北京今昔

 生まれて初めて外国に出張する事になった。今から32年前、昭和38年11月(1963年)の事である。 出張先は北京、 当時は中国のことを”中共”と言って日本は国として認めていなかった。  勿論、国交関係などある筈はなかった。 今なら成田から3時間25分で北京空港に着くのに当時は丸三日間半 かかって行ったのである。

 まず旅行事情からお話してみたい。 国交のない国であるから直行便などない、まず香港から 行くのが最短だ。 香港で中国旅行者の係員が我々のパスポートを持って広州に行きそこで入境 (入国)ビザを貰って、翌々日香港に帰ってくる。 勿論中国の機関からのインビテーションレターが あることが前提になる。 そうして香港から九広鉄道で羅湖迄行きそこで香港からの出国である、 それから100メートル程行くとわずか10メートル程の川がありそれが香港と中国の国境となっている、川の手前には ユニオンジャックが翩翻と翻り、かの有名なグルカ兵が守備している、一方対岸には五星紅旗がはためき、 マンドリンと呼ばれたソ連製の軽機関銃を構えた人民軍の兵士が立っていた。徒歩で鉄橋を渡ると中国側の 国境の街、深センに着く(土偏に川と書く、今では想像もつかぬまったくの農村) これから先はは日本政府の保護が全く受けられない、 生殺与奪の権を中国側に握られていると思うと心細い限りだ。 更に鉄道に乗り継ぎ広州に着く そこで1日を過ごし、翌日早朝国内線の飛行機に乗り長沙、武漢、鄭洲と伝って一日がかりで北京に 着く。 機種はソ連製のIL16と言う双発機、機内アナウンスの設備もなく、”同志”と呼ばれる、 ぶくぶくとした紺色の綿入れの服を着たスチュワーデスが大声でわめく、便所の扉が壊れて閉まらない 、おんぼろの機体だった。(因みにホテルの従業員、タクシーの運転手、店員も皆”同志”である) 北京に着いたのは東京を出てから3日目の極寒の夜更けただった。

 ★左から入境ビザ、滞在ビザ、出境ビザの順



 まずビザである。香港で(広州で)入境ビザを取る、北京に着きホテルにチェックインすると、 パスポートは召し上げられる、そして滞在ビザを貰うが帰国の予定がくるまでそのままホテル側に 取られたままだ。 帰国の予定と言っても中国側が満足するまで帰国の許可は得られない。 可となると出国ビザが発給される。それまではパスポートにはお目にかかれない。 ビザと言っても 日本国を認めていないから、パスポートに写真のようなザラ紙のピラピラがクリップで 止められただけのものである。

 そして連日朝から商談、夜は日本側の作戦会議、それから電報にまとめ て北京郵便局にタクシーでだしに行く、帰ってホテルでベッドに潜り込めるのは午前1時過ぎと言うこ とになる。約一ヶ月に及ぶマラソン交渉の合間に、やっときた土、日曜日、疲れて寝ていたいのに今日は故宮博物院、 人民公社の見学だ、八達嶺だイ(臣と言う偏に頁と言う字)和園見学だと中国側に引っ張りまわされる、夜は夜とて、歓迎の宴会だ 、答礼の宴会だと宴会ずくめ、連日のように乾杯(カンペイ)カンペイと休まる暇も無かった。 おまけに団長さんが宴会の席で、 「京劇には感心した」とのお世辞を言ったら、早速団長さんがお気に入りのようだからと2回も京劇の招待。  お陰で疲れはしたが北京の観光はあらかた出来た。

 北京の街は大きな田舎と行った趣で高層ビルなどはなく、ただ、だっ広い車など滅多に通らない道が有るばかりで 、義和団事件を扱った映画「北京の55日」そのままの雰囲気であった。  街に買い物に出ても王府井に国営の百貨店が有るだけでそこに入って「これ見せて下さい」 と言うと店員は「没有(無い)」「他にないですか」「不知道(知らない)」という応答する、まるでよけいなものがきた言わんばかりの態度である。  店員同士でおしゃべりをし、何を聞いても知らんぷり。 それが「改革解放、社会主義市場経済」で今やまず店に入ると「歓迎光臨 (いらしゃいませ)」の言葉が聞こえるのは勿論、百貨店、スーパーどこへ行っても多くの商品(外国ブランドまでも)をズラリと陳列してあるという 。 

 また当時はスカート姿などにはお目に掛かれず、若い女性が黒に近い紺色の綿入れの 服にズボンといった出で立ちだった。 いったいこの国には女性はいるのかしらと思えたものである。 ちょうどそのときポーランドからマゾフィシェ民族舞踊団が公演に来ていて同じホテルに滞在していた のだ、そのスカート姿を見たときクラクラと目眩にも似た衝撃を受けたものである。  それが今では厚底靴にミニ・スカで闊歩する女性が見られと言う。 全く今昔の感に耐えない。

とーるくん