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騎士の述懐

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 例によって会社の予算の都合上、宿泊先は街の中心部から遠く離れた安宿を選ばなければならなかったため、グレバドス城へは乗合馬車を使って移動することになった。これまで散々馬車に揺られて「ケツが痛え!」と愚痴をこぼしていたジュアンからは文句の一つでも出るかと思っていたが、彼は意外にも大人しく停留所に到着した馬車に乗り込んだ。そして窓側の席を陣取った後、車窓の曇りを手で拭き取り、丸く透明になった部分からグレバドスの街並みが流れ去っていくのを眺めていた。――膝の上に置いた拳を、時折強く握り締めながら。
 空には朝から灰色の雲が立ち込め、今にも大きな雨粒が落下してきそうな気配を漂わせている。「お天道様の祝福は得られなかったようね」と、同乗していた貴婦人が隣の席の男に話しかけていた。
 ジュアンはグレバドスまでの車中、一切声を発しなかった。何故窓枠に肘をついた姿勢のまま微動だにしないのか、そして柄にもなく思いつめたような表情を窓ガラスに映しているのか、その時の俺は体調を崩したクリスを案じているのだろうとしか想像できなかった。だが、自分の人生における一つのターニングポイントが目の前に迫りつつあるのを彼はどこかで感じ取っていたのかもしれない。街の防御壁と同じように黒く塗られているグレバドス城門が見えてきた時、ぎり、と歯を鳴らす音が隣から聞こえてきたのは空耳ではなかったはずだ。
 馬車を降りると、まずは城門で所持品検査を受けた。そして城へと続く長い園路を歩いている最中、
「おい」
 少し離れた背後で誰かを呼び止める声がしたが、周りには他の記者や招待客らの姿もあったため、始めはそれが自分に向けられているものだとは思わなかった。
「おい、無視すんじゃねえ」
 今度は左肩に分厚い掌が乗ってきた。俺は後ろへと首を捻った。
「よお、よく逢うな。大陸中央」
「……またお前かよ」
「おいおい何だその露骨に嫌そうな顔は」
 アガプキンであった。彼は無精髭に縁取られた口を開けて豪快に笑った。「友達には愛想笑いくらい返しとくのが礼儀ってもんだぜ」
「商売敵に愛想笑いして何の得になるんだ」
「つれねえな。得にはならんが損にもならんだろうが。笑顔ってのは円滑な人間関係において大事なもんだと習わんかったか?」
 信じられないことに、奴の呼気にはこんな時でさえ濃い酒の匂いが漂っていた。俺が顔を顰めると、隣でジュアンも同じような顔をして奴を眺めていた。この男も会社員としては大概木偶の坊なのだが、真昼間から赤ら顔で出来上がっている大男と並べば、俄然真っ当な人種に見えてきてしまう。
「お、そっちの長髪の兄ちゃんも大陸中央か。大陸中央二号とでも呼べばいいか?」
「よせ。俺の同僚にまで妙な渾名を付けるな」
 むさ苦しい酔っ払いに絡まれては敵わんとばかりに、ジュアンはあからさまに俺達と距離をとって歩き始めた。自分一人だけ逃げやがってと内心毒づく一方で、好都合でもあった。物騒な話を聞かれずに済む。
「グレバドスにはどれくらいぶりだ?」
 ジュアンに逃げられたアガプキンが、俺に雑談を求めてきた。
「久し振り……いや、そうでもないな。一昨年の年末に一度……いや、去年も来たか。グレバドス城の古井戸の底から古い人骨がわんさか出てきたとかそんなようなことがあったろ」
「いや、憶えてねえな」
「現場でお前んところの記者にも逢ったぞ。結局その骨は、大昔にスパイ容疑で処刑されたアルバドールの騎士のものだったって話だ」
 俺から『騎士』という単語を引き出すためにこの雑談を始めたのだとしたら、この男の誘導スキルはなかなかに大したものだ。単なる偶然であった可能性の方が高いのだが、いずれにせよ会話の流れは俺が触れたかった内容へと向かい始めた。
「騎士といやあ、この間は死にかけたな」
