バンベルグのホテルを朝8:00に出発、アウトバーンを70号線、7号線と戻ってフルダを経て4号線に入る、チューリンゲン州に入った所に旧国境跡、東側の検問所は大きなサーヴィスエリアになっていた。 監視塔はそのまま残っていた。 見た目は変らないのに旧東独側のアウトバーンの舗装はガタガタ、統合後10年余を経たというのにインフラの整備の遅れは残っていた。

 3〜40分行くと左手に山が見え、頂上にお城が見えてきた、ヴァルトブルグ城だ。 ワーグナーの歌劇「タンホイザー」の舞台である。

 アイゼナハは、若き日のルターやバッハが過ごしたところでもある。 また東独時代から自動車の町としても知られており、統一後はヨーロッパの最先端を行くオペルの工場が在る事でも知られる。 マルクト広場にある高さ62mの塔を持つ教会が聖ゲオルク教会。 ルターは神聖ローマ皇帝から国外追放令を受けた後もここで説教し、バッハは1685年に洗礼を受けている。


  
バスの窓から見たヴァルトブルク城

 この城は1067年、チューリンゲン伯ルードヴィッヒ・シュプリンガーによって築かれた。 この丘を見たチューリンゲン伯が、待て(ヴァルト)汝わが城(ブルク)と叫んで、長い年月をかけて築城したドイツ屈指の歴史を誇る風格のある古城で、ワグナーの歌劇「タンホイザー」はこの城が舞台である。 ヴァルトブルク城のことは後に詳しく書く。

バッハの家(Bachhaus)

 この町で生まれたバッハが子供時代をすごした家(生家は不明)で今はバッハ博物館になっている。 中庭にはその時代からのものと伝えられる葡萄やバラの株が残っている。 内部には当時の生活様式が解るように再現された居間などの他、バッハとその一族の歴史、貴重な古楽器などが展示されている。

  展示されている古楽器の演奏が披露された。 内オルガンが2種類あった。 I 足踏み式オルガン II ベルトふいご式オルガン III クラヴィコード IV シュピネッツ V その他弦楽器類の展示もされていた。 VI バッハ本人をモデルに書かれた肖像画(極めて少ない)も展示されている。 ベルトふいご式オルガンは知識としては知っていたが実際に現物を見るのは初めてで極めて興味深いものだった。 演奏終了後CDで @初期ケーテン時代の宮廷音楽 A晩年ライプッチッヒ時代の教会音楽が演奏された。
I II III
足踏み式オルガン ベルトを手で引っ張ってふいごが
作動する、グループの一人が協力
クラビコード
金属片が弦を叩いて音を出す

IV V VI
シュピネッツ
鴨の羽の軸片が弦を弾く
弦楽器類 バッハの肖像画
本人自身がモデルとなった珍しいもの

ルターの家

 1498年から1501年まで、ラテン語学校の生徒時代のルターが住んだ家で(下宿)、この町に残る最も古い木骨組みの家。

市庁舎=市宮殿

 バッハの父も務めた市庁舎、ゲーテも公務で滞在した市宮殿。

   
ヴァルトブルク城

 主要部分は1170年の後期ロマネスク様式のもので、内部の「エリザベ−トの間」のモザイクが大変美しい。 13世紀の始め頃、この城には多くの詩人やミンネゼンガー(吟遊詩人)が招かれ詩歌を競い合った。 この情景が「歌合戦の大広間」の壁に描かれている。 タンホイザーは実在の歌手で、この歌合戦で優勝している。 また国外追放令を受けたルターを、領主が皇帝からかくまった小部屋もある。 騎士に変装したルターは、1521年5月から10ヶ月の歳月をかけて、この小部屋(ルターシュトゥベ)で新約聖書をドイツ語に翻訳した。

 

 ヴァルトブルク城の内部

 
I II III
歌合戦の間 玉座の前に置かれた古文書 「タンホイザー」の歌合戦の
ようすを描いたフレスコ画
IV V VI
エリザベートの間 エリザベートの間 中庭からルターの部屋を望む
VII VIII IX
Luterstube
ルターが新約聖書を
ドイツ語に訳した小部屋
Luterstube
或る日翻訳に疲れると悪魔が現れて
インク壷を投げつけて出来た染み
コンサートも開かれる祝宴の間

