのかを知りたい気持ちの方に分があったのだが、気安くそれを訊ねるには憚られる空気を彼女が纏う雰囲気から感じ取った。苦渋に満ちた目を縁取る長い睫毛をただ眺めるばかりの俺の隣で、再び声が発せられる。
「でも、私に何ができる? 何を変えられるの? 人一人守れない半人前の騎士でしかない私が、この世界の秩序をどうこうできるわけがない。でも、無条件に殺される運命なんて受け入れられるわけがない」
 それは俺に向けてというよりは、この世界のどこかにいるのであろう『あの人』に訴えかけるように聞こえた。
「私はただ、彼と……ディルクと生きたいだけなのに」

 こともあろうに、とはこのような場面でこそ用いる言葉として相応しいのではないか。
 知らない男の名前を告げられた方がまだ良かった。打ちのめされながらもそれなりに取り繕う余地もあっただろう。
 だが、よりにもよって、その名前は──
「騎士も警察も、そしてあなたも、色んな人が彼の行方を追っている。血眼になって彼を探して、殺そうとしている」
 悲愴な声音で紡がれる彼女の言葉を「当たり前だ」と言って遮りたくなるところを耐え、しかしそれでも俺の口から出てきた声と言葉は相当に険を含んだものだった。
「奴は……いや、その男は、きみの仲間を何人も殺しているんだぞ。その上勇者の命まで狙っている極悪人だ。この世界のためを思うなら生かしておけるわけが……」
「分かってる、あなたの言いたいことは」
 クリスは顔を上げ、睨むように俺の目を見据えた。まるで宿敵と対峙しているかのような鋭利な眼差しも、潤んだ目では威嚇の意味を成さない。
「あなたが言っていることは多分正しい。仲間を殺した殺人鬼をここまで想えるなんて、って自分でも思う。でも、理屈じゃ割り切れないの。あなただって恋人がいたことがあるんだから分かるでしょう? この世界で一番大切な人が殺されようとしているのよ。黙って見過ごすなんてできるわけがない」
「ならどうするつもりだ。警察も騎士も、それに俺達新聞記者も、奴の命を狙う人間を片っ端から消していくか?」
「違う、私がしたいのはそんなことじゃなくて」 クリスは膝頭に額を押し付けながらかぶりを振った。くぐもった声が、丸めた身体の隙間から頼りなく漏れてくる。「どうしたらいいのか……分からないのよ。勇者を諦めろと説得しようにも、彼を探し出す術がない。彼が今どこにいるのか分からない。でも、こうしている間にも誰かが彼を見付けて、隙を突いて殺してしまうかもしれない。そうなってしまったら、私、もう……何のために生きているのか……」
「……」
「どうかしているのかもしれない、私も」
「いや……」
 ここで俺は、今自分が担うべき役割を理解した。彼女の肩にそっと手を置き、「大丈夫だよ」と一言言ってやるだけでよい。
 だが、そんな単純な動作一つ取るにしても尋常でない葛藤が邪魔をした。今口を開けば、彼女が望まない言葉ばかりを羅列してしまうであろう自覚があった。そもそも、彼女の前で奴を殺すと宣言してしまっている俺が慰めの言葉など持ち合わせている筈がない。
「……風が出てきたな」
 何か喋らなければ、と思って捻り出したのは、おそらく彼女にとってはどうでもよい一言だ。案の定、返事はない。
「寒くないか?」
 問えば、クリスは相変わらず膝に顔を突っ伏したまま首を横に振るだけだった。
 俺は大きく息をついた。困惑、落胆、呆れ、嫉妬、怒り……何に対してどの感情が作用しているのか自分でもよく分からなかったが、とにかく胸中に渦巻くそれらの感情を放散させねば身の置き所がなかった。言うなれば果てしなく重い荷物を一つ背負い込まされたような心地だ。鳴り続ける陽気な音楽が、どこか別の世界で奏でられているもののように感じる。
「……よし」
 俺は、突如丸太から腰を上げた。「辛気臭い話は終わりだ」
 そして、隣にいるクリスの手首を掴んだ。当然、彼女は顔を上げ、驚きの眼を俺に向けてきた。彼女の目に映った俺の顔が、どうにか笑みの形を成していたことを祈る。
