ハンミュンデンを17:00に出発して約40分後の17:40、 メルヘン街道第2の都市カッセルの宿に着いた。  カッセルの町の一番の売りはグリム兄弟、第二は町の西に広がるヴィルヘルムヘーエと言う丘一帯に広がる350ヘクタール にも及ぶ大庭園公園だろう。  また戦前は航空機と戦車製造の中心地であった為、連合軍の爆撃によって町の80%を破壊された。

 カッセルはグリム童話の誕生の地として知られ、グリム兄弟の兄ヤーコプ(1785〜1863)、弟のヴィルヘルム(1786〜1859) はハーナウの裁判官の家に生まれ、兄弟は父の死後カッセルの宮廷女官長であった伯母の援助により、 1798年、中学入学のためこの町に移り住む。 兄弟は約30年間この町で暮らすが、 この間ドロテア・フィーマンという話ずきの女性と出会う。

 ドロテアは旅館の娘で記憶力抜群であった。 宿泊客の商人、軍人、職人の他あらゆる種類の人から 聞いた話、伝説、昔話などを子供たちに、おもしろおかしく聞かせるのが楽しみであった。

 グリム兄弟は約1年半にわたり彼女の話をメモし、更に弟ヴィルヘルムと結婚することになる 薬局の娘ドルトヒェン・ヴュルトンが語った昔話も加え、これらをまとめて1812年に出版したのが 「子供と家庭のメルヘン集」である。 しかし子供向きでない話や表現にも問題があり批判を招く。  兄弟はその後、版を重ねるたびに手を加え初版とはかなりスタイルを変えていった。

 この町にはフランスの宗教戦争などで難を逃れて移り住んだ人の子孫も多く、1806年には ナポレオンの軍隊に占領される。 このためドロテアの旅館にも、多くのフランス軍関係者が 宿泊したと思われ、彼女はフランスの伝説・童話などを聞き、彼女なりにアレンジして子供たちに はなしたであろう。 グリム童話にフランスの昔話が数多く含まれているのはこのためで、もし兄弟と 彼女の出会いがなければ、グリム童話は生まれなかったことと思う。

 1808年10月、この地を治めていたナポレオンの弟のウエストファリア王 ジェローム・ボナパルトは、宮廷楽長としてベートーヴェンをこの町に迎えようとした。  ベートーヴェンも乗り気であったが、ウィーンの貴族に引きとめられ断念する。 当時の彼は交響曲 第5番「運命」、第6番「田園」を手掛けており、もしこの町の宮廷楽長となっていたら、「運命」 や「田園」の運命はどのように変っていたであろうか。

 ヴィルヘルムヘーエの大庭園は、ヘッセン公国のカール方伯時代の1701年にイタリアの建築家グルニエロの設計によって バロック式の庭園として整備された。 18世紀後半になって当時流行のローマ時代の廃墟のようなものを置いたイギリス式庭園に 改造された。 園内はヘラクレス像、レーヴェンブルク城の他、水の階段や大噴水など見所が多い。


  
ヴィルヘルムスヘーエ城

内部は美術館になっている。  ヴィルヘルムスヘーエ公園の中心に位置し、ヘラクルス像台座の下から流れ出、高低差200メートルの園内を巡って 最後に50mに達する大噴水を正面に見る位置にある。

    
ヘラクルス塔

一番高い位置にある、八角形の台座(36m) に乗ったピラミッド(30m)の頂点に立っている8mのヘラクルス像が立っている。  

  

 

ヘラクレス像

高さ8mのこの像のモデルは 有名なファルネーゼのヘラクレス(ナポリ国立考古学博物館蔵)で、台座からの高さは72mもある。

   
水の大階段

 ヘラクルス像台座の下から水の 階段が始まる。 水は大階段を流れ落ち、高低さ200mの園内を巡って、最後に50mに達する大噴水と なって吹き上げる。 イヴェントは5月下旬から10月3日までの水曜と日曜・祭日、14:30〜15:30にかけて行われる。  今は流れていない。

  
レーヴェンブルク城I

流れの途中に レーヴェンブルク城がある。 1793年から1801年にかけて造られたが、一部を廃墟のようにしたり古城を思わせる幻想的な城館 。 内部は美しいステンドグラスのほか、武器、骨董などが展示されている。