 歌劇「タンホイザー」の筋書きはこうだ-----ヴェーヌスの山で愛の女神ヴェーヌスとの愛欲の生活におぼれたタンホイザーは、領主ヘルマンと、タンホイザーを愛する領主の姪、清純なエリザベートの前で、ヴォルフラム・フォン・エシェンバッハやヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデといった当代きっての歌手たちを相手に愛の歌を競うが、ヴォルフラムが愛を清らかな泉として歌ったのに対し、タンホイザーは官能の歓びを歌って聴衆の騎士たちの憤激を買う。 この場はエリザベートの必死のとりなしで収められるのだが、タンホイザーは領主の命でローマ教皇のもとへ懺悔の旅に発つ、教皇は彼がヴェーヌスの丘にいたと言うと「わが手にする杖が永遠に緑の芽を吹くことがないように、おまえにも決して救いは与えられない」と宣言した。 こうなってはヴェーヌスに戻るしかないと言う。 エリザベートは自分の命と引き換えに彼の許しを願う。 エリザベートが命を捨てて彼の救済を願った事をヴォルフラムに告げられると、「聖なるエリザベート、私のために祈ってくれ」とつぶやいて、タンホイザーは彼女の棺の上に倒れて息絶える。----というものだ。

 
 ブルエンシャフトの祝祭が開かれた祝宴の間

ブルエンシャフトというのは、ナポレオン打倒後の1815年、ドイツ-----個々のドイツ諸国ではなく-----を共通の祖国とみなすようになった戦場帰りの学生たちが、ワイマル領イェーナの大学につくった新しい学生団体で、全ドイツ的革新的な学生運動となった。 そしてこの学生たちが1817年10月19日に、宗教改革の三百年祭と、ナポレオンを破ったライプツィヒの戦勝記念をあわせてワルトブルクで祝ったのがこの祝祭である。



  
ニコライ門

 1200年にできた後期ロマネスク様式の市門で、現存する最古の市門といわれている。 今回観光予定表にはなかったが時間があったら行ってみたいと思っていたが、幸いにも行きに通過した。

  
聖書のドイツ語訳について

 現在では聖書の翻訳と聞いても驚く事ではないが、この当時スペインのサマランカ大学の神学教授フライ・ルイス・デ・レオンが「ラテン語の聖書よりヘブライ語の聖書の方がただしい」と学生に説いただけで、5年間の牢獄生活を送らなければならなかった。 

 当時の一般市民は、ラテン語を読めても聖書を読む事は教会が禁じていた。 聖書を読むのは聖職者の専業で、一般信者にも聖書物語を目で理解できるように、教会の入り口の彫刻やステンドグラスがつくられた。 この事は思いもかけぬ文化遺産を後世に残すという功績もあった。

 このような状況の中で、一般人に読ませる事を目的として聖書をドイツ語に翻訳するなど、ローマ教会(カトリック)から見れば死罪に当たる大罪であった。 ルターの行為を別の角度から見れば、このような事を許した領主や市民の存在こそ重要で、これが後の「ルターの宗教改革」や「宗教戦争」の土壌と言えるであろう。 さらに言うならば、この時期、金銭を湯水のごとく使ってローマのサン・ピエトロ教会が建築中であり、この財源を搾り取られたドイツ人のローマ教会に対する憎しみが見て取れる。

 なおルターのドイツ語版聖書は100万部を超えたが、彼は印税の全てを教会に寄付した。

 新約聖書のドイツ語約という事は宗教生活のみならず、言語、文化の発展への貢献となった仕事なのだ。 ルターの訳の聖書が共通ドイツ語の成立に果たした役割である。

 ドイツでは今でも地方ごとに言葉づかいがかなり異なるが、ドイツ語を地域的に大別すると、南ドイツの高地ドイツ語と北ドイツの低地ドイツ語に分かれる。 その違いは、昔は今よりもっと大きかった。

 ルターの父はチューリンゲン地方の農家の出で(母はアイゼナハの人)彼もチューリンゲンの人間なのだが、この地方は低地ドイツ語と高地ドイツ語の中間地帯として共通ドイツ語を作り出す土壌をもっていた。 そして彼はザクセン選帝候国の官庁用語を基礎としながら、生きた民衆の言葉を大胆に取り入れた。 ドイツ語の発展の歴史の上で、ルターの聖書翻訳のなした貢献は計り知れぬほど大きいのである。   



とーるくん