「踊ろう」
「えっ」
 ちょっと、と何かを言いかけるクリスを引っ張って立ち上がらせ、俺はそのまま彼女の手を引きながら強引に祭の明かりの中へと進んで行った。短剣を配っているテントを見付け、そちらへと足早に向きを変えて彼女の分の剣を受け取った。
「ちょっと待ってよ、ねえ、エリオット!」
 背後で戸惑いを露にした声。しかしそれには振り向かず、エスコートと呼ぶには程遠い足取りで踊りの輪を目指して突き進む。彼女が俺の手を振り払ってこないことを、合意の意思表示であると都合良く解釈して。
 輪の片隅まで来て足を止め、クリスと向き合うと、彼女は不可解なものを見る目つきで俺を見ていた。
「さあ」と俺は短剣を差し出した。クリスの視線が、俺と剣との間を行ったり来たりした後、どういうつもりだと訊ねてきた。
「今きみを笑わす方法として、俺にはこれくらいしか思いつかない」 剣を差し出す格好のまま、俺は言った。「俺にもきみにも、お互い譲れないものがある。俺は奴を諦めない。きみも奴を諦めない。けど俺はきみと敵対関係にはなりたくない。だから今はただ、何もかもが上手くいくことを祈って笑って踊ろう」
 我ながらどういう理屈だ、と思った。だが、苦笑いでもいいから彼女の表情を変えられればそれで良かった。
「……お互い、踊りは苦手って言ったばかりじゃない」
「別に上手く踊ろうとなんてしなくたっていいさ。滅茶苦茶に剣を振り回すだけでもいい。不安だの恐れだの寂しさだの、色々溜め込んでいるものを発散させてスッキリするんだ。俺が受け止めてやる」
 俺の拙い試みは辛くも成功したようだった。固いままだった彼女の表情が次第に綻んでいくのを、ほっとした心地で眺めた。
「暗い顔をしていると、レイチェルに鬱陶しがられるからな」
「そうね。私も笑った顔の方がいいと思う」
「……きっと、上手くいくさ」
 それが『どちらかにとって』という結末になろうとも。
 そんな俺の内心を、おそらく彼女も推し量ってはいたのだろう。クリスは一瞬だけ目を伏せたが、次に俺を見てきた時にはその碧眼に翳りはなかった。
「うん。きっと上手くいく」
 彼女は微笑み、手を伸ばし、そして剣を手に取った。


 ディルクが好きなのだとクリスに告白されて以降、時折俺の脳裏に不吉な考えが掠めるようになった。
 例えばクリスと道を歩いている最中、偶然にも奴に出くわしたとしたらどうなるか。
 彼女の目の前で俺は剣を抜き放ち、奴の首なり心臓なりを一思いに突き刺すことができるのか。仮にそうした行動に出られたとしても、彼女が黙って見ているだけとは思えない。彼女は騎士だ。基本的には常時帯剣もしているし、それを武器として扱える度胸も技量もある。恋情を寄せる相手を殺そうとする俺を前に、抜剣しない理由などないだろう。そうなった時の俺の運命は一つしかない。俺がクリスに向かって剣を振れるわけがないから、俺は奴を守ろうとする彼女に敵と見做され、最悪その手で殺される――
 勿論これらの想像は最悪のパターンであり、上手くいけば奴も恋人であるクリスに説得されて勇者殺しという凶行を思い止まるという流れもありうるかもしれない。しかしそれは確率としては極めて低い希望的観測だと言わざるを得なかった。恋人の声であっさり翻意するくらいならば、初めから十三人もの仲間を切り捨てて出奔などしていない筈だ。奴の『勇者を殺す』という鋼鉄の意志は、もはや何者にも崩しようがないのだ。
 だが、そうだとしても、奴は何故恋人との日常を捨ててまでして勇者を殺そうとするのだろうか。
 残りの旅路の大半は、そのようなことをぼんやりと考えて過ごした。そしてダルセーデを発って四日目の夜、俺達は城よりも高く聳え立つ黒塗りの壁の下へと到達した。
「すっごい高さ……っていうより、すっごい真っ黒」
 月明りをも拒絶する深い黒色の壁を見上げて、レイチェルはごくりと喉を鳴らした。街をぐるりと取り囲むそれは、