  
レーベンブルク城II

廃墟風に作られた部分、この外各所に このような細工が見られる。   

 

  
シュタインホーファ滝

流れも次第に終わりに近ずき とうとうと流れる滝となる。



アクヴェドゥクト(水道橋)

古代ローマ時代の 水道を模したもの。 

    
大噴水

華麗な水の スペクタクルも最後となった、50mに達する大噴水となって吹き上げる。



  
グリム兄弟記念館

自筆の原稿や、世界約70ヵ国 に翻訳、発行されたグリム童話の本の展示を中心に、グリム兄弟の業績などを、さまざまな角度からとりあげている。  末弟ルードヴィッヒの描いた挿絵も展示されている。

フリデリチアヌム美術館

フリデリチアヌム美術館は擬古典様式で1770年に完成、ヨーロッパ大陸で最初の博物館建築とされる。  ドクメンタ(5年に一度の国際美術展)期間以外はさまざまな企画展の会場として使用されている。 レンブラントの コレクションで知られる。

  


ドイツの歴史 II

2.神聖ローマ帝国

 952年、ローマ教皇は東フランク国王オットー1世 により戴冠し、以後東フランク国王は、神聖ローマ帝国皇帝と呼ばれるようになる。 こうして神聖ローマ 帝国は、ヨーロッパ・キリスト教国の支配者としてフランスやイギリス国王の上に立つ権威は 認められたが、これらの国に君臨したことはなかった。 ドイツ国内でも自治権を持った小国家が 続々と誕生し、15世紀頃には諸侯や都市国家など、約300の独立国家の集合体(領邦国家)と なっていた。 独立国家の集合体では首都は定められず、皇帝の選挙と戴冠式は最初はアーヘンで、 1562年以降はフランクフルトで行われた。

 領邦国家にならざるを得なかった理由はドイツの歴史I で述べたが、神聖ローマ帝国とは、江戸時代 に日本国内の各藩が全て外交や通貨の発行を独自で行う独立国となり、将軍=皇帝は各藩主が選挙 する、と言う形を頭の中に描いて頂けばきわめて近いと思う。

 こうして軍事力による保護を得た教皇であるが、皇帝を自分の下に置こうと画策し、皇帝の勢力を 殺ぐため自治権を持った領主に手を回し、教皇派対皇帝派の陰湿な長い争いが始まる。 イタリアでは 都市も二つに分かれ、抗争を繰り返す。

 フランク族は建前として国王は、諸侯たちの選挙によって選ばれることになっていたが、 大半の期間はホーエンシュタウヘン家とハプスブルグ家が皇帝を務めた。 ホーエンシュタウヘン家の 末期、13世紀半ばのフリードリッヒ(伊、フェデリコ)2世の時代には、シチリアのパレルモに本拠を 構えてローマ教皇を牽制するが、教皇派との対立に神経をすり減らす皇帝の目はドイツまで回らず、 ドイツ地方での諸侯の実質的な独立はますます進み、さらに力をつけた都市も独立し、14世紀には これらの都市はハンザ同盟などを結ぶ。

 神聖ローマ帝国を強大にせず、イタリアにも大国を作らせないという教皇の作戦は成功し、ドイツは 小国を集めた「領邦国家」となる。 なお1806年、この「領邦国家」はナポレオンに占領され、 神聖ローマ帝国は崩壊する。 

以上でお分かりの通り、神聖ローマ帝国は誕生の時から国境線など良く分からない国であったと理解 頂きたい。

 ナポレオンの失脚後の1815年、ウィーン会議でドイツ連邦構想が生まれる。 この連邦は35の 諸侯と4っの自治都市からなっていたが、ここで初めてドイツと言う国が胎動を始める。



フリデリチアヌム美術館と道を挟んで Staatstheater Kassel がある。  そこの中に Opernhaus と Schauspielhaus があり毎日オペラ、バレー、演劇が催されている、この日も  Opernhaus では 「トスカ」が上演されていた、同行のM氏ご夫妻に誘われて、当日売りのチケットで聞いた。 ドイツに多い現代的演出で 初めは違和感を覚えたが、それなりに楽しめた。 前から4列目中央という一番良い席でわずか DM51.50 で(約3500円)。  日本で聞けば数万円、あまりに違いすぎる。

とーるくん