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騎士の述懐

 - 24 -


 アルバドへ帰る馬車の中で、ジュアンが次のような話をしてくれた。
 何故国王などというやんごとなき身分ともあろうお方が、大陸中央新聞社などという小さな会社に籍を置いていたのか。ジュアンの正体を知って以来ずっと胸に温め続けてきた疑問を、俺がここで口にしたのだ。
「そうだなあ……」
 彼は腕を組み、頭の中で考えを整理するかのように少し間を置いてから口を開いた。
「色々あっけど、まず第一にのんびりと新鮮な空気を吸える場を一つ確保しておきたかったってのがあるな」
「新鮮な空気」
 俺はそれを、王家の人間という立場に囚われず、自由にのびのびとしていられる空間の確保という意味と捉えた。もっと砕いて言えば、周りの目を盗んで本来の仕事をサボタージュするため、地味で目立たぬこの会社を選んだということだ。もしこの仮説が当たっているとすれば、ジュアンの行動はまるで褒められたものとは言えないため、彼を見る自分の目が一気に冷たくなっていくのを止めることができなかった。
「それからまあ、新聞社にいりゃ働き蜂が勝手に色んな情報を仕入れてきてくれる。規模の小せえ会社だからオレの正体が割れる心配も少ない。それにサーシャが話の分かる女で良かった。『補助金』を積むと言やあ二つ返事でオレの申し出を呑んでくれたからな」
「……なるほど。社長は承知していたのか、お前のこと」
 あの人のことだ。金を出すと言えば相手が王族だろうと赤子だろうと構わず会社に置くだろう。
「あとは……」ジュアンの声のトーンが一つ落ちた。彼は顔を横に向ける。そこには居眠りしているレイチェルと、昏々と眠り続けるクリスの姿があった。
「まあこいつは結果論ってことになるんだろうが、クリスを匿うにも新聞社って場所は適していたな。戦闘訓練を積んでる新聞社の連中の中に身を潜めときゃあ、絶対に安全とまではいかずとも、奴に見付かった時に逃げるなり応戦するなりの時間を稼げるんじゃねえかと踏んだ。で、あいつをあの会社に呼び寄せることにしたわけさ」
「うちの会社に来るようになるまで、彼女はどこにいたんだ?」
「城を出てからは、アルバドの某地区の安アパートの一室を借りて護衛と一緒に籠らせておいた。つっても、ちょいちょい護衛の目を盗んで一人で街をふらふらしてたみてえだがよ」
 ジュアンは横目で俺を見やり、眉間に小さく皺を寄せた。「お前さんがクリスと初めて逢ったあの夜もそうだった。あのドジな護衛が城の機密文書をどこかに落っことしちまって、奴がそれを探しに行ってる隙に海までのこのこ出かけたらしい。ったく、誰かの目がなきゃいっつもこうだ、あいつは。何度大人しくしてろと言っても全っ然聞きゃあしねえ」
 そうだったのかと呟きながら、あの日の夜を思い返した。確か彼女はあの後人と会う約束をしていると言っていたはずだが、護衛が戻るまでに部屋に帰らねばならなかったがための言い訳だったと解釈すれば良いのだろうか。顎に手をあて考えていると、
「……この際だからついでにバラしといてやっけどよ、星花の群生地でお前の気を失わせたのはオレだ」
「……はあ!?」俺は顔を上げてジュアンの顔を凝視した。
「悪かったと思ってるって」その顔のどこが、と言ってやりたくなるとぼけた顔で、ジュアンは言った。
 彼の釈明によれば、その機密文書を紛失したクリスの護衛は、探し出すのに時間がかかるとのことで城の詰所に勤務の交代を申し出に行った。そこで代理の護衛への引継ぎに時間を要したため、その間クリスに何かあってはと、たまたま身体が空いていたジュアンがまずクリスのアパートへと急いだ。
 ところが彼女の姿がない。
 よもやと血相を変え、慌てて彼女を探しに出た。すると海で無事クリスを発見し、ほっと胸を撫で下ろしたものの、何と彼女と一緒に余計な男が一人いる。俺だ。
「そこから見てたのかよ」
 突然何者かに薬を嗅がされたかと思えば、何事もなかったかのように自室で目を覚ました時の自身の困惑と焦燥を思い出し、恨み言の一つも言いたくなった。