「まるで悪の要塞だろ」
 といった佇まいである。
「ここらじゃ黒い色は邪悪なものを寄せ付けないという言い伝えがあるんだそうだ。だからまあ」
「魔除けってところなんだろうな」 ジュアンが俺の話の途中で勝手に言葉を引き継いだ。「いや、正確にはフォービドゥン除けか? でかい壁造って、一生懸命黒く塗りたくって奴の進攻を食い止められるなら、皆そうしてるってのに。無駄な税金使いやがってよ」
「まあ、でも……端から諦めて防御壁に予算をかけようとしない俺らの国よりかは、国としてできることをやってはいるだろ」 気休め程度になるかどうかも怪しいが、と独りごちる。
 そして俺も見上げた。五十年もの歳月をかけて建設されたと言われる、グレバドスの巨大な防御壁を。
 高さはおよそ二〇〇メートルほどだったと記憶している。世界一高い防御壁として教科書にも載っている、あまりにも有名な壁だ。高い金と膨大な時間、途方もない労力をかけて国ができることの限界が本当にこの壁一つなのかと考えると疑問に思えて仕方がないのだが、グレバドスはこの壁を『最後の砦』と称し、フォービドゥンの猛撃にも耐え得る可能性があるとして根拠のない安心を自国民にアピールしている。
「こんだけでかい壁こさえておきながら、いざフォービドゥンが現れて猛毒の霧でも吐き出してきたらどうするつもりなんだろうな」
「確かに。そういう攻撃パターンもありか」
 ジュアンの皮肉に頷いた時、くしゅん、と誰かがくしゃみをする音が聞こえた。音のした背後を振り向くと、分厚いケープを肩にかけたクリスが小さく鼻を啜ったところだった。
「大丈夫か?」
 俺の問いに答えたのは、クリスではなくジュアンだ。
「って訊きゃあ、大丈夫って答えるに決まってるだろ、この痩せ我慢大好き人間なら」
「何よ、その言い種」
 彼はふいとそっぽを向くクリスを一瞥し、やれやれと首を振った。腰に手をあて、「我慢大会も大概にしとけよ。バレてねえとでも思ってんのか? お前、二、三日前から熱あんだろ。宿に着いたら薬貰ってすぐさま寝るこったな」
「何だって?」
「ないわよ、熱なんて」
 一斉に向けられる俺達の視線から逃げるように、クリスの目は明後日の方向へと泳いでいってしまった。その顔をまじまじと観察してみたが、俺には普段の彼女との相違に気付くことができなかった。
「具合悪いの? 大丈夫?」 レイチェルも気遣わしげな様子でクリスに訊ねる。だが返されたのは、
「大丈夫、心配しないで。ちょっと風邪っぽいだけよ」
 という普段通りの声と顔色。
 何れにせよ、長距離移動を終えた疲れは全員共通のものである。深夜に近い時間帯ということもあり、レイチェルは大きな欠伸で眠気を訴えた。また、正面先の検問所では、眠たそうな目をした検問官が俺達の方をじっと見てきていた。不審者を警戒する目付きというよりは、早くこっちに来て手続きを済ませろというメッセージを送ってきていると捉えた方が良いだろう。彼も早く仕事を済まさねば、居眠りに戻ることができない。
「お前ホント、無理すんじゃねえぞ。こじらせてぶっ倒られてもこっちが迷惑なだけだかんな」
「しつこいわね。何でもないって言ってるでしょ」
 俺が検問所で手続きをしている間、背後ではジュアンとクリスが言い合いを続けていた。
「心配しなくたって、あなたの邪魔になるようなことはしないわよ」
「どういう意味だ」
「もし本当に熱が出てきて動けなくなったら、私は一人で宿で休んでいるから。あなたは皆と一緒に、思う存分王子様とお姫様の結婚式を見物してくればいいじゃない」
「……お前なあ……!」
「何よ。何か問題でもある?」
 ちっ、というジュアンの舌打ちが聞こえた。その短い音の中に、大きな苛立ちが含まれているのを俺は感じ取った。
「せめて、明日一日だけでも持ちこたえろ」
 いいな、とジュアンが念押しするのを最後に、彼らの間の小さな諍いは一旦の終息を迎えた。


 ところが、である。
