フルダで遅めの昼食を摂ってアウトバーンを行く。 約2時間とちょっとで、バイエルン州の古都バンベルクに到着。 今日、明日の宿、レジデンス・シュロスにチェックイン後市街地中心部に出かける。 バンベルク見学の予定は明後日、明日はワグナーの聖地バイロイトに行く予定だが、バンベルクを先に書く。

 バンベルクは千年余りの歴史を誇る古都である。 古くからドイツの夢の町、フランケンのローマ、ロマンの町などと称えられて呼ばれて来た。 ユネスコの文化遺産に登録されている。 フルダと同様、司教が領主を兼ねる司教領主国家である。 バンベルクは支流レグニッツ川が主流マイン河に注ぎ込む手前の広大な川谷上にあり、また古代の「ローマ七丘」と同じく、周囲に七つの丘を有するという、調和の取れた自然の真っ只中に位置している。 そして司教兼領主のレジデンス都市としての歴史上の意義等の理由により、バンベルクは「ドイツのローマ」とも言われている。

   

  
バンベルク聖堂(カイザー・ドーム)

 皇帝ハインリッヒII世が1012年に献堂した。 現在の姿に立てられたのはロマネスクからゴチックへの過渡期の1237年。 東内陣はロマネスク様式で、北側廊の正面入り口には最後の審判が描かれている。 中世後期のヨーロッパ彫刻芸術の傑作が数多く見られる。 最も有名な作品は「バンベルクの騎士」。 さらにマリアとエリザベート像、ユダヤ教とキリスト者がある。 中央身廊の東内陣への階段のところに皇帝ハインリッヒII世と妃クニグンデの大きな墓石が置かれている。 西内陣には教皇クレメンスII世(1047年没)の墓がある。 ドイツにある唯一の教皇の墓で、バンベルク司教ズイトガーがハインリッヒIII世の推挙によりローマ教皇クレメンスII世となる。(1046年) しかし、クレメンスII世は在職九ヵ月にて不慮の死を遂げ、聖ミヒャエル僧院に埋葬される。

    
大聖堂の「バンベルクの騎士」

作者も未詳で、13世紀始めのこの作品は中世における支配者の理想像を示すと言われる。 像の人物が誰であるかは今でも解っていない。 頭上には一つの町、即ち天空のイエルサレムを表す天蓋飾りがあり、それからすると、この人物は聖者としての栄誉に預かった人と言える。
 これから推察できるのは、この像の人物はハンガリー国王シュテファンI世(在位997〜1038年)ではないかと思われる事である。 因みに、彼はハンガリー王国のキリスト教化を成し遂げ、その功績によって後に聖者の追号を受けている。 またこの国王は皇帝ハインリッヒII世の姉妹の一人であるギゼラを妃としているため、バンベルクと大いに関係する人物でもあった。

  

 皇帝の墓石(カイザー・グラーブ)

 東側聖壇に至る両階段の中間には、「皇帝高墓カイザー・グラーブ」安置されている。 この墓は司教座の寄進者であり、死後に聖者の号を受けた皇帝ハインリッヒII世と同妃クニグンデのために作られ、かの有名な彫刻家ティルマン・リーメンシュナイダーの作品。 1499年から1513年の間に完成された。
 棺の上蓋には上を向いて臥する皇帝と同妃の等身大のレリーフがあり、また足元の側面には、皇帝の死による妃の皇帝との地上での別離が表されている。 
 皇帝棺墓の長辺側面には聖者となった皇帝と同妃に関する伝説のからの場面が各2ずつ彫られている。

     

   
新宮殿(ノイエ・レジデンツ)

ドーム・プラッツ(ドーム広場)のバンベルク聖堂および旧宮殿に対面する北側には、四翼式の新宮殿(ノイエ・レジデンツ)の直角に交わる二翼の館がある。 

 新宮殿の建設の経緯は、16世紀後半に旧宮殿が領主司教連にとって、その品位の点で不満足なものとなり、旧市庁舎の傍にある城ガイヤーズヴェルトがレジデンス用に拡張された(1585〜87年)。 しかしこの城も数年後には宮殿として不相応と判断され、1605年から1611年にかけて領主司教フォン・ゲーブザッテルは現宮殿の北と西の2翼の館(ゲーブザッテル・バウ)建築を計った。 それから百年も経ずに、後代の司教兼君主ローター・フランツ・フォン・シェーンボルンの命により聖堂広場に面する新たな2翼の館が増築された(1697〜1703年)。

 

 旧宮殿の中庭と新宮殿ばら園(ローゼンガルテン)

 旧宮殿は大聖堂と直結した唯一の皇帝と司教の王宮で、ドーム・プラッツに面して、聖堂の西側に旧宮殿アルテ ホーフ・ハルトゥンクが居を構えている。 中庭への通用門「シェ−ネ ブフォルテ」を潜るとそこは中庭。 木骨の家がそれである。(I) 。

