ワイマルのゲーテ広場よりバスに乗車アウトバーンで約二時間、この日の宿、ホテルドリントに着く、夕食後希望者だけ有名なアウアーバッハスケラーに行きビール、ワインを楽しんだ。 正式な観光は明日からである。 ここはゲーテのファウストの舞台になったところである。 

 ライプツィヒの名は、7世紀にここに町を拓いたスラブ系のゾルビア人の言葉で「菩提樹のもとの地」を意味する「リプック」を築いた事に由来するという。 名前の通り菩提樹の木が多いこの町は、商業、金融、印刷の町として栄えた。 特に印刷は、第二次世界大戦前までは、ドイツの出版物の50%はこの町で印刷され、岩波文庫は当地の出版社のレクラム文庫を手本としている。

 ドイツの古い大学としてはハイデルベルク大学が名高いがこの町もハイデルベルク、ケルンについで1409年には大学が設立され、ゲーテやニーチェが学んでいる。 ゲーテは12歳のときに法律の勉強のためにこの町に移り、後にこの町を「小パリ」と呼んでいる。

 ライプツィヒは多くの芸術家所縁の地で、ワーグナーはこの町で生まれ、メンデルスゾーンはこの町で亡くなっている。 尚、メンデルスゾーンはユダヤ系であっため、彼の家は荒れ果て取り壊しが決まっていたが、日本の募金活動で所有者からこれを買い戻し、永久保存されることになった。 その他リストやシューマンもこの町で活躍した。 

今日では見本市の町として知られ、春と秋に開かれる国際見本市には、世界中から多くの人が訪れる。 そして記憶に新しいのは、東ドイツの民主化を求める運動が、ここライプツィヒのニコライ教会に集まった人々のデモから始まった事だ。 ドイツ統一は、ここから始まったといってもいいだろう。 また、ここの中央駅はヨーロッパ最大を誇っている。

メンデルスゾーンの家

 1845年から1847年、メンデルスゾーンが最晩年に住んだ家、廃屋となっていたのを日本人の寄付で博物館として保存される事となった。 寄付した方の名を記すプレートがいたるところに張られてあった。 日本人として些か晴れがましい気持ちになる。

寄付者名盤

 寄付者の名簿が延々と刻まれている、同じようなプレートが何十枚も有った。 僅かな浄財を寄付したのであろう。 そして、非常に多くの人々が協力しただろうことが伺える。

諸国民戦争戦没者記念碑

 諸国民戦争とはナポレオンのロシア遠征失敗後、1813年から1814年にかけ、ナポレオン支配から脱するためプロイセンを中心に西欧諸国民が一斉に蜂起した戦争。 これを機に各国に民族意識が高まった。 ライプツィヒが主戦場となった。 その戦没者の慰霊のために1913年建立された記念碑。 先般アウステルリッツも訪れたので極めて興味深かった。 

聖アレクセイ・ロシア教会

 1913年に、ライプツィヒの戦いに倒れた22,000人のロシア兵を追悼して建立された。 コロメンスコヤェ(モスクワ)の昇天教会を手本としている。

 

ライプツィヒ中央駅

 1915年に操業が開始された中央駅はヨーロッパ最大でドイツで最も近代的な駅だそうだ。 「中央駅遊歩道」にはショッピングセンターやサービスセンターがあり、ウインドーショッピングにも良いそうだ。(車窓から)

 

旧帝国最高裁判所

 現在修復中、修復がなったら統一ドイツの連邦行政裁判所がライプツィヒに移転される事となっており、それに伴い建物は、再び本来の目的に役立てられる事になる。

  

 

メンデの泉とオペラハウス

 アウグスト広場には新ゲバントハウスと東独時代に建てられたオペラ座が旧市街に向かってアウグスト広場を挟んで左右に対峙して立てられている。 ゲバントハウス側からメンデの泉を通してオペラ座を望む。 新ゲバントハウスはゲバントハウス交響楽団の演奏会場。 オペラ座は、戦争によって破壊された新劇場の跡地に建てられたもので、1960年に開場した。