「どうしてすぐに声をかけてこなかったんだ。あの後俺がどれだけ……」
「分かる。言いてえことは分かるが声をかけられねえ雰囲気だったんだ」ジュアンは両手を前に出して俺の言葉を遮り、傍らの積み荷の山に肘を置いた。「夜更けに死人を見送ってるみてえな顔をしたお前が、浜辺に穴を掘って何かを埋めてるんだぞ。ただ事じゃねえだろ。横でクリスが黙って見ているから犯罪臭は薄いにしても、とりあえず暫く様子を見てやることにしたのはオレなりに空気を読んでやっての行動だ。何か間違ってたか」
「…………」
 ひとまず気を遣って傍観してくれていたらしいジュアンだったが、こっそりと俺達の後をつけ、星花の群生地へとやってきたところで事情が変わった。
「あいつが何やら、よからぬ話を始めそうな気配だったもんでな」
「何だ、よからぬ話って」
 訊ねながらも、うっすらと予測はできた。続くジュアンの言葉は、案の定、といったものだった。
「あそこで……お前の前で暴露するんじゃねえかと思ったんだ――自分が『勇者』だってことを。だから仕方なく……」
「薬を嗅がせて、俺の意識を奪ったってわけか」
 あの時、俺に『聞いてほしい話がある』とクリスが言っていたのを思い出した。また、『見てもらいたいものがある』とも。彼女は、もしかすると勇者の証――あの驚異的な自然治癒力を俺に見せ、自身が勇者であることを証明したかったのだろうか。しかし一体何のために……という疑問と対峙していると、ジュアンが一つの推測を提示してくれた。
 クリスは、新聞社の人間である俺にある記事を書かせるつもりだったのではないか。その記事の内容とは、自分が真の勇者であるというものだ。
 クリスの正体を世間に明かすことについては、ジュアンは一貫して消極的な姿勢だった。仮に彼女が勇者であると世界中の人間が知るところとなったとして、半不死身ともいえる彼女が過激思想の持ち主に殺される危険性こそ低いものの、攫われて軟禁されてしまっては勇者の務めを果たせなくなる。また、フォービドゥンがアルバドに出現することを知らない海外諸国が、我が国に勇者を寄越せと一斉に詰め寄ってもくるだろう。以前、アルバドール城で行われた偽の勇者の勝利宣言についてはどの国も静観の構えでいたようだが、それは彼が真の勇者であるとの確固たる証拠がなかったからと推測でき、クリスのあの自然治癒力を報じれば目の色を変えて食い付いてくるに違いないのだ。
 しかし、正体を明かすことによって得られるのは、こうしたデメリットばかりではないはずであった。世界中の人々が彼女に注目することで、当面の脅威であるディルクはあまり目立った行動ができなくなると予想できた。世界の破滅を目論む、ディルクとはまた別の脅威が新たにクリスを狙いにくる可能性もあるが、そうなればクリスにとってはある意味しめたものだ。国も、あるいは国に協力を持ちかけられた新聞社も、ディルクばかりを追ってはいられなくなる。奴の無事を願うクリスにとっては願ったり叶ったりというわけだ。
「本人に訊いたわけじゃねえから、推測の域は出ねえけどな。けど、あの頃はまだあいつもディルクの件で相当ナーバスになっていたし、こんくらい大胆なことも考えてたんじゃねえかって話だ」ジュアンは背後の荷袋に凭れかかり、大きく息を吐いた。
 星花の群生地で俺が意識を失くした後は、極めて単純な流れであった。ジュアンは俺を肩に担ぎ、クリスと共に浜辺を後にした。最初は俺をその場に放置しておくつもりだったらしいが、クリスに睨まれたので仕方なく家まで運ぶことにしたそうだ。自宅の住所は、途中立ち寄ったサーシャの家で訊ねたとのことだった。
 この話を俺はひたすら憮然とした面持ちで聞かざるを得なかったわけだが、一点だけ、ふと毒気を抜かれる一幕があった。
「そういや、目が覚めた時に部屋に星花が飾ってあったろ。一輪だけ。憶えてるか?」
 ジュアンの問いに、俺は「ああ……」と記憶を探りながら相槌を打った。言われるまで忘れていたことなのだが、ジュアンはにやりと意味ありげに目を細めた。
「あれはな、お前が目を覚ました時に、あの晩のことを全部夢だったと思われないようにっつってクリスが置いてったものだったんだぜ」