 今思い出したといった口振りのわりに、俺が見たのは待ってましたといわんばかりの横顔だった。
「お前さんも手厚い歓迎を受けたか、あのポロスとかいう騎士に」
「ボリスな」
「どっちでもいいじゃねえか。大事な名前しか頭ん中に残しておけねえ性分でよ」
「そうするとお前の中での俺の名前は永遠に大陸中央ってわけだ」 がははと濁声で肩を揺らすアガプキンから視線を逸らし、「お前んとこでもやっぱり探しているのか、ディルク・ナルディスを」
 周囲の人間に聞こえないよう声量を調節しながら、俺は慎重にその名を口に出した。複数の新聞社の記者達が集まったあの日、ディルクの抹殺を依頼されたのは俺だけではないはずだ。殺人というデリケートな問題を前に少しは神妙な顔をするかと思いきや、この男はだらしなくゆるみきった相好を変えることなく答えた。
「探してるっつーより、アルバドの街をふらついてりゃそのうちお目にかかる機会が巡ってくるだろうってスタンスでいるな、うちの会社じゃ」
「あの殺人鬼が俺達の街をウロついてるって?」
「うちの国が勇者を保護してるって路線を崩さずにいけば、そう推測するのが妥当だろ」 顎を撫でながらアガプキンは主張した。「ディルクの野郎が、居場所も分からねえ勇者を追っかけて城を捨てたりすると思うか? 探せば手が届く範囲にターゲットがいると思ったからこそ、お仲間をぶっ殺してまでして城を出たと考えた方が合理性がある。世界中の人間を一人一人探して回る時間なんざねえだろうよ」
「まあ、そんな悠長なことをしてたんじゃ先に出会うのはフォービドゥンの方ってことになるだろうな」
「だろ? だがしかしここで一つ議論すべき問題があるわけさ」 アガプキンは唇を舐め、「騎士の中の騎士と言えるようなご立派な男が、何故唐突に勇者を殺そうって気になったかだ」
 俺は心の中で頷いた。その疑問を解決してくれそうな最も有力な手段が、奴の恋人であるクリスに訊ねてみるということなのだが、打ち明け話の際に見た彼女の悲愴な表情を思い出すと、とても奴に関する話題を切り出すことはできずにいた。どうしてもクリスにそれを訊くとするなら、もう少し時間を置くことが必要だ。でなければまたあの敵意に満ちた目で睨まれることになる。
「どうしてなんだろうな」
 何気なく言った俺の一言を、相手は『先にそっちの見解を述べてみろ』という意味と受け取ったらしい。はぐらかすか真面目に受け答えするか悩んだと思しき一瞬の間を置いた後、アガプキンは喋り出した。
「オレの調べた限り、あの騎士は至って真っ当な人種だ。もうじき世界が終わるってんでトチ狂ったり自棄になったりで勇者を殺そうとするそんじょそこらの馬鹿な連中とは違う。さすが騎士の模範と言われているだけあって、理知的で誠実な人柄だ」
「っていうのが、奴に対する周りの人間の評価ってことだろ?」
 何が言いたいか何となく察しがついたため、俺は話の途中で口を挟んだ。「だが他人を完全に理解できる人間なんていない。よく『あんなにいい人があんな風に豹変するとは』みたいな言い方をしたりするが、その場合豹変したというよりももともとそいつがそういう素質を隠し持っていたと捉えるべきだ。温厚な人間が突然キレて殺人を犯すなんて古今東西聞く話だろ」
「そりゃ勿論、お前さんの言う通り衝動的な行動に出ている可能性も否定はできねえわな。だが何らかの目的や根拠に従って冷静に動いてるっつーセンもなくはないだろ」
 十三人も殺しておいて何が冷静かと指摘したくもあったが、その点は突っつかないでおいた。アガプキンは鼻の頭を掻きながら続けた。
「まあ根拠ったってアレだな。適当に想像するしかねえわけだが、例えばフォービドゥンをこの世界に出現させているのは実は勇者だって説はどうだ。だから勇者を殺しに行く、と」
「……。勇者が自分で化け物を呼び寄せて、あらかた世界を滅ぼさせたところでフォービドゥンと共に自滅するってことか」