 新宮殿のばら園、未だ2分咲きだった。(II,III)、 花壇と飾りの童子像の上には聖ミヒャエル僧院がそびえ、(IV) 川側には古都の民家の赤屋根が波を打ち、(V) 此処からの眺めは天下一品である。 バンベルク交響楽団の本拠地も見える。 (VI) バンベルク交響楽団はプラハに在ったドイツ・フィルハーモニー及びカールスバードとシュレージェン出身の演奏家達で結成された。 60年代LPレコードが1枚2800円した時代バンベルク交響楽団のLPが1000円の廉価版で出ていた、質の高い演奏で、私は大ファンで在ったのも懐かしく思い出される。

I II III
IV V VI

旧市庁舎(Altes Rathaus)

 この市庁舎はレグニッツ川の中州にに建てられ、両岸と「上下」二つの橋を通して繋げられている為、「インゼル・ラートハウス(島の市庁舎)」、また「ブリュッケン・ラートハウス」(橋の市庁舎)」とも呼ばれる。 この川中という特殊な場所にある市庁舎の存在は、既に1386年の項に記されており、現在の建物は1460年の大火直後に再建されたものである。 1668年に増築された南側の木骨式の小屋は「ロットマイスター(伍長)・ホイスヒェヘン」と呼ばれ、今日迄昔通りの姿を保っている。
 この異常な建設地点に関しては伝説があり、その一つは市民からの「市庁舎建設用地の要求」に対して、司教座側が応じなかった為に中州が選ばれたと言うもの、他の一説は市民側が彼らの居住する島地区「インゼル・シュタット」と領主司教連管轄の丘地区「ベルク・シュタット」との境界線に市庁舎を建設することにより、当時市民が獲得した参政権を威示する為と言うものである。

  
シェレンケルラ Schlenkerla

 ドイツと言えばビールの国、それも地ビールの本場である。 現在ドイツ国内には、約1300のビール工場がが在るが、その昔は5000とも6000ともいわれていた。 「ビールは、ビール工場の煙突の影が落ちる範囲内で飲むべきもの」であったそうだ。 バンベルクにはラオホ・ビールRauchbierというスモークビールが有名である。 濃い赤茶色の苦味が程よく利いたビールである。 原料のビール麦を一度煙(Rauch)に通している(麦芽乾燥にぶなの火と煙を使う)のでこの名がついている。 このラオホ・ビールの最も有名な醸造元はSchlenkerla。 直営のレストランはザント通り(Oberesandstr.)にある。



 ローマのベニス??

 教会の小広場からエリザベーテン・シュトラーセ(Elisabetenstr.)を下ってくるとオベーレサンドシュトラーセ(Oberesandstr.)と交差するが、更に進むとレグニッツ河岸に着く。 この地点からは対岸に立ち並ぶ家屋の列が美しい。 「クライン・ヴェネディク」と称される「小ベニス」地区への眺めが味わえる。 初日の夕刻となって日が沈むころの夕景が”泰西名画”そのものと印象的だった。
I II III

ドイツの歴史 IV

(3) プロイセン王国

 18世紀にホーエンツォルレン家が常備軍制度 や、中央集権の能率の良い国家プロイセン王国を建設し諸国の併合を始めるが、ナポレオンによって 一時中断される。 しかし彼の失脚によって活動を再開したプロイセン王国の首相にビスマルク(1862〜1890年)が就任すると「統一と言う大問題は、言論や多数決で決められるのではなく、鉄と血によってのみ解決 されねばならない」と演説し、ドイツの工業化と武力による統一を進めたところから、鉄血宰相の名を 贈られる。

 1870年、普仏戦争に勝利したプロイセンは「ドイツ帝国」を設立し、1871年、ヴィルヘルム 1世はウェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として戴冠式を行う。

 この帝国は第一次世界大戦の敗戦で崩壊するが、神聖ローマ帝国を第一帝国として第ニ帝国と呼ぶ。  さらにヒトラーは自分の作った帝国を第三帝国と呼んだが、これも第二次世界大戦で崩壊する。

 やっと「ドイツ」なる国名が出てきた。 ここまでの長いお付き合い本当に有難う御座いました。  では、これまでに使われたドイツとは何なんでしょうか?

(4)「ドイツ」

 ドイツという言葉は8世紀頃から使われ始めたらしく、当初はフランク王国の東部の方言を「ドイツ語」 と言った。 フランク王国が東西に分裂すると「ドイツ語」という方言を使う東フランク王国の人々や、彼らが住む地域も指すようになった。

 ナポレオによるドイツ支配の時代に、ドイツ人の中にそれまでの地方や都市それぞれが独立国家であった 意識から、同じ言葉を話す民族という民族意識が芽生え、ナポレオンの失脚後小国家群が連邦国家を 形成する。

  

とーるくん