「……へえ……」
「少なくとも嫌われてはいねえってわけだ」
 ジュアンがどういう方向に話を持って行きたがっているのかは、そのにやけた顔が物語っていた。俺はうんざりと息を吐いた。彼女の行動は素直に嬉しく思えたが、それをこの男と語り合う気にはなれない。それに――
「嫌われてはいないにしても、嫌われるのは簡単だろ」
「ん?」
「俺がディルクに剣を向けた時点で、俺はクリスにとって不倶戴天の敵でしかなくなる」
 ジュアンの顔から笑みが消える。彼は気まずそうに指先で鼻の頭を掻くと、視線を泳がせ何か言葉を探す素振りを見せたが、結局溜め息を一つ残したきり押し黙った。
 暫く居心地の悪い沈黙が続いた。俺は重苦しい空気を払拭すべく話題を探し、ジュアンにとあることを訊ねた。かねてより不思議に感じていたことだ。
「そもそもの疑問なんだが、ディルクが出奔した後どうしてすぐにクリスを城に匿わなかったんだ? うちの会社に置いておくよりずっと安全だろう。グレバドスであんなことにもならずに済んだはずだ」
 すると、ジュアンは寛いだ姿勢のまま、黙って俺から目を逸らした。この仕草は都合の悪いことを訊かれた時に見せる彼の癖だと後に分かってくるのだが、この時はクリスへと視線を転じたようにしか見えなかった。
 ジュアンはぽつりと答える。
「こいつは、城が嫌いなんだ」
「城が嫌い?」俺は首を傾げた。「どうして」
「さあな」ジュアンは仏頂面で応じた。「とにかく、金輪際城には戻るつもりはねえっつーこいつの意思を尊重したまでだ」
 事態が事態だけに、それだけの理由で? と思わないでもなかった。何かただならぬ事情があるのかと思ったが、しかしこれ以上は触れてくれるなというジュアンからのシグナルを、俺はそのぶっきらぼうな返事の中に感じ取っていた。「ふうん」と俺は相槌を打つだけにとどまり、この話題にひとまず終止符を打った。
 ジュアンの表情は晴れないままだった。が、彼は内心安堵の吐息をついていただろうと思う。俺が大人しく引き下がったことに。そしてクリスの過酷な生い立ちを語る役目を免ぜられ、かつての自身の残酷な所業が今ここで露呈せずに済んだことに。

「あれっ、早いな。もう帰ってきたのかい?」
 ジュアンらと別れ、会社の事務室に入った途端に近くの机で作業をしていたトマに声をかけられた。俺は曖昧に頷いた後、「社長は?」と尋ねた。
「いるけど。社長室に……」
「そうか。ありがとう」
 相変わらず雑多な物が散乱する事務室の床を大股で歩き、出入り口の向かいにある扉の前まで来て一度立ち止まった。背後にレイチェルがついてきている気配を感じながら、拳を二度ほど扉に打ち付ける。いつもならどうぞと許可を貰ってから扉を開けるところなのだが、この時ばかりはのんびりとそれを待ってはいられなかった。「失礼します」と声をかけながら社長室の中へと踏み入ると、真正面の執務机に主の姿がない。一瞬面食らいつつも、目的の人物――サーシャが、部屋の隅にしゃがみ込みながらこちらを見上げているのを見付けた。そして彼女のすぐ傍では、スパイクが尻尾を振りながらパンに齧り付いていた。どうやら食事を与えていたようだ。
「おかえり」
 レイチェルが俺の隣に立ち、後ろ手に扉を閉めると同時にサーシャは立ち上がった。お決まりの腕を組むポーズ。「リクエストしていたグレバドス土産、忘れていないでしょうね。カルセド通りのパン屋のメレンゲ菓子」
 俺はそれには答えず、ずいと一歩サーシャの方へと進み出た。
「聞きました、ジュアンから……いえ、ユリウス王から。全部」
 全部かどうかは疑わしかったが、出だしが肝心とはったりをかけてみた。サーシャの表情にこれといった変化はなかったものの、彼女の周辺の空気が緊張感を帯びたように感じた。
「……無事あの世へお送りできたの? 隣国の軽佻浮薄な王子様は」
「……やっぱり、ジュアンは最初からそのつもりでグレバドス行きの切符を手にしたわけですか」
 するとジュアンと俺が当たりを引いたあのくじ引きも、あらかじめ細工が施されていたものと考えるべきだった。よもや今までのくじ引きすべてに作為的な小細工が仕込んであったのではあるまいなと疑っていると、サーシャは執務机へと移動し、椅子に腰かけ机の上の書類へと目を通し始めた。