「そう訳が分からんって顔すんなや。そもそも勇者が人間だってのもオレらの先入観でしかないのかもしれんぞ。勇者とは実は何かよく分からん毛むくじゃらの動物っぽい生き物で、そいつがフォービドゥンの卵をぽこぽこぽこぽこ産みまくって温めて孵化させてるとか、あるいは勇者そのものがフォービドゥンでしたー、とかそんなオチだってあるかもしんねえだろうが」
「…………」
「黙殺すんな」
「いや……敢えてお前のその空想に乗っかって考えていくなら、国が勇者を匿ってる云々の話と齟齬をきたすことになるぞ」
 すると突然、アガプキンはからからと笑いだした。ついでに俺の肩をばしばしと物凄い力で叩く。
「っておいおい、真面目だな。冗談だって、冗談。真に受けてんじゃねえ」
 横にいる男に肘鉄を食らわせてやりたい衝動を耐えながら、俺は酔っ払いの戯言に付き合うのをやめ、コートのポケットを漁って一枚の紙切れを取り出した。広報課長から受け取って以来、ずっとそこにしまい込んであったものだ。クリスが愛した男、ディルク・ナルディスの人相の悪い顔が、開いた紙の中からこちらを睨んでいる。まるで「俺の女に近付くな」と凄まれているような後ろめたい心地になっていると、アガプキンが横から俺の手元を覗き込んできた。
「そいつな。オレも貰ったけどよ、あんまアテになんねえらしいぜ」
「似てないっていうのか?」
「顔馴染みの騎士に見せてみたが、この似顔絵だと七割増し凶悪なツラになっとるとよ。実際にはもうちっと柔和な顔付きらしい。さすがにこの顔じゃ女どももキャーキャー騒がねえだろ」
 俺は吐息をついた。「随分といい加減だな……」
 人に殺しを依頼しておきながら、役に立たない資料を寄越してくるとは。奴のしでかした蛮行によって、この似顔絵の描き手のディルクに対するイメージが変わり、それがそのまま紙の上に反映されてしまったといったところなのだろうか。いや、あるいはこの絵は奴が仲間を殺している瞬間の顔を切り取ったものであるのかもしれない。そういう目で見てみれば、今にもこの男が紙の中から抜け出してきて俺を殺そうとしているかのように思えてしまい、握り慣れた剣の柄の感触が恋しくなった。そして何一つ実のある話もできぬまま、アガプキンは前方を歩いていた別の知り合いの元へと挨拶もなく去っていってしまった。
 お前は奴を殺せるか? と俺に訊かれる前に退散したのだろう、きっと。
「……? あれっ?」
 一人になり、ぐるっと周囲を見回したところで、俺は気付いた。
 ジュアンがいない。少し前まで俺とアガプキンの話し声が届くか届かないかといった距離を歩いていたはずなのに、よれよれの黒コートの姿がどこにもない。
 迷子という言葉が瞬間脳裏を掠めた。しかし王城へと続く長く広いアプローチは一直線だし、そこを歩く客や記者達の姿も多くはあるが大混雑と呼べるほどの賑わいはない。
 もうすぐ目の前には、王城の入口が迫っていた。そこで、先に城の中に入ってしまったのだろうととりあえずは考えた。人の流れに乗って歩いていけば、自然と婚礼式典の会場である大広間へと辿り着く。そこでまた合流できるだろうと、そう呑気に構えていた。

「まあノエリア様、本日も素敵な衣装をお召しになって」
「イルダ様こそ、いつもスレンダーでいらっしゃって着こなせないドレスなんてないのではなくて?」
 ばかでかいシャンデリアが天井にぶら下がっている大広間では、貴族や王族といった高貴なご身分の方々があちこちで挨拶代わりのお世辞を交わし合っていた。
 この日の主役を立てる気など毛頭ないとしか思えない、よく言えば華美、悪く言えば自己主張の強い派手なドレスを纏った女性達が動くたび、化粧やら香水やらの濃い匂いが部屋の中の空気を淀ませている。もしこの部屋に窓があったならば、堪りかねた誰かが思いきり開け放っていたことだろう。
 男共は男共でまた衣装やアクセサリーといったもので富と権力を誇示しながら舐めるような目をして今夜のベッドの相手を見繕い、そして我々記者連中はというと、式典用の鎧で全身を覆った騎士や兵士に警戒の目を向けられながら、広間の後方のほぼ壁際と言えるような場所でぼんやりと退屈な時間を過ごすのみであった。部屋の左側の隅でも、出番を待つ管弦楽団や指揮者が欠伸を噛み殺している。