旧大学の建物とゲバントハウス

 手前がゲバントハウス。 ゲバントハウスとは織物倉庫のことであるが、19世紀にコンサートホールとして使用され、ライプツィッヒ・ゲバントハウス・オーケストラの本拠地。 民間のオーケストラとしては世界最古で、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ワグナー、ヨハン・シュトラウス、フルトベングラーなども常任指揮者として活躍した舞台でもあった。 35階建ての大学は、統一後民間に売却された。 右手に見える尖塔がニコライ教会、旧市庁舎の裏手にあってこの教会の月曜集会に集まった人々のデモから、東ドイツの民主化を求める動きが始まり、ベルリンの壁を開く国民運動に発展して行く。 ドイツ統一の起点として記憶されたい。

   

メードラー・パッサージュ

 市庁舎近くにメードラー・パッサージュというショッピングアーケードがある。 ここの地下にゲーテが良く通ったという、歴史的なワイン酒場のアウアーバッハスケラーがある。 アウアーバッハスケラーは「ファウスト」にも登場するため、観光名所になっている。

 

 メードラー・パッサージュに入ってすぐのところにアウアーバッハスケラーの入り口がある、その脇の階段を下りるとアウアーバッハスケラーがある。 ワイン酒場とレストランとに分かれている。 我々の訪れた日は何かの会合がありレストランの方には入れなかった。 16世紀から営業しており、ライプツィッヒ大学に通っていたゲーテも足繁く通った。 そして自作の「ファウスト」にも、主人公のファウストがメフィストフェレスに連れられてやってくる酒場として登場させたので、ライプツィヒの名所になった。 天井や壁には「ファウスト」の様々な場面が壁画に描かれている。

 
I II III
入り口の傍に立っている像は、
ファウスト博士と悪魔メフィストフェレス
アウアーバッハスケラーの入り口に立つもう一つの彫像 アウアーバッハスケラーの内部
IV V VI
アウアーバッハスケラーの内部 アウアーバッハスケラーの内部
酒樽に跨るファウストとメフィストフェレス
この日入れなかったレストランの内部
同店で買い求めた絵葉書

旧商品取引所と若きゲーテ像

 旧商品取引所(1687年完成)。 昔の見本市では、ここが商人たちの商談の場となった。 二階の立派な広間は、今日では小催物会場やコンサートに利用されている。 建物の前には、大学に学ぶ若き日のゲーテとライプツィヒで出会った恋人たちを記念してゲーテ記念碑が建てられている。

  

 

マルクト広場から聖トーマス教会を望む

 教会付属の合唱団とその指揮者バッハの活躍で有名な教会。  ルターはこの教会で説教をし、バッハは其の最晩年の約30年間(1723〜1750年)この教会のオルガン奏者兼合唱団の指揮者(Kantor)として働いた。 ここで「マタイ受難曲」など数々の名曲が生まれた。 ゴシックの窓のステンドグラスには、ルター、バッハ、メンデルスゾーン、第一次世界大戦の犠牲者が描かれている。


入り口脇に立つバッハ像

 楽譜を右手に持ち立つバッハ像。 いつも貧困に喘いでいたと言う。


森鴎外と高木兼寛

 陸軍軍医であった森鴎外(森林太郎)もライプツィヒ大学で、当時のドイツの最新医学を学んでいる。 彼は陸軍々医総監として日露戦争の衛生面の最高責任者となり、ビタミンBが発見される以前ではあったが、脚気は細菌によるものと頑迷に主張し、陸軍の兵士に大量の死者を出してしまう。

 一方、海軍々医総監の高木兼寛は、英国海軍に脚気がない事から食事に原因を求め、予算面からの反対を克服し食事を全て洋食にして、脚気ゼロで日露戦争を乗り切る。 高木氏は戦後貴族に列せられ、また慈恵医大の創始者として知られているが、医師としての森鴎外の名は後世に残っていない。   



とーるくん