 俺は、彼女の気をこちらへと引き戻さんと、グレバドス城で見たもの、起きたことの報告を始めた。レグルス王子にかけられたあの炎の呪いの件に話が及んだ時には、途中何度かごくりと唾を飲み込み、吐き気をやり過ごした。サーシャはいつものように、書類に目を落としたまま俺の話を聞いていたが、俺が一通り話し終えても暫くの間その姿勢を崩さずにいた。やや焦れながら彼女のリアクションを待ち、返事を催促しようと口を開きかけたところで、サーシャはようやく声を発した。
「それで?」
「えっ?」
「まだ何かアタシに報告することがあるんじゃないの?」
 話の先を促され、どきりとするのが顔にも出てしまった。話すべきか否か迷っていることがあったのだ。ディルクとクリスの件である。
「ジュアンとクリスは今どこにいるの?」サーシャが顔を上げた。冷えた宝石のようなアイスブルーの双眸に俺は射竦められた。「ちゃんと四人で帰ってきたんでしょうね? 出張先で再会した恋人と愛の逃避行なんてことにならずに済んだの? あの子は」
「やっぱりそれも知って……」
「知ってたんなら!」突然レイチェルが隣から大声で割り込んできたので、俺はぎょっとして肩を竦めた。「どうして止めなかったの!? クリスがグレバドスについて行くのを。ここで大人しく待っていればあんなことにならずに済んだのに!」
「あんなこと?」
 サーシャが眉を顰める。レイチェルは小型犬が吠えるような威勢で言い募る。
「刺されちゃったんだよ、ディルクとかいうクリスの恋人に! 地面に物凄い量の血がどばどば〜って……死んじゃったかと思ったんだから! 下手したらそのままどこかに誘拐されちゃいそうだったらしいし!」
「あー……それでも一応命に別状はないという話で、容体も安定してはいるようです。今はジュアンと一緒にアルバドール城に向かっています。奴……ディルクは取り逃がしてしまいましたが……」
 クリスの負傷を伝えた途端にサーシャが息を詰めたまま凍り付いたので、俺は横から慌ててフォローを入れた。サーシャの肩から力が抜けたように見えた。
「……言っておくけど、止めたのよ、アタシも。一応ね」
 サーシャは椅子の背凭れに深く体重を預けた。「アタシだって、勇者をこの街から連れ出すのは賛成できなかった。道中不測の事態が起きたとしてもあの子を守れる人間の数は限られているし、何よりあの子がアルバドの外に出ている間にフォービドゥンが出てきてしまったらどうなるの? いくら勇者の身体が丈夫だからって、流石にフォービドゥンの猛撃を食らっちゃひとたまりもないかもしれない」
「フォービドゥンが出現するのはまだ先だってこの間教えてあげたじゃん!」
 いくらかクールダウンしたレイチェルが憮然と言うが、サーシャは首を横に振る。
「あなたのお告げはそれなりに受け入れているけれど、完全に信用できるまでの根拠はない。そうでしょ?」
「根拠? そんなの……うぅ……」
「それに」サーシャは机の上に頬杖をつき、つまらなそうに目を細めた。「ジュアンは『自分が傍についていないと心配だ』って言って聞かないし、あの子も『あんたらについて行きたい』って主張を頑として譲らない。そうなりゃもう好きにしろって言うしかないじゃない、アタシも。形式上はあの子らの上司だっていったって、王様と勇者様に盾突くだけの権力なんかあるわきゃないわよ」
 ぐぬぬ……というレイチェルの悔しそうな呻き声の後、しばし室内に沈黙が落ちた。するとサーシャが気怠げに口を開いた。
「ま、いずれにせよやっぱりアタシの懸念は現実になったわけね。後ろから追っかけられたんだか先に待ち伏せされてたんだかは知らないけど、ディルクは全力であの子を奪い去ろうとしてる。となればあの子を擁護してるウチもそれなりの心構えでいる必要が出てくるわね」
 俺は自分の足下へと視線が落ちていくのを止められなかった。彼女のこの言葉は、城からのディルク殺害の依頼をいよいよ大陸中央新聞社の社員全員に周知することを意味していた。無論、最初に城で言われた通り、『ディルクが勇者を殺そうとしている』という伝え方をするのだろう。実際は世界の命運をかけた痴情のもつれでしかなかったのだが。