 この空間にいる人間の一体何人が、間もなく始まる婚礼式典を心待ちにしているのだろうか――何のための集まりなのか分からなくなりそうな中、俺ははぐれてしまったジュアンを探して広い部屋の中を歩いて回っていた。この人混みの中のどこか、あるいは手洗い辺りにでもいると信じて疑っていなかったわけだが、よれよれの黒コートを着ている男は探しても探しても一向に姿を現す気配がなかった。
「ったくあいつは……どこに行ったんだよ」
 舌打ちの一つもしたくなってくる。まさか宿に残してきたクリスが心配で帰ってしまったわけではないだろうな……という考えが、ある時から俺の脳裏に浮かび始めた。だがそうであるなら俺に一言残していくくらいはするだろうし、こう言っては何だが熱が出た程度でそこまで心を砕く理由も分からない。レイチェルだって残って看てくれているのだ。
 そうこうしているうちに、
「一同、静粛に!」
 お喋りに余念がない賓客らを黙らせる号令が、騎士によって下された。いよいよレグルス王子とその后、ベラトリクス様の登場ということらしく、そうなるともう室内をうろうろすることは許されなかった。
 仕方なく、俺は自分がいるべき位置、つまり広間の最後部にいる記者達の群れの中へと混じった。凭れかかる壁を確保した後、首を左右に動かしてジュアンを探したが、やはり目的の姿は見当たらなかった。
「全員、首を垂れよ!」
 華々しく鳴り響く、トランペットのファンファーレ。広間前方の壇上の扉が開いたらしく、今度は弦楽器による優雅な音色が奏でられ始める。
「顔を上げよ」
 やや高めの、若い男の声が届いた。前を向いた客らから一斉に割れんばかりの拍手が起こるが、どうせ形だけのものだろうと主役の二人も理解はしているのかもしれなかった。
 俺は乾いた拍手を送りながら、壇上の扉から現れた男女の姿を見つめた。
 グレバドス第一王子、レグルス・ヴァン・ゲル・グレバドス。その隣が、アルバドール第一王女、ベラトリクス・ハドラー・アルバドール。
 レグルス王子という男は、王族界隈では割と有名な人間だ。悪い意味で、と前置きせざるを得ないのが残念なところだが、とにかく彼の女癖の悪さを語り出したらきりがない。隠し子の噂は一人や二人どころの騒ぎではないし、夜毎違う女を寝室に招き寄せては朝まで情事に耽るという自堕落ぶり。温厚なことで知られるグレバドスの大臣をして「国家の恥」と言わしめた、名うての好色家である。
 だが、こうまで女をとっかえひっかえできたのは、『王子』という肩書きだけでなく、親から受け継いだその容姿も大いに武器となっていたはずだった。色白の肌に中性的な顔立ちは、いわゆる『甘いマスク』とでも形容することができるのだろう。この場にレイチェルがいたら、目をハートにしてにこやかに手を振るあの王子に見とれていたかもしれないなと思った。
 対してその隣だ。正装し、威風堂々たる風采のレグルス王子の横で、シスターかと見紛うほどの質素なドレスに身を包んだ女性が飾りものの人形のように立っていた。
 表情には笑顔と呼べるようなものは欠片も存在しなかった。また、何か床に落ちているのかと訊ねたくなるほどに、視線は頑として下に向けられ続けていた。大事な祝典だというのに化粧っけはなく、その上遠目から見ても顔色の悪さははっきりと分かった。ウェーブがかった栗色の髪も無造作に肩に流されるがままで、着飾る意欲というものがまるで感じられない。失礼を承知で言うと、もともと『美人』というよりは『可愛らしいお嬢さん』という印象で通っている我らがベラトリクス王女は、いつもにも増して素朴な佇まいを我々の前に呈していた。
「これより、グレバドス第一王子、レグルス・ヴァン・ゲル・グレバドスと、アルバドール第一王女、ベラトリクス・ハドラー・アルバドールの婚礼承認を執り行う」
 一般人の結婚と同じように、王族の結婚も神より承認を得るという体裁を取る。脇に控えていた神官が壇上正面に移動し、厳かに祝詞を読み上げ始めた。俺の隣に立っていた年嵩の記者は、先ほどからずっと腕を組みながらうつらうつらしていた。
