釜山府立第7国民学校

 初めて韓国に出張した、昭和43年4月(1968年)の事である。 旅程の関係で週末を釜山で過ごすことになった。  ここは昭和17年(1942年)8月から昭和19年5月まで約2年間生活した思い出の地だ。 そうして私が交通事故に 遭い左足を切断したところでもある。 昭和17年4月、東京の世田谷区立桜ケ丘国民学校に入学、一学期を 終えたばかりで転校したのである。 この年から小学校は国民学校と名を変えていた。

 当時は日本の統治下にあり(韓国で日帝時代と言われている)、随分不合理な事が行われていた。  内鮮一体と言いながら、国民学校も日本人学校と朝鮮人(と当時は言っていた)学校は別だった。  それでも所謂やんばん(李朝時代の支配階級)の子息が一クラスに2〜3人いた。 内地はこの年(懐かしい言葉、北海道では今も使われている) 帝都初空襲があり、南京米が配給されるようになり、食糧事情も日々悪くなっていった。 が、外地は別だった。 銀シャリが食べられた。 甘いものもふんだんに在った。 

 住んでいたのは釜山府大倉町4丁目、勿論今の住所表示は全く違う韓国語表示である。 住家は駅前通にあった。 前の通りには釜山瓦電会社の経営する路面電車が 走っていた。 西に向かうと大庁町を経て三中井?(みなかい)デパートを左手に見て影島に渡たる可動橋に出る。 大庁町(日本名)から電車は分岐して右折する。 暫らく進んで左折すると右手に釜山府立第7国民学校はあった。

 釜山の休日に、昔学んだ国民学校を探し出すと言う事に思い至った。 手がかりは上の記憶だけ。 何しろ24〜5年前の 8歳頃の記憶だけである。 はたして見つけ出す事が出来るのか自分でも自信はなかった。 振り出しは駅前の道からだった。 家はもうない。 数年前の大火で焼けたのだろう。  しかし子供の頃の記憶と言うのは案外正確で、その通りに辿って行くと懐かしい校舎にめぐり合えたのである。  現在も国民学校として使われていた。 因みに韓国でも国民学校と言っていた。 当時では珍らしい鉄筋コンクリート建てだった。 

 校庭の中に入っていった。 休日の所為で見咎める人も無い。 前述のように怪我のため、実質1年しか 通ってない。 校舎には入ることが出来なかったが、その当時の僕の教室まで特定する事が出来た。 大変な感激だった。 唯それだけの話である。 でも、外国になってしまった(元々外国だったのだが) 土地でよもや逢えるとも思わなかった学校とめぐり合えて感激したのである。 数奇なめぐり合いだった。  

とーるくん