アイゼナハの駐車場をバスで出発、アウトバーン4号線で約1時間エアフルトの町に着いた。 今夜の宿のラディソンサスホテルに入る。 最近立てられた(改装された)ホテルで設備は良いが味も素っ気もないホテルだ。 夕食がツム・ゴルデナー・ラーデと言う外のレストランのためバスで大聖堂広場(Dom広場)まで行く。 市内観光は明日の予定だ。

 森に囲まれた盆地のエアフルトは、805年にカール大帝が開いた町とされている。 また、この町に司教座が創設されたのは742年、ヴィンフリ−ト(注 後の聖ボニファティウス、フルダの項参照)による、ともいわれている。 エアフルトは、ライン川〜北ロシア、北の港湾都市と〜中央ヨーロッパを結ぶ交通の要衝で、商業都市として1200年の歴史を誇り、15世紀にはハンザ同盟に加盟している。 町には中世の繁栄した時代の面影を残す華麗な建物が並んでいる。 チューリンゲン州の州都でもある。

 市内見学の当日は自転車競技ドイチェラントツァー開催のためバスは市内通行禁止、すべて徒歩での見学となった。

ドーム広場から見る大聖堂(左)とセヴェリ教会(右)

 町の象徴とも言うべき丘の上に立つ巨大な大聖堂。 見学のルートとは別にまず最初に上げねばならない。 大聖堂は1154年にはロマネスク様式のバジリカに、1349年から1370年にかけて内陣はゴシック様式に改められ、現在の形になったのは1465年。 

 セヴェリ教会 13世紀から建築が始まった3本の尖塔を持つ特徴のある早期ゴシック様式の建物で、大聖堂の右側(ドーム広場から)にあり、共通の階段でドーム広場につながっている。

ルター像とカウフマン教会

 ルターはアイゼナハのラテン語学校卒業後、エアフルトの大学に入り、その後アウグスト修道院で宗教生活を始める。

 ここはカウフマン(商人)教会。 1668年バッハの両親はここで結婚式を挙げた。

クレーマー橋 I

 東西交易の中心地として、ゲラ川の上に築かれた橋。1156年に木組みの橋が架けられたが、後に石橋に改築された。クレーマー(商人)の名の通り橋の上には17〜19世紀に建てられた32軒の商店が建ち並び、橋から川は見えない。 フィレンツェのポンテ・ヴェキオと同じスタイルであるが、両側に商店の建ち並ぶ橋でアルプス以北で現在残っているのは、この橋だけと言われる。

クレーマー橋の道の両側には
びっしりとお店が建ち並んでいる。
最盛時には62軒の店が
並んでいたという。
 

クレーマー橋 II

 ゲラ川河畔から見たクレーマー橋。 長さは125mある。 橋を渡っている人にとっては、川が全く見えないため橋を”渡っている”という実感はない。

 

復活祭の日曜日におもちゃのアヒルで
競争が行われる場所
川にはみ出した建物、貧乏学生の安下宿だった

大青(たいせい)商人の家

 青い色の染料を植物から作っていた。 この地方の特産物で大いに繁栄した。 しかし、中国から藍染料が安く入ってきて衰えた。 製造には副原料として尿を大量に使ったと言う。

  

 

再建中の大学本部

 第二次世界大戦中で破壊された建物の修復が進んでいた。 東独時代には放置されていたと思われる

   

金の星館

 免罪符の印刷で大いに儲けた家だそうだ。



フィシュマルクト

 フィシュマルクトは昔魚市が立ったのでこの名があり、華麗な建物が競い合うように建っている。 広場中央の像は1591年のローラント像(ブレーメンの項参照)、その後ろはフィシュマルクト・ギャラリー(1562年)北側のルネサンス様式の建物は旧手工業会館、ネオゴシック様式の市庁舎は1871年に完成した。

フィシュマルクトの周りの様子

 
I II III
ローラント像 フィシュマルクト・ギャラリー
Zum Breiten Herd
旧手工業会館
Zum Roten Ochsen
IV V VI
フィシュマルクト・ギャラリー
五感の小壁 "視"
フィシュマルクト・ギャラリー
五感の小壁 "聴"
フィシュマルクト・ギャラリー
五感の小壁 "嗅"
VII VIII IX
フィシュマルクト・ギャラリー
五感の小壁 "味"
フィシュマルクト・ギャラリー
五感の小壁 "触覚"
旧手工業会館
神話人物の装飾

  
大聖堂広場

 大聖堂、セヴェリ教会の共通の階段上から見た広場。 

  
ドイツの歴史(VI)

☆第二次世界大戦後のドイツ

 今日のドイツは1989年のベルリンの壁崩壊に続いて、90年10月3日、東ドイツ国民会議が東西ドイツ統一条約を批准し、西独の11州に東独の5州を加えた16の州からなる連邦国家である。

 第2次大戦に敗れたドイツは、1945年7月トルーマン、チャーチル、スターリンの3巨頭によるポツダム会談後のポツダム宣言によって、米、英、ソ、仏の4ヶ国に分割占領される。 さらにベルリンはこの4ヶ国に分割占領されるが、その後の冷戦の激化の中で1948年、ソ連はベルリンを封鎖する。 連合国軍側は、同年6月から翌49年5月まで延べ19万5000便と言われる「ベルリン大空輸」で、食料・医薬品・石炭など全ての生活必需品を空輸し対抗する。

 1949年5月23日、米英仏の3占領地区はドイツ連邦共和国(西ドイツ)として、同年10月7日、ソ連占領地区はドイツ民主共和国(東ドイツ)としてそれぞれ独立する。 その後両国の溝はますます深まり、西ベルリンへの住民の逃亡を防ぐ目的等から、東ドイツは1961年8月、境界線に高さ4m、全長155Kmに及ぶいわゆる「ベルリンの壁」を築き東西ベルリン間の一切の交通を遮断した。 こうして監視塔と機関銃で守られた壁の両側で、自由主義と共産主義の正反対のイデオロギーがそれぞれの復興の道を歩んでいく。

 西ドイツは日本と並んで奇跡の復興を遂げ、経済大国の階段を駆け上っていいくが、大きく遅れを取った東ドイツは、オリンッピックのメダル獲りでは大活躍するものの政治・経済は行き詰まり、89年の民主化要求、外国旅行の規制廃止などを求める民衆が東独各地で抗議デモを起こし、これに屈して89年11月9日ついに壁を開いた。

 統一後のドイツは経済的な東西格差、失業問題などから若者の心が荒み、ネオ・ナチと称する若者の集団が外国人(出稼ぎ人)を襲撃したり、EUの中心国とは言うものの、多くの問題を抱えている。 しかし統一についての西側の失政には、マスコミはあまり報道していないと言われる。   



とーるくん