 結婚誓約書への署名、指輪の交換といった型通りの手順が粛々とこなされていく。それらを見届けるのは、各国から招かれた賓客と記者、そしてグレバドス側の王族や為政者達である。グレバドス王は高齢のため欠席、そしてアルバドール側の親族や関係者の姿は一人もない。こうした特異な状況をそれぞれの立場の人間はどのような目で見ていたのだろう。
 円滑に進んだ儀式は程なく終盤を迎え、いよいよ誓いのキスという段になった。ここから撮影許可が下りる段取りになっていたため、一応、という風に、取材陣がごそごそと撮影機を構え始めた。俺もそれに倣う。これが終われば迎賓室に場所を移し、お待ちかねの会食というわけだ。
 互いに向き合い、徐々に顔を近付けていくレグルス王子とベラトリクス王女。愛情も何もない、儀礼的な口づけを交わそうとする二人にレンズのピントを合わせながら、俺はこの結婚に一体何の意味があるのだろうと考えた。
 二人の間に愛情があるならばまだ別だが、ダレセーデの宿の主人の話によれば、アルバドの国家機密をグレバドスに握られた弱みで決まった結婚だという。しかし順当に歴史が繰り返されるとするならば、これから始まる夫婦生活が長く続く見込みはない。この先数か月以内にフォービドゥンが現れることが確定している中、わずかな期間の二国間の安寧を保つためにこの二人の結婚という手段を取った理由は何なのか。女の色気を前面に押し出したような女性を好むレグルス王子が、それとはまるでタイプの異なるベラトリクス王女を嫁に迎えるということは、金で解決する以上に価値ある何かがグレバドスにもたらされるのではと予測できるのだ。
 その『価値ある何か』が何であるのか。俺はその答えをすぐに知ることとなった。
「火事だ!」
 その叫びが先だったか、誰かの悲鳴が先だったのかは分からない。レグルス王子とベラトリクス王女の唇が重なる寸前、まるでそれを許さんとばかりに突然広間の中ほどから火の手が上がった。ちょうど、主役らと客らの間を仕切るような場所でだ。
 物凄い勢いで立ち昇った炎は火柱のような形を成して天井まで高くうねり、そこから発生した熱風が頬に、髪にぶつかってきた。たちまち悲鳴の渦が巻き起こり、皆が我先にと出口があるこちらへと向かって押し寄せてくる。
 祝典は瞬時にして、阿鼻叫喚の巷と化した。
「落ち着け! 落ち着かんか!」
 誰かが喚き立てた。だが落ち着いて避難などしている暇はなかった。炎はありえない速度と勢いで広間の壁や天井などを這うように広がり、部屋全体をあっという間に朱色の光で満たしてしまった。あらかじめ灯油でも撒いてあったのかと疑えるほどの火勢だ。
「一体どうした!? 放火か!?」
「いや、燭台が倒れたんじゃないか!?」
「燭台が一つ倒れたくらいで、こんな派手に燃えるものか!」
 記者達が逃げながらも火元を推測している。
「おい! ぼんやりしてねえでとっとと走れ! 丸焦げになりてえのか!」
 俺のすぐ近くを走って逃げていくアガプキンの声で、自分が茫然自失の体でいたことに気付いた。目の前で起きている出来事を、まだ現実のものとして捉えきれずにいたのだ。何しろ普通の火の回り方ではない。しかも俺が見ていた限り、何もない場所から突然火柱が発生したように思えたのだ。
 俺は一つ唾を飲み込んだ後、熱された空気に汗が滲み出てくるのを感じながら出口の方へと身体の向きを変えた。と同時に、「助けてくれ! 誰か!」と叫ぶ声がどこかから聞こえた気がした。空耳であってくれという祈りも虚しく、耳を澄ませば声は確かに聞こえてくる。しかしこの劫火の中、バケツ一杯の水も持たない自分に何ができるというのか。
 迷ったものの、逃げ遅れた人間の救助に向かって焼死、という美談を遺すほどの勇気は俺にはなく――恨むなり祟るなり何でもしてくれと思いながら、そいつを見捨てる覚悟をしかけたその時、
「っ!」
 皆が逃げていく出口とは逆の方向、つまり広間の奥へと向かおうとする人影が、俺の真横をすり抜けていく。