「……憂鬱そうな顔してるわね」
 サーシャに指摘され、苦笑と自虐を交えながら顔を上げた。
「いつもこんな顔らしいですけどね、俺は」
 うんうんと頷くレイチェルを横目で眺めるサーシャの口元が微かに緩み、「しっかりしなさいよ」と俺に言う。
「あんたが何をどんだけ心配したり不安に思ったりしたところで、運命の転ぶ先が変わるわけじゃないの。余計なことは考えないで、あんたは今自分がすべきことに全力を投じてりゃいいのよ」
「……ぼーっとしてないで働け、ってことですか」
「よく分かってるじゃない」サーシャの顔に満足げな色が浮かぶ。
 すると脚に何かの感触を感じ、俺は再び視線を下に移した。スパイクが、俺の脚に身体を擦り付けてきていた。
「元気ないからって、慰めてくれてるんじゃない?」とレイチェル。
「犬にまで気を遣われるなんて。情けない」とサーシャ。
「……いや」
 今度は後ろ足で立って脚にしがみついてくるスパイクを見下ろしながら、俺は吐息を漏らした。
「飯をもっとよこせと催促しているだけだよ、こいつは」

 それから三日ほど経った日のことだ。会社に一人の客がやってきた。ドアノッカーの音がしたので玄関の扉を開けてみると、普段あまり来社することのない客層の人間が立っていた。
「何か?」
 虚を衝かれた俺は、目を丸くしてそう口走った。無垢とすらいえる目で俺を見上げていたのは、義務教育を終えたばかりといえるような年代に見える少年だったのである。
「お仕事中すみません」
 赤味がかった髪と、それと同じような色の目をした少年は、あどけなさの残る声でそう言ってぺこりと小さく頭を下げた。つられて俺も軽く会釈を返していた。
「僕はセヴェスタと申します。あの、突然ですがこちらにいらっしゃるヴァイスディーンさんとヴォゼッグさんにお会いしたいのですが」
「俺が……」
「この人がヴァイスディーンさんだよー」
 いつの間に忍び寄ったのか、俺の背後からひょいと顔を出したレイチェルが俺を人差し指で指し示し、次いでそれを自分の顔へと向ける。ふふん、と顔を上向かせ、
「で、あたしが街一番の美少女で有名なヴォゼッグさん。お子様がこんな所に一体何の用?」まるで品定めするかのような目で無遠慮に少年を眺め回した。
 大した歳の差でもなさそうなくせに……と俺はレイチェルにジト目を向けたが、少年は気分を害した様子もなく、涼しげな顔で淡々と答えた。
「あなた方二人がそうというのでしたら話は早い。少しお時間をいただきたいのですが」
「時間?」
「陛下より、あなた方を城へとお招きするよう仰せつかってきました。クリスさんを心配されているだろうということで」
「……!」
 俺ははっと目を見開いた。レイチェルが身を乗り出して少年へと詰め寄った。
「クリスの意識は戻ったの!?」
 俺もそれを訊きたかった。無事回復したからこそ、その吉報を持参してきたのだと思いたかったが、俺達の期待に反して少年は首を横に振った。
「いいえ、まだです。ですが傷跡は完全に消えたとのことなので、もうじき目を覚まされると思います。あの程度の怪我でそんなに気を揉まれる必要はありませんよ」
「心配するななんて、そんなの無理な注文に決まってるじゃない」あの程度の怪我、という少年の言葉に唇を尖らせたレイチェルが、上目遣いで少年を睨んだ。「とにかく何でもいいから早くあたし達をクリスのところに連れてってよ。そのために来たんでしょ」
「……勿論です」レイチェルの棘を含んだ物言いにも動じることなく、少年はどこか大人びた顔付きで顎を引いた。
 出かける支度をするため、少年――セヴェスタを外に待たせ、一度事務室へと戻った。机の上の書類を束ねて脇に寄せる俺の横で、レイチェルが話しかけてきた。
「なーんか変に澄ました子だと思わない? ていうか本当にお城からの使者なのかな。見た目騎士とか官吏とかじゃあなさそうだし、何しろあんな子供だし」
「年齢っていう点に関しちゃきみと大差なさそうだけど」むくれるレイチェルに苦笑いしながら、「まあ、色んな人間がいるんだろ、城にも」