「だから、お前って奴はよお……!」
 その翌朝、ジュアンは再び盛大な舌打ちをかますと共に、眉を吊り上げることになった。
 グレバドス王子とアルバドール王女の婚礼式典が行われるのは、その日の昼からとなっていた。長旅を終えた疲れを癒やす時間を出張行程の中に組み入れてもらいたいところだったが、哀しくもそういった慈悲や配慮は望めない社風である。タイトな時間配分の中でしかるべき準備を整え、効率良く動いていかねばならない。
 そのような中、
「夕べはきちんと薬を飲んだんだろうな?」
 ジュアンが腕組みして仁王立ちしているのは、朝日が差し込む宿の一室であった。二つ並んでいるベッドのうち、片方にはクリスが横になっている。ジュアンはそれを見下ろして渋面を作っているのだ。そしてその傍らで、俺とレイチェルはやや困惑の面持ちで彼らの様子を見守っていた。
「飲んで……ちゃんとすぐに寝たわよ。あなたの指示通りに」
「じゃあどうして昨日より悪化してやがるんだ」
「そんなこと言われたって……」
「よしなよ、おじさん!」 レイチェルの非難の声が飛んだ。「熱でしんどそうにしてる人に向かってカッカし過ぎ。薬を飲めば絶対にすぐに良くなるなんてわけがないじゃん。この間のお祭りの夜、結構風が冷たかったもん。風邪ひいちゃったって無理ないよ」
「んなこた分かってんよ!」
 ジュアンは壁の時計を見上げた。針は八時三十分辺りを示していた。八時に宿のロビーに全員集合という段取りだったのだが、約束の時間を一〇分過ぎてもクリスが部屋から出てこなかった。それで様子を見に行ってみれば、昨晩とは打って変わった赤い顔で辛そうに息をする彼女がベッドに横たわっていたというわけである。
「……一歩も動けねえ、ってわけじゃねえんだろ」
「ちょっと待て、お前まさか連れてく気か?」 俺は目を剥いた。「クリスについては強制参加ってわけじゃないんだぞ。それに三十九度近い熱がある人間を半日以上も連れ回すなんて……」
「できるわけねえ。そんなことも分かってる。だがこっちにも事情ってもんが……」
「どんな事情なの? それって病人に無体を強いらなきゃいけないくらいのっぴきならない事情なわけ?」
 レイチェルの声は、ジュアンを見る目と同じくらい冷ややかなものだった。ぐっ、と声を詰まらせるジュアンに彼女はつかつかと歩み寄り、腕組みをして自分より上の方にある男の顔を睨め上げた。
「あたしが宿に残って、クリスの看病をする。結婚式にはおじさんとエリオットだけで行ってきて。文句なんて言わせないから」
「えっ」 ジュアンとクリスが同時に声を発した。
「私、一人で大丈夫よ。寝てればじき良くなるから、そんな気を遣ってくれなくても……」
「いいや、一人にしとくのは心配だ」 殊更強い口調で、ジュアンがクリスの言葉を遮った。「いつ容体が急変するか分からねえからな。といったわけでクリス、お前オレが戻るまでの間レイチェルに見張っててもらえ。それならオレも多少は安心できる」
「見張る?」 俺が怪訝に眉を寄せると、
「あー、いや、看ていてもらえ。なっ」
 ジュアンは咳払いを一つして言い直した。
「でも……レイチェル、今日のことあんなに楽しみにしていたのに……」
 申し訳なさそうに眉尻を下げるクリスに、レイチェルは「だいじょぶだいじょぶ」と笑って歯を見せた。何日も前から心を躍らせていたレイチェルを間近で見ていただけに、気丈に振る舞う彼女の姿に胸がつまった。できることなら一緒に連れて行ってやりたいところだが、クリスとしては男を一人部屋に残されるというのも抵抗があるだろう。よってジュアンが残るという選択肢は却下せざるを得なかった。
「悪いな、レイチェル」
 ありがとう、と礼を述べる。「いいってことよ」と片目を瞑ってみせるレイチェルに、今度こそ小洒落たレストランでご馳走してやらないとなと思った。
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