 俺は信じられない思いでそちらへと振り向いた。その先にいた人物を見て、更に驚いた。見開いた目に熱風が当たって染みるが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
「おま……ジュアン!!」
 俺の声が聞こえなかったのかあるいは無視をしたのか、どこからともなく現れたジュアンは速度を緩めることなく部屋の奥へと突き進んでいった。悲鳴と炎の唸る音が交錯するこの混乱の場において、ジュアンの靴が大理石の床を鳴らす音が俺の耳に明瞭に響いた。
 まさか取り残された誰かを助けに行くつもりなのだろうか。冗談じゃない、と猛烈な熱さの中背筋が凍りつく。
「無理だ! よせ、ジュアン! おい! ジュアン!!」 あらん限りの声で叫ぶ。
 ジュアンの足が止まった。彼は肩越しにゆっくりとこちらへと振り向いた。あろうことか、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
「まあそう慌てなさんな。誰も死にゃあしねえよ」
「馬鹿言え、逃げなきゃ死ぬに決まってんだろ!」
「大丈夫だっつってんだろ。そんなに逃げたきゃ一人で逃げろ」
「お前を見殺しにできるか!」
「……そいつはどうも、ありがたいお言葉を」 ジュアンは困ったように笑いながら鼻の横を掻いた。そして赤い火の粉が舞う中、彼は泰然自若とした体でわけの分からない言葉を口にした。
「とにかく本当に騒ぐ必要はねえ。触りゃあまあ火傷するが、オレが意図したもの以外燃やさねえようになってんだよ、この炎は」
「……は……?」
「周りをよく見てみろ」 ジュアンは両手を広げて続ける。「床も壁も、天井に描いてある悪趣味な絵やら何やらも何一つ焦げ付いてねえだろうが。落ち着いて見ればこれだけ威勢よく燃えてんのに煙一つ出ていないなんて不自然だと思うだろ?」
 とても冷静に物事を見極められる心境ではなかったのだが、確かに言われて初めて、周囲がそのような状態であることに気付いた。
「どうして……」
 唖然としながら、自然とそうした言葉が口から漏れる。様々な疑問が込められた一言だった。ジュアンはそれをどのように解釈したのか、ただ小さく鼻を鳴らしただけだった。
「このままここに残るってんなら、そろそろ出口を塞がせてもらうぜ。余計な連中がやれ消火だ何だと邪魔しにこねえうちにな」
 ジュアンのその言葉と同時に、開け放たれたままであった扉の間を埋めるように炎が壁を作り、出口を埋めた。客、そして騎士や兵士らも全員部屋の外に逃げていったようで、この炎の中に残されたのは俺とジュアンの二人だけということになったかと思われた。
 だが、実際にはそうではなかった。「助けてくれえ!」という悲鳴じみた声が、再び俺の耳に届いた。今度はどこから聞こえてきているのかはっきりと分かった。広間の奥の炎の向こう、つまり、レグルス王子とベラトリクス王女がいた辺りの場所だ。
 ジュアンにもその声は聞こえていたらしく、くるりと踵を返すと、燃え盛る炎の方へと歩みを再開させた。「おい!」と俺は叫ぶが、直後信じられない光景を目の当たりにし、息を呑んだ。ジュアンの目の前の炎が左右に真っ二つに割れ、奥に進めるよう道ができたのだ。そして案の定、その炎の向こうにいたのは――
「!? 貴様……!」
 驚きに目と口を大きく開けたレグルス王子が、ベラトリクス王女に縋るような格好で彼女の腰にしがみ付いているのを俺は見た。ジュアンの姿を認めてすぐに彼女と距離を取っていたが、見間違いではなかったはずだ。折角の色男が、百年の恋も一時に冷めるであろう無様な有様であった。
「よお。アルバドールを代表して一言祝辞を述べに来てやったぜ」
 ジュアンはそう言って足を止めた。
 炎がより激しさを増したように見えた。次の瞬間、ジュアンのだらりと下がった両手にぐっと拳が作られた。
「――と言ってやりてえところだが、残念ながらてめえにくれてやるのは祝いではなく別れの言葉だ」
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