 何しろ国王があんなだからな、と胸中で呟きつつ机の引き出しを開けた時、乱雑に放り込まれている名刺の上に、見慣れないものがあることに気付いた。
「? 何だこれ……」
 手に取って眺めてみる。それは三つ折りに畳まれた厚手の紙だった。ひっくり返してみると、シンプルな題字が目に飛び込んできた。『保険証書』――単純明快な文字列を心の中で読み上げ、紙を広げて中を確認した。そして俺は眉を顰めた。
 奇妙としか言いようのない中身だった。証書の上部に『受取人』と小さく記載があるだけで、あとは真っ白なのだ。肝心の受取人名がないばかりか、何を、というより幾ら受け取るのかも書いていない。保険に関しては全くの素人の俺でも、それが普通の保険証書としての体を成していないことくらいは分かった。
「おい、これ、誰か間違って俺の机にしまっていないか」
 まず第一に保険に加入した憶えのなかった俺は、謎の証書を頭上に翳しながら事務室内にいる同僚達に向かって声を張り上げた。室内にいる全員の目が一斉に俺の手元の証書へと集中したが、自分のものだと名乗りを上げる者はいなかった。数秒後には、誰もが興味を失った顔で自分の仕事へと戻ってしまった。
 戸惑いながら、俺は再び証書へと目を落とした。表と裏を何度もひっくり返して見て、忘れてしまっている出来事がないか記憶を洗い直してみた。世界の滅びを前に保険を契約するなど、全くもって無意味な行為だ。やはりこの証書は自分のものではない――そう結論付けようとした時、忘れてくれるなと言わんばかりに突然一人の人物の顔が頭の中に浮かび上がってきた。
 『私と、契約を結びましょう』――こう俺に告げた彼の声までもが、まるで今耳元で囁かれているかのように鮮やかに蘇ってきた。一緒に底知れぬ薄気味悪さがこみ上げてきたのは、あの男との邂逅は夢であったはずだからだ。
 退避観測の最中、俺は土竜の棲み処で穴に落ち、突然どこかの知らない部屋に移動し、気が付いた時にはまた別の知らない場所で瓦礫の下敷きになっていた。だからあの男とのやりとりは、自分が気を失っている間に見ていた夢であると片付けた。そう考えるのが最も自然だからだ。
 だがその夢の中で、俺は彼に得体の知れない保険の契約を持ちかけられた。彼は俺の不吉な末路を宣告し、俺を助けたいのだと詰め寄り、そして一枚の保険証書を俺の前で取り出したのである。
 夢の中で見た証書と、今自分の手元にある証書とか重なって見えた。そんなわけがなかろうという方向に思考を持って行こうと努力しているところに、ふと思い出したことがあった。
 俺は弾かれたように顔を上げた。そして開けたままの机の引き出しへと飛びついた。ろくに整理をしていない何枚もの名刺を一枚一枚手に取りながら、名前を検めていく。
 次第に動悸が加速していった。夢で出会った男の名前をはっきりと記憶していた事実を、不思議と捉えるべきなのかそれとも不気味と捉えるべきなのか。そんな風に思いながら夢中で名刺を漁っていると、
「…………」
 声を失った。汗ばんできた指で、見付けてしまったその名刺の端をゆっくりと摘み上げる。
『アベル・フォートナー』
「エリオット? どしたの?」
 レイチェルの呼びかけにも、すぐには反応できなかった。「いや……」と擦れた声で何とか返事をし、証書と名刺を重ねて引き出しの中へと戻した。閉じた引き出しに触れたまま頭の中で辻褄合わせを試みたが、どうしたってここに件の名刺と証書がある理由に辿り着けない。
「ね、ね、ぼーっとしてないで早くクリスのとこ行こうよ」
 レイチェルが俺の服を引っ張りながら急かしてきた。
「あ、ああ……」
 この不可解な事態に対しての考察は、一旦保留にしておくしかない。この時最優先に考えるべきことは勿論クリスのことであったし、それに何より、どれだけ考え、悩んだところで答えが見付かるとは思えなかった。
 音もなく忍び寄る、根拠のない不吉な予感。それに俺は気付いてはいたが、ただただ目を逸らし続けた。
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